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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千七百五十五話

 



 人は感情のみに生きるにあらず。

 だが理性のみで生きるにあらず。

 もっといえば、ここでいう感情はなんらかの刺激に対する情緒的反応から生じるもの、さらには情緒的・身体的反応から生じる感覚から生じるものがあるし? まだまだこんなものじゃないよね。

 刺激はその瞬間だけに限らない。いくつもの刺激、反応が相互に作用しあうこともたくさんある。

 心的外傷後ストレス障害で起きる作用は、過去のいくつもの刺激、反応はもちろん、脳に記録された情報に対する刺激と反応によるもの、それらが反応しあうことを示してもいる。

 てことは、感情と理性だけじゃないよね。刺激もあるし? ここでいう刺激という箱につけられた名前の中には、私たち人間同士の関係性をはじめ、私たちが生きる地球で生じるあらゆる事象、日々の営みとそれに関わるすべての命や物品や行為などから生じるものがあるし? それらは単一で話が終わるものでは断じてない。その瞬間に閉じるものでもない。

 だけど対象が膨大だから感情や理性の価値を下げる、みたいな話でもない。相手を支配することで、相手の状況や価値の定義権を奪い、言いなりにして、自分の思いどおりにしたい人は別だろうけどさ。

 それにね?

 その瞬間に感情や理性、たったひとつにしがみついて、それを手放せなくなったり? あるいはままならなくて暴走したり、苦しんだり、やらかしたりすることなんてさ?

 ある!

 よくある!

 状況や環境、関係性、資源や支援の有無によっても大きく左右される。

 だけど情報量があんまり多すぎて、頭だけで整理しきれるものじゃない。

 だっていうのに、そんなことさえままならなくなるくらい、頭も心もわーとなることがある。

 私はぷちたちと過ごしているとき、しょっちゅうなってるよ。

 運動だと負荷を増して鍛錬を続けているうちに、最初はきつかった鍛錬が一ヵ月後、半年後、一年後、どんどん楽になるみたいなことはある。とりわけ私の場合、高校の一年でだいぶ体力がついたから、富みに実感している。

 ただね? 感情や理性もそういう筋力や体力みたいに捉えるのは、だいぶ危うい。

 いろんなものの支えの中にあるし? これまでの体験によっても大きく変わる。

 自分と同じようにあれ、なんて無理な話。いっそ暴力でさえある。

 というわけで、感情ひとつとっても?

 対処がむずかしい。

 ことばにできない、掴み取れない感情が壁になって、もうなにもできなくなることがあるのに、それがなんなのかわからなくて固まってしまうことが人間には起きる。そんなとき、感情を横に置いておくことがだれにでもできるわけでもなし、個別になにが支えになったり力になったりするのかは決まらず、大きく変わる。

 これを理性だけに解決を求めても、まあああ! 無理だよね!

 無理無理!

 たとえば苦しんでる人の抱えているタスク自体を見て「これなら自分はすぐにできる」「(クラス・部活・職場・技術者など)の人にできそう」とわかる、思えることがあったとしても、その人を苛んでいる感覚や苦しみ、痛み、負荷そのものを可視化することはできないし? それらに対応できるとはかぎらない。まだタスクを解決するだけなら、楽だったりマシだったりしてもね。

 だからこそ苦しんでる人がいたら、その人のタスクをなるべく合意形成しながら引き取って、場合によっては解決する。その人が解決することが重要だったり、発達のために必要だったりしたら、なるべく影響から遠ざけ、保護する。そのうえで、苦しんでる人を苛んでいる負荷への対処をしていく。

 あえて言おう!

 こんなのは! 絵に描いた餅であると!

 ぷちたちを前にわーとなったり? 事件だなんだの負荷にめげてるうえに老いちゃってわーとなったりしている私には! すこしもできちゃあいないんだと!

 そんなもんだ。

 「じぶんのかんがえたさいきょうのかいけつほう」の実態なんてやつは、いつだってそんなもんだ。

 実学が伴わないと、なかなかね。きついところ、あるよね。

 私は私の抱える負荷に対する実学も勉強も、どちらも足りていない。自分のことなのに、不思議なほどにからっきしだ。でもそんなもんだよなああああ!

 はあ。


「言葉にできない」


 小田和正さんが曲名にして歌っている。

 歌詞の中なら? たくさんの人が使っているフレーズじゃないかな。

 言葉にできないし、ならないし、わからない。

 それこそさ? なにから伝えればいいのか。そんなことさえわからない的なフレーズも多い。

 どんな言葉かを具体的にしている歌詞にまで裾野を広げると、さらにわっと増える。

 コレサワさんのたばこの歌詞だと、具体的なメッセージになってる。こんな風に台詞さえ含めたらもっと増える。

 どうしてこれを言えなかったのか、という問いにかけて、その先にある思いを尋ねる形でさ? 私の、きみの、彼女の、彼の思いや言葉は、いったいどんな形なの? できないの? わからない? したくないの? と問いかけるように裾野をさらに広げると、もう膨大だ。

 一方で。

 具体的な言葉にせずに、言葉にしないまま、より一層ことばにしているものもある。

 天城越えの歌詞では、いちいち説明せず、語らない。問わない。ただ突きつけている。情念と共に、思いを示している。示す形で、迫っているよね。覚悟を。ことばにできなかろうが、上滑りすることばを並べられようが、そんなものよりお前の決意はどんなだよ、それはいったいどんな内容で、どの程度の覚悟だよって。


「ううん」


 そもそもね?

 私たち、自分で思うほどには自分のことだけじゃなく、自分がなにを思っているのか言葉にするのもうまくない。なんなら下手まである。

 ここは繰り返し押さえておきたいところだ。


「でもなあ」


 私が自分の言葉にできないものに触れられないようじゃ、こどもたちの魂の言葉にできるものはもちろん、言葉にできないものに触れられるはずもない。

 もちろん、ぷちたちのもそう。カナタをはじめ、いろんな人たちのも。家族さえ、無理。

 ちなみに、そういうのぜんぶ棚上げにして「手を動かせ、手を」を至上の一手、他のあらゆるものを否定する人がいる。

 そういう人の集まりを作品にしている映画があった。おばあちゃんちの集まりで、親戚のおばちゃんたちが暇つぶしにおばあちゃんの持ってるビデオを再生して見てたんだよね。

 松本清張作品「鬼畜」の映画。緒形拳さん、岩下志麻さんをはじめ、いまじゃ考えられないくらい贅沢なキャストで撮っている作品。後年、何度かドラマ化されている。映画は四十一年も前の作品。

 なんだけど、あらすじがなかなかにきつい。

 父が消え、ついに母も蒸発して親戚たちの家をたらいまわしにされた挙げ句、十歳から印刷所に奉公に出されてはたらき続けた男、竹下宗吉がいた。宗吉は埼玉県川越市で印刷屋を続けていたのだが、商いは妻のお梅が仕切って、かろうじて回っている程度。なのに火事が起きるわ、大手印刷会社の攻勢で商売は傾き、銀行からも取引を断られてきている。そこでお梅は「激安」「他店の取引先も奪う」「とにかく安く、多くやる」ことで乗りきろうとするが、おかげで業界からも銀行からも愛想を尽かされていた。

 収入が右肩下がりのなか、宗吉は深刻な状況を抱えていた。彼は鳥料理屋に勤める女中である菊代を手籠めにして、七年もの間に二男一女の隠し子を産ませていた。小金を溜めては休みを取って、足繁く通い、お金を渡して、菊代を抱く。孕ませては産ませて続けた七年間もの姦淫も、金の切れ目が縁の切れ目。お金を持ってこず、会いにもこなくなった宗吉のもとを、菊代がこども三人を連れて訪れたんだから、さあたいへん!

 地獄のような口論の末に菊代は蒸発。宗吉とお梅、ふたりの間にこどもができなかったことから、時代柄の「女は妊娠・出産・子育て」の圧と負荷もあったろう。お梅に愛人の子を三人も育てる気などない。

 みんな感情も理性もなおざりに、いま目先の生活に手いっぱいだし、それを至上の命題にする。実際に余裕がない。なりふり構っていられない。

 お梅はこども三人を執拗にいじめぬき、捨てるか殺すよう宗吉に迫る。激情をぶちまけつづけながら。

 頭も心もまわらない宗吉も、最初は俺の子だと信じて世話をしようとするが、いかんせん「子育てする気がない」。目先のことを片づけるだけで、考えるってことをしない。なにが必要で、なにをするべきかを考えることもないし? 自分を内省することも、いっさいしない。それこそ「手を動かす」だけである。

 菊代を探す宗吉は、菊代にこどもを押しつけようとしていた。姿を消した菊代の居場所を見つけるが、近所の人々から伝え聞くかぎり「既に男がいる」。お梅からは「あんな女、娼婦みたいなもんさ」「あんたの子じゃないよ」と執拗に言われていたし? 限界だった。

 末の子が栄養失調など弱るなか、お梅が落としたシートにかぶさり衰弱。宗吉は一部始終を見ておきながら、なにもしない。結局、末の子は衰弱死。わずか一歳半の命であった。

 その晩、菊代と激しく情事をかわしたのち、宗吉は四歳の娘を東京タワーに置き去りに。六歳の息子に毒殺を試みて失敗。旅行に連れていき、旅先の島の崖から落とす。

 崖に生えた松の木に引っかかり、身体を受けとめられたことで運よく命をつないだ六歳の息子は警察らに保護され、宗吉はとうとうお縄についた。警察に「あいつがお前さんを突き通した父ちゃんだろう?」と問われるが「あんなやつ、父ちゃんなんかじゃない! 知らないおじさんだ!」と吐き捨てる。

 息子の言葉に涙しながら「堪忍してくれえ!」と泣いて詫びる宗吉。つくづく行動しかない男であった。

 菊代もお梅もそうだ。

 目先のことをどうにかする、そのために行動する。それ以外にない。

 具体的にその行動がよいのか、とか。内省して今後の身の振り方を改める、とか。

 そういうことは一切ない。

 特に宗吉はひどい。ここまでの行動をいちいち評価するまでもなくね。評価したら止まらなくなっちゃいそうだ。

 結局、長男は施設に預けられることになるんだけどね。警察も、目先の仕事を片づけることしかしないし、興味もないし、余裕もなければ権限もないんで「がんばれー」で終わり。

 ちなみに宗吉が長男との旅の途中で人生をふり返る場面があるのだけど、最初にまとめてみせたようにだいぶひどい人生である。十歳の宗吉を奉公に出したおじさんは、宗吉の初任給から数年分の給金を前借りして、多額の借金の返済と、夜逃げのための資金に充てていた。なので、一年を過ぎて給金が出るのを楽しみにしていた十一歳の宗吉は、いよいよ給金が出るその日に、おじさんの事情と、これから数年は無給で働くことを告げられたのだった。

 みんなが「ひとまず手先を動かす」「目先のことだけ考える」を徹底して、大なり小なり、濃淡の差はあれど鬼畜になっている。

 生活の余裕のなさ、社会福祉の薄さ、あらゆる教育の不足とか、資金運用の知識とか。とにかくもう、全般的に足りないものたちによって支えられている、社会構造と構成員によって構築された鬼畜まみれの世の中で、長男は生きざるを得ない。彼の体験は、彼を一生涯にわたって影響を及ぼす負荷となり、痛みとなるだろう。

 理性をもって読み取るだけでも、感情をきちんと読み解いてくだけでも足りない。

 生活を支援するだけでも、安定させるだけでも足りない。

 手を動かすだけじゃだめなんだよ。

 だっていうのに生活が不安定なときほど、手を動かすしかなくなるしさ。

 ほんと、つくづく、ろくでもない。

 なのでもちろん、救いはない。そういう作品だった。中学時代に田舎で見て、なんか無性に印象に残っている。宗吉がさぁ! 自分から息子を崖下に落としておいて、警察が印刷所にやってきて捕まり、息子が生きているって知るなり笑顔になるの。新幹線の移動中に刑事ふたりが気味悪がっていた。

 それに警察署について、息子の姿を見るなり、ほっとして微笑むんだよね。父親が。

 もう情緒も自分もなにもかもぐちゃぐちゃで、ろくに見えてない。自分がなにをしたのかも。

 当然「手を動かす」だけじゃだめなんだよ。

 だめなんだけどさ。

 それも結局、だれにとっても「じぶんのかんがえたさいきょうのかいけつほう」程度になってしまうし、そういうものほど余裕がないと、他に頼る術がなくなったりするんだ。

 なんで社会福祉が必要なのかの理由が凝縮されているでしょ?

 上善水の如しと真逆でさ? 社会の暴力や理不尽、加害だなんだの実例は、濁流となって、権力構造の上流から下流へと、濁流のように押し寄せていく。それこそ映画「パラサイト 半地下の家族」みたいに、権力勾配の上から下に、いらないもの、抱えてたくないもの、捨てたいものと一緒に加害したりほっときたかったり、自分たちは関わりたくなかったりする欲も押し流されてくる。

 松本清張「鬼畜」では、こどもへと降り注いだ。

 かつてこどもだった宗吉も例外ではないし? 宗吉にいいように利用された菊代もそうだ。お梅もかなりのダメージだ。彼ら大人のままならなさの濁流は、こどもたちへと押し寄せた。

 みんな多くをほったらかして、とにかく片づけられることしかしない。余裕もないし、正当化・責任転嫁してかないと、間に合わない。

 そして、そういうやり方じゃあ、もちろんうまくいくはずもない。

 おまけにそういうやり方しか知らないし、それで済ませる生き方しか知らないし、それ以外の選択肢を選ぶつもりも、探すつもりもなければ、探せることや選べることさえ知らない。その気もない。

 どん詰まりだ。

 先がない。

 行動の内訳と、その加害性は別にして、宗吉くらい流されながら選んで行動してを繰り返す生き方の稚拙さは、私もめいっぱい持っている。トシさん行きつけのお店とか、ラジオのリスナーさんとか、高城さんやナチュさんの愚痴に出てくるだれかとかにも普通に当てはまるし? 高城さんやナチュさん、トシさんあたりは自覚的に、自分にもそういう部分があって気にしていることを添えて話している。

 切り離せるものじゃないんだ。宗吉が見せた愚かさは。それこそ付き合いながら、やらかさないように気をつけていくほかにないものでさ? おまけに余裕がなくなると、どんどん泥沼にはまるように繰り返してしまうし、抜け出せなくなってしまう。

 そういうときほど、私たちは虚像を求めることがある。

 原因をひとつに絞ろうとするんだ。

 そして、それを何者かに仕立て上げようとする。物語にして、消化しようとするんだ。

 だけど常にあらゆる現象は、あらゆる要素と多くの人が、その瞬間に閉じない時間が蓄積した影響を抱えながら、複雑に折り重なって生じていく。

 それらをまとめてひとつに絞った虚像を求めるけれど、存在しない。

 感情のせいにしても、理性のせいにしても、手を動かすことのせいにしてもいけない。

 ぜんぶ私のせいならいいのに。私が悪いんならいいのに。

 そんなの、虚像だ。


『理知的な確認じゃな』


 でしょお? タマちゃん。

 これはアマテラスさまのお屋敷で見た、韓国映画「啓示」で精神科医が語った台詞をお借りしたんだ。

 でね? この映画はこの映画で松本清張「鬼畜」とはまたちがったサイコスリラーな一作でさ。

 幼少期に度重なる虐待を受けて育った男が性加害・誘拐・拉致監禁などの罪で二度逮捕されていて、なお釈放されて三人目の被害者を狙う。一方、男が狙った少女が逃げ込んだ教会の神父は妻の不倫、後輩でぼんぼんの男に近所の新設中の巨大教会の担当を持っていかれる、なのに自分はへんぴな土地の小さな教会でくすぶるというさんざんな状況。なのに妻から「娘がいない! あなたに迎えを頼んだのに! 見つからなかったら覚えとけ」と圧をかけられ、男を疑う。彼を見つけて追いかけた山中でもみ合いになり、神父は男を突き飛ばして、悲惨な怪我を負わせた。

 そのとき! 突然、不思議なことが起こった!

 降りしきる雨のなか、雷がぴかぴか光って、向かいの山にまるで顔のような陰が見えたのだ。

 これは神様の啓示にちがいないと信じた男は欲のままに男を崖下に突き落として、証拠を隠蔽。彼にとっては神の教えも、神も、ぜんぶ自分を守り、自分の道を示すための虚像であり、究極の依存先だった。

 他にも男に妹を誘拐されてしまい、裁判後に自殺してしまった刑事が出てくる。

 三者三様の虚像を描き、対比させながら描いた意欲作でかなり面白かった。途中、お母さんのゲームプレイで見る龍が如くの「ちょ、え? ど、どしたの?」ってなるおもしろ不思議シーンと、ジョン・ウィックの「もういっそギャグじゃん! そういう!」ってなる強すぎたり灰汁が強かったり王道すぎたりしてたまらなく痺れちゃうシーンを掛け合わせたようなシーンもあって、たまらない。

 でね?

 啓示に出てくる人たちも、鬼畜の人たちと似てる。

 目の前のことに縋り、それしか見ない。あるいは、それしか見えなくなってしまう。

 あんまりつらいか、どうにもできないか。おまけに言葉や物語にしにくいか、だけど消化しなけりゃならないかで、たまっていってしまう。

 だから、虚像を作り上げる。

 すべてを解決できるように。

 あらゆる要素を食材にするなら、ぜんぶを粉末にして、ひとつのシェーカーに注いでどろどろの液体に加工して、なんとか飲み下そうとするかのような力技。無茶苦茶暴力的に、無理に済ませようとする。

 目的になるかもしれない。

 手段かもしれない。

 正当化・責任転嫁・免罪符かもしれない。

 だけど、それらじゃ結局、どうにもならない。


「別に、そんなに昔にさかのぼらなくてもいいかも」


 たとえば高校生活からふり返ってみるのはどう?

 これなら、題材にちょうどいいかも。

 消化しようのない、言葉にできないししようのない、そんなものがやまほどあったんだから。

 でもなああ!

 だからこそなああ!


「ううん!」

『気に入らんことでもあるのか』


 そうなの、十兵衛。

 あるの。気に入らないことが。

 音楽を挙げた。いまみたいに映画も挙げられる。原作の小説だって。

 絵画に彫刻。建築物。漫画も。あれやこれやの芸術も。

 その力を感じるほどに、私は猛烈に求めてしまう。

 ここにないものを。


『それは?』

『虚像ではあるまい』


 もちろん、そう。

 話す相手がほしいの!

 ふたりになってほしいしさ?

 カナタたちと話したいよ。

 なにかを見たり聞いたりして、そこから自分で掘り下げるのも大事だけどね?

 それよりもっと、だれかと話して、じかにいろんな刺激や反応に触れたいよ。

 それ以上にもっよ、私の中には決して存在しない、あなたたちを知りたいよ。

 私をよく知り、見て、聞いて、その反応を知りたいのなら、私の中に閉じこもっていたら限界があるんだもの。私の中にあるものだけを利用していたら、広げていくのに骨が折れるんだもの。

 だからさ?


「お話しない?」


 霊子をいっぱい出して、ぎゅっと凝縮する。

 作る固まりは、ふたつ。なるべくいっぱい注いで、大きくしていく。

 ふたりの形になるように。

 ひとときだけでも、ふたりが自由に動かせる居場所になるように。

 霊子の出がどんどん悪くなっていく。輝きも色褪せていく。

 関東中の異変を収めるのに無茶をしたときのダメージは深刻で、いまも治る見込みがない。ならばと胸に手を当てて、御珠を出す。力を借りて、ふたりの通り道になるよう祈って、願う。

 程なく、顕現した。


「前よりは実態に合っている、か」

「無茶をすることもないだろう。こんなことをしなくても話はできたろうに」

「わかっておらぬなあ。語らいは顔を合わせたほうがよい」


 埃っぽい黒の着物に深い紺の袴姿の十兵衛と、オープンカラーシャツにフレアスカート姿のタマちゃんがいる。衣装までは私は手を出していない。ふたりの希望に添う形か、それともいまちょうど、こんな格好をしていたのだろうか。


「しかしなあ」


 無精髭を撫でつけながら、十兵衛が椅子に腰掛けた。真っ先に座るんかい。


「生前の年齢にせよ、地獄暮らしの年月にせよ、あまりに差がある。なにを話したものやら。俺はいらんだろう」


 思わずタマちゃんと顔を見あわせた。

 タマちゃんほど積極的に話しかけない十兵衛の真意の一端を見たね。

 なに遠慮してるんだか!

 私が寝そべるベッドに近づいて、タマちゃんがそっと腰掛ける。豊かで眩しいほどの九尾の毛量、ボリュームが間近にある。ふわりと果物の甘やかな香りがした。タマちゃんの場合、これほど手入れのたいへんすぎる尻尾にさえ枝毛のひとつもなさそうだ。


「妾たちの出会いからさかのぼってみよう。それならば、ぬしにも話題があるじゃろう」


 暗にしょうもないこと言ってんじゃねえと怒っている。

 すぐさま十兵衛が肩を竦めてみせた。唇をへの字に結んでいる。

 拗ねたのかな。こどもじゃないんだから。もう。


「じゃあ、そこからいこっか」


 空気を変えたいなら、いっそ話を始めちゃえ。

 というわけで、ふたりと話しこむ。

 ひとりの時間も大事だけど、同じくらい、みんなと関わる時間がほしい。

 気づけば虚像で満たして、依存先を限定しちゃう。だから落ち着いて、その手を離す練習がいる。

 刀を下ろす、練習がいる。

 ひとりでできることを見つけた。だれかやみんなとできることも見つけたから、お願いしたいんだ。

 いっしょにお話しませんか?




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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