第二千七百五十一話
山田洋次監督の作品に「学校」というものがある。
おばあちゃんちに行くようになって最初の頃に、私がよく親のおすすめ映画を観ると聞いたおばあちゃんがおすすめしてきた作品だし? 私にとっては馴染みの薄い邦画、それも昔の作品だった。
西田敏行さん主演。田中邦衛さんをはじめ、いろんな役者さんが出ている。学校なのに。それもそのはず、幅広い年齢層の人が通う夜間の学校を描いたものだからだ。いわゆる夜間中学である。おばあちゃんいわく、劇中のエピソードに実話が多いらしい。
少子高齢化が加速度的に進んでいるいま、去年の不登校児童数はどれくらいか。文部科学省が公開している資料「不登校児童生徒への支援に関する最終報告 平成28年7月 不登校に関する調査研究協力者会議」で現在、捕捉できているのは小中合わせて「12万2897人」。これは2003年の捕捉数に比べて「1万6千人」近く”減って”いる。1980年代は捕捉できた出生数が150万人ほどなのに対して、1990年代に入る頃には125万人を下回るほどになり、2005年になるとがくんと下がっている。翌年、ちょこっと増えるけど、減少傾向に変化はない。
消費税導入の平成元年もとい1989年4月1日から翌年、厚生労働省が公開している「平成28年(2016)人口動態統計(確定数)の概況」出生数の調査から見るかぎり出生率は下がっている。消費税だけど最初は「3%」から開始。それが1997年に「5%」に引き上げられた。このあたりはまだ目立った変化はみられない。2014年、つまりいまから三年前に「8%」に引き上げられると? 明確に出生数がの下り坂が急勾配になる。出生数の下り坂は1975年から始まり、その後まともに改善された試しがないと断言できる。統計を見るかぎりはね。
経済事情が悪化の一途を辿るなか、声をあげる人が増えて明らかになっていくことが増えた。インターネットをはじめ、声をあげやすく広まりやすい環境が浸透するほど、いろんな発信の増加に伴い、これまで地域や個人、小さなコミュニティにふたをされていた問題を物語る人の声も増した。
女性差別。職場における不当な扱い。結婚生活、妊娠、出産にかかる問題。夫婦に起こる具体的な衝突の数々。
職場には多くの問題があった。元を辿ると学校にも問題は山積していた。
女性差別の視点で見る職場の問題は、男女で比較すると男性を攻撃する文脈が増えていく。だけど、実に多くの男性にとっても加害的であったり、不利であったりする職場の問題が実に多く存在していて、それはそれで「別個の問題」として改善を求め、働きかけないかぎり変わるものではなく、残しておいて得するものではない。
様々な支配と抑圧を成人は家に持ち帰ることになる。仮に一千万人の就労中の男女を集めたとき、彼らがどれほ負荷を抱えていて、それをいかにケアできるのか。次に二千万人、合計一千万組の共働きの夫婦を集めたとき、彼らはどれほどの負荷をどのようにケアしているのか、できていないのか。ふたりの関係にどれほどの影響を与えているのか。お互いに話さない、無視する、口論やいさかいなど問題が生じている割合はどの程度にのぼるのか。一年間の追跡のなかで、何事もなく円満に過ごせる人、組はどの程度存在するのか。それが三年になったら、五年、十年になったら、どれほどになるのか。
彼らがSNSでなにを発信するのか。職場でなにを語り、職場の人とどう接するのか。問題は起きるのか、それとも彼らはどんな問題に巻き込まれるのか。
多岐に渡る視点で追跡して調べて検証したら、どのような実態が明らかになってくるのだろうか。
私は知らない。
SNSは目立つ声が広まるもの。メディアは基本、取り上げたものを伝えたいように”編集”するもの。どちらも残念ながら限定した内容になる。そもそも限定されずに発信受信できるものなど存在しない。私たちの表現は常に限定的だからだ。だからこそ統計も取るし、その集め方や内容が間違っていると? 限定された数値でさえ、素っ頓狂で的外れな内容になってしまう。困っちゃうね?
そうした情報に触れても、身近に知らないとぴんとこないものがたくさんある。
映画「学校」の人たちもそうだ。夜間に限定する必要性があるのだろうか。私には疑問だ。仕事を始めると、いままで触れたことのない世界に触れる機会がぐっと増える。キラリみたいな街ブラロケはキラリの十分の一、いや百分の一さえ経験したことがない。ただラジオのおたよりを読み聞きしてると「文字の読み書きができなかった身内」や「小一から不登校のこどもがいる親御さん」の存在を知ることがある。
不登校は大昔からずっと存在しているものだ。社会問題として取り上げられるようになって、フリースクールとか、不登校児童が通いやすいよう整備された私立校とか、通信制の学校とか、増えるようになった。それでも全員の救済施設って性質の前に、運営していけるよう体制を構築・維持していく必要性があるし、そうした施設に社会がすべての解決を求める時点で間違えている。
私たちはいろいろな事情で学校に通えなくなったり、働けなくなったりする。当たり前だ。
それだけじゃない。
サンデルが指摘しているようにさ? いや、あるいは彼よりもベッセルら臨床現場に接している人たちのほうがよほど強く主張しているようにさ。
そもそも満足な養育を受けられないこともある。性虐待を幼い頃から受けたこどももいるし、養育放棄を受けたこどももいる。
技能実習制度をはじめ、海外から日本に来た人はルーツも経緯も様々で、なかには望まないケースも多くあるだろうし? 彼らだって結局やっぱり、私たちとなんら変わらず養育が不十分だったり加害を受けていたりするケースだってある。
小中に通える。これは当たり前ではない。
高校も同じ。大学だってそう。専門学校もそう。
能力主義と資本主義による加害性が強まる世の中で当たり前にこどもたちも自己責任を唱えるようになって久しい昨今では「がんばればいい」「努力すればいい」「やればいい」として、同時に「がんばれてないのがだめ」「努力していないのがだめ」「やってないのがだめ」と、支配と抑圧を自分たちも、その周囲にも強めているのが現代。
皮肉なことに、不登校の比率は学年をあげるごとに増している。少子高齢化の増加と合わせてみると、全体の比率は極めて深刻な状態にある。
ベッセルが向精神薬の開発によって「社会が患者に投薬を求めて、それで済ませる方向性に向かっていった」ことに警鐘を鳴らし、強く批判している。けれど、この向きはいろんな社会問題でも同じように適用されがちだ。
不登校なら「登校させろ」。小中、高校でうまくいかないなら「うまく登校できる場所に行かせろ」。
同じ舌で「学校は対応を」と言うけれど、氷河期世代が足りないと噂の現場に人を増やしたり、残業や過酷な労働条件を緩和するための方策も、現場が余裕をもって働けるような支援策も、いっさい打ち出さない。
これは能力主義と資本主義で生じる自己責任論の、わかりやすい欠点だ。
問題があるなら解決を。すべての問題は、このひとつの解決策でなんとかしろ。
深く考えないし、分析しないし、検証しない。わかれば、わかったものだけでなんとかするし、なんとかさせる。極めて短絡的だ。展望もない。
流れてきた情報に問題とみるや、ただちに「自己責任」での解決を求めておけばいいのだから”考える必要がない”んだ。自分でなんとかするのが正しくて素晴らしくて、みんなそうあるべきで、つらくて大変でもやるべきなんだから、お前らもそうしろと求める。それでおしまいだ。こんな態度で問題解決能力が育つはずがない。
欠点はまだある。そのうちのひとつは「答えのない・解決できない問題に耐える能力」も、「耐えて備える・今後に投資する能力」も育まれないことだ。ネガティブケイパビリティも、その応用も、その一切が発達する余地がない。
なので、私たちはいつだれが「能力主義と資本主義による封建的社会」に弾かれるか、キャンセルされるか、自動ドアをことごとく閉じられるようになるのかわからないまま生きている。それはとんでもなく恐ろしいことだ。
支配と抑圧を強化することはあっても、私たちが楽になるよう強化する方向性には向かいにくい。とても小さな規模、小さなコミュニティ内でどこまでやれるかという範囲になっていく。
運がよければ。
加害しない親のもとに産まれるかもしれない。
運がよければ。
養育してくれる親のもとに産まれるかもしれない。
運がよければ。
やることを邪魔せず取り上げず、学びを応援してくれる親のもとに産まれるかもしれない。
運がよければ。
人を育てる学校、職場にいけるかもしれない。
運がよければ。
育てるまではいかずとも、のんびり過ごせる環境・関係性に恵まれるかもしれない。
運がよければ。
忙しいけど、自分を育てやすい環境に身を置けるかもしれない。
運がよければ。
でも、それは、当たり前じゃない。
社会の目は差別と偏見に作用してしまいかねず、実際に「いくつになっても大学に入っていい」のに「実際に高齢者の学生を大学で見ると、それを揶揄する」人はあとを絶たない。
この手の話はさ。
いくらでも展開できるじゃん。
世の中には問題なんて星の数ほどあるんだから。
運がなく、地を這うような、血を吐くような生活をしている人がたくさんいるんだから。
なにかひとつでも、先に挙げた運に恵まれる内容に反していたら?
それだけで私たちは簡単に壊れてしまう。
まともに育てなくなってしまう。
その影響を一生涯、抱えることになってしまいかねない。
そうなるともう「多くの人が過ごしているような生き方」ができなくなってしまう。
たしかに極端だ。
でも、母数を増やすと、どうしたって「チャートのなかでも数多ある最悪のケース」が増えていく。それに対応するのが社会の役割であり、福祉というあり方であり、私たちが古よりコミュニティ、共同体を形成した意義だし? その機能が不全に陥って、改善という終わらない運動からエネルギーを奪う方向性に向かうかぎり「いつ、自分の運が悪くなるかわからない」し「弾かれたあとに戻れなくなる」ばかりである。
これに対して「学べばいい」「努力なさい」と言われたら?
そりゃあ、激怒どころじゃ済まないよね。
落胆だけでもない。絶望だけでも足りない。
世の中には敵しかいない。
無敵の人なんて、いやしない。
敵だらけで追いつめられた人がいるだけだ。社会が敵となって見放して、冷淡に扱う人がいるだけ。
そのため経済学者、社会学者、哲学者、精神科医や心理士らにおいても多数の困難な人たちが穏やかでいること、彼らの善意がかろうじて社会を混沌にせずに済ませているとみる向きがあり、いろんな書籍で目にする。
経済事情の悪化のなにが問題か。生活を逼迫する。余裕を奪う。余裕を失うほど私たちは問題を引き起こしやすくなる。攻撃的になりやすい。イライラしやすくなる。人に辛辣になりやすい。これらが噛みあうだけでも、恐ろしい。いろんなトラブルのタネになる。加害や差別に至る衝動を育てる。
だからといって、私たちに問題に冷静に対処する余地があるのか。それは保たれているのか。
常に十分ではない。
かくして環境の問題、関係性の衝突、共同体に根強く残る課題は維持される。
少子高齢化は止まらない。経済の悪化も止まらない。不登校は増えていく。
他にも見渡せば、いろんな問題が山積している。
与党の態勢、彼らの求める筋はこれらを悪化させることはあっても、改善する方向性の政策を打ち出せる見込みはない。政治家だけの問題でもない。経済界はむしろ、この流れをより強固なものにしようとしている向きが強い。政治は金になって久しく、金を出せる経済界にとっては都合がいい。
減税、景気政策、とにかく国に住む全員にお金が行き渡る具体策が求められているいっぽうで、公務員への冷遇や派遣・契約社員への転換は加速していて、骨抜きになっている。
たぶん、割と真面目に「なんで日本人は怒らないんだ?」と思う人が、海外の学生レベルで既に大勢いるんじゃないかな。日本の状況を知り、経済学や社会学をかじっているだけで「どう考えてもおかしな国」に見えるんじゃないか。岡目八目として。
言うなれば手入れをあえてせずに水質が悪化して、日に日に死んだ魚が浮かぶ巨大な水槽の中にいる。それが日本に生きる私たち人間の実態ではないか。
運がよければ。
その水槽のなかでマシなところを泳ぐ魚がいる。
運がよければ。
そんな魚に産まれて、その状態で維持できる。
でも、運がよくなかったら?
いつか運が尽きたら?
水面に浮かぶか、悪化した水質のとりわけ生きにくい場所を泳ぐしかない。いつか死ぬまで。
そんな現状でもしも「お前たちは水質の悪いところで適応しろ」、さらに「俺たちに都合のいいなにかをつくり出せ」と強要され、支配・抑圧された魚がいるのなら?
それが、彼らだ。
とうとうと語り、ミコさんは締めくくる。
「殺しても足りない。自分たちの苦しみや怒り、絶望を体験させてもまだ足りない。彼らは思いつくかぎりのすべての手段をもって、自分たちを苦しめたすべてに復讐しようとしている」
社長たちはあくまでCSKDに作られた者たち。
だけど、それより以前に、そしていまもなお「人の心が読める道具」ほしさに好き勝手されている人たちがいる。CSKDの社長たちの開発・製造・改良に移る以前から、そういう人たちが大勢いた。
空に浮かぶ城を思い出す。
膨大な人を粘土のように、コンクリや鉄筋のように”加工して”作り上げられた歪な場所。そこでは来訪者の欲望のはけ口に利用される人たちさえいた。彼らが「現世の人」である必要はない。作られた人形であるとしても、不思議ではない。
千葉の住宅街からまるごと人が消えた。のちほど死者が大勢見つかったが、彼らさえ”人形”であったとしたら? 彼らの日常の活動だけではない。たとえば選挙などにどれほどの効果をもたらすのか。そういう票田を「人為的に作り出せる」なら、それはいったい、どんな「ボロい商売」になるのだろうか。
実のところ、開発者・製造者らにとっては「人の心が読める道具」なんて二の次三の次でしかなくて、商売に利用できるものが作れるのならそれでいいのではないか?
だが、連中が作っているのも、操っているのも、支配しているのも、加害しているのも、人なのだ。
「緋迎の、ソウイチより前の代から時間をかけて、ソウイチの代では徹底的に、侍隊の、そして零番隊のありようの改善が図られた。しかしそれは、例の男が憎む連中たちを放逐したまで。捕まえられたわけでも立件し、裁判に持ち込めたわけでもない」
もしもそうだったら、とっくにことが終わっている。
復讐以前に決着が済んでいる。社長たちさえ作られなかったろう。
でも、そうはなっていない。
彼らのための施策も、それをする団体も、窓口も、なにもない。
探せばあるとして、それらが活用された形跡もない。
ただ。
私からみると、ふたつのグループが存在することになる。
あの男、そして男に協力する者たち。
そして社長たちやCSKD、男たちを作り、利用して、いまなお開発・製造している者たち。
「国会さえ偽物で埋め尽くされるような現状で、彼らが国を信用しているとは到底思えない。私も無理」
ミコさんの言葉に私も何度だってうなずく。
呼び出されて脅された身としては、信用するなんて、まずあり得ないレベルだ。
「法で裁くのではなく、彼らなりの裁きを与えたいのだとすると、それはどんなものか。あなたに八尾を押し込んだのも、彼なりの実験であり、検証であり、術だというのなら? いったいどんな生き地獄に落とそうとしているのか、となる」
「つまり、私は、復讐の実験相手」
「黒輪廻にも、あるいは対立していた教団にも一定の憎悪はあったのかもしれない。秘宝があれば収集に訪れ、問題を起こしていれば、これを収める。そして技術を吸収して活用しようとする。だったら、真っ先に止めるなりなんなりしていいはずだ、とね」
でも彼らはそうしなかったし?
黒輪廻の盟主は、私の別次元体。私とうり二つ。
どれも私にしてみれば「知ったこっちゃねえ」。
だけど行為者は私じゃなく、あの野郎だし? 決めたのも、あの野郎だ。
これも、運。
よくなかったね? それじゃあ終わりだね。
そんな風に言われて納得できるか。
がんばれ。努力しろ?
ふざけるな。
めまいがする。血管がぶちぶち切れそうだ。漫画なら浮き出て書かれるところじゃないか。
深呼吸をして落ち着きながら「あの野郎も同じなんだろう」と思ったし? 「でも私を選んで実験したことは絶対に許さねえ」とスイッチががつんと入る。
しばらくぶちぎれるぞ? これは。そんなもんで済ませてたまるかと思うけど、いったん待って。
繰り返し深呼吸をする。
運がよければ、のくだり。わかる。わかるんだけど、他にもある。
クリミナル・マインドでこれでもかと描いていたのは、加害に至る、あらゆるバリエーション。
自分を攻撃する人しか知らずに育ち加害に及ぶパターンもあり。敵しか知らずに加害に及ぶパターンもあり。現実は「犯罪者を牢獄へ」「処罰すればよい」というほど単純ではない。それは「患者に投薬を」で済ませるようなものだ。ぜんぜん足りない。現実から乖離している。
政治の話をミコさんがしてくれたけど「総理が変わればどうにかなる」というほど単純じゃない。「与党が負ければ変わる」というほどでもない。とりわけ「金は力」がまかり通っていたら、それで一種の経済圏や利権の結びつきができあがっているから「与党が変わる」だけでは、これに対応するのはむずかしい。どんなにいけないからって企業が社員に「どこそこに投票しよう」と言っちゃってる現状もあるだろうし、選挙の手伝いをしている事例も探せばごろごろ出てきそうだ。
戦争を題材にした映画はいろいろ見てきたけど「指導役がひどい」「部隊全体がどうかしてる」「地域をまとめている連中が正気じゃない」「そいつらを指揮して、後方から出てこない連中は現場を知らない」みたいに連鎖していく実状は、たとえば目先の「指導役をどうこうする」だけじゃどうにもならないし? ”運がよければ”生き延びたとして「」でくくった問題は悪化することはあっても、それ以外の方向性に変わることはない。それこそ”戦争に負ける”としたって、変わらない。
まともじゃない。まともでいられない。
そもそもまともに運用するために必要な、あらゆるものが欠如しているから。
だから「敵しかいない、いなかった人生」だって、いくらでも量産されていくし? 彼らを指して「無敵の人」などと、高い位置から見下して、ものを言えるんだ。
実にいいご身分じゃないか。
こんな風に感じている人たちが、いまの大統領に投票したのかな。
いまの大統領は問題しかないと思うけども。選挙期間中から露骨に問題しか感じなかったけども。
それは海の向こうの、ろくにアメリカを知らず、五十の州に住む三億以上の人たちの生活の実態を知らない私の印象でしかない。
トムホのスパイダーマンで見るクイーンズは明るくて賑やかで楽しくて眩しい場所だ。だけど、メア・オブ・イーストタウンで見る田舎町は閉鎖的で、だれもが住民みんなを知っていて、生活の暮らしぶりから人生の変化、水準まで心得ていて、なのに浮気や不倫も、児童への性加害も、未成年の妊娠・出産も起きるし、その生活水準から抜け出す術がない。そういう場所だった。ほとんど別世界だ。
別にそんなの、アメリカを例にするまでもない。
おばあちゃんちに集まったとき、大勢の親戚のこどもたちの中には「学校には親の車で送ってもらう」し「ともだちんちには自転車で片道三十分以上」なんて子もいた。ことによっては東京のだいぶいいところに住んでると見なされる私は、きつく当たられることもあった。おばあちゃんは、言うなればファミリーのフォックスゴッドマザーでマーロン・ブランド演じるドン・コルレオーネ、お母さんは劇中でいろいろあってファミリーを継ぐことになったアル・パチーノ演じるマイケル・コルレオーネ。ちなみにお母さんは長女で一人娘だから、ゴッドファーザーほどごちゃごちゃしてない。で、私はお母さんの娘ってわけだからさ? けっこうきわきわな立場だ。
そうだ。親族がぶわっと集まるおばあちゃんちでさえ、いろんな人生が集まっている。同じものはひとつとしてない。
おばあちゃんは政治をすごく冷めた態度で見ている。おんなじように冷めた態度でニュースを見るおじいちゃんズはいるものの、まあ、ひどい。
たとえば「日教組はくそ」「女なんかが口出すのがいけない」「近頃はわきまえないヤツが増えた」「実行力のあるヤツがいない」と腐すばかりのおじいちゃんもいれば「中国共産党は世界のガン」とか「ロシアはくそったれの卑怯者どもの集まり」と世界のニュースにおんなじ文句を延々言い続けるおじいちゃんもいる。
ちなみにおじいちゃんズがくだを巻いていると、お父さんもお母さんも私とトウヤをそそくさと遠ざけるし? それは美希さんちのだれかがそばにいても同じだし。おばあちゃんズは大きな声で別の話題を持ちかけて露骨に話を変えながら、私たちを遠ざける。それが一定の答えを指し示しているような気がする。
おじいちゃんズは実態がどうかの話よりも、むしろ自分たちにとって「患者に薬を飲ませればいい」「犯罪者は罰せばいい」のように「これにはこれを言っておけばいい」に落ち着いてしまって、ろくに考えてさえいないように見えた。
でも、おじいちゃんズくらいの野次、罵倒、中傷とおんなじレベルでしか政治の話ができない自分がいるのも事実だ。そして残念ながら私もほんのわずか前までは「勉強すれば」「努力すれば」で済ませていたし?
現実は、済むわけないんだ。
的外れもいいところじゃないか。
成功していない、苦しんでいる、つらい、問題を起こした。そんな人たちが足りないのであって、彼らがどうにかすればいい。はいおしまい、だなんて。
ふざけてる。
運だけでさえ足りないし?
運だけで左右されることが多すぎる。
こんなの、まともじゃない。
まともな世界なんて、どこにもない。
そう考える人が、いや。
そう考えることのできる人生を運よく過ごしていられる人がいるだけだ。
まともだなんて。空じゃないか。
それをいやというほど気づき、なのに支配・抑圧にさらされていくと?
それこそ世界そのものが敵に感じられるんだろう。
昔の私みたいに。いつかのカナタみたいに。去年のシュウさんや、アダムみたいに。
教授だって魔術師だってそうだった。
「まともじゃないし、まともでいられないから、戦争するのか」
敵だらけだから、戦うしかなくなる。
生き残れないから。勝ち取るしかないと錯覚するから。
そういう空にすがるほかに、なんにもないから。事実、支援も福祉も繋がれなかったり、その窓口担当者がまじでろくでもなかったり、むしろ支配と抑圧に全力でかかってきたりすることさえ起きる。
そんな世の中だ。
福祉施設で虐待や性加害さえ起きる。
そういう世界だ。
加害以外に知らずに少年犯罪にいたって施設に入るか、少年院に入る子もいるだろうし?
もちろんあらゆる加害は正当化も責任転嫁もできず、一生、背負っていくほかになく。
あるいは無邪気に人を深刻に傷つけたり、拷問するような加害を行ったりして捕まる者さえいる。
まともじゃない世界で、そのように振る舞ってみせたこどももいるだろう。
だが犯罪は犯罪で、加害は加害だ。
実態に対応しきれるほどには至っておらず、なにも足りていない。
映画「ショーシャンクの空に」で犯罪を犯したあとの人生をいくつか取り上げて描いているけれど、世界中が模索している。足踏みしながら後退している現実もやまほどあるだろう。
ただ刑務作業をさせて、管理した生活を過ごさせるだけで、刑期を終えたあとの社会復帰はできない。およそ不可能と言っていい。再犯率は高く、これをゼロに近づけ、達成するには実際、多くの発達が個別に具体的に必要になる。彼らを「ただ罰する」「一生閉じ込めておく」道を選ばない、そういう国が多い。その道を選ぶのは独裁者か、軍事政権による圧政くらいのものじゃないか。なぜなら、すべての罪を「ただ罰する」「一生閉じ込めておく」あるいは「殺してしまえ」とするんだから。そんな極端で無茶苦茶な暴挙は、まずしない。選ばない。
現実的にはいろんな罪があり、やがては社会に戻るときがくる。自分のしたことを、いかなる経緯があろうと背負い、認識して、抱えて生きていくというのは生半可なことではなく、そもそも捕まっていない人たちさえ分母にいれたなら、大半の人ができないことだ。
たとえばさ? 田舎に集まるおじいちゃんズがそんなことできようものなら、自分の言動の加害性で溺れるにちがいない。
だけど現実に「更正」をひもといて必要な発達に向けた、あらゆる施策が行われているかといえば現状は、まず、そうなっていないとしか言えないのではないか。
すると結局、軽犯罪などを犯して刑務所に戻るしかない人が増えていくし? それは治安の悪化を招くし、犯罪を減らすことにならない。ただ問題を先延ばしにして、人の人生を刑務所で消費させるだけだ。
そうなれば思うよ。
思う人がもちろん、出てくるよ。
世界は敵。敵しかいない。
敵しかいないから、落ち着けない。安心できない。安定なんてあり得ない。
攻撃する。憎悪する。憤怒のままに。
刀を下ろせない。掲げる。叩きつける。斬る以外になくなる。
鞘なんか入れたら、いつ殺されるかわからない。すでに満身創痍で、いつ死んでもおかしくない。それくらいの体感で生きていたら、無理だ。下ろせるはずがない。
ましてや、ミコさんの話すとおりの人生を過ごしたなら。
仲間と引き取られて学校生活を送り、いくらかの無茶はお目こぼしされる。なんならお金だなんだと世話を見てくれるし、仕事まで融通してくれる。いいことだらけに思える。
だけど気づく。警察以外を希望しても、だめ。病気だ怪我だのしても休めない。研究のために妙な検査まで細かく受けさせられるかもしれない。同世代の子たちはそんなの一切ないのに。明らかに異質な任務ばかりさせられる。拒否権はない。消耗品か、自分たちはものかと怒りをぶつけても、まともにきいてももらえない。仲間を頼って零番隊のありようを聞いたら? 死亡率は異様に高く、生き延びてる人はごくわずか。そんなの、他のどこを探してもいない。そこにしか、行き場所がない。
そんな人生を過ごしたなら。
学校で仲良くなった子たちも、だれもなにもできなかったら。距離を取られたら。ましてや、少年院に入ることになった犯罪が明らかになって、お似合いだと言われたら。
神も仏もない。
御霊を宿しても、彼らの声も聞こえない。
なかには実験のために殺される人さえいたかもしれない。
だけど、彼らを救う人は、ひとりとしていやしないんだ。
警察組織の一員だとしながらも、どう考えても法で庇護される立場じゃない。むしろ外に置かれた、人でさえない”もの”、”消耗品”でしかない。実験のためのモルモットでしかないんだ。
そんな扱いを受けて、まともになれだなんて。
どうかしてる。
「敵はあの男だけだと思いますか?」
ミコさんは困ったように唇を結んだ。
大勢いるかもしれない。だけど、全員じゃないかもしれない。
「緋迎の部下がCSKDの施設で見つけた男は、恐らく、あなたの因縁の相手と繋がりのある存在。でも彼の立ち位置がどちらにあるかはわからない」
一枚岩ではないかもしれないし?
やっぱり一枚岩で、厄介な敵かもしれない。
あの野郎とちがって犯罪行為をしていないのなら、まだ融和の手もある。
けど、もしもあの野郎のように”実験”をしていたのなら、話は変わる。
だめだ。気持ちが落ち着かない。いまの私に冷静な思考は無理。
「あの男たちを苦しめた連中は? その居場所は、どうですか?」
ミコさんは目を伏せて、首を横に振った。
わからないことだらけのまともじゃない世の中で、私たちは探すほかにない。
答えていくほかにないんだ。
どう生きていきたいのか。どんな世界を望み、育んでいきたいのか。
行動をもって、答えていくほかにない。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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