第二百四十二話
ハルはいつもと変わらないのんびりとした声で相づちを打って、私の話を聞いてくれた。
手紙のことも、昔の話も全部。
軽蔑されるかもしれない、という不安も青澄春灯を相手にしたら必要のないものだった。
「そっかあ。じゃあマドカはずっと後悔してるんだ」
「こう、かい……?」
「うん。胸に傷があるかもって思ったり、自分を追い込むのって、病気で亡くなっちゃった子のことが心のどこかで引っかかって、ごめんなさいって思うからじゃないの?」
「……私、そんなに綺麗じゃない。してたことだって、ユウには話せない」
手紙に視線を落とす。
私の手の中にある、ところどころデコボコになった便せんに踊る歪な文字には綺麗な言葉しかない。いっそ私を恨む言葉が書いてあったなら、どれほど救われただろう。
けど、ここにはない。だから死んだあの子に汚さを求める私の醜さが露呈する。
青澄春灯は笑った。そんなことないよって。
「そりゃあ小中学生の頃の話とはいえ昔のコイバナなんてデリケートな話題だよね。でも逆に言えばそれだけじゃない?」
「……女の子同士だよ?」
「事情が事情だし、嫌じゃなかったんならいいんじゃないかなあ。なにより不思議なの。マドカはあんまり気にしてないと思ってた」
微笑むハルに抱き締められたまま、私は俯く。
こうしていてもらえないと。誰かに優しくしてもらわないと心が張り裂けそうで。
ユウじゃなくてハルにそれを求めている時点で、私はどこかがおかしいのかな……なんて。
いや、ユウにこそ話せないから、他に頼れるのはハルだけなんだけど。
ハルに言われてやっと自覚した。
「私って、変?」
「だいぶ。あ、でも落ち込むところじゃないよ。私も変だけど、毎日たのしいし」
「うん……ハルにそう言われると、ほっとする」
「なにそれ」
「でも事実だよ」
だって私から見てハルは日常を、青春を謳歌しているようにしか見えないから。
「マドカの特別が少しだけ見えた気がする。きっとマドカは、困っていたら愛して助けちゃうし……立ち向かっちゃうんじゃないかなあ」
「どうして、そう思うの?」
「運動音痴で剣道部に入ったり、ギンと正面切って戦って刀を手に入れちゃう負けん気の強さとか。それだけじゃなくて、みんなをまとめて引っ張っちゃう勢いがある。みんなの願いをまとめて叶える強さがあるんだよ。すごくお助け部向きだと思う」
「……ん?」
「えっと、えっと。もっと端的に言うとね?」
私の反応が芳しくないと悟ったハルが慌てている。
あんまりいつも通りだからおかしい。私のために頑張ってくれるこの子の優しさも嬉しい。
「マドカは苦しい苦しいっていうだけじゃなくて、それに立ち向かってる。強い女の子だと思うよ」
「……でも、もう限界。たまに全部投げ出して、死にたくなるの。ダメな私には生きる価値もないのかなって思うことがあるの」
「そんなことないよ!」
励ましてくれる彼女の言葉には妙な確信があった。
「どんな暗闇も立ち向かっていれば、いつかきっと光が見えるよ。マドカの光は刀で、みんなで、私だよ。一人で苦しまないでいい。狛火野くんがいる。私がいるじゃない!」
それでもう十分なのだと訴える言葉に答えたかった。
でも視界がどんどん暗くなっていく。憂鬱が暗闇を連れて私を捕らえてしまう。
『逃がさない。あなたに消えない傷をつけるの、マドカ』
歪な文字が浮かぶ。怨嗟の言葉を美辞麗句に塗りかえて私をがんじがらめにする。
もしあの子が心を改めていたとしても。もし誰ももう気にしていないのだとしても。
私は病室から逃げたあの日から、ずっと暗闇の中を歩いている。
求める。戦う力を。抗う力を。暗闇の世界に革命をもたらす、ただ一振りを。
手にしたはずだった。だけど私の漆黒がたやすくすべてを奪ってしまう。
「え、え。なんで!? 隔離世じゃないのに!」
ハルが戸惑う。私の胸から暗闇が吐き出されて部室を塗りかえてしまう。
あちこちから生える腐った花の濃密な香りに包まれて、胸から這い出た茨が私を捕らえてハルから引きはがす。
「マドカ!」
ハルの叫び声に答えようとした口から茨が出てきた。
声もあげられずに取り込まれてしまう。茨の棘が私の身体をずたずたに傷つける。
手の中から落ちた便せんをハルが拾った。
「ど、どうしよう、どうしたら――マドカを離して!」
ハルが茨を掴んで引きはがそうとする。けれどするりと通り抜けてしまった。
まるで幻想のよう。
ハルは茨を掴むことができない。確かに私の身体を縛り付けていくのに。
「うう。ううう!」
うなり声をあげて、ハルが刀を抜いた。
茨へと振り下ろすとがちんと音を立てて跳ね返されてしまった。
「刀だったら……でも、固い! これじゃあ!」
泣きそうな顔をして私を見つめるハルの手元の便せんから、文字がぺりぺりと引きはがされて私の茨に吸収される。そして茨はどんどん巨大に育っていく。
「なんで! マドカが苦しむことないはずなのに!」
頭を振った。いいや、苦しまなきゃだめだ。だめなんだ。
「どうして!?」
誰かを助けられない、見捨てた人は幸せになっちゃいけないんだ。
こんな私を救う特別なんて……やっぱり、ない。
「いやだ!」
ハルが頭を振った。そして決意の表情で、金色に煌めく刀を胸に突き刺す。
尻尾が一本ずつすぅっと消えていく。そしてすべてが消えて、彼女の髪が一瞬で漆黒に染まった。
「十兵衞!」
彼女が叫んで、もう一振りを抜いて振り下ろす。茨を寸断させてみせたが、しかし切られた茨はすぐに蔦をのばして切られた箇所を繋ぐ。たちどころに修復されてしまった。
「ううっ」
怯むハルが頭を振って、それから私を見て叫ぶ。
「それぜんぶ、マドカが作ってるんだよ!」
私の胸から吐き出される茨と暗闇を見て。
「自分を苦しめて罰して! 罪の意識にとらわれて! だけど立ち向かえる特別をマドカはもう手にしているよ!」
腰に帯びた刀が茨にとらわれて悲鳴をあげている。がちがちがち。
「マドカを離して! 後悔とか悲しみとかぜんぶ、つらくて重たい過去に捕まらないで!」
姿を変えたハルが茨を掴む。今度は握りしめることができた。
必死に引きはがし、噛み付いて。私の胸に近づいてくる。
「私たちは未来のために今を生きてるの! だいじょうぶだよ! マドカはもうがんばってる! だからちゃんと向き合えるよ! だって私がここにいるもん!」
一人じゃないよ、という叫びに思わず手が伸びた。茨がそうはさせないと私をきつく締め上げる。けれど。けれど。
「掴んだ!」
ハルが掴んで私をめいっぱい引き寄せようとした。
胸から吐き出されて繭のように私をくるもうとする茨がそれを許さないと拘束を強める。
「マドカを――……離せ!」
全力で踏ん張るハルの力は強い。でもどうにもならない。
だからこそ理解してしまった。
誰かに助けてもらうんじゃ、これはどうにもならないんだって。
私の胸から吐き出されるもの。文字を吸い取って私を苦しめるもの。
その正体は何か。考えるまでもなく、明らかじゃないか。
「――……」
腰の刀ががちがちと音を鳴らす。訴えている。
さあ。さあ。向き合い答えを出すなら今だ。見せてみろ、と。
わかっている。だからハルの腕をそっと離した。
「あ――……」
絶望の顔をするハルに笑ってみせる。
ごめん、もうだいじょうぶ。
「ぐっ、ァ、アアアアアアアアアア!」
胸から吐き出されている茨の一本を掴んで、引き抜いた。ずぶずぶと音を立てて引き出されたその奥から一振りの無銘の刀が吐き出される。
もう一本。もう一振り。どんどん吐き出して、いつか沢城くんに立ち向かった時に私に力を貸してくれた刀たちが吐き出されていく。
自分の過去と立ち向かうための力、意思がそのまま私の心を突き刺し抉る痛みそのもの。
「ふうっ――……ふうっ」
本当は理解していた。
彼女が好きだった。怖くなった自分の弱さが嫌いだった。あの子が見せた絶望を拒絶しかできない自分の醜さが嫌いだった。それでも彼女が好きだった。
強くなっても、どんなに頑張っても彼女に会いにいけない。自分の未熟さが嫌いだった。あの子に会いに行って、もし、もう顔も見たくないと言われたら? 立ち直れない。
そうして放置して……彼女が死んでやっと見に行ける自分の醜さが嫌いでしょうがなかった。
生きていくために、そんな自分でも生きていくために特別が必要だ。力が必要だった。
がむしゃらで。だけど一番大事な問題と向き合えない。
手に入れた力すべてが私を責める。
逃げるな。立ち向かえ。そう声高に叫ぶ。
だから真実、沢城くんに立ち向かった時に振るった刀は私の心そのものだった。
怒りの獣。
私は自分を責めていた。怒っていた。だから自分を殺さなくちゃ気が済まないんだ。
それが私の暗闇。それこそが私の茨なんだ。
引き抜かずに身を任せたら、沢城くんの言うとおり誰かを斬らずにはいられなくなるだろう。その誰かとは、自分に優しくしてくれるユウやハルか。もしくは自分だ。
そんなのいやだ。
そんなの、いやなんだ。
だからもう、よそう。かつての罪から目を背けるためだけの力なら、いらない。
胸の中から茨を吐き出し終えて、力をすべて手放して。
それでも暗闇が漏れていく。
染み込んでくる。
『きっと……私には恋愛できないから。ねえ、マドカ』
病室での戯れ。
『キス、してみたいの。お願い』
何を言ってるの、と笑い飛ばすことだってできたはず。
でも、した。
中学生の私には理解できていたから。
個室で医療機器に繋がれた彼女を訪ねるのは私だけ。
彼女が触れる外界は私だけ。
そして私が拒んだら、彼女はそれを知らずに死ぬだろうという……事実を。
理解できていたから、した。
恋愛と友情の好きの違いもわからなかったから、無邪気に。
してみて嫌だったら拒めばいいと思った。悪ふざけに過ぎないと二人で笑えばいいと。
でも、彼女は喜んでくれた。
だからかな。不思議といやだとは感じなかった。
『だきしめて』
彼女の輪郭ぜんぶ、心の中に確かに残ってる。
『もっと……ふれて。私のこと、覚えて欲しい。マドカが覚えてくれたら、こんな人生でも意味があるんだって思うから』
残っている。ぜんぶ。ぜんぶ。
死と直結した暗闇のような時間。
彼女の命なんて重すぎて背負えないと逃げ出したけれど、背負わなきゃと思うぬくもり。
どこへもいけない、私の漆黒。
それがもし、金色になるのなら。
もがくように這いつくばって、手を伸ばす。
もうハルがどこにいるのかさえ見えない。
ああ、それなのに。
真っ暗闇にしか見えない中で、確かに光った。
「マドカ――……ッ!」
刀を胸から出して、金色の光を飛ばして九尾を生やした彼女が私の暗闇を染めていく。
私の暗闇に抗う輝き。欲しくてたまらない、けど手の届かない光はまるでプラネタリウムのようだった。
ああ、そうか。
「私はもう……どう足掻いても、ハルみたいにはなれないんだ」
「そんなことない!」
暗闇と金色が拮抗する。
私は今、漆黒をハルに注いでいる。
ハルはそれに全力で抗っている。なんのために。
「狛火野くんと付き合って、剣道部で汗を流して! お助け部ですごい発言して! マドカはもうとっくの昔に、きらきらの青春の中にいるよ!」
「でも……」
「だいじょうぶだよ! なにがあっても! 頑張るマドカはだいじょうぶだよ!」
抱き締めてくれる腕の中で、私の暗闇が叫ぶ。
何も知らないくせに、と。身勝手に叫び続ける。
知らないなら教えてやる。怒り狂うように、私の願いさえ無視して。
「逃げて」
願うように囁く私の言葉と、荒ぶる私の暗闇。
相反して拮抗していたはずの何かは、黒い衝動によってバランスを崩して私の身体を突き動かす。
ハルを抱き締めて、暗闇に包み込もうとしたのだ。
漆黒に塗れた両手で彼女の九尾を掴む。
「――ッ!」
ハルが絶叫する。
引き千切ろうと腕に勝手な力がこもる。私の未熟が彼女を光から暗闇に引きずり下ろそうとするんだ。
そんな愚かな行為よりも。
歯を噛みしめて、それから私を安心させるように笑って。
「マドカ」
私の名前を呼んで、私の刀を引き抜いて渡してくれる彼女が私にとっての光だ。願いなんだ。
「逃げないよ。マドカが胸の中にある光に気づくまで、何度だって手を伸ばすよ」
痛いはずなのに。尻尾を掴む力はどんどん強くなるばかりで。なのにハルは笑うの。私を安心させるように、眩しく。
「勝手に動くの、ハル! 逃げて!」
「大丈夫。ねえ、マドカ」
私の尻尾を握る手にそっと触れるだけで、強ばる私の未熟が怯む。
そうして落ち着く私の手に、ハルは刀を握らせてくれた。
「マドカが見えなくなってもそばで輝く……この刀がずっとマドカの名前を呼んでるよ」
「――……私の、刀」
「だからだいじょうぶ。暗闇になんて負けないで。ほら。マドカの光をしっかり握って?」
優しい声に促されて、強ばる両手で自分の刀を握りしめる。
確かにそこにある輝きを見つめた。私だけの光。ちゃんとそこにある特別。
「どんな漆黒を注いだって、私の金色は――……私の夢は揺るがない。ねえ、マドカ」
ハルの手で包み込まれる。あたたかい熱に、包み込まれる。
「他に吐き出したい暗闇はある?」
ふわふわしているだけじゃない。誰かの暗闇を相手にして尚、ぶれずに輝く強い光がハルなんだ。
戸惑いながら、胸を見下ろした。
暗闇はもう出てこない。周囲に満ちた花たちもみんな腐り落ちて消えている。
「……ない」
そこはもうただの部室に戻っていた。
異変なんて起きなかったと言わんばかりに。
頬に触れる。異常なほど熱い。
ああ。そうか。私は悩んでいた。それを誰かに打ち明けて、大丈夫だよって言って欲しかったんだ。
「一つ気づいたんだけどね」
ハルは私のおでこをこつんとした。
「たぶん、これ。読んだ方がいいと思う」
「え――……」
「便せんにくっついてる紙。一緒にいるから……読んでみよう?」
ハルが懐から差し出してくれた便せんにはぴったりと重なるように、もう一枚の便せんがくっついていた。動転しすぎて頭がいっぱいで、まったく気づかなかったんだ。
あわててハルから便せんを受け取って、紙に書いてある文字を読む。
『わたしのじんせい、ロウソクののこりはすくない』
歪な字。
『でも。マドカといっしょにいたじかんをおもうと、しあわせでした。でもあまえすぎて、ごめんね。わたしはしあわせだったの』
でこぼこな便せん。涙をたくさん吸いこんだ便せん。そのせいでにじんだ文字。歪な歪な、一生懸命書かれたに違いない文字。
『ねえ、マドカ。マドカもそうだったら……うれしいなあ』
たった三行。でも一枚目よりもでこぼこなその紙に託された願いと思いの熱に触れる。
「……マドカのことが本当に大好きだったんだね、その子」
ハルに囁かれて、便せんにあらたな雫が落ちた。
「たくさん泣きながら書いて、くっついちゃったんだ」
ぽたぽたと、外に降る雨のように。
「――……うん」
紙に触れる。触れて雫を払おうとして、ハルに止められた。
よかった。そうだね。払ったら……にじんで見えなくなっちゃうね。
だけど、遅かったな。
「……っ」
もうとっくに、視界がにじんでよく見えないよ。
「綺麗な子だったの」
「うん」
「……字だって、ほんとはもっと上手で」
「うん」
「置いてっちゃった……」
「うん」
「救えなかった、傷つけちゃったよ……」
そうこぼした。きっとずっと、言いたかった言葉。
「そんなことないよ」
ハルが優しく囁く。
「きっといま救われたの。マドカに気持ちが届いて……ちゃんとね」
嗚咽をこらえきれなかった。
「ずっと救われてたの。でも……この子もマドカを傷つけちゃったと思って、泣きながら一生懸命書いたんだ。だからマドカ、やっぱりだいじょうぶだよ」
崩れ落ちそうな私を抱き締めて、ハルは言う。
「マドカは漆黒なんかじゃない……この子の特別な光だよ」
私のすべてを塗りかえる、それは救いに違いなかったのだ。
つづく。




