第二百六話
並木コナが授業をさぼるのは、士道誠心に入ってからこれが初めてだった。
だからホームルームが終わった教室に私が入っただけで視線を感じたし、シオリが真っ先に近づいてきて不安げな顔をするから抱き締める。
シオリには嘘が通じない。私を大事に思ってくれているし、距離の取り方に敏感で傷つくことに臆病だから確かめてはこないだけ。この子は繊細に私を思ってくれている。
だから私の抱擁で何かを察したようだった。そして何かを言いたそうな顔で私を見つめるけど、俯くだけ。大丈夫とだけ告げて、ラビの姿を探す。
扉のすぐそばにいて、彼はまるですべてがわかっていると言いたそうな顔をして頷く。
憎い。察しがいいのに、私の気持ちはきっと一ミリも理解してないに違いない。
いつだって私だけに対しては厳しい。
まるで何かを期待するかのように、私だけには強さを求める。
なぜ。なぜ。なぜ。
背中を追い掛けながら考える。
出会いはいつの頃だったか。どんな関係を構築してきたか。
私の大好きな漫画なら回想シーンが入るところだ。けれど現実に彼と屋上に辿り着くまでの間というささやかな時間では足りない。
考える。考えるべきだ。誰かに決着を頼る気なんてない。これは私の問題だから、誰にも譲る気はない。
笑い飛ばした。考えないようにした。彼の思いを。その正体を。だってこれは終わった話だったから。
だけどだめ。毎日考えてしまう。私が気づかずにいた気持ちの矢印を。それに気づかなかった意味を。
主張しなければ想いは届かない。そしてそれは致命的な結果を生む。緋迎くんへの恋で私はそれを痛いほど思い知った。
緋迎くんをなじるつもりはないけれど、気づかれない痛みを私は知っている。それをもしラビに強いていたのだとしたら?
ラビが厳しいのはそれが理由? 本当に昔、私を好きだったの? なぜ?
謎ばかり浮かんでいく。だめだ。考えても答えがわからない。わからないから妄想してしまう。それは私の心をどんどん弱くする。
ふざけるな。悩むくらいなら行動する。髪を切る時に決めたじゃないか。誰にも言わない、私だけの軸。譲るつもりなんてない。
決意した時、ラビに連れられた私は屋上に辿り着いた。
一時間目の授業が始まろうとしているこの時、そこには誰もいない。
だから風を浴びながらラビが口を開いた時、確かに心が動いた。
「コナちゃん、まるで死にに行くみたいな顔してどうしたの? ご機嫌だね」
「教えて」
「いつだって僕は君に正直でいるつもりだけど」
「なら答えて」
私の心にさえ風穴を開ける弾丸を放つ。
「私のことが好き?」
「――……ええと」
それはラビの余裕を確かに撃ち抜いた。
笑みが消えたのが答えだった。
「そうなの」
「……説明を」
「いらない、別に。片思いをやめたあなたがメイ先輩を思い、行動した。それが事実だもの」
「待って」
「あの日背中を押されたとはいえ、それでも……あなたは私を置いていった」
選んでいる。彼はもう。済んだ話を蒸し返しているのは私だ。
それでも、いずれ来る破滅を待つつもりはない。
あの子には言えなかったけれど……メイ先輩はマイクパフォーマンスの場で私を見つめていた。
睨んでいた。
そして囁きさえした。
私はいつか終わる夢の中。それでもあなたには夢を見る覚悟がある?
その問いかけの意味に気づいてしまった。
メイ先輩の心は決まっている。ラビの様子を見る限り復縁したようだけど、それにはいつか終わりがくると見据えている。あの人の気持ちがわからない。だから確かめたい。
けど同時に考えざるを得なかった。私はどうしたいのか。
一瞬でも感じた特別を私は覚えているのか? YES、覚えている。
それを手放せる? 忘れられる? NO。迎えに来てくれたユリアに答えた時から今まで、ずっと反芻してきた。それが答えだ。
認めよう。胸を張って。私は彼を思っている。ずっと特別に思っている。その形や方向性があの夜に定まってしまったのだ。先を行く、むかつくけど凄い男の子から……私と同じ弱さをもった普通の男の子だと。それゆえに凄さを身に付けるために彼がどれほど努力してきたのかを。
愛せないわけがない。決めなきゃいけない。
「それでも……確認したいの。ねえ、ラビ。あなたは私を愛していた?」
「――……」
完璧であろうとつけた分厚い仮面が落ちていく。
懊悩。さ迷う視線と苦しむ顔がついに囁きを発した。
「なんで、気づいちゃうんだい?」
「あなたが私の前では弱くなってしまうからよ」
呆れもしたし、吹き出しそうにもなった。
自分で言ったことの意味さえわからないんだ。
それほど弱って、それをさらけ出したのが私。本当に、もう。
「気づかない方がどうかしてる。気づいて欲しかったんでしょ? だから無意識に情報を出していた」
「……でも」
「いい。わかってる。別に付き合ってとか言う気もないし、メイ先輩と別れろなんて言う気もない。だってあなたはもう、メイ先輩の彼氏なんだから」
じゃあ、なぜ。
苦しみ喘ぐラビの顔には本音が出ていた。
本当に……もう。私の前だとこの人、素直すぎる。
「ただ……ねえ、ラビ。あなたはもっと素直になった方がいい」
少しだけ乱れたネクタイを見て、ため息を吐いてから告げる。
「ネクタイ、直した方がいいよ」
じゃ、と言って立ち去ろうとした。
だってもう用事は済んだ。もしこの場に留まる理由が生まれるとしたら、
「待って」
彼が呼び止めた時だけ。
「コナちゃん」
切実な呼び声だった。
なんだろう。メイ先輩には言わないで、とかだろうか? ならば幻滅。私が彼を引きずる価値なし。
君と付き合いたいとか? あり得ない。二つ上の代の生徒会長が酷い目に遭って心砕かれたメイ先輩を救ったのは彼だ。そんな彼が絆を捨てたり裏切る真似をするとは思えないし、思いたくない。
なら、なに?
ふり返る私をラビは抱き締めた。問答無用だったし、それは卑怯なくらい私を揺さぶった。
男の子に全力で抱き締められる。その瞬間に感じる特別の強さは私の心の殻を容易に無邪気に破壊する。
本当に――……本当に、もう。
「ひどい男」
「……今日は言葉にできる自信がない。何を言ってもきっと嘘になる」
「慎重ね」
「ああ。だって……今の僕らは仲間だ。どこへ進むにしても、僕にとって……ずっと君は特別な女の子だ」
「なら……ねえラビ。一つだけお願いを聞いてくれる?」
こみ上げてくる弱さが私に顔を出す。
「誰かに理想を重ねないで。見るならその人を真っ直ぐ見て」
声が震えそうだった。こみあげてくる涙を引っ込める術があるなら何を投げ出してでも手に入れたかった。
誰かなんて言ったけど、嘘だ。ぜんぶ、私。相手は私。ラビに唯一求めるもの。ただ一つ願うもの。もっと素直に見つめて欲しい。ただそれだけ。
やっぱり私の弱さだ。甘えている。きっとたぶん、初めて私は心からラビに甘えている。
「……コナちゃん」
私を見つめるラビの瞳が揺れていた。
見抜かれている。気づいて欲しいことには気づいてくれない。ずっとそうだったのに。今日この瞬間だけは違っていた。
ずるい男。ひどい男だ。なのに……私は彼が好きなんだ。
もう一度強く抱擁してすぐ、その熱が離れた。寒さに凍えるように私の手が伸びる。けれどそれは空を切った。
「行くよ。いま勢いに任せたら、きっと全部を傷つける」
「――……」
伸ばした手を自分で掴んで急いで背中を向ける。
ああ、やっぱりこの人は行ってしまうんだ、と思ったから。
悲劇のヒロインぶって、泣いて叫んでねだることもできたかもしれない。
でも無理だ。勢いに任せたら、私は自分が積み上げてきたものをすべて壊してしまうと思うから。
「行って」
「……ああ」
「シオリやユリアを呼ぶ必要は無いから……少し時間をちょうだい」
「わかった」
足音が遠のいていく。扉の開閉する音が聞こえる。
弱さが叫ぶ。いかないで。いかないで。置いていかないで。私を一度は選んだのなら、もう一度選んで。
もっと大きな声で心が叫ぶ。いかせちゃおう。そして立ち向かうんだ。私が私であるために。
ねだるな。勝ち取れ。その必要があるのなら。
そうでないのなら静かに退け。けど……もう答えは出ているんでしょう?
「――……ふう」
息を吐き出す。
たまに強いと言われることがある。
けど真実は違う。私はどう生きるか選んでいるだけ。常にそのために全力でいたいと願っているだけ。
今回はどうかって?
「あの子を応援する……けど、一年生には負けられない」
戦う理由はできた。
ラビに未来を委ねる気なんてさらさらない。私の未来は私が決める。
ラビの気持ちが変わるのを待つ気もない。待っても何も変わらない。
メイ先輩と戦う。先輩の真意を尋ねる。そしてさらなる未来を選択しよう。
逃げずに立ち向かうのだ。その機会を誰かに譲るつもりなんて、私には一切ない。
さあ、準備はいいか。
つづく。




