第二千七百四十三話
黒いのが教えてくれた鍛錬法を試す。
といっても、そうむずかしいものではない。
かけてもらえたことば、身近な人の霊子の膨大な気持ち、自分の膨大な気持ちなどから、好ましいものを感知できればよい。眠っているぷちたちの頬に手を当てると、寝息がすこしずつ安らいだものになっていく。このときに実感として生じる霊子とか、相手から生じる霊子とかを収集して、それらから元気の源になる気持ちを抽出するのである。
日本の精神科医として箱庭療法の導入、資格整備の普及への貢献などから心理学の普及と実践に貢献した人がいる。河合隼雄さんだ。彼の本はいっぱいあって、私も未来ちゃんに何冊か持ってきてもらった。そのうちの一冊が創元社から出ている「河合隼雄のカウンセリング講話」である。
一九二八年六月生まれの河合氏が心理療法を日本で行うにあたって、日本人で初めてユング研究所にてユング派分析家の資格を取得して、実践にあたることになったそうだ。そこで、西欧諸国と日本のかみあわない点に気づいて、試行錯誤をされたそうだ。
宗教観にしてもキリスト、イスラムかっていう西欧諸国に対して、日本は仏教、神道をはじめ、他にもキリスト教とか、いろいろある。そうした宗教上の骨子は学問にも一定の影響を与えているものだ。
それにそもそも文化形態で異なる点がいくつかある。
日本ならではの心理療法とはなにかを模索した第一人者という評価をされている書籍も、これまで何度か目にしてきた。そういう人がカウンセリング講話でなにを語っているか。
私たちの膨大な気持ちに対して、口はひとつ。
けれど発した表現は、さながらいくつもの気持ちによって織りなす重奏のよう。
治療者が聞くにしても、患者に話しかけるにしても、膨大な気持ちが織りなす重奏をいかにして聴いていくのか。そしてアプローチしていくのかが重要である、という。
ぷちたちを撫でてはその表情の変化や、たまに手を探して握ろうとしてくる子の心細さ、寂しさなんかに出くわして、私は地味にダメージを重ねていく。
『真に受けるつもりか?』
『裏があると疑うくらいはせぬか』
十兵衛とタマちゃんの声がした。
いまではそれが、とてもうれしくて貴重なことだと強く実感している。
それでも気持ちが急かないよう落ち着きながら言葉を返す。
「私が霊力と霊子の扱いを心得て、魂たちともやりとりができるようになって、よりすごい術を使えば解決っていうあれは、理華ちゃんの因果応報の術みたいなところがあるかなって」
つまり、そんなもので解決したら世話はないなって思っている。
「もしも一連の人物たちみんなに、毎朝決まって犬のうんちを踏み、鳥のうんちを引っかけられるわ、これまで言ったひどい言葉を必ずどこかでだれかに一度は言われるわ、そういう毎日になるような呪いをかけたら、私の気分はよくなるかもしれない」
だけど、それで解決するのかっていったら?
答えは変わらず「しないだろう」。
私たちには悪党でクソッタレでクズ野郎でも、彼らもまたひとりの人間で、いろいろな気持ちを膨大に抱えて生きているのだし?
黒いのの話を聞いてついついその気になっちゃって、みんなに助けてもらったり、手を貸してもらったりすることを一瞬で忘れちゃう私みたいに、そうそう人間、変わるものではない。
ならば彼らを追いつめて、窮地に立たせる?
さして意味がない。
人の本性とは、追いつめられて出るのでは? ない!
余裕を持って過ごす、そのときににじみ出るものである。
窮地に立たされたり、余裕がないときの行動には嘘がなくて、いかにも本物、本性ぽく見たくなる。
だけど余裕がなきゃ人間どこまでも調子が崩れていく。
そんなものを本性判定する暇があったら、毎日ふつうに生活できて結構儲けてる人が福祉だなんだに一切興味をもたず、自分の私利私欲だけに生きている様を見て本性だと読み取ったほうが、よほど実がある。彼らは決して社会のために行動などしないだろう。あまったご飯を捨てることはあっても、あまりそうな食材を期限が切れる前に寄付することなどしないだろう。それが彼らの本性である。
それはもちろん私の本性でもある。
逮捕されないなかで児童のコップやボトル容器に排泄物を入れたり、街中ですれ違う女性の服に体液を入れたスプレーを噴射したり。それらが彼らの本性でもある。
だれも揉めていないのに、だれもなにかを脅かすこともないのに、いちいちだれかやなにかをねちねちと言う人がいたら? それがその人の本性である。
日ごろ、日常にこそ当たり前に表現されているものに、よく現れているんだよ。
仮に本性なんてものが、一面的に存在するのなら、ね。
逆に窮地に追いやられたとき、人は情緒的・身体的反応から脳が情報を受けて、過去の事例を検索し、対処を決める。危険に備えたもの、回避するものなど、様々な方向性がホルモン分泌などによって誘発されていくが、過去の傷つき体験がこの働きに強烈に影響を及ぼしてしまうことがある。俗に言う心的外傷によるものだ。
これを本性と呼ぶのは無理がある。呼びたい人にはとても残念なことながら、ね。
人体はそのようにはできていないと言えるだろう。
仮に今回の事件の黒幕や敵たちを漏れなく、情緒的・身体的反応として脅かされる体験を毎日起こさせるような呪いをかけたところで、仮にとびきり恐ろしい日本ホラー映画や小説のような体験をさせてみたところで、彼らの立ち位置は程なく別のだれかにすげ変わる。
彼らでなければならない理由なんて、そうそうない。
頭をすげ替えれば済むように世の中まわっている。
そんなことのために膨大な修練と回復を果たして術を使うことに執着する利点が?
ないね。
私はせいぜい、彼女が教えてくれた元気の出る術や、魂たちとの付き合い方がわかれば、ひとまず十分だと思ってる。彼女もたぶん、私の意志と決断を察している。
「ひとつ、いまの私には合わないことを提案されたの」
ふたりに伝えなきゃ。
「膨大な霊力、霊子を使えるようになって、術を使う。それじゃぜんぶ、私ひとりで背負わなきゃいけなくなるし? そんなの無理だって実感するばかりなんだ」
私には仲間がいる。
ぷちたちがいるし?
いま私の指をきゅっと掴んで離さないユメたちを見ていると実感する。
私を必要とする子もいるんだ。
なのに私一人だけでどうにかするために強くなるなんていうのは、向いてないな。
『あやつの提案をかみ砕いて、うまく活用できないかと考えているのか?』
そんなとこだよ、十兵衛。
『おぬしにしてはよく考えておるようじゃがな。肝心の身体がその調子では、いつまでかかるやら』
ねー! それに関しちゃ困ってるんだよね。
タマちゃん、なにかいい知恵はないかな?
『ない』
辛辣ぅ!
『斬り合い負けたが命はあった者が戦ったことを悔いたり、過酷な鍛錬によって身体を壊した者が悔いたりしても、どちらも今更という話だな』
十兵衛の指摘が刺さるぅ!
そうだね。
黒いのが教えてくれた、自分の元気になる霊子を取り込む術を使えるようになったからって、それで身体の不調がなくなるわけじゃない。
メダリストでも取り扱ってたよね。
いのりちゃんがめちゃくちゃがんばって、成長期にこれでもかと練習したぶん、その無理が祟って疲労骨折を起こしかねない状態になるの。
気合いや根性論のなにが問題ってさ?
日ごろ雑なのに、帳尻を合わせようと無理をするところだ。
あるいは日ごろのがんばりをまともに評価できず、今後の対策がひどく雑になるところかな。
どちらにしたってダメだ。
私たちはちゃんと考えて生きなきゃね。
そこから逃げることはできないんだよね。
『じゃが、それではどうするつもりじゃ?』
私がやれるようになる必要はないんだ。
もっと言うと、私だけができるようになる必要がない。
できるようになる人が多ければ多いほど助かる。
そりゃあ治療したいし、黒いのが言えるような術が使えたらラッキーだし、戦術や作戦の幅がぐっと広がる。でも、いまの自分をどうにかしたい気持ちに焦って、積み重ねてきたものを台無しにしたくない。
もちろん、そんなこと言っている場合かってツッコミはあるだろう。
でもなー。
そもそもの話、私ひとりでどうにかしなきゃいけないことじゃないのよ。これは。
ぷちたちといると実感する。
だれも、ひとりで大きくなれるわけでも、生きられるわけでもねえ!
この子たちを作り、生み出したからって、それだけで私がこの子たちの親になれるわけでもねえ。
日々をいかに丁寧に生きて、積み重ねていくかなんだよね。
表現して、受けとっていくってことなんだよね。
ただ、ついつい私たちが気持ちを引っ張られることがある。
本にも書いてたんだけどさ。
ロミジュリでいくと、ロミオはジュリエットに会いたくてたまらないし、好きでたまらないじゃない? ジュリエットもそうだし。それでふたりとも命の危機が訪れるじゃん?
周りにいたらさ。
たぶん「命の危機がない相手と恋したら?」とか「もうちょっと、みんなが納得する形になるまで、いろいろ手を尽くしてみない?」とか言うかも。
どれも響かないだろうけどね!
だって、ほら。
これぞ自分の生きる道ぃ! みたいになったり、これをやらずにいられない! みたいになったりしたら、止められないじゃん?
ほら。「俺にはこいつしかいないんだ!」とか「この人以外に考えられないの!」とかなったりさ?
そうなったら、止まらないじゃん。
そういう人を前に私たちはしばしば常識に則るようツッコミ入れたり、求められていないアドバイスをしたがったりするけどさ。意味ないじゃん。下手したら、関係性が終わるまであるじゃん? それくらいのダメージを相手に与える可能性さえあるじゃん。
そんでやっぱり止まらないじゃん。
古くは「ゴッドファーザー」、いまよりちょっと古くなるけど「タルコフ」とか「ブレイキングバッド」とかでさ? 彼らがマフィアとか、ドラッグ製造とか、その販売とか、やめられる?
やめられない。そういう次元の話じゃない。
未来ちゃんから教えてもらった書籍の波のなかで、加害者臨床の現場で働く人の書籍を見ると、少なくない加害者が「やめられない」状態に陥っている。当然、そんなの正当化や責任転嫁の理由にならないよ? ならないんだけど、まさにそのやめられなさに彼らは生きている。
それなりの人が、まさにその「やめられない」「これしかない」「これをせずにはいられない」ものに出くわす。いいこととは限らない。ろくでもないこともある。
ブレイキングバッドなんか、それで自分も家族も、妻の妹の家族も、街で出会った少なくない人数も、もれなくみんなの人生が台無しになっている。
どう考えても「やめたほうがいい」のに「やめられない」んだよね。
そういうものに出会っていて、自覚がある人は「わかっちゃう」し。冷めた顔してつっこめるうちは「わからない」んだろう。
当然だけど、ものによっては支障を来す。
ロミジュリなんかまさにそう。
映画「オッペンハイマー」で、オッペンハイマーはじめ科学者たちが原爆開発を「やめられない」し、開発の報告を聞いた大統領らが「使わずにいられない」。
ドラマシリーズ「THE HEAD」なら? 二酸化炭素を酸素に変える技術開発をする科学者たちを率いる、偉いおじさんは、とにかく女性とみるや手を出さずにいられない。セックスしたい。レイプ上等。目をつけた女にエロいことをしたい。それで? 悲惨な事件をやまほど起こす羽目になる。
シリーズに出ている女性科学者が悲鳴まじりに言うの。「どうして! その下心を! この実験が終わるまで我慢できなかったの!」と。なにせ女性が科学者として立身出世するのは、本当にむずかしい。性別の壁が立ちはだかる。それに団体研究となると”偉い”、そして”男”の功績にされてしまいがち。なので、本当に血を吐く思いで、劇中の実験にまでたどりついたんだ。
逆にいえば彼女は研究も、研究者もやめられなかった。
えらい男も、とにかく女性にちょっかいをかける、セクハラパワハラして関係を迫ることをやめられなかった。レイプさえするのをやめられなかった。
だから悲劇は約束されていた、とも言える。
自覚して、その「やめられない」「やらずにいられない」「これじゃなきゃだめ」「こうせずにはいられない」ことに紐づくたくさんの気持ちを知ることが大事。
でもって、その気持ちをどうしたいのか、どうするのがいいのかをよくよく考えて、それに適した行動とはなにかをよーく考えることも大事。
つまり「やめられない」ことたちの先にさえ、たくさんの気持ちがあるってことだし?
どれをどう満たすのか、そのための手段になにがいいのかって、考えないとよくわからないのだ。
もっと言うと考えるだけじゃ足りないのだ。
で?
この場合、私がひとりで抱えこむのが、よろしくない。
ついついやりがち。やめられない。
ヒーローみたいにかかわらずにいられないーとか、救助活動せずにいられないーとかもそうだよね。
そういうときって理屈じゃない。
抱えている気持ちを他の行動で表現することも、晴らすこともできなくなってる。
あいつをぶん殴らないと終われないとか、復讐劇の復讐せずには始まらないとかだってそう。
道理とか倫理とか善悪とかじゃなく、もう、それをせずにはいられない感じ。
そりゃあ世の中から犯罪もいさかいもなくならないわけだ。
「ま、だれか手伝ってくれるよ」
すでにいま集まれる仲間たちっていう時点で、だいぶ「やめられない」「やらずにいられない」集まりなんだもの。私のことほっとけないのも、事件をほったらかしにしておけないのも含めてね。
そこは信頼していい。
むしろ怯んじゃうと、怒られる。
率先して、マドカからね。
「私たちには心がある、と。そういう物語に私たちは生きている」
心の有無にさえ、いろんな学術書が出ていて興味深い。魂も同じだよね。
なにをどう呼び、それがみんなの物語として”うけるかどうか”みたいなものの中にも、それとは別に現状の研究だなんだで「ひとまずここまでは確認した」、その領域において「あることになってる」ものがある。
資本主義も能力主義も、民主主義も共産主義も国粋主義も、社会主義も、いろんな経緯や多くの物語とが絡み合って、影響しあいながら存在している。
だけど、どれも別に世界の真理でもなんでもない。
もちろん、世界の真理みたいに捉えて生きている人もたくさんいるけどね。
心や魂の定義、その議論も同じ。
死についていかに話すか、捉えるのかって点においてもそう。
そもそも考えるかどうかにおいても一緒。
みんなちがうよね。
やめられないかどうかにおいてもおんなじだ。
それぞれがいろんな物語に生きているんだけど、時折「私の物語どおりにみんな考えるべき」だし「私の真実はみんなの真実」みたいになっちゃうこじらせ方をする人がいる。
そういうのが許されるのは未成年のうちだとナチュさんは厳しく言うし? トシさんやカックンさんは「いやあ」と顔をしかめていた。
未成年のうちにしといてくれなきゃ困るっていうのは?
わかる!
だけど「いやあ」となるのも?
わかる!
たくさんいるもんね。テレビでけっこうな人数の大人がこじらせをお披露目してるもんね。
炎上したもの勝ちの言ったもの勝ち、絶対に負けを認めず持論をより声高に主張してなんぼ、みたいな人も増えてきたしさ。
でもなあ。
ジーナとポルコとカーチスみたいに、みんなちがうし、共有できることは思いのほか多くない。
それが学問や科学技術においてさえもね。あるいは信ずる物語や真実においても。
この場合の真実には、お父さんとのメッセージのやりとりのようにつけたいけどね。かっこ笑いを。
そんなわけで共有できることがいくつもある仲間がいるって、すごい支えになるし?
それにはけっこうな問題もセットでついてくる。
結局「私だけ」「自分たちだけ」っていうのは、よろしくないわけだ。
不健康だし、不健全。
未知が重要なように、欠けてるところがあるってのも大事でさ?
それらに真摯に検挙にいる姿勢っていうのが欠かせないんだろう。ずっとさ。
「ぶっ飛ばすため、ぶちかますため、気に入らない奴らを思いどおりにするためなんて、どうだっていいんだ」
それじゃあ未知にも不足にも出会えない。でしょ?
「今回の事例を捉えて、再発を防止するために全体像を理解する。それには連中の行動を止めなきゃだ。次の凶行に走る前に、迅速にね」
たとえば私たちは身体的反応、情緒的反応から引き起こされる伝達内容も、物語る思考も、刺激への感じ方や咄嗟の反射も、もれなく”心”と名づけて呼ぶ。
それらの内容や反射、反応によって構築されていくものも”心”と呼ぶし?
なにげなく物語る主観においても”自我”と呼び、さらには”心”と呼ぶ。
そのつど生じる刺激、反応、物語のすべてが霊子になる。霊子を刺激するし、反応する。
いくらでも増殖して世界を満たしそうなものなのに、そうはならない。
私たちはそのあたりの仕組みを満足に理解できちゃいないし、あるいは頼れるだけの物語を見つけられていない。
生きるうえで、そういう物事がたくさんあってさ?
まあ! ままならない。
そこを理解してなお、黒いのが言う世界中の膨大な霊子につながる術も見つからない。
自分の愚かさを引きうけられないことも、まあまあたくさんあるしさ? たくさんいるしさ。
そこが鍵かと思いきや、相も変わらずうまく繋がれないしなあ。
元気の糧にもできないしさ?
黒いのが言うほど簡単じゃないぞ、これは。
できれば私が習得してからみんなに伝えられたら、それが一番わかりやすくて助かるんだけどな。
「物語がちがうのかな。音楽がちがうというかさ」
コードが合っていないせい?
むずかしいな。
私は大辞林派だけど、広辞苑派の気持ちを受け入れるみたいなことをしないといけないのかな?
別に私、広辞苑を否定も拒絶もしてなくて、割と見るけどな。それじゃだめな感じ?
心なんかくだらないみたいに思ってる人たちの気持ちともつなげてなんぼってことかな?
霊子は別に、私の好き嫌いなんてお構いなしに、みんなの情報を蓄えているわけだもんなあ。
弱味を見せなきゃ足りないかな?
それだけなんだろうか。
もっと、こう、初めて夜も眠れなくなった日本のホラー映画みたいな恐ろしささえ”理解”しなきゃ足りないんだろうか。霊子ってやっぱり、そういう怪奇現象さえ起こせるのだし。
「ううん」
それこそ、ひとりで挑めることじゃなくない?
霊子との繋がり方、ね。
むずかしいなあ、どうも。
合わない物語、受け入れたくない音楽、私じゃ理解できない情報。
そういう諸々さえどうにかできないと”接続できない”なら、いまのままなにをどうやっても進展するまい。
だから、ひとりで抱えこむのはよくないんだ。
しょうがない。今夜はここまでにして、明日頼るために話を整理しておこ!
でもってぇ、そのまえに!
「ふたりは最近、どう?」
同じじゃなくて、重なっているようでも一致なんかしないし、できないから、私たちは話すし、聞くんだ。耳を傾けることを怠るほど、話してもらうことからも、聞いてもらうことからも遠ざかってしまう。
なにより、興味を失うほど、関係をはじめ、実に多くのことを失ってしまう。
そんなのさみしいからね!
もっと話をしようよ。私たち、三人で。
つづく!
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