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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!

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第二千七百四十七話

 



 私たちは世界を典型・類型に落としこむ。

 やりすぎていることに気づかないくらいにだ。そうしないと過ごしていけないとも言う。

 たとえばSNSで「うわあ」と反応する人の多い、就活の「同じ髪型・同じ服装」問題。だけど実際に着物だ、甲冑姿だ、ふんどし一丁だ、服装自由型で来たら? 私が会社側の人なら「お、お帰りください」と引きながらでも伝えちゃうだろう。髪を染めてこられても同じことをするだろうし、ちょんまげ結わえてこられても言うだろう。モヒカン、アフロでこられても、たぶん変わらないと思う。ボウズの水着姿でこられたら「来る場所を間違えているのでは?」と、どんなに包んだオブラートでも貫通するほどの忌避感を伝えてしまうはずだ。

 人となりを見るより前に、高校生なりに就活の印象を語るなら「会社に入って、会社や社員らに合わせて行動できるか」、そのうえで「うまくやってくれそうか」を見たいから。それにはある程度の典型・類型を提示して、そこにいかに適応できるかを見たい。

 もちろん批判はできる。あまりにも規範的すぎないか。典型があまりにも無思考で作られていないか。その典型にどれだけ実際的な利点や意味があるのか。最初でどんなに見分けたところで、結局のところ合うか合わないかを見極めることは不可能じゃないか。昨今では職場で長く続かない、転じて職場に問題があるが不可視化されていて新しい社員が定着しにくくなっているのに管理が及ばなくなっているのではないか。こうした問題を鑑みるに、入社試験ではいかにして素を出してもらうかを見て、既存社員の現状のありのままを見る方向にシフトしていったほうがよいのではないか。えとせとらー、えとせとらー。

 だとしてもたぶん、典型・類型に落としこんだものをそのまま運用するところのほうが多いよね。なにせ、新しく模索したり、いま稼働している職場にさらなる負荷をかけるよりは、手っ取り早いし、面倒がないし、やりやすいし、わかりやすい。なにかあったら新人のせいってことにしちゃえば? ますますもって、やりやすい。こういうのも典型・類型に取り込んでいると言えるだろう。

 そんなの幼稚園や小学校から始まっている。早ければ入園前から私たちは当たり前に目撃してきている。なので、発達過程のどこかで気づく。典型・類型は完璧でも万能でもなんでもない。手段として使える面はあるけど、使った時点で過ちや失敗、加害を行っちゃっていることもあるのだと。加えていうと少なくない大人たち、年上の人たちが「そんなのいいから、いまここだけできればどうでもいいから」と強行している実例も、やまほど目の当たりにしていく。幼い頃の「あれ?」「おかしい」を守れるか、それとも大勢の人たちの「これでいいの」を内面に取り入れて、典型・類型でいいじゃないになるか。端的に言えば、後者のほうが楽ちんだ。考えなくていいし、いちいち負荷に感じなくていいからね。

 するとね? 明らかに問題がたくさんありそうでも、ひとまず動いちゃってることに関しては「これでいいや」「だってこれが典型・類型なんだもの」にしてしまいがちになる。無思考、無批判になっていくし、批判のつもりであげつらったり中傷したりするようになっていく。それは批判とは別物だ。

 たとえば先日の、理華ちゃんが送ってくれた動画を見て私の展開した政治家観の、いかにもな典型的な捉え方よ。雑でしょ? 中傷まみれだったよ。彼ら全員が階級意識と差別感情を内面化している特権階級じみた態度から抜け出せない、みたいなの。ここに問いをぶつける。実際に会って、人となりを知っている政治家はいる? 答え。ひとりもいない! 私の捉え方はなにか。すべて先入観であり、偏見である。ろくでもない政策しか進めていない、わけではない。政党を超えて協力して、問題のある動きに待ったをかけたり、全体では動いていない政策を捉えて進めている人たちもいる。いまの自分にとって利が感じられない、あるいは損と感じるのであって、他の人にとっては利になることを進めていることもあるし? 単純に見てどうこうで済ませていたら見誤ってしまう。だからこそ、選挙のたびに「与党は公約よりも、これまで具体的になにをしてきたかのチェックを」「野党はこれまでの国会などで具体的にどのような論陣を展開したり、批判を行ってきたのかチェックを」と促す人たちがいるのだ。

 それくらい私たちは自身の典型・類型で物事を見すぎるし? ヒトラーが民衆を揶揄するなかで、忘れやすく熱狂しやすいところに触れていたのだろう。日本でも現与党が政権交代で敗れる前の総理に、広報戦略が巧みなときがあって、それはもう大いに人気が出たそうだ。いまのアメリカ大統領が選挙で勝ったときのように、社会的に若い人たちに支持されているバンドの曲を積極的に活用したり、わかりやすくて明快なしゃべりをしたり、みんながなんとなく不満に抱えているものを打倒・解決する典型・類型にいたる物語を提示したそうだ。

 いまでもテレビやネットのご意見番をはじめ、インフルエンサーなどなど、いろんな人たちがいろんなアプローチを続けている。私たちは彼らがいるのが当たり前になっている。だけど、それでいいのか。典型・類型に取り入れすぎていないか。そうした批判的意識は自分が思うほどには育っていない。

 未来ちゃんが教えてくれる書籍にしてもそうだ。心理学実験には「それどうなの?」と疑義が呈されるものも多い。監獄に人を集めて運用する実験なんかも、そのひとつじゃなかったかな。別に心理学にかぎらず「それってどうなの?」と批判的視点をもって確認されたり、研究されたり、分析されたりすることが学問ではよくあること、なんだよね。たしかさ。

 でも私たちは批判に慣れてない。あるいは典型・類型を脅かされることに慣れていない。慣れる必要があるのかっていうと、それも微妙な話だけどね。

 未来ちゃんの教えてくれた本リストでは、著者がかぶっているケースもけっこうある。その中のひとりがフロイト批判を行っていて、私ははじめて「あ、そっか」と気づいたことがあった。フロイトはエディプス・コンプレックスについて語り、父と息子の問題について掘り下げている。だけど、父と息子であって、それ以外の問題については掘り下げていない。フロイトの人生史を踏まえると、それもそのはず、フロイトが関心があったのが父と息子の問題だったから。たしかね。じゃあ、たとえば父と娘は? 母と息子は? 母と娘は? どうなのさ。そのへん、どうなのさ。父と息子の話がぜんぶに適用されるって、そんな雑な話はないでしょ? ジュディス・L・ハーマンは「父ー娘 近親姦」という本を出した。それはアメリカでかなりの反響があったという。被害者の告白さえ著者に集まったそうだ。

 本は日本で翻訳されて販売されている。さっき邦題を提示したようにね。販売がたしか、二千年。ここで「近親姦」であって「近親相姦」とされていないところに要注意。どちらとも身近ではない単語だ。けれど、そのうえで身近なのは後者という人が多いのではないか。

 近親相姦は大辞林いわく「親子・兄妹・姉弟など、血縁関係の非常に近い男女が性的な交渉をもつこと。インセストともいい、多くの社会では近親相姦の禁止インセストタブーが存在する。ただし、何を近親相姦とみなすかは民族や文化によって異なる」。

 性的な交渉をもつこと。それって、父親が権力差、物理的・経済的・環境的な力の差において圧倒的に優位にたっているなかで、娘に行う段階で「交渉をもつ」とは到底いえない。むしろ積極的に「強姦」していると見なすべきだろう。だとすると「近親相姦」でいいのだろうか。ここは「近親者による強姦」と呼ぶべきじゃないか。レイプだし、暴力だ。それも異常な、ね。

 こういう文脈に触れると、それまで典型・類型とされてきたものに対して捉え方がぐっと変わる。そういうことがある。増えていく。批判点が増えていく。

 禅もそういうところがあると感じる。

 典型・類型からの脱却だ。

 脱却だけを典型・類型にしちゃうと、それはそれで問題があるけどね。冒頭で述べたように私たちは典型・類型を活用しながら社会をなんとかやっている。でも典型・類型は万能でも完璧でもなんでもなく、問題をいくつも抱えている。批判をなくすみたいなことをしちゃうと、ますます問題は深刻化していく。

 実際に服装・髪型自由型で学校や会社にこられても困るじゃん? あのときの中学時代の先生たち、クラスのみんな、ほんとにごめんなさい!

 コンビニの店員さんが入店するたびに自由にかけ声をいってきたり、商品を出したらカウンターの上に倒立したら? もうどうしようもなく困っちゃう。

 先生にしてみても、授業をはじめたら生徒に真面目に受けてもらいたいだろうしさ? 乗り気じゃないなら、せめて雑談を持ちかけたり立ち上がったり変なことしだしたりせず、おとなしーくしていてほしいだろう。こういうのは生徒側にもあるし? ぶっちゃけ人によっても変わるじゃない?

 人の数だけあるというのはけっこう雑かもしれない。みんなそれぞれの典型・類型を生きているというのも雑かな。一致してたり、微妙にずれてたり、さまざまだもの。それもやっぱり雑な捉え方だしなあ。

 すべての情報を言葉だけで端的には語れないのだな。

 ほんのちょっとしたことでも、無理なんだ。

 さっきの父と娘の本にしても、私はお父さんになにかされたってことはない。すべての父と娘の間に問題が起きているわけではないし? それをもって父と娘の間に問題はないとするのはどうかしてる。明らかに、どうかしてる。俳優からタレント、いろいろな人をひな壇に集めて話すバラエティ番組で、たまに女性が「二十歳までお父さんとお風呂に入っていました」と言ったり、推定で二十代半ばくらいの女性が「いまでも入っています」って言ったりしたら? ざわつく。それはだって「娘だから問題ない」じゃない、ある程度で「入らないようにする」のが私たちにとっての典型・類型だし、それには根拠があるからだ。

 そういうのも、一度に端的には語れない。語り尽くせない。あえて言うなら「もうやめとこ」ってなるけど、それだって言葉が足りないにもほどがある。

 典型・類型には限界があるし?

 そもそも表現にも限界がある。

 当然だ。膨大なものを相手に、わずかな情報量で接してるんだから。

 コミュニケーションだって、いつもわずかな情報量をやりとりしている。なにもしないでいると、わずかな情報量の交換さえ起きないんだもの。

 だけど生き物も、出来事も、環境や関係性も、それぞれが膨大な情報量を抱えている。

 まとめることはできる。士道誠心に入学してからの私のこれまでの日々をまとめると「高校に入って狐憑きになって彼氏もできた」みたいな感じ。それって私の情報のほとんどをそぎ落としている内容だ。おまけにこういうまとめには、まとめた人の価値観や世界観に息づく典型・類型がモロに出る。なので、かなり恣意的な印象づけにしかならない。基本的にろくでもないものだ。

 鈴木大拙さんの本で「禅の思想」という一冊を軽く読んだけど、平易ではない語彙で詳細にわたり、微に入り細に入り書かれた一冊だと? 入門というより、ある程度は心得ている人じゃないと、つらくなっちゃうかもしれない。

 まとめに存在する問題を踏まえても、ある程度は省略してまとめたものに触れたほうが、むしろ長い目で見て続けられるものってたくさんある。

 それにさ? 逆に、なるべく細やかに書くほど如実に価値観や世界観に息づく典型・類型がモロに出ることだって、当たり前にあるんだ。人のすることだから、その人の影響が色濃く出る。出ないものなど存在しない。ジョージ・オーウェル「一九八四年」で描かれる統制された社会での表現でさえ、統制された個人が表現しているという実態をなくすことはできない。もっとも受け手がなにをどこまで感じとれるかは受け手によって大いに異なるだろうけどね。それもまた当たり前といえば当たり前のことだ。

 すると、膨大な情報量を相手に私たちは長らく、時間をかけて、批判を行い、多数によって相互に刺激を与えあう以外の方法で接する術をもたないのではないかとさえ思えてくる。自然や化学、その他もろもろに向かう学問にせよ、人について医学や心理学などで接する学問にせよ、だ。

 だのに、具体的なひとりの人間を相手にするとなると、学問でさえ足りない。

 なにせ具体的なひとりの人間を対象に長く掘り下げるようなものじゃないよね。歴史的人物なら、話は変わるんだろうけどさ。それこそ、ひとつの村で特定の年代に生きた数十名について、彼らの膨大な情報量を明らかにする力はない。人が具体的に調べ続けないかぎりは、記録さえ残らない。

 だけど霊子はちがう。

 膨大な情報量を記録しつづける。

 いままでの生き方、当たり前という典型・類型による接し方では、アプローチしきれない。

 それが当然。それで自然。

 それじゃあ私は困ってしまう。

 でもね? 私の典型・類型ではわかりきれないし、わかるものではないことが、私を守っているともいう。なにせ、わかるようにできてないでしょ。人体。それにね? ぜんぶを理解しなきゃ動けないってものでもない。

 私たちは失敗を前提に活動して、ようやく掴んだ成功を学問や技術に変えて、みんなで共有して、積み重ねて過ごしている。成功だけのため、成功しかない、そんなのはあり得ないし? 成功のためだけの効率化・合理化っていうのは、人のありようも現実も、あまりにも無視しすぎている。幼い発想だとさえ言い切れる。

 そうだ。

 ぜんぶをわかって動く、なんていうのはずれている。

 いまのアプローチは、ずれている。

 トモは私のすべてをまるで知らなくても当たり前に友達になってくれたし、ぷちたちといっしょに学校に行くとろくに知らなくたって仲良くなれることを何度でも気づかされる。

 未来ちゃんも、未来ちゃんが教えてくれた本で記される実例も、私が高校に入ってからの事件の数々も、小学校時代に狐を押し込まれたことも、みんな、みんな、同じくらい知らせている。科買いする人がいる。加害は実際に起きる。途方もないほど傷つけられることさえあるのだと。

 すべてを知らなくても、どちらも起きる。他にも、いろんなことが起こりえる。

 ぜんぶがわからなくても繋がれるし、いくらでも行える。

 結果がどうなるかは別。


「ううん」


 まるで命のよう。

 ぷちたちみたい。

 私にとっては別のだれかの存在のように不思議なものだ。

 こういう風に、まとめる力や典型・類型に取り入れること、名づけることや分類することが想定を助けてくれることもある。絶対の保証がなく、批判の対象から外すこともできないだけで。

 霊子は命。

 私と異なる他者。

 そう読み取るのなら?

 困ったことがある。

 長い付きあいのキラリ相手にさえ、ふたりで遊びに行く誘いをしたこともない私にできるの?

 カナタを「あそこに遊びに行こう」とデートに誘ったことも、いま思えばなくない? そんな私に!?

 自信、ねえぇ!

 やばいですよ! ぼっちが枷になっているぅ!




 つづく!

お読みくださり誠にありがとうございます。

もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。

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