第百九十四話
サクラさんがお店を出る前に飲ませてくれたお水は特別なのか、すっきりした気持ちでおうちに帰ることができました。
現世に戻ってぐっすり眠って、朝には台所から聞こえる包丁の音で目が覚めて。
ぷちサクラさんの料理は正直、素直に脱帽でした。
さすがはレシピノートを書いた人だよ。ただの目玉焼きなのに不思議と味がついているし、和食で攻める時の家中に漂うお出汁や焼き魚の香りの良さはちょっとしたもので。
食卓についた時点で期待値マックスな私たちが食べるお米の炊き加減からお魚の焼き加減まですべてパーフェクト! どうしたらここまでの味になれるのか、レシピノートを読んでいる私でもわかりません。ぐぬぬ。
しばらくの間、緋迎家の食卓を支えていた自負がありましたが、さすがに本家本元には敵わないや。
だから一緒にいられる間にたくさん教えてもらわなきゃ、と決意したのだけど。
内心でひとり意気込む私に、サクラさんは言うの。
「ハルちゃんって呼んでもいいかしら」
「は、はい!」
「ねえ、ハルちゃん」
なんだろう。昨日の素敵な夜の話をするのかな。それとも次はもっとすごいところへ連れていってくれるのかな。わくわくしながら思っていたから。
「今日、おうちに帰りなさい」
「え――」
頭が真っ白になった。そんなこと、急に言われるなんて思ってもいなかったから。
「せっかくの夏休みなんだもの。お母さんに元気な顔をたくさん見せてあげなきゃだめ」
ソウイチさんも、シュウさんも揃って顔を見合わせる。
「シュウもカナタも……ソウイチさんも。あなたたち、ちょっとよその女の子に甘えすぎよ。せめて私がいる内くらい、ハルちゃんはおうちに帰らなきゃだめ」
やだ。もっと一緒にいたい。
山ほど教わりたいことがある。山ほど話したいことがあるのに。
「じゃあ食べ終わったら帰る用意してね。シュウ、送ってあげてもらえる?」
「それは……構わないけれど」
「決まり」
満足げに微笑んで箸を動かすサクラさんに、たまらずカナタが声を上げた。
「待ってよ、母さん。ハルがいたいなら、別にいいんじゃないか」
「だめ」
「なんでさ!」
「私がハルちゃんのお母さんなら、寂しくてたまらないからよ」
「「 あ、う…… 」」
その断言には、カナタも……私さえも挫けた。
理屈とか、そういうことじゃなくて、これは気持ちの話だった。
うちのお母さんなら、大丈夫ですよ。そんな言葉を口にすることさえ許さないほど、慈愛と厳しさに満ちていたの。
悔しいけど、でも……従うしかなさそうだ。
「な、なら……俺も行く!」
「カナタ」
たしなめるサクラさんの声にカナタは首を振った。
「もちろん、事前に先方の許可は取る。離れたくないけど、それ以上に……ご挨拶、しなきゃいけないだろ。母さんの言葉が本当なら、何日もハルを引き留めたご挨拶くらいはしないと」
「だとしても……あまり気を遣わせてはいけないわ。必ず、うちに帰ってきなさいね」
大人の言葉だった。
「で、でも!」
「ゆっくり恋を進める自信はないの?」
「――……っ、それは」
サクラさんの鋭すぎる言葉にカナタが項垂れる。
「ただ、一緒にいたいだけで」
「大事にしたいのなら彼女の家族も見つめてあげて。ハルちゃんが私に力をくれたみたいに……カナタにも力をあげてほしい。ね?」
サクラさんの優しさは襟元を正す厳しさも含んでいた。
ソウイチさんも厳しい人だと思うけど、それはサクラさんも同じだった。
そしてその厳しさは、どちらも……誰かを想う力でできているんだ。
悲しいくらい、私もカナタも子供だった。
だってね?
「ねえ、ハルちゃん。ソウイチさんから聞いたのだけど、気軽に会いに来れる距離なのよね?」
「は、はい。割と近い、です」
駅は近いし、車で一時間しない距離です。
「明日はお祭りがあるから、もしよかったら来てね? コバトも喜ぶから」
「あ……」
満ちていた緊張感に黙っていたコバトちゃんが恐る恐る私を見たの。
「……きてくれる?」
その問い掛け、ずるい! 行く! 行っちゃうよ! 浴衣着て!
もちろん、私の答えはYESなのでした。
◆
シュウさんのリムジンに送ってもらって、カナタとうちに帰る。
出迎えてくれたお母さんはあっけらかんとした顔で出迎えて「なに、帰ってきたの?」と言うの。カナタが持参したおそばとかを喜んで受け取るお母さんは平常運転。
だから気が緩んだ私は言っちゃった。
「こんな調子なら帰ってこなくてもよかったかな」
って。
よせばいいのにさ。
そういう瞬間を、うちのお母さんが逃すはずなかった。
「この親不孝者」
「あうち!」
容赦なく頭を叩かれました。
その力がまた強いのなんのって。スナップ効き過ぎじゃないのかな!
でもこういう叩き方をする時は、お母さんが本気で怒ってる時だから私は何も言えなくなりました。しょげる私を横目にお母さんは涼しい顔で、カナタに尋ねるの。
「うちのが迷惑かけなかった?」
「いえ。むしろ……ずっと助かっていました。それに甘えて引き留めてしまって、本当に申し訳ありません」
よどみなく言ってるようだけど、私は気づいている。カナタは少し、ううん……だいぶ緊張してる。
獣耳が捉えているよ。どきどきしてる心臓の鼓動の鳴るリズムの早さに私も緊張するの。
「春灯でよければいくらでも……と言いたいところだけど、こんなのでも帰ってくると嬉しいのよね。だから、ソウイチさんによろしくお伝えください」
「……はい」
頷くカナタは私と手を繋いで微笑むと、また会おうと優しく言って帰宅を告げたの。
思えばずっと一緒だったから離れがたくてしょうがなくて。帰りを見送る私の頭をカナタは穏やかな手つきで撫でてくれた。
「またな」
「うん……」
「そんなに不安そうな顔をするな。いつでもすぐに会えるさ」
私の頰にそっと口付けて、カナタは帰ってしまいました。
慣れ親しんだ実家で、家事からは解放されて。嬉しいはずなのに、心がなんだかカラッポだ。
なんだか持て余して居間へ戻ると、お母さんが冷蔵庫をチェックしてた。
「ほんと、急に帰ってくるんだから……好物も用意できないじゃない」
それはきっと、獣耳がなかったら捉えることのできなかったお母さんの呟きだった。
お母さん、私の好きな物作ってくれようとしてるんだ。
サクラさんの気遣いはどんぴしゃだった。だって……その呟きに籠もった嬉しそうな響きは、本物だったから。
「春灯、お母さんちょっと買い物行ってくるね」
ぱたぱたと忙しく買い物籠を手にするお母さんを見ていたら、なんだか無性にたまらなくなったの。だから思わず言っちゃいました。
「わ、私もついてく!」
それは中学までの私にはあり得ない提案だったから、お母さんは目をまん丸く見開いて私を見つめたの。
「春灯……あんた熱でもあるの?」
「ち、ちがうけど……お手伝い、したいです」
緋迎家では当たり前だった、ひょっとしたらおうちにいた頃から当たり前でもよかったかもしれない姿勢。子供のままでいたら身につかなかった姿勢で。
お母さんは一瞬顔をくしゃくしゃにして、それから私の頭を乱暴に撫でて言うの。
「少し見ない内にしっかり鍛えられてきたみたいね。じゃあついてきなさい」
「はあい!」
「……まったくもう。お母さんだって、春灯にいろいろしたいんだから」
照れくさそうに、だけどかわいいことを言う私のお母さんの後を、私は笑顔でついていくのです。
帰ってきて、よかった。カナタと離れるのはすごく寂しいけど、寂しくてたまらないけど。
それでも……お母さんに喜んでもらえてよかった。サクラさんに感謝しなきゃ。
つづく。




