第二千七百五十九話
ぷちたちと画面通話した状態で、ぷちたちみんなでトウヤたちと「ぷいきゅあ」のおうち応援上映を見るという摩訶不思議な状況に。いやいいんだけどさ。別に。どうせなら、私も同じ場所で見たいぞ? 画面越しのテレビって、すごく見にくいんだけど。
トウヤお手製の応援ステッキを手に、ぷちたちが「がんばえー!」と声援を送る。たまに「ほら、ママも一緒に!」と振られるのがつらい。あのね? きみたちはおうちでみんなと一緒だけど、きみたちのママは病室でぼっちなんだぞ?
「が、がんばえー」
『がんばれってちゃんと言って!』
「がんばれー!」
そうだね。ミームに乗っかって適当な舌足らず発音で済ませちゃいけなかったね。
いまのは私が悪かった。画質も音質も悪かったけど、負けてはいけなかった。
よくわからない視聴体験を経て、みんなの感想をちゃんと聞くタイムが訪れて、怒濤の情報を浴びていたら「そろそろお風呂な。約束したろ?」とトウヤが仕切って通話が終わった。
ぜんぜん気づかなかったけど、サクラさんがソウイチさん、コバトちゃんと泊まりに来てくれているみたいで、コバトちゃんが「お風呂いこうね」と呼びかける声が聞こえてきた。
トウヤが教えてくれなきゃ気づかないまであったよ。
お母さんの出産が近づいているから、美希さんたちも助けてくれているみたいだけどね。親戚を通り越して、緋迎さんちが来るのはなぜか。一連の騒動の関連ではないかと勘ぐってしまう。
実際かなり助かっているんだから、頭があがらない。
持ちつ持たれつ。
どっと疲れが押し寄せてきたのに眠気が遠ざかった。
キラリのくれた星を出してみる。
ぷちたちのくれたことばで揺れ動いた気持ちも、いっぱい粒にしておいた。
だけど、ぷちたちと通話越しとはいえ過ごして思いついていた。
「私の幸せは、私の中に隠れてるのかな」
それだけじゃない。
人との関わりのなかで育まれたり、芽生えたり、煌めいたりするものだ。
不幸も同じだけどさ。
ふと幸せについて考えたのは、だって、ぷちたちが過ごそうとした時間に、あの子たちが幸せを見たからじゃないか。共感して、触発されたんじゃないか。
私がつくり出す幸せを私で味わうよりも、もっと刺激的で、強烈なものを、だれかと一緒に過ごすことで得られるんじゃないか。
ああ。どうしようもなく必要なんだなあ。依存するのだなあ。私たちはひとりじゃ生きていけないのだなあ。なのにひとりをちゃんと生きないと、見落としてしまうことばかりだ。あーあ。
キング牧師の話じゃないけどさ。
初手で完璧、合理的でパフォーマンス最高みたいなものを選んで生きていくことなんて、まず無理。それにやろうとするほうがやばい。先細りしていく。なんの下積みも準備も労力も割かずに選べる手は、どんなに選りすぐったって限定的だもの。
なので、労苦を重ねる必要性からは逃れられない。避けられない。
その道のりのなかで出会った負荷、かかる病にこそ、創造のタネが潜んでいる。
都合いいだけのものじゃない、あらゆる情報量のあるなにかに触れるからこそ気づき、見つけられる道がある。その道で見える景色、実感、未知がある。
河合隼雄はこれを創造の病と呼んでいた。
ままならないことに出会い、苦しむ。学校に行けなくなる子がいるし、会社に行けなくなる人がいる。そもそも外に出られなくなる人もいるし? そうなれば就活、再就活どころじゃない。フリースクールにだって行けない。買い物さえままならないこともある。逆に、学校や職場じゃなければ行けることは結構ざらでさ? あるいは「今日は来れた」というときほど、周囲からはすごく元気に見えたりしてさ。あれこれ交流したり、陰口たたかれたり、心ないこと言われたりして、ますます次が遠ざかっちゃうケースもやまほどあるそうだ。
そういうままならないとき、母の問題に苦しむ娘たちでいうと信田さよ子さんいわく、母についての研究を経て、娘たちは自由になっていくという。ドローンのような視点を獲得することによって、あれこれ考える自分の物語からも、母のそばで感じる刺激からも、その刺激から始まる物語からも、情緒的・身体的反応からも解放されていくのだというのだ。
これもある種、病からの回復に創造が行われているといえるかもしれない。
思考を苛む物語は、自分でやめられるものじゃない。
相手といると物語る声がますます大きくなる。これはどうがんばっても止められない。
それに相手といるときに生じる反応も、相手の声や動作、あらゆる所作による刺激の反応もなくならないし、弱まらない。
松本清張「鬼畜」の映画で、愛人との間に三人もこどもを作った亭主の妻を演じた岩下志麻さんは、子役と仲良くなることで映画の絵が弱まらないようにするために「子役と話さないように」「仲良くなってはいけません」と言われて、なるべく辛辣に、劇中の妻のように子役のこどもたちに接したそうだ。やがてこどもたちは彼女を見るだけで、ビクッとするようになったという。このことを岩下志麻さんは長らく気に病んでいたそうだ。ぺでぃあ先生いわく!
こどもたちの反応がわかりやすい。
あの人がいると身が竦む。あの人が視界にいると、それだけでいらいらしてしまう。こうした反応って、意識的にやめられるものじゃない。ひどくなればなるほどね。
そこで、研究。
自分についてじゃなくて、母についてなのが不思議といえば不思議だけど、いっそ自分を苛む存在でありながら、同時に自分が求めずにいられないなにかが母親にあるからこそ、ちょうどいいのかな。
病のなかで、新たに構築していく。
多くの依存や支えのなかで、ね。
無人島にいってぼっちでやるなんてことは? まずやらない。
サバイバルできる人は、むしろ自然の様々な資源、自分が習得した技術、体力などを支えにしているし、結局それはそれで依存や支えを活用している。
ひとりでどうにかするのとはちがう。
だけど、自分がやるということを抜きにはできない。
病院に長らく入院していて、まともに歩けない私でさえもだ。
自分にはできない、だから頼る! これを選択、実行するのも? 自分がやることだ。
だけど頼るっていうのが、私には抽象的。
はっぴー、らっきー、さいこーでーす! みたいなくらい、抽象的。
お腹いっぱいで、元気で、好きな人と笑っていられればいいでーす! くらい、曖昧。
具体性の欠片もない。
「頼る、ね」
大辞林いわぁく!
「力を貸してくれるものとして依存する。頼みにする」「依存する」「助けになるものとしてそこへ行く」「言い寄る」。言い寄るって!
ちなみに「頼り」の意味のなかに「手がかり。きっかけ。契機」や「つながり。関連」がある。
じゃあ「頼み」は?
「たのむこと。依頼すること。また、その内容」「たよりにすること。あてにすること」「結納」。
例えが悪いけどジョン・ウィックの愛犬を殺して、愛車を盗んだ男は父親を頼みにした。自立した男のように振る舞っておきながら、父親のあらゆるものを頼りに生きていたし? それがどうにも自分の存在のちっぽけさを示しているかのようで、矛盾した喜びと苦しみに生きていた。ちっぽけな男でさえない。ただのがきんちょだったし? ただのがきんちょが、人を殺したり、いろんな犯罪の加害に及ぶことのできる世界だ。これはなにも映画に限った話じゃない。
ウィックは強い。強すぎるくらいだ。技術もすさまじい。だけど彼も頼りにしている。一作目から最新作まで、ずーっと、ずーっとね。
窮地に出会った仲間や旧友に協力を頼む。怪我の手当て、武器の提供。取引もあるけど、ホテルのルール、犬の面倒の依頼や殺し屋の始末。敵が巨大になるほど、彼は的確な相手にクリティカルに頼っている。
自分にないもの、自分にできないことがわかってる。だからこそ、自分になにが必要かがわかるし? 頼る必要があるってわかるんだ。
トウヤが一時期、ワンピースのルフィの台詞をしょっちゅう言ってたな。なんだっけ。おれは助けてもらわねえと生きていけねえ自信がある、だったかな。何もできないから助けてもらう。仲間たちがそれぞれにできることが自分にはできないと言い切っていくんだ。
私は頼まずに頼りにしてることがたくさんある。
ぷちたちのこと。私のこともだし? うちのこともそう。
抽象的だよね。まだまだぜんぜんぼやけてるよね。
学業のこと、お仕事のこと。これだけで、このふたつにまつわることが言い尽くせるはずもないのに。
ぷちたちのことなんか、特にそうだ。ひとりひとり、それぞれに必要なことがちがっていてね? なのに、そういうものの全部を、いまはトウヤやお姉ちゃんに頼っている。
頼んでいない。そこが私の下手で、未熟で、気づけていないところだ。
ちゃんと頼れるようになりたいな。
私のいまを保つのも、同じじゃない?
頼りにしないと始まらないこと、いっぱい抱えてるんじゃないかな。
ぷちたちが応援していたニチアサの女の子たちみたいにさ?
私もほしいよ。ぷちたちのがんばれっていう声。
でもね? そりゃ直接いわれちゃいないけどさ。ぷちたちが言えない、ことばにできてない、だけど伝えたいものって、ぎゅっと凝縮してた気がするんだよね。泊まりに来たのも。今日の通話からもさ。
頼りにしたいんだよねー。私のこと。
それだって、私は都合良く解釈して、ぷちたちを頼りにしちゃおうとしていいわけ。
百点でも完璧でもなんでもない。やり方次第じゃいくらでも、あの子たちを食い物にしてしまう。
ああ、それでも、あの子たちがいることが、私にとっての頼りのひとつになったっていいじゃないか。
カナタとのことでもおんなじだ。
まずいてくれることを頼りにしたっていいじゃんか。
現実はもちろん、そう思うようにはいかないことを、私たちに教えている。まるでネタバレ大好きな人たちの集団のシュプレヒコールのように。
初手完璧の正しさルートしかあり得ないかのように求めてくるけど、正直いきぐるしいばかりだ。
ただぁし! 頼るだけですべてがうまくいくわけじゃない。
私も長らく忘れたり、知らなかったり、気づいてなかったりしている。
今回のぷちたちのお世話だってそうだ。
なにが必要か。どう大事にするのか。それぞれがなにを必要としているのか。具体的に把握して、理解して、それを言葉にして頼った?
ちがう。
なにも言わず、当たり前に頼らないで頼っている。
ほんとへた! 初心者すぎる!
練習してこなかったねー!
がはは。
「そっか! 私は頼ってないのか!」
まだ足りてないんだな!
もしも頼っていいのなら、だれになにを頼ろう。
ぷちたちじゃないな。まずキラリたちだな。カナタでもなく、お姉ちゃんやトウヤでもなく。
トモやノンちゃんたちに頼りたい。
無責任にお願いしてほしいんだ。
一緒に学校いくぞって。遊ぶぞーって。老いてる暇があったら、とっとと戻れって。
何度でも。何度でも。
言いがたいかぁ! いまの私には特に!
じゃあ、お願いしてみない?
「あああああ」
やばい。
恥ずかしいし、めちゃくちゃ緊張してきた。
なのに不思議と断られるなんて思えない。「そんなのでいいの?」と言われそう。
言うな。きっと言うな。
じゃあ、よくない?
言っちゃえば。
ああでも、粒がほしいんだよな。
できればみんなの気持ちの粒が!
だとしたら「病室でお願いしたいんだけど」って、条件が増えるわけで。
「う、うううん」
言いづらい! これは言いづらいよ!?
条件がひとつ増えるだけで気持ちのハードルが十倍くらいにはあがるよ?
これも不思議と断られる気がまるでしないけども。それはそれなんだよ!
ああでも、どうせ頼るんなら、ちゃんと頼りたいな。
みんなの声援だけでいけそう?
不安。
正直、心配。
みんなの元気をわけてくれーに近い、強力な玉が必要じゃない?
だってさ。粒じゃ足りないかもしれないから。
あれ?
待って?
これって、あれじゃない?
お見舞いにきて! 私をかまって! 大好きって言って! っていう、お願いじゃない?
それってめちゃくちゃ恥ずかしくない!? ねえ!
でも、いまこそ必要じゃない!? ねえ!
私に私の気持ちをぶつけるよりもっと、確実なんじゃない?
自分に出せない元気をみんなからもらえたら、それは望外のサポートだ。
そこまで頼っていいんだろうか。こんなの選んで許されるんだろうか。
問いは尽きないけど、キラリのくれた星を見ていると「うるせえ! 悩む暇があったら相談しろ!」ってキラリの声が聞こえてくるようで、ね。
「えい」
スマホをタップ。通話チャレンジ開始。
ほどなく「はーい」とキラリの声が聞こえてきたので、三回息を吐いてから、勇気を出す。
「あのね? お願いがあるんだけど」
挑め、初心者。
がんばれ、へたっぴ。
しくじりながらでもいこうぜ、未熟者。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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