第二千七百二十一話
聞く。あるいは、聞いてもらう。
それもある種の生き方の表現だ。
テレビ局キャスターの阿川佐和子さんが「聞く力 心をひらく35のヒント」という本を文春新書から出している。この本はお母さんの本棚にあってね? お母さんいわく、阿川さんといえば筑紫哲也のNEWS23に長らく出演していたこと。ちなみに筑紫哲也さんというと舌鋒鋭く政治経済、世界情勢ふくめたすべてに適切な批判を行うキャスター。批判的な姿勢は報道に欠かせない資質だし? 報道を扱う局に欠かせない存在でもある。
阿川さんは、こちらの本で「聞く」についてご自身の体験を踏まえていろいろ述べているのだけど、まず冒頭に触れる。
金色本を宙に浮かべて、彼女の本の内容を表示しながら、もそもそとサンドイッチを食べた。
咀嚼でアゴが疲れるって、なかなか新鮮な体験だ。
『「聞く」という作業は、何も私のように生業にしなくとも、誰もが一日に何度となく、まるで呼吸をするごとく、自然に行っていることだと思います』
『道を聞く。値段を聞く。抗議を聴く。お喋りを聞く。愚痴を聞く。自慢話を聞く。いい加減に聞く。熱心に聞く。迷惑そうに聞く……』
『聞き方にもいろいろな種類があります』
『同じ話を同じ場所で聞いたはずなのに、一緒にいた人と、その後、記憶に残っている言葉がまったく異なることもあります』
さらには。
『どの言葉が脳みそに納められるのか、聞き手によってあまりにも違っているので、驚かされることがあります。でもそこが「聞く」ことの面白みであって、だから人は聞き続けるのだと思います』
『同じ話も新しい話も、可笑しい話も感動的な話も、人に話を聞くことっで、自分の心をときめかせたいのです。素直な気持で好奇心の赴くまま人の話を聞いたとき、聞き手は自分の記憶や気持をそこに重ね合わせ、必ず何かを感じ取るはずです。そして、聞かれた側もまた、語りながら改めて自分の頭を整理して、忘れかけていた抽斗を開け、思いも寄らぬ発見をするかもしれません』
相談している間に自分の求めていた答えを閃いたり、強く実感したりすることって実際によくあることだ。
『そういえば、あの上司の話は必ず長くなるから、いつも適当に聞き流していたけれど、明日は少し我慢して耳を傾けてやるかな。あるいは、おばあちゃんの昔話は毎回、同じだから「ああ、聞いた、聞いた、その話」と遮って敬遠していたけれど、たまにはゆっくり聞いてあげようかな』
そう思った人はどうぞ次のページを、と促してから、エッセイ連載、対談連載や番組出演時の経験を織り交ぜて「話し上手の人、聞き上手の人」と接した経験を総括するのだ。
そして聞き上手の人との対談時をふり返り、その人のやり方をよく分析してみた。するとね?
『ただひたすら、「そう」「それで?」「面白いねえ」「どうして?」「それから?」と、ほんの一言を挟むだけで、あとはニコニコ楽しそうに、私の世にもくだらない家庭内の愚痴を、穏やかな温かい氷上で聞き続けてくださったのです』
と考えるにいたる。
そのうえで、合点するのだ。
『聞き上手というのは、必ずしもデーブ・スペクターさんのようにビシバシ切り込んでいくことだけではないのかもしれない』
『相手が「この人に語りたい」と思うような聞き手になればいいのではないか』
『こんなに自分の話を面白そうに聞いてくれるなら、もっと話しちゃおうかな。あの話もしちゃおうかな。そういう聞き手になろう』
そう思い立つのだ。
話しっぱなしの男性の相手をするときのやり方がある。揶揄する意味もあるだろう。
女のさしすせそ。
さすが! 知らなかったぁ! すごぉい! センスいいっ! そうなんだ? と、表情・声色・仕草の演技をして受けてみせる「聞き方」である。ちょいちょい、激しく燃えているネタでもある。
相手が演技をしているのだと踏まえて、それでも話す人もいるし? 気づかずにご機嫌になる人もいる。それくらい「聞いてもらう」ことに飢えている人は多い。
この演技をしながら、さして興味も持てない話を聞き流すのはつらい。時間をひたすら消費するだけだしさ。そもそも相手に一切の興味がないときは苦痛でたまらない。それなのに演技に徹するなんて、非常にくたびれるし? 阿川さんが言う聞き上手の人の態度や表現とは大いに異なるはずだ。
結局のところ、興味の有無は大きい。
たとえば、お父さんのゴルフや釣りの話を私たち家族はしばしば聞き流す。お父さんに興味がないんじゃなくて、ゴルフや釣りに興味がないから。あー、うん、へえ、そうなんだって、ろくに感情もない生返事をして聞き流してる。
さっき引用した上司の長話や、何度も繰り返し聞いてきた祖父母の話に対する態度とさして変わらない。
そういう「聞く」にまつわる表現は実際のところ、相手にめちゃくちゃよく伝わっている。相手がそれを受けとるかどうか、行動変容に利用するかどうかは別にしてね。
なので、手段だけを模倣しても、お互いに空しい。
聞き上手になるには一定の興味や、自然な関心がいるのだろう。
興味や関心における正のベクトルが一層だけ存在する、みたいな態度にはなかなかなれないこともある。どうにも興味が持てない教科、呪文のように唱えられる眠たくて平板な先生の語りが組み合わさると? 聞くっていうよりも、聞き流すって感じになるよね。どうしてもさ。
ただ、阿川さんが並べた、あらゆる聞くを含めるなら? いい加減に聞いたり、適当な生返事で流されたりするだけの聞くまで含めるなら、私の考える「私たちは聞くこと、聞いてもらうことがろくにない」というのは? ずれてることになる。
このずれはなんだ。
どこからくるんだろ?
問いを立てて考えてみるとさ。
私にとっての「聞く」はなにを指すのかって話になるじゃない?
繰り返しになるよりも、阿川さんの記述に添って述べるなら「聞き上手の人の「聞く」」だ。
ああ、この人ならなんでも話せるなあ。聞いてもらえるなあ。そう安心してもらえるような「聞く」である。真に受けることだ。
東畑開人「聞く技術 聞いてもらう技術」ちくま新書、2022年においても「聞く」について触れている。
『「聞く」は語られていることを言葉通りに受け止めること、「聴く」は語られていることの裏にある気持ちに触れること』
『どう考えたって、「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい』
この展開が心地いい。
『「なんで?」と思われるかもしれません』
『でもね、「話を聞いてくれない」とは言うけれど、「話を聴いてくれない」と書くと違和感があると思いませんか? 「聞けない」ことはよくあるけど、「聴けない」というのはすごくレアな例です(イヤホンが壊れたときくらいですかね)』
『つまり、「なんでちゃんとキいてくれないの?」とか「ちょっとはキいてくれよ!」と言われるとき、求められているのは「聴く」ではなく「聞く」なのです』
『そのとき、相手は心の奥底にある気持ちを知ってほしいのではなく、ちゃんと言葉にしているのだから、とりあえずそれだけでも受け取ってほしいと願っています』
『言っていることを真に受けてほしい。それが「ちゃんと聞いて」という訴えの内実です』
自分より学校で人気の人から、こっそりと「ふたりきりで話したい、大事なことがある」といって校舎裏に呼ばれたら? 私たちはそれを真に受けるかな?
さしてクラスに溶け込んでいるわけでも、人気があるわけでもなく、むしろビリから数えたほうが早いくらいだったときには警戒するよね。ろくでもないドッキリなのでは? って。
みんなで行動しているときに「お前さ、そういうのどうかと思うよ」って急に言われたとき、だれもかれもが真に受けるかな? それよりも「そういうお前はどうなんだよ」とか「うっせ」とか、聞き流したり言い返したりして、真に受けないようにするよね。
音として耳に入ってくることはあっても、その内容をそっくりそのまま真に受けるのは?
実は案外、とびきりむずかしい。
『「聴く」よりも「聞く」のほうが難しい』
『心の奥底に触れるよりも、懸命に訴えられていることをそのまま受けとるほうがずっと難しい』
対話だなんだというけれど、そもそも会話が成り立っていない。
みんな自分の話をぶつけるばかりで、だれもまともに「聞く」ことをしない。
おじさんとおじいちゃんだらけの日曜討論、なにかの折にたまたま見かけたことが何度かあるけれど、実際だれもまともに「聞く」をしてない。
それならいっそ、アナザーなスカイとか、相席食堂でゆったりペースで相手の話をふんふん聴いちゃうゲストさんとかのほうが、まだよっぽど「聞く」をしてる。むしろロケに手慣れて”こなす”感じのある人ほど「聞く」じゃなくて、情報を引き出して自分の話すに利用している印象があるし? ロケのバケモノみたいに言われるすごすごな人は、どんな人が相手でも「聞く」を徹底的にやってる印象がある。
でもさー。
実際、むずかしい。
私たちはほんと、とことん、真に受けない。真に受けようとしない。
阿川さんの言う「聞き上手」の、実際の境目ってまさにこの「真に受ける」かどうかにかかっている気がする。
トシさん行きつけのお店で、おじさんたちがたまにキャバクラだなんだの愚痴を言っていることがあるけれど、仕事で「聞く」とき、「真に受ける」かっていったら? たぶん、やりたくないかな。お金をもらっていようがなにしようが、もうね。無理だ。
ただ、たぶんだけど「真に受ける」ひいては「興味・関心をもってもらえる」ことに、私たちは飢えているのではないか。
なかには、あんまり経験がないものだから「相手が「聞く」をしている・いないに関わらず話し続ける」という、情報をひたすら投げつけてくるモンスターみたいになっちゃってる人もしばしばいる。
トシさん行きつけのお店についていくとき、迂闊にふらふら歩くと捕まって聞いてもいない趣味の話とか、音楽の話とか、近所のうまい店の話とか、さんざんされたことがあってさ? お店のお姉さんに何度も助けてもらったよ。
相手の「聞く」をなんとしてでも引き出そうとしているのかな。それか、相手がなにも言えずにはいはいふんふんいわせる状態を作ってでも、なんとしてでも「話したい」のかな。実は「話したい」の奥に「真に受ける」ひいては「興味・関心をもってもらえる」ことに飢えていて、欲する気持ちが隠れているんじゃないのかな?
阿川さんが率直に述べているのだけど、たぶん生業でインタビューをしていても、この「真に受ける」のは相当にむずかしいことなのでは?
それにそもそも、世にある話を「真に受ける」まんまだと、生きるのそうとうたいへんでは?
いや、ちがうか。
それは「判断する」「評価する」「信じる」「自分の価値に取り入れる」まで想定するからだ。
ただただ「そのまま受けとる」だけを指すのならどう?
いやでも、やっぱりむずかしいな。
もしも明日、検査結果をお医者さんが教えてくれるっていうときに「実は」と暗い顔で持ち出してきたら? 私はなんとしてでも真に受けないように身構えるだろう。
聞きたくない。
付き合いたくない。
興味もなければ関心もない。
そういう話もいっぱいあるし?
そのまま受けとるだけが、もうめちゃくちゃしんどかったり、いやだったり、痛くなるような話もいっぱいあるもの。
なのに「聞く」の。できる? やれてる?
私は無理だ。
申し訳ないけど、自分がやらないスポーツや趣味の話をウキウキとされても「はあ」としか思えない。話者がお父さんでも無理。なんなら、カナタのそばの話も同じカテゴリだ。
阿川さんが上司の長話やおばあちゃんの昔話に、今度は付き合ってやろう! と意気込むような記述をしているけれど、あるよね。調子や体験によって、もうちょっと「聞く」をやってみようと思うこと。
でも、じゃあ、いつもやってる?
やってない。
大事な話って、なにげない話をちゃんと「聞く」をしてくれる人にしかできない。
そうでしょ? なにげない話もちゃんと「聞く」人じゃなきゃ、大事な話なんてできないよ。したくないもの。
なので、気持ちを「聞く」をちゃんとしてくれるだれかに飢えている。
たぶん、そんな人は多いんじゃないかな。
だからなのか、性虐待や加害者のなかには「聞く」振りをする人も多い。
加害を狙う相手に、自分を売り込むのだ。
私はあなたのことを「真に受ける」ひいては「興味・関心をもつ」人だよ、と。
そう信じてもらえたら? ガードが緩まる。
未成年への性加害で、この手口を使っている成人は一定数存在するし? 未成年にかぎらない。カルトやマルチの勧誘でも、この「聞く」飢えを満たすアプローチは多い。
なんなら政治家にもいる。私はみなさんの意見を、要望を「聞く」! と。もちろん聞かない。
未来ちゃんに教えてもらった話のなかに、病院の口コミに「医者が話を聞いてくれない」と投稿されることがしばしばあるという。実際に医者は症状や状況の確認を行うのであって、患者の話を聞くわけじゃないから、そりゃあそうだろうという話にもなるものの! 実際に医師の側にも、これについては議論がなされる領域なのだそう。心療内科や精神科にかぎらずね。みすず書房や医学書院の書籍を見渡したら見つかりそうだ。
それくらい「聞く」はむずかしいし、当たり前じゃない。
ラインをあげているからという話もある!
みんなが「ふうん」と聞き流すんでも「話す」からいいじゃない? として、まるで「歌う」だけをやるカラオケみたいになってるケースもありそうだ。話すだけで、だれもまともに聞かない。
でも、それくらい「聞く」はむずかしい。
だれにもできるものじゃないし? だれもが経験できるものでもない。
ただ、阿川さんが著書で触れているんだけどさ。「森の名人にインタビュー!」と題して、高校生たち相手にインタビューを教える授業をしたことがあるそうだ。
ひとりの高校生が林業をしているおじいちゃんの取材をしたなかで、取材相手のおじいちゃんがね? 家族だなんだにも、こんなに興味をもってあれこれ聞いてもらったことはないって、面映ゆい表情で語ってくれたそう。
「聞く」のはむずかしいけれど「興味・関心がある」なら、案外、自然にできちゃいそうだ。
高校生は最初、なかなか質問できなかったそう。そりゃあ縁のなかったおじいちゃんに、なにをどう聞いたものか困っちゃうよね。でも、おじいちゃんが心配になっていろいろ話すうちに、あれこれ聞いてくれるようになって、それからどんどん話が膨らんだそう。
実のところコミュニケーション能力の巧拙も、あんまり関係ないんじゃないかな。
言語がちがうとしたって行なえることなんじゃないかな?
だからって、あれだよ?
だれもができるなんて言わないよ?
相変わらずむずかしいままだと思うよ?
ただね?
不透明な「できない」「むずかしい」んじゃなくて「興味・関心がある」ことが、ひとつの鍵になるんじゃないのかな? って思うんだ。
「ううん」
共感するとか、相手の立場や状況を理解しようとするとか、そういうのは別にして。
頭の中で思い描いて、話を詳細に理解しようとするのも、いったん置いといて。
信じる信じないとか、それ以前の段階として。
ただただ、相手の話をそのまま受けとる。
これができるかどうか。
やりたいかどうか。
なんなら、そのためにどんな表現をするのか。
「あめ玉、なのかなあ」
いっそ歌や映画になってくれたらいいな。
そしたらただただ「聞く」ことに夢中になれるのに。
いや、たいへんか?
歌も映画も、かなりの人数が加わって、あれこれ時間をかけてなんとか作ってるのに。
それを私ひとりで、ひとつの術だけでできるかってんだ。
「聞くのはむずかしいね」
小楠ちゃん先輩が舐めちゃったみたいで、あめ玉はもう残っていない。
感想も聞いてないし、スマホを確認する体力もない。
指を動かすだけで前腕の筋がびきびきと張って痛む。金色を撫でるのもままならず、サンドイッチを食べるのだけで四苦八苦。
今回はかなり、ぎりぎりの生存だったのではないか。
そう痛感するのに十分すぎる消耗ぶりだ。
無理して元気を取り戻そうとしたけど、それにも限度はあるわけで。
病は気からの気の部分を、気合いでなんとか補ったとて! 病や消耗が消えるわけではないわけで!
こんな状態でも闘志を燃やして「あいつ(ら)をぶっとばす」と決めていて、そのためにも「あいつ(ら)をよく知ってからぶっとばす!」予定だからこそ、ちゃんと「聞きたい」のに。
いつもなにかが足りない。
足りないなりにやれる体力さえ、いまはもうない。
休まなきゃならないのである。
「ううん」
聞くのに飢えるほど、どうにかして「真に受ける」よう、「興味・関心」を得ようとする気がしてる。
その発露は種々様々あれど動物の発達の流れでいくなら声をあげる、ことばにするので無理なら、動作や干渉に移る気がする。それが攻撃になるケースさえあるのではないか、と私は予測している。
ぷちたちがたまに、泣いて寝転がってごろごろする。あれはまだましで、なにも言わずにひっついて離れなくなったり、強く殴ったり蹴ったりしてくることもある。力加減をまだ知らなくて、正直かなり痛いんだ。あれは。
それくらいたまっているんだと思うんだ。「真に受けてほしい」「そのまま受けとめてほしい」、もっと「興味・関心」をもってほしいなにかを。どうにもできないなにかを。
もちろん、その気持ちで行為を正当化・責任転嫁はできないんだよ?
ただ、いけないだけを押しつけるようだと、足りないんだ。
気持ちを受けとめてもらう、ただちゃんと真に受けてもらえるっていう経験ができないままなんだ。
それだとさ?
飢餓に喘ぐなかで、窃盗をせずにいるよう求められるようなもの。支援もケアもフォローもなにもないままだ。それぞれの人の食を確保する術も、やり方も、サポートの得方もなんにもないまま。
困窮する初心者をきつく叱りつけておしまい。
それじゃだめでしょ。
そんなの望んでたら、みんなで不幸になってくようなもんでしょ?
そんなおとなだらけになったら、こどももおとなも初心者から上級者まで、だれもかれもがしんどいでしょ。みんな老いるのに。いつ病んでも、怪我してもおかしくないのにさ。現実的じゃないでしょ?
じゃあさ。
どうしたい?
問われてるなあ。
じゃあ、まあ、答えていくか。
とりあえず自分の訴えを、ちゃんと認めるところからやっていこう。
ああ! こええ! 明日がこわくてたまらねえ!
太るのもこええ! こわくてたまらねえ!
あーあ! カロリーがこわくてたまらなくて、食が進んじゃうなあ!
つづく!
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