第二千七百三十六話
お星さまが病室を包みこんでいく。
離れないでそばにいてくれる。キラリが私を見ている。
なにがあっても気にしないって言ってさ。
あふれでる星たちは、それぞれの欠片さえ掴み取れないくらい、あんまりたくさんあって壁から天井を流れている。ささやかな天の川。入り込まない星たちが図形を描く。そこにどんな星座を見ようかすこし悩む。
こんな病室を見渡していると、見たことのない景色に引っ張られていきそうな気持ちになる。
魂ひとりひとりの見聞きしてきたこと。その場で聴いた音さえ聞こえてきそうな気がする。
みんな私のそばにいる。離れることはないままに。
お互いにつらくていやになるくらいの距離感なのに、切り離せないまま。
もうとっくに重なって、お互いに大事な距離感になって久しくなってるんだ。
そうとわかっていても、帯刀男子さまが出たり、私の無茶と消耗でおばあちゃんになっちゃったりして、どうすればいいのかすぐさま悩んでしまう。
キラリの腕を抱き締めて、彼女に隣に座ってもらいながら星たちと見つめあう。
自分の願い星を私に通していくキラリには、星のひとつひとつから声が聞こえてくるらしい。
だけど私はちがうものが聞こえてる。
みんなそれぞれから歌声が、音が、メッセージが聞こえてくる。
私とキラリが産まれた頃の歌もあれば、ふたりが小学生になるちょっと前の歌もある。それよりずっと前、一九九○年代の曲も。たまに八○年代の曲も。
キラリが出した星は数えきれなくて、みんなの歌もまちまちすぎて。だからいっそ、年代でまとめて、プレイリストから私の歌える曲を歌うライブステージを開いた。小さくてささやかな場を設けたのだ。
「LOVE LOVE SHOW」にはじまり「樹海の糸」、「Give me a reason」。「ウィーアー!」で気持ちを変えて「1/2」、「1/3の純情な感情」、「微笑みの爆弾」、で「めざせポケモンマスター」。90年代後半で入って「さぁ」から「燃えてヒーロー」「愛をとりもどせ」「うしろゆびさされ組」「DangDang気になる」あたりへ。「会いたい」「夏祭り」から、年代を戻していく。
「月のしずく」「secret base ~君がくれたもの~」「プライマル」「焼け野が原」、「純恋歌」「ヘビーローテーション」「ソラニン」「トイレの神様」「家族になろうよ」。
だんだん興が乗ってくる。キラリがそばにいてくれて、私の味方でいてくれるというだけで不思議と無限に元気が出てくるんだ。
「Fight For Liberty」「wimp ft.Lil'Fang(from FAKY)」「オドループ」「ビリーバーズ・ハイ」。「Hello,world!」「光るなら」。
いろいろと歌う。歌って、歌って、たどりつく「真夏の通り雨」。
お母さんの世代の歌手。宇多田ヒカルさん。映画のエヴァの歌を担当してて、それで聴く。
きっと噛みあわなかった、結ばれなかっただれかを想う歌。
口ずさみながら、その頃には私に合わせて歌ってくれる星たちに思いを馳せる。
私には、この星たちにはどれほどの自由があるのだろう。
思いを向ける自由は。抱く自由は? 告げる自由は。
キラリが教えてくれた。
治せない病に苦しんでいるとき、治せないからといって、耐えるほかにないからって、なにもしないをする必要はない。我慢するしかないからって、なんでもかんでも無策に我慢しなきゃいけないわけじゃない。
薬をはじめ、いろんな療法で痛みを鎮痛・緩和・低減させていい。
その間の過ごし方を快適にしていい。
弱音を吐いても病は治らないだろうが、弱音を吐いて気持ちを言葉に出してすっきりすることはある。
魂たちは? 私は。
我慢も耐えるのも、もうそれだけですべてを諦めて途方に暮れていた。
でも、そんな必要なかった。
「ハッピーエンド」、back numberさんの歌を口ずさみながら「お別れの歌だなあ」と実感していると、いくつかの星たちが私の身体にくっついてきた。呼応するように声をあげてさ? 感情たっぷりでさ。
こどもたちの割りに本気で恋してる、そんな魂がいくつかあるみたいでさ。
どんな恋だったんだろう。どう思いが育ったんだろう。いろいろ考えていたら枯れていく、好きなまま消えていく身体や命の輪郭の切なさに居たたまれない気持ちになる。
「milk tea」に行き着いた頃、指もあったまっていて、ギターを弾いてみる。いつもよりも思いどおりにならない指に苦労しながらも、弾き語りができるくらいにはなっていてさ?
そのまま「花」とか「黒毛和牛上塩タン焼680円」とか。しっとり歌ってから、そのまま「君をさがしてた~New Jersey United~」を。言わないけど、キラリに向けてじっくりと歌う。
星たちを除外なんかしない。星たちだって、きみたちの一部。一員だ。
星のリクエストが入って、ゆったりしんみりと「いつかのメリークリスマス」。お父さんに教えてもらったことがある。付き合っているとき、告白する前なんかに好きな人とのカラオケで歌うと成就しないし別れるっていわくがあったこと。でも、ほんとはちがう。みんな、それくらいたくさん歌っていただけだったんだって。
すっかり明るくなってきた。なのに離れがたくて、キラリの腕を抱き締めたままで「なんでもないや」を歌う。たくさんの星が部屋中を埋め尽くしているくらいなのに、そのどれひとつとして私たちは読み取れずにいる。ただ、病による寒気に、私がお母さんにひっつくみたいに星たちが私やキラリにぴっとりくっついてくることがあった。
だれも自分のことはもちろん、願いがなにかも見つけられないままに、そばにいたいんだ。
病を治せないなら、入院するなんておかしい?
そんなことない。
私みたいに満足に生活できず、予断を許さない患者にとって入院は自分の生命線たり得る。
解決には至らない。
解決できない状況に耐えて、我慢していくしかない。
でもね? そこで手を尽くさない理由なんて、どこにもない。
ああ。ネガティブ・ケイパビリティ。
解決できない、答えのない事態に耐える力の中には次に備えたり、いまを楽にしたりする労力が含まれてる。
達成する術がない。だからもうだめ。無価値なんだと自分を諦めて、なんにもしないだなんて。
悲観が過ぎてる。
仕事がうまくいかなくたって私はご飯を食べて、たっぷり眠る。
趣味に耽ったり、しっかり休んだり、めいっぱい遊んだりする。
そうやって運の一番ちかいところで元気にやってるほうが、よっぽど「なにか閃くかも」。
そう。我慢するにせよ、耐えるにせよ、環境や関係性をよりよくしたっていい。依存のためのあらゆるものをよりよくしていっていい。手を尽くしていいし? 休んでいい。とことん休みまくっていい。
役立てなくてもいい。しくじった、あちゃー! でへこたれたっていい。
それはそれとして、いまを生きるためにしといたほうが楽そうなこと、すっきりすること、しといていい。弱音? 吐こう。いやな体験の愚痴? むかむか? 出しとこ。ぜんぶね。
それらは事態の解決をしないし、答えを出さないだろう。
構うものか。
そんなもののためにやってるんじゃねえんだ。
それでも続くいまを生きるのに、ちょっと楽になるならやっとこうかって話なんだよ。
ご飯を食べて、たっぷり寝てさ。元気でいるの。
ダンジョン飯でライオスがファリンを助けるために、三食食べて、ちゃんと眠っていける最速で向かっていた。そのほうがずっと本気だって訴えてた。
直ちに解決できなくたって、答えを出せなくたって、どっちもそんなのなくたって、それがなに?
それでも人生が続いていく。そんなことばかりじゃない。世の中は。
だったら我慢や耐えるで、いきなりぜんぶをほうり投げてどうするの。もったいない。
世界は思いどおりにならないものだから。
星たちを集めて、私の金色で盛りに盛って大きな猫のぬいぐるみに化かす。
鳥たちが朝の訪れを告げて鳴いている頃、キラリは欠伸をかみ殺して私を強く抱き締めてから「またすぐ来るね」と言って帰っていった。
キラリの匂いが残っているうちにぬいぐるみを抱き締めて、布団に潜り込む。
数多の星はぜんぶぬいぐるみに。キラリが忍び込む前にほぼ近い。ギターを戻すのを忘れてたことに気づいたけど、面倒くさくて置きっぱなしにした。
いろんな歌があって、いろんな反応を星たちが見せてくれた。
もしもここが天国だったなら「別の人の彼女になったよ」とか「Pretender」とか歌うのに。「マタアイマショウ」とか「Lovers Again」とかさ。「ソラニン」とかさ? 「Secret of my heart」とか?
冬が近づいてきているから「DEPARTURES」とか? 「One more time, One more chance」とか?
お父さんが好きなLUNA SEAで「Gravity」「Tonight」「Love Song」とか? なんかこの流れなんだよね。お父さんがカラオケで入れるとき、絶対さ。なんでじゃろ。
お母さんが好きな広瀬香美さんで「Search-Light」とか?
お母さんが歌うと、すごく安心する歌なんだ。
ぜったいに見つけてくれるし、見つけられるんだ。お母さんのこと。
なんかつよくそう思える曲なんだよね。
私に歌えるだろうか。
お母さんがハマって、私もすっかり好きになったCoccoさんとかはどうかな。
「ポロメリア」、「星に願いを」。
なにかを願い夢見るようなのに、同時に生皮を引きはがされるような経験をしていくような、そんな矛盾した現実と夢想の混じるいまを穏やかに豊かな響きの歌声で歌い上げる。
キラリがあれほど出してくれた星たちを凝縮したぬいぐるみに頬ずりをして、残った香りを頼りにしながら、心のどこかがふつふつと滾る。怒りとも憎悪ともつかないものたち。
私は別になにもできなくなったわけじゃない。
施されなきゃいけないわけじゃない。
ほっといてよ。
そんな衝動がやまほど湧き出て、いらいらしてたまらない。
身体中の消耗、お腹が空いてたまらない現状、運動も行動もまともにできないいま。
とんでもなくいらいらしている。
みんなに置き去りにされて、そばにもいけないで。
だれにとっても無駄な存在に堕していくように。
それならいっそ、みんなの日常の忙しさに埋めてしまってくれたらいい。
そんな風に苛立ちもする。
耐えられてない。答えも、望む結果も得られない、この状況に。
我慢できてない。
なんで?
そのためにあればいいものがひとつもないから。
たとえば無性に寒気が襲ってくることがあるとき、どうする?
厚着をするんだよ。エアコンで部屋をあたためたりしてさ。
それは環境として、気温が低く寒いことを解決しない。
だけど、その場所に留まりやすくはなる。
完璧ではないけどさ。手袋、マフラー、腹巻き、しっかりした靴とかも足したいし? なんなら屋外よりも屋内だし。防寒設備が整っているほどいいよね。
そういうことを足していく。
問題が起きたとき、問題そのものと、問題の影響とに分ける。
ユメたちぷちが転んだなら、転んだという問題と、転んだ影響がある。
影響にはしばしば、痛みやショック、ストレスなんかを計上する。
転んだことをどうこう言う前に、痛みやショック、ストレスに「びええ!」と号泣するぷちたちの、転んだ影響にフォローやケアが必要不可欠。
これはどんなに年齢を重ねても変わらないことだ。
問題の対処だけじゃない。問題の影響への対処がいるの。
問題そのものが「解決できる・できない」に分かれるし、「解決するには膨大な依存資本が必要になる」か「とても疲れる・面倒・たいへん」ということもある。できればいいってものじゃない。
ドラマ「チェルノブイリ」で原発の炉心部近く、屋上での作業が必要不可欠となるがロボットが使えなくて困ったとき、対策を命じられた博士は「人というロボットがいる」と言って、集められた軍人らに作業を指示した。当然、被爆は免れない。それだって事態の解決どころか、事態に対処するために必要な工程のなかの、たったひとつに過ぎない。
こうした判断のたびに、問いだけじゃなく、問いとなる現象の影響から逃れることはできない。博士はもちろん、軍部や上層部との橋渡し役についてきてくれている偉いおじいさんもチェルノブイリ原発から離れることを許されずにいた。
日本だと福島の原発を扱った作品が二点ほどあるけれど、おじさんお仕事ドラマにありがちな演出や脚色とみるかどうかで悩まされるけど、実際には淡々と遂行されるであろう悲惨な状況もあったのではないか。
世の中、答えがあるとはかぎらない。
解決できるともかぎらない。
どちらにしたって、影響は別に存在していて、それを無視していいことにはならない。
くさくさする気持ちに深呼吸を。
「ふううう」
キラリいわく私を通った星たちも、星を出す前も、私からいろんな声がしたそうだ。
だけど私に聞こえるのは歌ばかりだった。
その影響も私とキラリとでは異なる。
私が考えこんだり悩んじゃうのなら、キラリはいらいらしちゃったそうだ。
私を見舞った男性陣をやり玉に、ミナトくんや泉くんみたいに下半身で物事を考えるタイプにキレていたらしい。世の規準はヤれるかどうか、シコれるかどうかで、まずそれが大前提。そんなの気持ちが悪いという。
一切の否定なく、私も心の底から同意するし?
たいがいの嗜好品は、そういう規準さえ取り込むよなとも思ってる。
やけに煽情的なファッション。妙に性的ニュアンスを前提とした関係性。英雄譚においても女は人である前に母であり、娼婦であり、報酬”品”であり、依存労働のすべてを担う家政婦である。美しさ、性的魅力、ときには処女であることなんかも、男にとって魅力的なトロフィーの要件。
そういう”もの”であって、人であることは望まれない。
勝利、獲得した経緯をもって女は無償かつ無限の愛を与えるし、男がくすぐられる程度に求めることはあっても、手間をかけること、面倒であることなど、人であれば当たり前な事柄は一切、切り離される。
それって実際のところ、えっちな動画と扱いの要件とたいして変わらない。
そんなポルノ消費の問題と”分けて”、推し活をはじめ、いろいろ似たような「人の資本化・商品化」や「資本化・商品化をした他者を消費する文化」みたいなのってたくさんある。それぞれに問題がある。
それこそ「男が女を消費」は長い文脈がある。シュウさんがカナタを激詰めしていた「男同士のろくでもない闘争や強要、抑圧」みたいなのは別にあって、同じ問題じゃない。
でもねええええ。
言い方がむずかしいけど、私は私でポルノはポルノで触れてるしさ。
そこらへん潔癖でもなんでもない。
キラリには絶対に教えちゃいけないことだけど、ニチアサさえ即売会でえっちなの込みで薄い本のネタにされているしさ? 一大産業だよね。ポルノによる人の消費、商品化って。だからこそ長年「売春」として「女が身体を売る」表現ばかりして、「買春」として「男が女に性的行為をさせるべく買う」ことを透明化した表現ばかり続いている。お母さんたちいわくメディアは「援助交際」だ「パパ活」だなんだと言うことはあっても、未成年からはじまり「思いどおりにしやすい(場合によっては数十歳も年齢差のある)年下の少女」を買う、幅広い年齢層の男たちの問題を取り扱わずにきていた。
こんな具合にね?
長くて多い厄介な話がごまんと転がっているんだ。
一口で語れない。
加害・被害にかかる話題でもある。
すなわちね?
そもそも「語るのがとてもたいへん」なことがある。
仮にこれだとわかっていても、それ自体に問題がないとしても、十分とは言えない。
星たちが訴えた曲を私はいろいろと歌ってみせた。
それで?
どれだけのことがわかるだろうか。
曲名を並べてみせて、それでいったい、なにかが見えてくるのだろうか?
それはどの程度の情報量? 決して多くない。
だからたくさん歌ったけれど、残念ながら「解決するもの」じゃないし「答え」でもない。
ただ「こどもたちの問題によって生じる影響」には、アプローチできているかもしれない。
少なくとも「あれ歌って」「これが大事な曲だよ」っていうメッセージを受けとれている。
なにもないより、ずっとマシ。
そうでしょ?
解決だけに囚われちゃいけなかった。
問題があるとき、問題による影響がある。
問題の答えがあるとはかぎらず、解決できるとはかぎらない。
そういう事態に耐える力がいる。だけど、耐えるにしても我慢するにしても、なにもしちゃいけないわけじゃない。
いまみたいに参っている入院時、病院も検査も医者もなんにもないよりずっと、あったほうがいい。
解決できなくても、答えがなくても、現状とお付き合いする状況は変えようがない。そういうことってたくさんある。いまの私なんかもう、ねえ? 老化。消耗。敵がいる。先日の夜に敵の術をなんとかしたこと。その他もろもろ。
この状況で解決できず、答えもないまま生きていくとなると?
耐える力がいる。我慢するためのあらゆる依存が。
できるかぎり楽にしていい。快適にしていい。耐えるにせよ、我慢するにせよ、できるかぎり負荷を低減・緩和していっていい。むしろ、それがすごく大事。
解決できないなら、もうすべてに意味がないみたいなこと言いだしたり考えたりする人いるけど、生活を舐めちゃいけない。
そんなんじゃ生きるのしんどくなるばかりだ。
ありったけのものを集めて、楽してなんぼだよ?
愚痴も吐く! 弱音も言う!
意思疎通できるようにするし? なんの役にも立たないお休みを取ったりする。
解決できないから、もうすべて無駄って、それこそ足の小指をなにかにぶつけて痛がるとき、もうそれだけでなにもしなくなるようなもの。美術の授業で好きな絵の具の色がなくなったら、もう一切、絵なんかやらないっていうようなもの。体育の授業でうんざりしたから、もう二度と運動なんかしないって決めちゃう感じだ。そんな、もったいない。
猫のぬいぐるみを抱き締めながら額を擦りつける。
鼻歌を口ずさみながら眠気と格闘する。
ひとつの星から、一曲ずつ。
夜通し歌っても、聞き届けられた数は多くない。
みんな、とても一曲じゃ足りないはずだ。
別の星のリクエストなのに、妙に響く星だっていた。
答えはわからない。なにも解決しない。
だけど、一曲がいろんな刺激を与えてくれる。
歌うほどお互いに刺激しあってやりとりする感情は、無駄じゃない。
勘違いしていた。
耐えるにしたって、我慢するにしたって、地獄で刑罰を受けるような、そんなつらい目にすることない。天国修行でのんびりまったりしていたときとか、カナタとふたりで旅行にいったときとか、そういうリラックスタイムにしていいんだ。
逆に言えば、それってやれることがとことんありすぎるし? 依存できるものの数が露骨に人生を変えてしまいすぎる。でも、だからこそ何度でも確認する。
耐えるだけ、我慢するだけで消耗するような状態でいちゃいけない。
むしろ回復したり、やる気が出たりしたほうがいいし? そういうのなくても、つらくなることが一切ない状態にしたほうがいい。
学校や仕事に行けなくても、自分を追いつめて苦しくなっちゃわないような、そういう日々にしたほうがずっといい。
それが未来ちゃんや結ちゃんが教えてくれた本にあった「安全基地」や「安心」の確保なんだ。
自分がどんなになっても「だいじょうぶ」って思える依存の源になるんだ。
だれも責めを抱えながら、責めながら生きていけないんだ。
そんなのつらすぎるから。いつかどこかで限界がきちゃう。
ふたをするにしたって、限度ってものがあるぞ?
私は限界も限度も超えてる。じゃなきゃあ、ここまで変な状態にならないよね。老化て。
まどろんで、寝て、起きて。ご飯を食べて、寝て起きて、気づけばまた寝て。
見方次第じゃ入院生活を満喫しているかのようだけど、体力はちっとも戻らないし、出されるご飯はおかゆラッシュなので、気持ち的にめげている。
おいしいご飯に戻るには? ある程度の健康がいる!
それはいますぐ解決できそう?
たぶん、むり。
なら、どう乗りきる? この状況をどう耐えよう。どう我慢しよう?
別に耐えるにしたって我慢するにしたって、ばか正直に、生真面目に「なにもするな」ってことじゃない。検査に顔を出した先生に質問をぶつけると「すりおろしリンゴとか、プリンやヨーグルトみたいなものならいいよ」と教えてくれた。要するに消化によくて、味を楽しめる選択肢は他にもあったのだ。
あれこれ確認すると胃に負担がかかるものは、まず戻してしまうだろうとのことだった。消化に手間取るもの、脂っこいものは避ける。固い食べ物もよくない。ビタミン群はおすすめ。だけど香辛料が効いているものや、塩気の強すぎるものは負荷があるし刺激もあるしで、避けるべし。
ちょっとした運動ならあり。ストレッチするくらいならよし。
ほら。
なにもできない、おかゆを我慢して食べなきゃいけないっていうより、よっぽどマシになった。
キラリたちが来るまで、まだよっぽど時間がある。
ぬいぐるみを抱いて、中につまった星を解放する。
昼間の日差しに消えない光の川を天井に浮かべて、お父さんがお母さんとふたりで、たまに歌ってた曲を口ずさむことにした。
「星のかけらを探しに行こう」
Again、なんだよね。
曲名がさ。
十年、いや十一年も前の歌。
それほど前の歌なのに、天井に浮かべた星たちが七色に瞬く。
知ってるよって訴えるように。
元々の歌があったと、そう訴える星もいた。
あれ?
そう聞こえたわけじゃないのに、なんだろう。
なにかを訴えているって、それがどういうことなのか感じてる。
変なの。
「――……」
鼻歌を口ずさむと星たちも瞬いて歌う。
全員じゃない。知ってる知らないだけじゃなくて、好き嫌いとか、盛りあがる落ち着くとか、いろんなメッセージを放っている。生憎、それらを感じとることまではできないみたい。
あっという間に歌いきって、お父さんが持ってるCDのカップリングを思い出す。
スガシカオ作詞作曲、Happy Birthday。
タイトルが浮かんだとたんに激しく反応する星がいくつもあった。
だけど、ありふれたお祝いの歌ほど華やかな歌じゃない。
人生に疲れてすれて、捻くれて、押し潰されてしまいそうな人の精いっぱいの呼びかけ。ひとりぼっちのお願いごと。そういう歌だ。
いまはもうそばにはいない、いられないだれかに向けたお祝い。
きっと届かない。伝えられることのない、お祝い。
それは解決とも、答えともほど遠いものだ。
祈りに似てる、お願いごと。
耐えながら、我慢しながら作り上げる、精いっぱい。
そういうお祝いって、いまの私たちに、星たちにきっと似合いのメッセージ。
「――……」
先ほどよりも天井の星の川が煌めいた。
空から降る雪が日の光を浴びて吐かなく主張しつづけるように、きらりきらりと。
私に注ぎ込まれてから十年近く、おめでとうを言われていない魂たちが大勢あつまっている。
おめでとうどころじゃない、そんな経緯を生きた魂も大勢いるだろう。
でもね。そのままじゃさみしいし、私たちは長く一緒にやってきたわりに儀式をおざなりにしすぎたでしょ?
だったら今後、いっしょにやっていくことを踏まえて、ちゃんとしておきたいじゃない?
それにさ。
”あなたたちも、伝えたいおめでとうがあるよね”、きっと。
おめでとうだけじゃない、よね。
キラリたちを遊びに誘うだけじゃ足りない。
あなたたちと、一緒に生きていくことをもっとちゃんと覚えなきゃね。
歌い終わるのに、もう一度とのんびり屋の星たちが瞬くから、今度はギターを出して弾きがたっちゃおう。何度でも、いくらでも。
曲一曲でわかりあえたらいいけれど、そんなの夢のまた夢だ。
そんなのが解決や答えにならないからって、私たちが歌わない理由にはならない。
思いがあふれてくるんだから。
ふたの隙間から出てきて、百を語るより雄弁に光るのだから。
それさえ答えや解決にはほど遠いのだけど、いいよね。
私たち、たしかにいま、なにかを一緒に感じ合えているから。
そのうえで穏やかにいられるから、いいよね。
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
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