第二千七百二十話
当たり前だけど、どんな気持ちも話もメッセージも受けとめられるとはかぎらない。
相手ありき。聞くありき。
となれば?
「わあ。それは若さゆえの勢い? そういうのに乗っかれるほど、私は強くないんだぞぉ?」
車椅子に添えた手で背もたれをぺたぺた叩かれた。
だめだー! 私がエモいだけじゃあ! それって私が酔ってるだけのやつぅ!
「くすぐられる誘いをありがと」
彼女の返しになんて答えるのか迷うあいだに名前を呼ばれた。
次の検査へ。怒濤の勢いで消化していくなかで、すっかり疲れてしまった私は病室に戻る頃にはすっかり汗だくに。トウヤがコバトちゃん、ふたりの狼少女と見舞いに来てくれていた。お見舞い終了時間間際なのに粘って待っていたらしい。申し訳ないけどコバトちゃんたち三人に頼んで汗拭きシートで身体を軽く拭いてから、なに恥ずかしがってんだか知らないトウヤを病室に呼び戻して近況の確認。
心配してずっと様子がおかしかったというコバトちゃんの告げ口にトウヤがむすっとしながら斜に構えていた。どうした。中学生になって、俺はもうガキじゃねえ、本音なんかいわねえ、かっけえぜって? ださいし、表現するために自分を掴むのが下手になるばかりだから、いますぐやめたほうがいい。
言ったら揉めるんだよなあ。たぶん。
こういうの「聞きたくない」し「話されたくない」。とりわけ、気になってる子がそばにいるときは。
お母さんの出産も近づいてきている。お父さんはそわそわしている。
三十代での妊娠は二十代よりもリスクが増す。これは男性、女性どちらにも要因があると聞く。
ゲゲゲの謎で地元のドンみたいなおじいが、ヒロインみたいな少女に手をつけていた。犯罪で問題があることは言うまでもない。その加害性もね。それとは別に、高齢男性だけにいろんなリスクが高まっている可能性が高い。それゆえに何重にも女性に加害的。しかも相手は未成年の頃から強姦されていたとあれば、悲惨だ。
だいじょうぶか。
お姉ちゃんみたいなことにならないか。
本当にいろんな要因がかかる。残酷な結果をもたらすことも多い。
なのに私がこれだから、お母さんはだいじょうぶか。
気になる。
日々、メンタルを試される。
そのために表現も困難になる。
言うこと。
話すこと。
なにかの形にしたり、動作にしたりすること。
そうした困難に向けたクッションもあるよ?
聞くこと。
受けとめてもらうこと。
ただただ、そのまま、ありのままをね。
評価も判断も、答え探しも助言も一切なく。
ただ、ありのまま。
こうして考えてみるとさ。
表現がなんでむずかしいのか。
その答えってさ。
聞くこと、その先に述べたあらゆることが枷になるからじゃない?
答えのすべてではないにせよ、けっこうな比率を持つのでは。
発して、受ける。このふたつをセットと考えがちだけど、そんなことはない。主体者がそれぞれに異なるからさ? セットになるとはかぎらない。
トウヤたちがいろいろ話してくれるんだけど、疲れが勝ってまともに相づちを打てないうちに面会時間が終わってしまった。差し入れを置いて帰る四人を見送り、運ばれてきた病院食をやっとの思いで食べて、ハミガキをする気力も戻らないうちに寝る。
真夜中に起きて、ぼさぼさの髪もそのままにハミガキを試みる。
身体にまともに力が入らない。手をベッドに置いて身体を傾けた途端、腕にかかった体重が激痛になって襲いかかる。
「ふぬおおおひいいいはひいいい」
びくびく身悶えそうだけど、必死に堪えて元の姿勢に戻った。
全身にじわりと汗を掻く。呼吸が浅く、このところ頻繁になる耳鳴り再来。
おいおいおぉい。
しゃれにならないぞぉ?
切った張ったじゃなければ、術ならいけると思っていたのにな。
無茶をしたら術でも死にかねないか。
ミコさんの身内が太古の昔、天災をなだめるために命を捧げたという。彼女も御珠を宿した存在だったそうだけど、だったら私のように無茶な術を使ったのかも?
なんにせよ、私は自分の身体を消耗しきるほどの術を使ったわけだ。どうせなら使っている最中にじわじわと老化するくらいの変化があったらいいのに。終わってから一気にくるってなんだ? わかりづらいぞ! って、身体の現象に怒ってもしょうがない。お腹が地獄の苦しみに苛まれるたびに何度もキレてきたし、なにげなく転んだときや突き指したときだって理不尽に怒っていた。
そういう表現の発信が、なにかに受信されるかって? ないない。私の耳に私の声が、私の情緒的反応つまるところ怒りだなんだを私が感じるだけ。周囲にお母さんとか、みんながいたとして、みんなが「おお、よしよし」としてくれるか。してくれない。したとて! 表現の発信に過ぎず、痛みは消えないのであった。
おー。
やるせなーい。
でも大事ぃー。
そんなところで嘘ついてもなんにもならないからね!
表現する、外に発することは、それを受けとめてもらうことを前提にしない。
別のことだ。完全にね。
だから「受けとめてもらえない」なら「外に発してはいけない」なんてことはない。
一切ない。
「だれも受けとめない・求めない」から「外に発するべきじゃない」なんてこともない。
ぜんぜんない。
独立して存在するんだよね。
表現するっていうのはさ。まず表現が先にある。まず生きているように。
それとおんなじくらい、表現するのと別にして、放たれたものをだれがどのように受けるのか、感じるのか、考えるのか、それらをどのように表現するのかは? あらゆる周囲の人たちがそれぞれに、その瞬間ごとに決めるものだ。
ラグビーではノーサイドっていう。試合が終わったら、そこで試合終了じゃなくて、ノーサイドっていうそうだ。そうやって「敵味方、なし! おしまい」って区切るのだそう。
このノーサイドっていいなって思ったとして、じゃああらゆることに適用するかっていうと? そこは人によるわけじゃん?
体育で竹刀を手に組み手をして、それが終わってノーサイドになるかっていったら? なる人もいれば、ならない人もいる。
うちではぷちたちとお父さんやトウヤが対人ゲームをよくやるけれど、あれも同じ。ノーサイドになるかどうかは別。ずっと引きずる子もいる。
呆れた話だけど、加害や犯罪、政治家の不正だなんだも「裁判が済めば」「示談にすれば」「選挙が終われば」、それでノーサイドになるって勘違いしている人もいる。
もちろんちがうし? 最後の呆れた話に関しちゃ事実はずっと残るよ。過失も当然残る。消えるわけがない。刑務所に入って刑期を終えても罪がなくなるわけじゃなし。示談は当時者間の法的手続きによるものであって、それ以外のものではない。これまた罪は消えない。過失の事実もね。政治面でそんなのまかりとおったら、世界中の独裁政権の悪行なんか漂白されつづけるでしょ。あり得ない! お金をちょろまかしたことだって永遠に記録されるべきだ。
でも、ノーサイドの考えを、その内訳も個々人に異なりながらも聞いて、それをどのように表現するかは? 結局やっぱり個々人による。呆れた話に出した事例のように勘違いをする人だって出てくるし? 勘違いじゃないと知りながら、事実にしようと加害に勤しむ者もいる。
なにをどう受けて、どう発するか。
その都度、問われている。
フランクルの言うところの、どう生きるのか、なにを望み実現したいのか、具体的な行動によってのみ私たちは答えていく。
言い換えると、あらゆる表現が私たちの答えになっている。
怖くなったり、恐れたり。恨んだり妬んだり。そういう感情も、あるいは情緒的・身体的反応さえも、私たち自身に表現を通じて訴えてきていると言えるし?
それを受けることを怠れば、情緒的・身体的反応を読み取ることが不得手になっていく。
自分がなにを不快に感じて、なにがつらさの引き金になっていて、身体と情緒それぞれになにが必要なのかを読み取る力が育たないし、衰えていってしまう。
だからトウヤには素直でいろって思うのだけど。
あいつに言えるほど私はちゃんとやれてるのかっていったら? 無理! 下手くそ!
考えないようにしすぎる。
いやなこと、つらいこと。本当に無理なことは。
そのぶん、別の考えられること、感じられること、やれることや言えることを並べてごまかす。
そういう癖がある。
あるいは、そう発達してきたとも言えるし? これが私のいまの特性とも言える。
その癖が発動しているときは、極端に怖がり、びびりまくる。身体や心の一部を使わないようにして、全身全霊でやったほうがいいことをやるようなものだ。自ら課したハンデが強力な負荷になってしまう。
そりゃあ、ねえ?
疲れちゃうよね!
未来ちゃんから教えてもらったけどさ。未来ちゃんは日常で呼吸がしづらくなったり、身体が力んだりしやすいそうだ。家の中でも外でも。それって、上級者が疲れない横で初心者が汗だくでまともに動けなくなるような、そういう疲れるようなつらい運動をしてるってことでもあるそう。
そりゃあ、ねえ?
参っちゃうよね!
なにをどう受けとるのか。どう感じて、どう考えるのか。
情緒的・身体的反応を自分で決めることはできない。
なにせ、ほら。脳の働きなんだもの。
私たちは遅れて、それをどうするか選ぶしかない。
でもさ?
言い換えたら、どんな負荷でさえ、どう表現したっていいんだ。
いやなことはいやだって言っていいし、手を替え品を替え表現したっていい。
怒りや嫌悪や憎悪でさえ、それを思うままに表現したっていい。
メンタルが弱い? ならそれもね!
あのクソ野郎に霊子を盗まれた? それだって、どう表現したって構わない。
じゃあ、私たちはだれをどう傷つけたっていいし、それを望む表現をしたって構わない?
そんなの私は望まない。そんな風に生きたくないし、そんな風に生きたい人のそばにはいたくない。
じゃあ、どんな風に生きたいし、どんな風に生きる人といたい?
そういう問いに展開できて、表現できるしさ?
この問いの単純さよ! 足りなさ、未熟さ、未完成で万能とも完璧ともほど遠い欠け具合よ!
そ。こんな問い、こんな答えで現実の複雑さに合わせられるはずもねえ!
そんなもんだ!
そのうえで私たちは表現していくし、逃れる術はないともいうし?
そんな複雑さにまみれた世界で生きる私たちは、思うほどには「聞く」に馴染みがない。
ただ聞いてもらう経験が少ない。
お母さんに話したら、まずあれこれ言われる。ツッコミが待ち構えている。お父さんの場合、ちゃんと黙って聞いてくれていると期待するときほど、どのアニメや漫画を勧めるべきか考えてることが多い! トウヤに至っては答えを出そうとしたり、評価しようとしたりする!
文句を言っておいてなんだけど、私もしょっちゅうやってる。
自分が話すとき、表現しているとき、ただただ受けとめてもらうって体験は、そうそうない。
小中はろくになかったなあ。中学の先生たちには、すごくよくしてもらったけど、やっぱりアドバイスされることが多かったしさ。結ちゃんなんか、私がなにか言ったら、そのぶんなにか言わずにはいられなかったし! 私もそういうとこあるし?
聞くって案外、とってもむずかしい。
ガンダムのアニメで対話って出てきたけど、対話よりもね? まず会話が大事。
私たちにとって身近なのは、まず会話だからね。
そして会話に必要な「聞くこと」そのものが、私たちにとってはそもそも身近じゃない。
自分で思うほどできてないし、自分が思うほどにはしてもらってない。
もちろん個人差はあるだろうけどね!
それでついつい「聞いてもらう」ために、表現そのものを最適化しすぎる。
だけどそれって、無理してることだ。
なんでも自由に表現しましょうって言ってるんじゃない。
それでなんでも、どんな行為でも正当化・責任転嫁されちゃ困る。
だからって表現するとき、だれかの表現に反応するとき、常に無理するなんてつらすぎる。
と同時に尊重も配慮も必要なのは、相互に無理を強いることのないようにしましょうねってこと。人権の話にも繋がるね? 倫理や哲学の話にもさ。
ほらもう、表現だけじゃ済まなくなった! わーお。
そういうものを受けて、どう表現していくのか問われている。
どんな自分になりたいのか。どう生きたいのか。どんな世界を望むのか。
「とりあえず、いまは、しんこきゅう」
めまいがひどい。
呼吸を落ち着かせながら、ゆっくりと力を抜いていく。
身体が気持ち悪い。汗のせいだ。寝ている間に汗だくにでもなったのか。いまの汗のせいなのか。
それにお腹が猛烈に空いてきた。
よく動く学校生活に合わせて食が太くなった私には、病院食がはっきり間違いなく物足りなくてね!
体重をかけないで済むように真横に転がるようにして、ベッドの端へ。トウヤが持ってきてくれた差し入れの袋の持ち手を指先で引っかけて、持ち上げようと試みる。
おむすび、サンドイッチ、菓子パン、おやつ、ペットボトル飲料などなど、もろもろ買い込んでもらったのだ。それらがぜんぶ入った大きなビニール袋だから、当然? 重たい。
つまり?
「おおおお、おおおおおお」
腕の筋も筋肉も悲鳴をあげた。
いつもなら「さすがに買いすぎたか。なかなかの重みだぜ」くらいで済むのに、いまじゃ筋肉痛の片腕でカナタさんを片手で持ち上げようとするくらい無理。
こんなに弱っているのか、私は。
思わず枕のそばに垂れ下がるナースコールを見る。
いや。だめだ。お腹がすいたので袋を持ち上げてください、なんて理由で押せるか。
前の入院で、お風呂に入るかどうかを聞くことさえ満足にできなかった思い出が脳裏をよぎる。
こういう記憶や経験も、訴えてきてるよね。
どうする? って。
「あ、そっか」
金色雲を出せばいい。
私を乗せて床に? いや。それより袋を浮かべたほうが早い。
持ち上げるのは諦めて、霊子を出す。
すこし不安はあった。
出なかったらどうしよう。いまより私の身体が消耗したらどうしようって。
老化は明らかに影響を及ぼしている。
そりゃそうだ。びびるわ。こんなの。
だけど、出た。出なかったら? 自分をなだめたりする! そう決めたのは、いつもよりもすこし濁った金色を確認しながらのことだった。
色も濃いし、ニナ先生がおしっこに例えていたのもなんだかわかってしまった。
いや。ちがうけど。でも、濁り暗くなった色は私のつらさや苦悩が混じった証なのでは?
だとしたら、初心な色に苦悩が混ざったとみてもいいのでは。
自分の表現をどう「聞く」か。
これってけっこう、自分を問われることだね?
袋を浮かべた色濃い雲を確認して、元の位置に寝転がって戻る。
手元に落として、中身を物色。
コンビニで買ってきてくれたのだが、幸いにして安くてお腹いっぱい路線のチェーンだった。サンドイッチ、それも卵を選ぶ。中身たっぷり具材。それでも日本のサンドイッチはパンも薄くて具材も薄い。個人的にはフランスパンを一センチに切った身で、手のひらみっつくらい重ねた厚みの具材を挟んで食べたい。贅沢いいすぎ? でも、それは退院しての楽しみに取っておこう。いまはコンビニのサンドイッチもありがたい!
袋の包みから伸びる、剥がすためのひもを掴む。
指先に力が入らない。
無理に力を入れたら?
「ひいい」
激痛!
まさか! 封を開けることさえむずかしいとは!
さすがにペットボトルのふたほどじゃないにせよ、調味料のふたくらい頑固だ。
おばあちゃんはペットボトルのふたさえ無理。
いなかの集まりだと、おじいちゃんたちも苦戦している。
だれにでも開けられるようにしてくれえ!
切に願うわぁ!
「くそう」
いまの身体じゃおむすびを袋から出すことさえむずかしい。
ポテチの袋を開けるなんて夢のまた夢だ。
ハサミを買ってきてもらうんだったか。いや、ハサミを使えるかどうかも怪しいぞ?
どうする。転化の術? サンドイッチの袋だけを?
無理だ。
金色を手みたいにして、それでなんとか剥がせないか試みよう。
それしかなさそうだ。
身体が弱って初めてわかること、試すことがいっぱいあるのだなあ。
ほんのささいな負荷も命取りになるからこそ、探れる術があるのか。
どんな状態であれ、表現していいのだ。
「爆食いの、ため。カロリーの、ため!」
自分にそう言い聞かせて金色の化かし方に試行錯誤しはじめる。
しょっちゅうお腹が鳴るのが切ない。
なにやってんだ、と思いもする。
ただ実感してもいる。
私、いま、もうれつに生きてるわぁ!
つづく!
お読みくださり誠にありがとうございます。
もしよろしければブックマーク、高評価のほど、よろしくお願いいたします。




