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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千七百五十六話

 



 ふたりとめいっぱい昔話に花を咲かせたが、やっぱり長時間は無理。

 私の元気が続かない。

 夜も遅いし、ほどほどでお開きになった。金色に散っていくふたりを見送ってからベッドで横になる。

 しゃべったー! という日はとても気持ちがいい。

 運動したあとみたいに、すっきりだ。

 充実した満足感を粒にして、ガラス瓶にしまっておく。ふたりと話して心が動くたびに、それを粒に変えておいた。だから指の第二関節くらいまで、粒がいっぱいたまっている。

 それを一端消して、つらないように気をつけながら全身を伸びした。力を抜いて、目を閉じる。

 むずかしくて厄介。

 心だけじゃないよ?

 うちの学校がメディアに取り上げられたとき、いろんな意見が集まるなか「カルト?」「新興宗教の学校じゃね?」という内容も見かけた。それで初めて調べてみた。すると、日本にはいわゆる新興宗教ブームなるものがあるばかりか、その手の団体がもう、いっぱいあるのだと知った。去年の話だ。

 般若心経については私もこれまで何度か触れた。元を辿ればもちろん宗教にたどりつく。あえて説明するまでもなくね。

 映画「啓示」も、見た感じだけど韓国にあるキリスト教系の新興宗教のようだ。信者数に困っていて、神父がたまたまやってきた犯罪者をそうと知らずに強引に引き入れて、お茶をあげる、名前は? 会員証のようなの作るんで写真とりますね、と、手際よく「信徒名簿」を作ろうとしていた。

 いまキリスト教系って言ったけど、日本は仏教や神道、密教もあるので、それぞれにそれぞれの新興宗教が存在する。「お隣さんと仲良くね」とか「勇気だしていきてこ」みたいな教義さえ、人からお金をだまし取ったり、強引に人を勧誘したり、終末思想だなんだと絡めてテロを起こしたり、信徒に加害を行ったり、詐欺をしたりと、めちゃくちゃな団体をいっぱい作るネタになる。

 私は私のカードで動画配信サービスにいくつかサブスク登録をしている。新興宗教の中には、おんなじように毎月の費用を請求したり、ジムのように入会費を請求したりするところもある。その費用がめちゃくちゃ高いところもある。カルトともくされる団体はいくつもあるけど、なかには財産すべてを提出するよう求めるところさえある。

 それにしたって「これをすれば病が治る」「自然食こそ最高、それ以外は身体を壊すし魂が穢れる」というぎょっとするものもあるし? かと思えば「世界が平和になりますように」や「よく学び、よく行おう」的な、それ単体でみたら「まあそうだよな」と思えるものもある。

 一定の音楽・出版・映像作品を活性化させたり広告に利用していたりとかするし? 政財界と密接な繋がりを持っていたり、世界的に活動していたりするし? 日本中の高校が集まり参加する音楽分野のコンクールを主催とか、有名なスポーツの高校大会で毎年全国大会の常連高校を運営しているみたいなとことかもある。つまり学校をもっていたり、開催場所を持っていたりするんだ。

 意外と多くね!?

 でもって、学校があったり、心が関わる隔離世なんて別世界がありますなんて言ってれば、そりゃあ「カルトじゃね?」と言われるわ! 納得しちゃったよ!

 それも東京湾にだいだらぼっちが出たり、こっちも対抗してマシンロボで挑んだりして、だいぶ沈静化してたんだけど、ビル連続爆破テロ事件以来メディアで私をはじめとするみんなが悪いみたいな論調で語っている人が大活躍しているそうで、再燃しつつある。

 ただなあ。

 実際いるっていうか、あるんだもんね。

 韓国映画が新興宗教を扱っているのは、社会問題として深刻化しているからなのかも?

 日本じゃ地下鉄サリン事件、弁護士家族の誘拐、殺人事件がひときわ印象的だけど、他にも強引な勧誘や詐欺被害、暴行、監禁、その他もろもろ加害の山。なので、むしろずっと深刻なままなのかもしれない。

 日本に留まらず世界的な規模で活動している団体もあって、活動母体が海外にある団体も存在する。

 国に届け出を出したり、チェックを受けたりする機会があって、団体はそれぞれに報告しているけれど、現在はその内容を信じるほかにないみたいな実態もあるとか、ないとか言うよね。団体によっては公安に厳しく監視されている、なんて話もあるそうだ。

 そのくらい問題も抱えていながらも、たくさんあるっていうんだからさ? おまけに団体の一員になっている人は、延べ人数だとかなりのものなんじゃないかな。小学校でも中学校でも、なかにはいたかもしれない。私からみたら、いわゆる宗教二世や三世の子が。士道誠心になると生徒数がぐんと増えるから、もっといるのかもしれない。

 もちろん「なんちゃって無宗派」で、だけど葬儀は仏教だなんだに乗っ取るし、クリスマスだなんだのイベントは楽しむしみたいな人もいるだろう。実際は宗教イベント、そのやり方をがっつりやってる人のなんと多いことか。

 ただ、それは良くも悪くも「いいとこ取り」の「ぎょっとしないでやりたいとこ取り」。サブスク登録なんていやだし、高額請求なんてされたくないし? ああしろこうしろ、これはこう、こう考えなきゃだめみたいなのはぜったいむり! こんくらいの感じの人たちがいることを否定するものでもない。

 でもなあ。いるんだなあ。

 日本にも進出している団体は「輸血禁止」をしていて、アメリカの医療ドラマで「宗教上の理由で輸血を断るが、輸血しなきゃ・輸血しながら手術しなきゃ死んでしまう患者がいる」パターンを描いている作品も、ちょいちょいある。

 信仰の自由を保障するのと、それとは別に宗教団体の活動に制限や規則を設けたりするのと、必要に応じて法的に勧告したり注意したり押収だなんだをしたりする仕組みを設けるのと、ぜんぶ別々だ。どれも大事。

 教義や活動を表面上まっとうにしても、過去に問題を起こした時点で私たちはとてもじゃないけど信用できなくなる。なのに支持者、信徒が多いとき、その影響力が強いとき、社会の側は容易に手出しがしにくくなりかねない。それにまっとうかどうか、その内訳はなにか。どう読み取り、どう待ったをかけるのか。加害をしていたら、どうするのか。ぜんぶ気にしていかなきゃならない。

 それとは別に、まさにいま信じている人たちがいるとき、彼らになにをどこまでするのか、しないのか。できるのか、できないのか。答えにくい問いがたつ。

 でもって彼らがあからさまにやばい教義だなんだを信じているんじゃなく、そこに居場所や関係性を求めていたら? そこで過ごす楽しみがあって、それが支えだったら? 信じてるとして、その内容が「みんな仲良く幸せに」みたいなもので、あるいはそれくらいに捉えていたとしたら?

 ほんと、もう、なんだか大変。

 表面的に聞こえのいい、消化しやすい物語が並んでいても、提供されていても、立ち止まらないと。

 見つけても、ぴんときても、止まらなきゃね。

 人はこういう態度であれーみたいなのも教義にしてる団体がいっぱいあるし? どこも「だれもが消化しやすい、食べやすい物語」を用意している印象さえある。

 そういう物語を、私ひとりでいると作ってしまいかねない。

 あぶなーい!

 映画「啓示」で見たように問題をひとつに限定して、それを打ち破るものを用意する。世界を単純化して、ものがいるいらない、ものを得るためにいるいらない。そんな具合に二項対立に取り込むことを増やしていき、どんどん世界を単純化していく。悪いなにかをひとつに限定してさ?

 そんな風になってしまいかねない。

 それにねー。

 団体も規模が大きくなるほど過激な部分に触れない信徒、ほどほどの付き合いで助けられている信徒も普通に増えるだろう。過去に問題を起こしてイメージ改善に必死な団体”のなかには、もしかしたら”問題は問題として批判して、教育や平和に向けた活動を充実化しようと取り組んでいる真面目な人もいるかもしれない。

 信田さよ子「なぜ人は自分を責めてしまうのか」ちくま新書、2025年では状況や世界の定義権による根幹的な支配について記されている。その支配を浸透させられて生きている人も少なからずいるだろう一方で、だれもかれもがそこまでか、という問いはある。調べる勇気はないけどね。

 少子高齢化の波は、こうした団体にも深刻な影響を与えているというけれど、じゃあ若い人がだれもどこにも入っていないかっていうと、それはまた話が別だ。

 それくらいには、たくさんある。

 今回の怪物出現の被害が発生した関東内に本拠地を持つ巨大な団体さえ、いくつかあるのだ。

 代表者となる人が神秘的体験をしたり、特殊な力に目覚めたりしたという物語によって構築された団体も少なからず存在するし? 政党と強烈に紐づいている団体があるかと思えば、そもそも政党を立ち上げた団体もあるし。いわゆる三大宗教として呼ばれるもののうち、キリスト教、仏教の教義を用いている団体もあれば? アマテラスさまみたいに名の知れた神さまを象徴に据えている団体もある。

 なんなら、星蘭が打倒した永霊英雄会さえ、そうした団体のひとつだったのかもしれない。

 今日の思案中に話題に出た統一教会でしょ? 幸福の科学、創価学会あたりは有名どころ。でもまだまだある。もちろんたくさんある。新興宗教としてみるとき、それは三大宗教などに比べると成立時期の新しいものを指す。千八百年代から始まっている団体もあるけど、第一次世界大戦の後、あるいは第二次世界大戦の後に作られた団体も多い。

 第一次世界大戦の後に立ち上がった団体は、第二次世界大戦の後の混沌とした荒れ地だらけの日本で、様々な活動をしたそうだ。映画「鬼畜」に出ていたように、手を動かすだけしかできず余裕のない人たちの支えになったり、飲食を支えたり、シンプルに教育のフォローをしたり、どん詰まりでいつ心中してもおかしくないようなシングル家庭などを互助団体に招いたりしていたそうな。

 反面、いわゆる霊感商法に勤しんだり、信者不足の解決のために強引な勧誘をしたり、お金ほしさに高額な詐欺商売をしたりしている団体は目立つ。詐欺商売の団体のやり口は様々。こうした被害から警察に相談が相次いで、事件化する事例も多々ある。

 インターネットが普及してからは、こうした団体の悪質な勧誘が、学生の度胸試しのように扱われることがある。だがミイラ取りがミイラになるのは古今東西どこでも同じ。戻ってこなかった、とか。めざめちゃった、とか。そういう変化をする人のなんと多いことか。

 悪質な勧誘というと強引かつ逃げれない、いやな態度によるものを想像する人が大勢いるけれど、その実態は「あなたを頼りにしています」「あなたにしかできないんです」と頼み事をされるなんていうアプローチもあるそうだし? きっとそんなものじゃないよね。

 海外の新興宗教とカルトを題材にしたドキュメンタリー作品でもさ。「どんなもんかいっちょ見てやろ」「動画に撮って暴いたろ」と企てる人たちが、まあああ! 漏れなく入信・入団しちゃってる。

 日本だと「手をかざせば治る」なんて振る舞う人がいるけれど、それだけじゃない。いろんな団体が、その団体の教祖を立ち上げては”神秘”をお披露目して、人を集めている。

 私のやってることと同じだ、とメディアで活動している人は批判を展開している。でも言い返せない。実際、そう見えるだろう。金色をばらまいて、歌ってみせるのだから。人を集めて、お金を得ているのだから。いや、ただのライブなんですけども。

 抽象化すると商業活動に重なるところもあるんだよね。新興宗教のくくりって、せいぜい比較的あたらしめっていうところ以外になくて、実態も様々。

 出版に力を入れているところは、少なくない本を出版している。たぶん、中堅を目指す漫画家や小説家なんか目じゃないくらい部数を稼いでいる。そしてもちろん、教義をまとめた本を出してるところもたくさんある。海外の団体が推してる本もあって、これが驚くくらい、あらゆる書店に展開されている。

 びっくりしちゃうくらいあるよ? うわ。本当にいるんだって思うくらいのレベルで。

 北野武監督が、自身の小説を映画にしている「教祖誕生」なんかも、そのビジネスのありようを生々しく描いている。お布施集めにショーを見せて回る団体に、暇を持てあました大学生がついていって、すっかり「教祖さま」になっていくっていう物語だ。

 いちおう、ここらで確認。

 日本では信教の自由が保証されている。

 それとは別にしてね?

 松本清張「鬼畜」は露骨なくらいだったけど、とにかく今日だけで精いっぱい、加害も被害もやまほど増えていて手に負えないみたいな人生を過ごしている人が少なからず存在する。

 教祖誕生からすると、そういう人たちはショーの絶好の狙い。団体に引き込めるカモ。学生が神さまってなんだろう、それってなんですかねって尋ねると、たけしさんが「現実的に考えたら、なにもしてない」、「人間がつくり出したもの」「あるのかないのかわからないもの」と言っている。すぐにはぐらかすんだけどさ。

 韓国映画「啓示」でいえば、もうはっきり「人が造り出した虚像」とまで言っちゃってる。

 じゃあ、カルトは?

 教祖を立てて、熱狂的な集まりを示すもの。今日では反社会的性質をもつものを狙って言うものでもあるし、フランスは強く警戒して、カルトを押さえる法律を施行して監視している。それこそ日本に多くある新興宗教のように、一般宗教から派生した新興宗教が出てきてはトラブルになるっていうのは、日本だけに起きてることじゃないからね。

 オウム真理教は麻原彰晃を代表に、それこそ熱狂的な集まりをもって活動していた。その果てが武装、テロ計画、毒薬生成、地下鉄サリン事件なのだから。そうでなくても詐欺だのなんだの起こしては、フランスのように、団体そのものを問題視する向きになって対策を取っている国もある。そうした国に比べると、日本はずいぶん足が鈍い。与党にずぶずぶの議員が少なからずいるくらいだもの。推して知るべし。

 お父さんのビデオライブラリ、よせばいいのにサリン事件前後のテレビを漁って見たことがある。

 すると、いまでも「ヤバイ人」にしか見えない人がメディアに出ずっぱりになっているように、当時のテレビ番組は、どの局も麻原彰晃を出していた。盛りたてていたとさえいえる。軽く言うなら、面白がって。雑に言うなら、話題になるし、数が取れるから。

 でもって、批判する論者を集めてみせたり、彼の話をめいっぱいさせてみせたり、ずいぶんと面白がって扱っているし? 政党を立ち上げ選挙に挑んだとき、歌って踊る彼らをけっこうな時間を使って撮影していた。選挙でばかなことしてる連中がいる、賑やか、面白いじゃないか、みたいな扱い方だ。

 こういうのを見ていると、いずれろくでもないのが選挙に出てきて、とてもまともとは思えない主張をするようになるんじゃないかとさえ思い始める。

 潮目が変わるまでには時間がかかった。テロは最後のダメ押しだった。逆にいえば、そこまでメディアはまともに、その危険性を直視していなかった。

 お父さんは録画にいくつかのテーマを設けているみたいで、統一教会の合同結婚式を取り上げた番組なんかもちらっと流れた。でも、テレビが取り上げる団体は限定的だ。ネットで探すと、まあいっぱいある。本当に、いっぱい。だけど、扱うのは「あの芸能人も!?」みたいな刺激的な内容だけ。

 三大宗教から派生した団体というだけで、他にくくりにくい実態がある。

 世の中は十分とはいえないことまみれで、権力の上流から濁流のようにいろんなものが流されていく。累進課税の骨抜き、貧困層から確実に税を取り貧困層ほど苦しくなる税制度である消費税の税負担の終わることのない上昇。社会のインフラ、環境や支援、資源まわりのインフラに携わる人の正規雇用の破壊、給与の削減、そもそも投資と雇用の削減。痩せ細っていく社会環境のなかで一部大手への手厚い支援。

 こんなものじゃない。こんなものじゃないけど、ひとまずこんなものだけで、濁流に呑まれて鬼畜のように人を殺すくらいにまでになる人が増える。

 より増えるための施策はあってさ? 妊娠・出産・育児にまつわる問題を女性だけのものにする。性教育、人権教育を怠る、しない、あげつらって現状維持をする。緊急避妊薬を承認しない。そもそも中絶に「男性の合意も得る」ことを女性に求める産科が多すぎる現状に、明確に問題としない。これは女性の問題として。まだまだあるけどね。入試点数操作するとか、就職で選ばないとか。

 男性に向けた施策もいっぱいあるよ? 使える、稼げる男が必要なのであって、言いなりになって文句も言わずに働く人足が欲しいのであって、それ以外の男はいらない。そんな露骨に問題のある体質で社員を扱う企業も増えている。他にも、男の子だから気づける問題がきっといっぱいあるはずだ。

 だけど、この手のことはほったらかし。維持される。濁流で流れるものが増して、私たちは飲みこまれていく。

 それはともすれば、企業にとって都合がいいだけじゃなく、あらゆる団体にとって都合のいいことだ。カモを増やす行為にもなるのだから。

 政治家だけでも、官僚だけでもない。全員にとっての政治が骨抜きになるほど、政治を利用していい目をみようと企てる人たちのほうが、綱をより自分たちへと引っ張っていく。

 だから政治はとても大事だし? あんまり膨大な団体を対象に、それがどういう実態で、どういう問題を抱えていて、むしろ加害を行っているとしたらどういうものなのかを読み取るのは、あんまりにも困難が過ぎる。

 おまけに、そこで利用される物語は「食べやすい」「消化しやすい」ものだ。

 どんな環境でも、一定の物語が利用されている。毎日、食べるよう求めている。

 学校でも、そこの部活でもね。職員室には職員室の物語があるだろうしさ? 生徒側も集まりによって、いろいろあるじゃん。

 うちの学校ならではの物語もあれば、農業高校、工業高校だからみたいな物語もありそう。

 会社もそうだろうね。

 軍人育成の学校や施設なんかじゃ、物語だけじゃなく過酷なしごきもセット。警察学校もそういうきらいがあるそうだし? たぶん、現在では少なくない企業が同じじゃないかな。

 物語としごきのセットは人のありようを規定して、支配するのに重要なもの。大昔からね。

 信田さよ子「なぜ人は自分を責めてしまうのか」ちくま新書、2025年でミルの話を引用しているけれど、ミルはベンサムの功利主義の影響を受けている。これは簡単に言うと「快楽を求め、苦痛を避けるのが人間だ」、つまり「快が善、苦を悪」とするもの。

 これは「苦痛を与えて悪と感じさせ、相対的に苦のない状態を快として、その状態を善と信じ込ませる」手法にも繋がる。しごきはまさに、相手の善悪を攻撃して支配する手段になるのだ。

 もっともベンサムが考えたかったのは、恐らくそういうんじゃない。私たちは快を求めるし、みんなが快に満たされた状態であるのが望ましく、みんなの苦を取り除いていこうよっていう方向性じゃないだろうか。なにせ彼は快楽を定量化して「一部の人間だけが高くてもいけない。快楽指数の低い人を放っておいてはいけない。みんなの指数を底上げしていくのが望ましい」と捉えていたみたいだから。

 これに対してミルは「量的なだけじゃなくて、質的にも快楽にはちがいがあるよね」と捉えた。春や秋の過ごしやすい時期の寝起きのベッドの心地よさと、すごく面白い映画を観た興奮と、好きな人とハグして満たされてる幸せって、量的に捉えると同じに数えても、その質はまた別じゃない? というものだ。

 他者の幸福のために行う精神的活動を重視して、自分の快楽のみに満たされることを是としなかった。

 ちなみにこうした考え方も、いくらでも編集したり、もじったりして、しごきだ加害だに使える。

 支配の文脈に取り込める。

 つまり相手の定義権を侵害して、快と苦を操り、思いどおりに利用する手に使うのだ。

 それは包丁を人を刺す道具に使えるというようなもの。

 恋だの愛だの。家庭だの仲間だの。協力だの幸福だの。それらも武器になる。

 心だの未来だの。希望だの実現だの。実行力だの聞く力だの。これらも武器になる。

 学問も分野によっては何度も繰り返し、念を押すように確認するというよね。

 信田さよ子さんの本でも依存について書いている。依存そのものは悪くないし、私たちはよくしているし、必要だ。問題なのは「依存させたい人」。彼らは「依存させることで自分の目的を叶えようとする」し、そのために支配を試みる。

 儲かるため。人を増やすため。

 別に新興宗教団体にかぎらず、商売でも必要なものだ。

 資本主義も能力主義も、目的のために必要にするものだ。

 それにさ?

 人が集まったら、ますます儲けがいるよね。

 施設なんか、新興宗教もすごい。商業施設なら、せいぜいどでかいビルで止まる。だけど趣がちがう。テーマパークかな? 美術館かなにかかな? え、お城? 仏像? すごいお寺さん? みたいな建物がずらずらと並ぶ。デザイナーによる不思議な建物とか、コンクールをやる会場とか、もういっぱいだ。

 人が集まれば、その人たちに向けたお金が必要になる。彼らを集めるための施設にだってお金が必要だ。タワーマンションがぼこぼこ建っているけど、その前に建てられたマンション群が軒並み「建て替え費用が集まらない」って問題を抱えている。タワマンも同じ運命をたどることが強く、強く警戒されているけれど、そんな警戒を無視してタケノコみたいに建てられている。どんな建物も、お金がかかる。必要になる。この運命から逃れる術はない。高い賃料を払って借りている企業は撤退で済む。だけど所有している建物となると、多額の費用をかけて建て直すか、修繕していくかしかない。

 それに企業も一次産業の人たちもみんな抱える問題を、新興宗教団体も抱えている。

 少子高齢化。若手や後継者不足。所属している人間の高齢化による停滞感。

 周回遅れとはいえ、カルトや反社会的性質を抱えた集団なら、合同結婚式のように、女性に妊娠と出産、多胎を強要して、それをすばらしいことだと価値の定義権を支配している団体もあるかもしれない。そして世帯まるごと、次の世代を強引に作っていくのだ。新人、若手が増えない? ならいまの信者たちに二世、三世を産ませればいい。

 そんなのを通すとなれば、人に包丁を向けるように定義された概念がやまほど必要になるだろう。

 家族。こども。妊娠。出産。育児。家事もかな。父親とは。それよりもっと、母親とは。

 これらによる負荷、不足や苦しみを感じる人に対して、無力感を与えて、縋り頼る物語を与える。それしかない、あなたにはこれ以外にないと無力化させる。狙いは女性だけ? ちがう。

 男性にも、これらを女性に求める物語を与える必要がある。女性をものとして消費するよう信じ込ませる物語がいる。


「はあ」


 要するにね?

 物語は、それだけの力と用途がある。

 今回は新興宗教を事例にしたけど、利用しているのは彼らだけではない。

 私たち個人がいくらでもできてしまえることだし?

 映画「啓示」じゃ神父は神の教え、その正当化で果たしていた。

 松本清張「鬼畜」では、手を動かすことや、持てあます激情で責任転嫁をしていた。

 情緒的・身体的反応をほっといて? ううん、それだけじゃない。

 自分自身をほっといて。あらゆる要素をほっといて。

 おまけにこんな私の思考さえ、人に包丁を向けるような用途に使えてしまえる。

 無自覚にさえ、いくらでもやるだろう。


「おなかいっぱいって感じだ」


 タマちゃん、十兵衛と話してやりとりすると、ひとりの危うさを思い知る。

 十兵衛が「あんまり年下の女となにを話せと」と困惑したことをぽろっと言っちゃって「なんやそれ」と私とタマちゃんが憮然としちゃうみたいに、人と話すだけで、なにか言っちゃう・聞いちゃうだけで、いっぱいいろんな要素が刺激される。

 言葉として、概念として掴めるかどうかわからないくらい膨大な情報のなか、ひとつひとつのやりとりを通じて膨大な分岐を経て段階を進みながら、変化を体験する。人との会話も、ほんとにすごい情報の渦だ。

 だけどたぶん、それさえ包丁を向けるような用途に使えてしまえる。あらゆるタイミングで。

 ぜんぶ、刀になり得るんだ。

 そうでないものはなく、私たちがそう感じないという状態だけがある。安心できる、していいという状態だけがある。

 それらは当たり前ということなどない。

 発達心理学における理想的な発達には必要不可欠でありながら、ありとあらゆるすべてのこどもがそれぞれに生きる養育環境、そこでの体験でもたらされる保証もなにもない。

 逆に、すごいなって感じるよ。

 こんな不確実性と不安定さ、不十分だらけの世の中で、社会が構築されていることに驚きを感じる。

 いまさら、新鮮に。

 だけど考え直してみると、包丁のように扱われているものすら接着剤のように機能している側面がある。そして、それらの支配が、濁流となって多くの人を傷つけたり、排斥したりしている事実もやまほどある。学校の不登校、職場・就職に復帰できなくなっていく人の数は増えつづけているのだから。

 氾濫する物語は、釣り糸のように、包丁のように。あるいは振り上げた、刀のように。人や団体に向けられる。用途は攻撃だけにかぎらない。取り込んだり、思いどおりにしようとしたり、より言説が広まるようにしたり。これでもし、発信でお金が稼げるようになったら、ますますひどいことになるだろう。


「物語だけじゃだめだ」


 なのに物語を否定していても、だめ。


「みんなと話したほうがいい」


 なのに自分と思考して、よくきくことを否定していても、だめ。


「みんな、いるんだ」


 肯定のために否定していたら、よく見えなくなってしまう。感じられなくなっていく。耳を貸さなくなる。いろんな情報に触れてなんぼ、だけど。実は情報は膨大すぎるから、ひとりでは向き合えないし? ひとりに見える範囲はどうしたって限定される。

 入学してからの話にしても、そう。

 私に見えること、見えないこと。

 タマちゃんだから見えること、見えないこと。

 十兵衛ならではの見えること、見えないこと。

 ぜんぶを合わせても、すべてはわからない。

 トモやギンたち、ノンちゃん。カナタ、小楠ちゃん先輩たち。みんなと話しても、まだ足りない。

 士道誠心の、去年の一年について見えることが増えても、その外となると? さっぱり!

 去年のことを確認するだけで? 膨大!

 そりゃあ、歴史の学問で研究するとして、年代を指定して、ずーっと研究するんだとしても納得。すごく時間と手間がかかりそう。残された資料の収集、確認、分析だなんだだけでも、すごい作業量になりそうだ。

 物語や言葉は、学問が探求する真理を語るような気がする。私たちの中に潜む心理を捉えてくれるような気さえする。だけど、残念ながら、そんなことはない。

 食事用テーブルを引っ張って、そのうえに思索を粒にしたガラス瓶と、情緒を粒にしたガラス瓶とを出して並べる。


「こんなもんじゃないんだなあ」


 私というものを示すものは。

 わかるものじゃない。かといって、まったくわからないわけでもない。

 粒それぞれから相対的に私の輪郭をたどってみせたとして、それがどれほどのものかさえわからない。

 なのにやらなきゃやらないで、より一層、謎のまま。なんにもわからないまま。

 これこそ、ネガティブケイパビリティのタイミング。

 答えの出ない、解決しない事態に耐える力をもって、自分にどうどうと言い聞かせる。

 フランクルの言葉を借りると、私が辿ろうとしている「私の輪郭」「私の実態」は、ともすれば「生きる意味」と呼べるものだ。それは問いかけて出るものでも、探して見つかるものでもない。

 耐えながら、答えていく。具体的な行動をもって。「どう生きたいのか」を。

 そこにはきっと「どんな世界で生きたいのか」そのために「どう生きたいのか」も含まれるんだろう。

 ここで追加仕様!

 私もみんなも、ひとりひとりぜんぜんちがう!

 おまけにひとりひとりが複雑極まる多層の経験をしていく。なかには加害と被害さえ織り交ぜて。

 アメリカならKKK、ドイツを軸に世界中にいるらしいネオナチ・ナチ愛好家、日本にもこれらに負けないものや類似するものを信奉している人も、集団も存在する。

 そういうひとりひとりもいる場所で、私たちは生きている。

 たとえば「カルトにハマらないようにするために」と、サークル勧誘にまぎれて団体が勧誘活動をする大学では学生に注意を呼びかけている。詐欺やマルチにハマらないように自治体や省庁が問題があることを呼びかけているけれど、そういうのって基本「見に行かないと」「気にしないと」アクセスできないことがほとんどだ。

 SNSを中心に、大学関係者をはじめ、かつてのオウムのテロ被害に遭った方や、危機感を抱いてことに当たっていた方、報道で専門的に関わっていた方からメディアで批判の論陣を展開していた人まで、実にいろんな人たちが注意を呼びかけつづけている。

 弱ったとき、苦しいときには特に注意。だけど、そうでなくても「触らぬ神に祟りなし」として近寄らない、話しかけない、話しかけられても聞かないといった対応を呼びかけるくらいには、常に注意。そのうえで、より注意ってなる。

 彼らは宗教活動だけで勧誘しているのではないからね。十重二十重、あの手この手で備えている。

 なのに弱っているほど、苦しいときほど頼る人がいるのはなぜか。頼らざるを得ないから。福祉が手を伸ばさない、こないかぎり待たない、家族や周囲に助けてもらえと追い返すだけで、他に頼れない人たちが増えていき、その中から「他に術がない」として勧誘に乗る人が出てくる。

 だからメディアでこの手の問題をちゃんと訴えている人は、政治や自治体、福祉の問題でもあることを強く訴えている人が多い。病に薬を、のように団体が悪いだけで済ませてしまうことのなにが問題って、そもそも頼らざるを得ない人たちの実態も、実状も、彼らが体験してきた問題も、ぜんぶ無視しているからだ。

 宗教二世になった人たちの抱える問題とかさ。団体によっては義務教育過程さえ通わせてもらっていない問題とかあるみたいだしさ?

 てんこ盛りだよ。てんこ盛り。

 そんなてんこ盛りの状況がいまも当たり前に推移しながら、時間が流れてる。

 これまでのように、これからも。


「ほんと、こんなものじゃない」


 いくらでも物語れるけど、それは具体的な行動のなかでは薄め。ペットボトルの水に砂糖を一粒いれて、甘みを感じるかぁくらいの話。そんな比率のお水を「コーラみたいに甘いです!」って言って渡したたら、十中八九おこられる。嘘つけ! って。

 じゃあ、みんながほんとのコーラくらい甘いくらいの濃度で、ちゃんと具体的に行動したらどうなるのかって。中世の魔女狩りみたいな私刑だ、関東大震災のときの虐殺だみたいなことが起きかねない。

 そのタガがより明示的に剥がれるのが戦争だ。

 日本は東京をはじめ、民間人への犠牲がやまほど出たけどさ? 日本だって中国をはじめ、空襲だなんだをやって犠牲をやまほど出してる。戦争になると、特に近代戦はいかに民間に打撃を与えるか、みたいな性質を色濃く帯びていて、聖歌ちゃんのお姉ちゃんは、その犠牲になった。

 戦場になるって、濁流の範囲が拡大するし、濁流の勢いや被害が質的にも過酷になっていくことを意味する。

 今回の一件はどうだ。最初はビルの連続爆破。住宅地の住民まるごと消失、のち遺体となって発見。ほかにもいろいろ起きたけれど、極めつけは先日の関東近隣に怪物出現である。

 エスカレートし続けている。実行犯はちがうとしても、対応にあたる私たちからしたら、起きる事態がますます悪化していることに頭を抱えずにはいられない。


「ううん」


 自分の粒を眺めながら、相対的に彼らの答えに思いを馳せる。

 でも、わからん。

 単独の理由じゃない。実に複雑な理由を抱え、背負いながら生きているのだから。

 わからん。

 そりゃそうだ。


「思索だけでもぉ、話すだけでもぉ、足りない」


 ガラス瓶を人差し指の先でつつく。

 爪が硬い音を鳴らす。

 学校を休んで、伸びたのか。長く眠っていて手入れを忘れていたのか。

 ネイルを楽しめそうな爪をじっと眺めながら息を吐く。

 ラジオの話を思い出すんだ。

 よくあると言いながら送ってきた失恋のメッセージに、大人たちが撃ち抜かれていた。あるあるで、きっとメッセージ選びをしている人なんかは見飽きるくらい見たんだろうに、それでも効いちゃうなにかがある。何年、十何年たっても消化できないこと。下手したら何十年もかかるかも。死ぬまで引きずるかも? そういうことを、いろんな日常の活動をしながら「わからないまま」「ことばにできないまま」「答えもないまま」「解決できないまま」抱えてた。

 歌を聴いてみたら、うっすらと聞き覚えのある曲でさ? 詩がド直球だったよ。あなたと出会えてよかった、というフレーズは、言い回しを変えながら恋愛、失恋の歌をはじめ、いろんなテーマの歌でこれでもかと使われている。それなのに、未だに使われ続けているフレーズだ。

 結ばれなかった。別れることになった。

 文字にしたらそれだけのことなのにさ。付き合っている間、その前とかの、これまでもかっていうくらいの情緒や身体の刺激と反応の蓄積があって、具体的な体験があって、思い出も、あってさ? それだけのことが、どうにもできないでいる数十年がいっぱい。

 なのにね? 今回のはもっともっと激烈。

 ますます、時間がかかるでしょ。

 失恋にしたって話して済むものでも、次の恋で忘れられるってものでもなし。

 なのに今回よ。

 私の人生のこれまでも同じだよ?

 みんなそれぞれの人生できっと、同じなんだよね。

 これをどうにかすれば、みたいな虚像じゃ到底、どうにもならない。

 あの手この手を尽くして、耐えながら、何年、十何年、何十年とかかって、ようやく、もしかしたらもしかするかも? だけど、だめでもしょうがない! くらいのレベル。

 話すだけじゃ足りない。思索だけでも足りない。歌うだけでも、だれかがいるだけでも。

 時間もかかる。

 だからこそ「答えのない」「解決できない」ことに耐える力がいるし?

 結局「答えはない」「解決もできない」ままかもしれない。死ぬまで、ずっとね。ぷちたちを思うと、自分が死んで、ずいぶん時間が経っても尚、かもしれない。

 そして耐えるにしても、耐える間に休むにしても、社会的支援・社会的資源・関係性・環境が充実しているほどよく、逆にいえば不足しているほど耐えるどころじゃなくなっていく。休めなくなってしまう。

 松本清張の「鬼畜」じゃ休めないから手を動かすし、それだけでいいし、それしかないみたいな世相と、その犠牲となるこども、そしてかつてこどもだった男の加害も、女たちの被害と加害も生々しく描かれていた。

 それらにしたって、ずぅっと抱えていくことになるんだ。

 えげつないね!

 今回の事件の数々だって、そのどれかひとつに巻き込まれた人にとっては、それでもう、一生抱える羽目になる負荷をのせられて、傷をつけられているわけだしさ?

 物語も、表現も、それらのひとつである言葉も、言葉を取り入れた歌も、取り入れない音楽も、あらゆる表現方法も、ごくごくわずかしか描けない。なのに私たちはそれをしばしば忘れてしまう。ときにはそれらが万能だと虚像に変えてしまうことさえある。

 答えそのものもそうだ。解決だって同じ。わかることもそう。それらがまるで、事態をどうにかするための唯一無二の力をもった虚像にしてしまう。そう求めてしまうことがある。

 それらすべてが、その人の求めであり、その人の作ったものに過ぎない。それも、頭の中でね。

 もちろん、それがその人を強く縛って、苦しめていることもある。しょっちゅうあるよ?

 私なんかもう、無意識に老いちゃうんだから! 無自覚にね!

 どんな事態であれ、自分と、自分を取り巻く世界はままならない。

 それでもぼちぼちやっていくしかないからさ?

 そりゃあ! 社会的支援・社会的資源・関係性・環境なんて、いくらあっても、よくなっても困ることはない!

 そのためにだれかに濁流を押し流していい理由もない。


「ふむう」


 それでも濁流はなくならない。

 飲みこまれたのは、あの男。そして、あの男と同じような目に遭った人たち。

 もしも答えや解決に執着しているのなら、なにを狙うの?

 私なら自分を襲った濁流の水源を「決めて」、「破壊する」かな。

 怒り、憎悪し、余裕はなく、攻撃を選ぶような人ならね。あるいは、そういう集まりならさ?

 次の一手も恐らくは、攻撃じゃないか。

 備えるなら、私は無自覚と付き合えるようにならないと。

 ふたつのガラス瓶を見つめながら、しみじみ思う。

 足りない! 絶対に、これだけじゃ足りない!

 思索だけでも、情緒だけでも足りない。

 みんなと話したり、カナタとふたりで過ごしたり、いろいろ足していくか。

 そうやって情報がたまっていくほど、私の思いや思考がたまっていくほど、総体としての私がますますわからなくなるけれど、いいんだ。いまは、これでいい。

 私にはわからない私がたくさんいるのだと、そう実感したい。

 だから、これでいい。




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

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