第二千十九話
シュウさんが迎えに来てくれたときも、うちに連絡がいってねぼけ眼のお父さんが出迎えてくれたときも「言いたいことはやまほどあるけど、夜遅いし明日ね」感がダダ漏れだった。ちなみにお母さんは起きず、緋迎さんちはシュウさんが受けたことでひとまずそこまで。
事の起こりというより私たちが金色雲で降り立つ場面から映っていた動画の提供のおかげで、事情はだいたい説明することができた。ただし納得してもらえたかといえば、かなり苦しい。シュウさんが疲労と苛立ちを笑顔にこめて「あとはやっておくから」と連絡先を残させて、引き上げてくれなかったら? もっと大ごとになっていた。
そこで実感。
ヒーローが顔を隠す理由。なんならスーツで身体も隠すのは、なぜ?
答え。
警察に捕まると日常生活に支障が出るから!
悪党に顔ばれすると危ないというだけじゃない。
自警団活動、並外れた身体能力や特殊な力は、一般的には暴力なのよ。
ヒーロー無罪はないな。
ないわー。
ないかあ。
気持ちがすこしも落ち着かないので、カナタを部屋にお招きして抱きあいながら寝る。まだ腕が、手が痺れている。感触は薄らぐことがない。彼女の感情を受けとめた、その実感がある。あれが殺意なのだろうか。そう読み取ったのは早計だったのではないか。
眠れない気がしたのに身体は迷わず睡眠を選んだ。
「手の痺れで済んでよかったなあ? 傷物になるんじゃねえかと思って見てたよ」
目覚めると、薄暗い洞穴の中にいた。
寝心地の悪い岩の上に大の字になっている。ひやりと冷えていて、お腹を壊してしまいそうだ。身体を起こすと、雑に転々と置かれた燭台、床に直接置かれた大量のロウソクの火が揺らめいている。
垢と埃で黒ずんだ着流し姿のおじさんがさびついた刀を振るっていた。
もしやと思って身体を見ると、いつものぷちサイズ。いつものお屋敷ではなく、スサノオさまがまたしても私を用いてアマテラスさまにちょっかいをかけるつもりなのかもしれない。
というか、ぷんと匂ってくる体臭がだいぶえげつない。
お歳を召すか、気鬱に苛まれるとお風呂がほんっっっっとに! 面倒になるそうだ。億劫になったり、そもそもそれさえままならないほど心が参ってしまうという。
そういうあれかな、と鼻を摘まみながら見ると、すぐさま切っ先を向けられた。
「ちがうわ。たわけ。戦いになったろう? 備えがないんだ、お前は」
はっはと軽く笑い飛ばして、私を襲った子と同じように構える。
右の肩に両手を寄せて、刀を立てるのだ。
そこから裂帛の気合いと共に振り下ろす。そんな動画を見たことがある。
剣道場では見ないな。だいたいは正面に切っ先を向ける構えが多い。
足は左前の右後。踏みこみは左先、右後。下がるときは右先、左後。
たたたたた、と何歩も動くにせよ、振り下ろすときには強く踏みこむ。右足で強く地面を蹴って左足で着地。すぐに右足を寄せる。次の手に困らないよう、姿勢を、体幹を意地する。
竹刀は去年の私には重たくて仕方のないものだった。一日も持っていたら、腕が筋肉痛になってあがらなくなるほど。
冷蔵庫にしまう大きなペットボトル。二リットルの重さは? もちろん二キログラム。
二キロを持つのは? だいぶしんどい。
六本一箱になっているダンボールを買うと、ダンボール分と六本で十二キロちょいになる。
あれなんかもう、重たくてたまらない。
竹刀の重さはまちまちだけど、ざっくり四百グラム以上。するとペットボトルの五分の一となる計算だ。なのに一日振るうと、それだけで筋肉痛。
だからペットボトルくらいの重さになったら? もっと早く疲れる。
じゃあ、日本刀は?
太刀でいえば素材や製法にもよるけれど、一キロ前後。
ペットボトルほどじゃない。それに振るうことを想定して打つのなら、刀身の重さのバランスも肝要。そこまで踏まえて打たれたものなら、ペットボトルを片手でなんとか持とうとするよりは負担が少ないかも?
とはいえ、軽くはない。
少なくとも持っているという実感のある重量だ。
ちなみに軍人志望者が経験しそうな訓練で扱うアサルトライフルだと? 四キロ近くあるみたい? いや、これもメーカーと銃によるんだろうけど!
だいぶあるね? 大きなペットボトル二本分。紐をつけて身体と両手で支えるにしても、しばらくは痣ができるんじゃないかな?
実はエレキギターの重さがけっこう近い。ざっくり三キロから四キロの間。そうなれば、慣れない頃は重さにもけっこう苦労するんじゃない? 膝にのせてじゃかじゃかやってるほうが楽だろうなあ。
吹奏楽になるとね? フルートより、クラリネットより、トランペットより、もっと重たいもの。サックスなんかだと、どう? ソプラノ、アルト、テナー、バリトンの四種類。低くなるほど楽器のサイズが大きくなる。バリトンサックスは七キロ前後、これもものによるのだそう。
えぐいね! ペットボトル四本分に近いものを紐と両手、姿勢で支えるんだから。
だけど意外と重たいものって、あるところにはあるんだね?
「おいこら。俺を無視して考えごとに耽るな。稽古をつけてやろうと思ったのに!」
「いやあ」
「忘れられないんじゃあないか? 手応えが。答えを知りたい問いをやまほど抱えているんじゃあないか? あれは本当に殺意だったのだろうか、とかな。おやさしくて情に厚い狐なのだろう、お前は」
「湯浴みをして綺麗な衣服に着替えてくださったら、いいですけど」
「おぉい! 失礼だぞ!」
つばを飛ばさないでよ、もう。やだなあ。
「だって、ばっちいですもん」
「本来ならなあ! お前みたいなちんけな神使に否応なく命じてやれるんだぞ? 背中を流せ! 伽の相手をしろって!」
「言いつけよ。いまのはぜったい、言いつけよ」
「しねえよ!? だれがおまえみたいなまんまるくてケツの青いガキに! 敬えって言ってんの!」
「そういうは求めるものではなくて、与えられるまで研鑽するものですよ?」
「そっ、そういう返しが実にだれかさんによく似ていらっしゃる! くうううっ!」
悔しそうに足踏みをするたびに、おじさんのヒゲが揺れ、伸び放題の髪から白い粉が舞う。
うっわ。フケまでたまってる。
なんだか見ていて気の毒になってきた。
「悪いこといわないから、湯浴みしましょ? 痒いでしょ? 臭いでしょ。ふとしたとき、ぷんと漂うでしょ? おまたあたりが悪い病気になりますよ? それじゃあ、モテないんじゃないかなあ」
「うっせ。タカオみたいなことをほざきやがって。俺はな! 修行中なの! 久しぶりに! 済むまで風呂には入らないの!」
理解した。
おじさん、中身はただのがきんちょだ。
意地を張る頑固なタイプのがきんちょ。
でも気になる名前を口にするじゃない? ほっとけないじゃない。
「タカオ先輩、いるんですか?」
うちの学校なら、愛生先輩。
並びたつのが星蘭の牡丹谷タカオ先輩。
御霊は目の前のおじさん、スサノオさま。
なにかの間違いじゃないかな。
ああでも哲学の入門本やわかりやすい倫理の漫画本なんかで見たぞ?
修行は過酷がいい、無茶をする、死んでもそれがかっこいいみたいな人たちの過剰な振る舞い。ブッダが「こらあかん」とやめたのも納得。あるいは、それでも続けちゃう心理もまた、あり得るんだろう。世の中が荒れていたり、修行に活路を見出して進退窮まっちゃったり。人生ながいもの。長いわりにあっという間だけど、でも、それゆえ無茶しちゃうこともあるもの。
このおじさんもそうだとして、タカオ先輩の姿が見えない。
付き合う気はないということなのだろうか。
「そうよ。あいつめ。お前みたいにくっさ、ばっち、えんがちょなどとさんざん悪態をついて出ていきやがった。神使にしてやろうと呼び寄せたのに、たまに顔を出したと思ったら「消臭じゃぼけえ!」と、蜜柑の匂いのする液体をぶちまけてきやがる」
おかげで匂いを消すのに苦労した! ああもう腹立たしい! などと匂いの原因がなにか言っている。
たぶんだけど、数ラリーあったね? やりとりが。
何度か「おっちゃん、ええから風呂はいりや! 臭くてかなわんわ!」と説得という名の苦情を飛ばしては「うるせえ、修行中じゃあ!」とはね除けられたのだろう。で、実力行使に出るまで、ケンカの応酬を繰り広げたと。
帰してくれんか! アマテラスさまのお屋敷に!
「せめて土の上で転がってみません?」
「だから俺の匂いを消そうとするな!」
「えええ。気に入ってるんですかあ?」
「いやそうに言うな! 悪いかっ!」
「正直だいぶ」
現代っ子には生理的に無理な匂いだしてます。
トイレどこでしてるんですか、なんて脳裏に浮かんできたけど、即座に箱に入れて心の奥底にないないしとく。だめだ。考えてはいけない。ただでさえ、獣憑き状態の私は鼻がいい!
ひどい態度だと自覚はあるけど、ほんとにひどい匂いだから堪えられない。堪えるつもりにもなれない。
舌打ちをすると、鞘に刀を納めてその場に胡座を掻いた。
「わかったよ。わかりました!」
「入ってくれるんです?」
「あとで行く!」
そっかー。
いますぐじゃなかったかー。
「で。どうだ? この俺に願ってはみないか。在りし日の血なまぐさい戦場の兵になって、体験してみる気はないか?」
「と、いいますと?」
「鈍い奴だな」
失礼な。
いまの説明ですべてを理解しろというほうが無茶では。
憮然とする私を見て、負けじと憮然とした顔になろうとわざわざ顔をくしゃくしゃに歪める。
洞窟の埃や垢、たまった皮脂がロウソクの火に照らされて不気味にぎらついていた。
ほら。余計な演出効果が出ちゃってるから!
「そう何度も責めるな! 涙が出ちゃうだろうが!」
自分のためにもお風呂に入ってほしいなあっていう率直な願いですよ?
「もういい! それよりどうなんだ」
「どう、とは」
「物は試しだ。やってみる気はないか?」
「ええ。烏天狗の館やアマテラスさまの術で、いくらでも経験できるし、別にいいかな」
「んんんんん! ほんっとに! 思いどおりにならない、小賢しいちび狐が! いいから、いってこい!」
堪忍袋の緒が切れる神さまもどうかと思いますけど、と考えていたらさ?
スサノオさまが腰を上げて、右足で地面を強く踏みつけた。
すぐさま私のいる岩が真っ二つに割れて、穴が空く。
新喜劇かなにかの舞台装置のように。
「おのれえええええええええええ!」
驚きながらも叫ぶ。
金色雲を出そうと思ったけれど、なにかが身体を激しく打ち据えた。
痛みはないけれど、衝撃が凄まじくて心底から怯む。
耳鳴りでもしていたのだろうか。遅れて怒号と喝采、銃声に砲が飛ぶ甲高い音、着弾で土砂が飛び散る音が聞こえてくる。
背中を叩かれた。スサノオさまに負けじとひげ面のおじさんが「止まるな! 死ぬぞ!」と顔を寄せて叫んでくる。腑に落ちずに身体を見おろすと、見覚えなく、身体に合わない甲冑を着て、槍を持っていた。背に旗をつけた人が大勢見える。
倒れた人も多い。馬の亡骸もまた、無残なものだった。頭が砲丸で吹き飛んだものもいれば、はらわたをぶちまけてすすり泣いている人もいた。
「あああああああああ!」
叫び、おじさんが駆けていく。
お互いに目に見えてわかる自分と異なる旗色の人を狙って、槍を突き、刀を振るう。
ふたり、三人がかりで飛び乗り、滅多刺しにする。その腹に、背中に槍が刺さる。頭がかち割られる。それでも行くのが戦だとばかりに、だれも止まらない。
棒立ちではいられない。逃げることも許されるものではあるまい。死んだふりをするのが事なきを得る手では。いや。砲弾が落ちる。
槍を捨てた。代わりに刀を取る。
先を行くおじさんが槍の柄をかちあげられて、気づいた別の人が頭をついた。がくがく、と痙攣して叫ぶ。怨嗟か悲鳴か。読み取れないし、わからない。そんな声ばかりが満ち満ちていて、だれも構っていられない。
泣いている人がいて、笑っている人がいて、表情のない人もいた。血と肉に汚れて見えない人さえいた。そのどれもがおじさんを殺し終えて、私に気づく。
止まれない。止まらない。止まる必要などない。ここへきたら、もはや退路はない。
ただそれだけの場で、男たちが向かってくる。
右目も左目も力なく。臀部に尻尾の重みもない。
ただのひとりの兵として、歯を忙しなく鳴らしながら走る。
槍、槍、刀、槍。四人の動きに気づいて、他の兵士が呼応する。仲間はいるのか。敵だらけなのか。見えやしない。視野狭窄に陥る思考と視界の中で、ただ恐怖だけがあった。死ぬために逝くのだ。いや。死中に活路があるやもしれぬ。
男の身の丈二倍はありそうな槍が腹を狙う。半身をそらして、刀でずらし、足で踏みつける。そのまま駆けて「あああ!」と叫ぶ男の首筋を刃で引き裂く。そのまま、腹の底から怒鳴りつける。怯んだ槍手が中途半端に槍を差し出してきた。峰で払いのけて、首筋を裂く。
すぐさま態勢を整えて刀と槍のふたりを睨みつける。後ろの足が一瞬下がった。どちらも。けれど逃げない。泣いているような、笑っているような、無垢な顔が私を見ていた。
煙い。どこから銃声が立て続けに鳴り、馬の悲鳴があがる。甲高い音が続いて、踏ん張りが利かなくなった。痛みはなかった。スサノオさまの術がそうあるからなのか、それとも興奮状態にあるからなのか。遅れて腹に異物感。生えていた。一振りの刀の刀身が貫いていた。
ふり返ると、目を血走らせた男が目で泣き口で笑っていた。唇の端から泡が立っている。叫び声をあげて刀の男が駆け寄ってきた。私めがけて柄を握った手で殴りかかってくる。
鼻の頭を。頬を。目元を。ろくに見当もつけず、ただ衝動に任せて何度も、何度も。
背から奇襲した男がたまらず私を倒して、男を止めた。足で蹴りつけて私をうつ伏せにすると、踏みつけて、勢いよく刀を抜く。血を払って「死にたくなければ動け」と吠えて、さっさと次へ向かう。槍の男もそれですこし頭が冷えたのか、すぐに続く。
だが、私を殴った男はちがった。
ことばにならない咆吼のように怒鳴り、目に涙を浮かべて、刀を掲げる。
首を落としてやらなきゃ気が済まない、とでも言いたげだった。
なのに、男の身体が不意に痙攣した。銃で撃たれたのだ。
私の身体めがけて倒れてくる。腹の上に乗っかり、血泡を立てた口角でなにかを口走りながら私の首に手をかけた。せめてお前は地獄に連れていくと言わんばかりに。
頭が揺れた。もはや満足に身体を動かせない。視界に山が見えた。白い煙の向こうに雄々しい山が。美しさに見惚れていたら、主を失って泡を吹いた馬が駆けてきた。こちらへと目掛けて、まっすぐに。興奮して、怯えて、恐れている馬の足が瞬く間に迫ってきて、私の頭を迷いなく踏んだ。
「――……っ!?」
飛び起きるように身体を起こす。
動いた。頭がある。なによりぷちサイズの神使な私に戻っている。
大岩の上にいた。割れていない。穴なんて、ない。
「ふたり殺して死ぬ、か。まあ槍兵相手なら、上々じゃないか? それで初陣の感想はどうだ?」
心臓が悲鳴をあげる。
拒む。なにをか。ことばにしたくないと頭が、心が拒絶する。
身体を抱き締めて、震えを自覚した。
おまけに日頃の疲労に重ねて今日の斬り合いで節々が痛む。
楽しそうだ。おじさんは。
「俺もまあ、よくあるな。周囲が見えないから、事前に頭の中に像を思い浮かべて残しておき、四方の方角を叩き込んで連想しながら動いたとて、怒号のただ中で突然砲弾が落ちてきちまったら、なあ? 避けられずに死ぬわな」
饒舌だ。
好きなのだろう。
語りたいのだろう。
いまはぼっちで修行しているおじさんだから。
「近代戦とやらは、もっとひどい。船に乗ってたら、空から数えきれない弾が降り注ぐ。矢よりも早く鋭い。これはもはや避けられるものではない。当然、死ぬわ」
越えられないなあ、もはや。
そういって、愉快だとばかりに笑うのだ。
タカオ先輩ならよくて、私がだめな理由がわかった。
こういうとき、はね除けられない。
自分を出してぶつけることが苦手。
「力なんかねえわ。もはや。そう認めるのがいやでな」
うっせえわって言い返す?
その気も起きないくらい、先ほど見た顔から読んだ感情に囚われていた。
大戦期の銃が基本の戦いは、距離がある。隠れて、出て撃って、また隠れて。そんな緩急を思い描く場面をいろんな映像作品で見た。ドキュメンタリーで当時の映像となると、なかなかそこまではわからなくて。
ちょこちょこ例に出すプライベートライアンの冒頭、ノルマンディ上陸作戦だと? ドイツ軍の機関銃とライフル、狙撃銃による射撃は終わりのない「俺のターン!」だった。切れ目がない。終わりがない。大勢が交代しながら、弾を込める隙をカバーしながら、上陸する連合軍を撃ち続けていた。ああいう激戦は切れ目がない。
野火だと? 熱帯雨林の中で住民たちや軍の局地的な戦闘は消耗し尽くして飢えるか食あたりか赤痢か、あるいは惨殺されるか、味方に殺されて食われるか。朦朧とした意識での戦いは、基本、いかにして見つからずに逃げるか。いかにして仲間の狂気から距離を置くのか。現地での怒りからいかにして身を隠すのか。あれはあれで、切れ目がない。
けれど、さっきの合戦はどうか。
そうだ。合戦だった。
ただ思ったよりも後期のもの。大砲があって、銃がある。だけど馬に乗っている人がいて、刀や槍が現役だった時代なら、どうなのか。
距離感がずっと近い。それに何手かの攻防になる場合がある。時間にしては短くても、あの乱戦下で人と人は間近で互いを見る。死か殺すか、その刹那まで互いの感情に触れる。なのに溶けあっていた。
恐怖か。それをはね除けようと怒りで包みこむか。けれど根本に恐怖があることに違いはなかった。勇気ある者は既に死んでいたのだろう。勇気のない者は後ろに下がるか、逃げようとして死んだのだろう。中途半端に漂うくらいでなきゃだめかって? そういうものでもない。
混沌とした状況で。血と臓物、中から出た内容物や、漏れ出た小水。汗。あちこちで聞こえる悲鳴や怒号は感情まるごと剥き出しで、上品さなど欠片もない。怖くて恐ろしくて、痛くてつらくて、みな赤子のように泣いていた。泣くのはいやだと怒って泣いている人もいた。
意味など、なにもない。
ただ、人がとにかく死んでいく。殺し殺されていく。
みんなでみんなを巻き添えに死ぬための乱痴気騒ぎをしているかのようだ。
そんなものに、なんの意味がある。
なにもないではないか。
あの山をもっと見ていたかった。
頭を踏み潰した馬と、そうではない場所でまたがって駆けたらどれほど気持ちよかったろう。
おじさんは戦いに、力に気持ちを寄せている。
その自分の気持ちの連鎖に私を寄せようとしているから、どうしたって拒絶してしまう。
それには乗っかれない。
あの場にも。男たちにも。
女の子にしたってそうだ。
なんだよ。
人の末期というべき戦いしかなくなっているだけじゃないか。
社会情勢とか? 仕事とか。それだけじゃないよなあ。
寂しさや孤独、傷や痛み。あるいはだれかの個人的な欲求や幸福さえ、向かわせてしまう。
「――……でも、まあ。やっぱり、お前は俺んとこにゃあ向かないみたいだな」
「きらいですから」
「筋はいい。腰が抜けて泣いて動けないかと思ったが」
「だから好きになるという話じゃないです」
「獣らしくていいだろう?」
「それだけじゃないことができるのなら、私はそちらを目指したいので」
「そうかよ。気が変わったらこいよ? 鍛えてやる」
「べえええっだ!」
思いきり舌を出してやった!
じゃあなと手を払うと、私の身体がふわりと浮かびあがった。
くるくると視界が回る。目が回りそうで思わずまぶたを閉じた。
夢でたまに見る、どこまでも落ちるときのような感覚。あるいはジェットコースターが本気を出した瞬間の絶望が数秒続いた後に、ふとなにかにぶつかる。
「ふぎゃ!」
すこしだけ痛い。
まばたきをしながら起き上がると、そこは見慣れたお屋敷の中。
座布団のうえに大の字で落ちたみたいだ。
なんにしても、雑!
ほんとにもう! あのおじさんめ! 乱暴者なんだから!
憤まんやるかたないけれど、執着していたくないから女の子のことを考える。
あの子はなにに突き動かされているんだろう。
もしも馴染めないのなら? なにかがバリアになって排除されてしまうのなら。
なにか欲求はないのだろうか。
私が繋げる手が、彼女の中のどこにもないのだろうか?
それとももはや、遮二無二みんなで殺しあう乱痴気騒ぎに囚われてしまっているのだろうか。
そんなの許せないよなあ。
私たちが、ぷちたちがそうなる可能性があるってことだもの。
そうなった先に苦しみしか、底のない不幸せしかないってことだもの。
こんなの、許せないよなあ?
活路を見出そう。
追いつめられた人たちの限界的環境じゃない。
できることがやまほどあるのだ。
許せないと思うほど、望むなにかがあるのなら?
実現していこう。
下手くそでも。失敗しながらでも。それらを経験値にする余裕があるのだから。
今日の化かしは逃げ道と時間稼ぎに過ぎず、あの子に働きかけられるものじゃなかった。
そこが反省点。
あの子があの子を出せる場こそ、化かして用意しなきゃだね?
じゃないと、怒りでどうにかなりそうだった。
ああもう!
いらいらが止まらない!
そういうなにかに突き動かされて彼女は、あの血みどろの男たちは私を責めた。
じゃあさ?
それを止めようと願い求める私は、なにを欲するのだろう。
ライブで目にした笑顔の中に、私の幸せがあった。
やりとりをするのなら、目指したいというのなら?
それだ。
けど、これだけだと私の暴力に留まる。
結局のところトルストイみたいな話に帰結する。
あなたたちの幸福の中にこそ、私の幸福はある。あなたたちの不幸せを踏み台にしては、私の幸福などない。私の不幸せを踏み台に差し出して、あなたたちを幸福にすることもまた、ない。お互いに循環させられる幸福を目指すとき、お互いに不幸せを混ぜることはなく、必然、人と人との間には距離感が生じる。太陽と地球の距離感のように。月と地球の距離感のように。
生き物たちがナンバーワンになれるオンリーワンのニッチを得て集まり暮らす。サバンナで草の高さ、位置、時期の違いで分かれるくらいに。
ひとつにはならない。ちがうまま、異なるまま、過ごす。
褒められるとうれしい人もいれば「なにか裏があるのでは?」とか「暗にばかにしている!?」とか思う人もいる。実際、いやみで褒める人もいるし? 心から、あるいはほんとになにげなく褒める人もいる。
ひとつにはならない。ちがうまま、異なるまま、過ごす。
決めつけることなく、押しつけることもなければ信じこませることもなく、従って支配することもなければされることもなく。
互いが心地よい、ほどよい距離感の中で。
いきなりそうはなれないから、私たちは衝突する。
ほどよい塩梅を探して「これだ」と思っても、一方通行だったり、相手からみて程よくても自分にはしんどかったり、その逆だったりする。
具体的にどう化かすにせよ、模索するなら?
次の戦いではもっとしっかり受けることを想定しておかないと。
だからって、あのおじさんの元には絶対に! 戻らない!
勝手だし大昔の常識のままセクハラやパワハラ発言しそうだし、なにより匂うし、堪えきれなくて私は私できついことやまほど言うし、思っちゃうから。
戻らない!
「くうう!」
うつ伏せに寝て、お尻を高くあげて腰回りを伸ばす。
もちろん九尾も思いきりね!
「いまはまだ避けられそうにないのなら?」
戦いを取り入れたうえで、いかに化かすかを練ることにする!
つづく!




