第千八百九十四話
すこしではあるけど読み進めた「<叱る依存>がとまらない」に、報酬の話があった。
その報酬はお金とか、気持ちのいい体験とは限らない。
望ましくない状況を回避する、というケースも報酬になり得る。
ほしいもの、できるようになりたいもの。そうしたものだけじゃない。
避けたい場所、好ましくない人、近寄りたくない環境に近づかずに済む。
これも立派な報酬になる。
繰り返し家を出るほど、家そのものか養育者との関係性か、あるいは他の環境的要因が負荷になっていたら? そりゃあ、家を出ることが報酬になるから、何度だって家出をするだろう。周囲が無理矢理もどしてもね。
好ましくない相手を遠ざけることができるのなら? 自分のコンプレックスを刺激しておきながら、無自覚に語る気に入らない相手が自分にいちいち、コンプレックスまわりの話を持ち込み、悩みをぶつけてきたら? そんな相手には暴力さえ振るってでも遠ざけることが、本人にとって報酬になるかもね?
一律の基準があり、だれもがそれに従う、というわけではない。
個人の内側での感覚の話。
たとえそれが好ましくないとしてもね。社会的には暴力が連鎖して循環し、ろくでもない結果になる。言うなれば犯罪が起きると見越していたとして、禁止されたり、忌避されたりしていることだとしてもね?
言わずにはいられないし、やらずにはいられない。
なんなら、それが正しい文脈を持ち出してきて、声高に主張するかもしれない。自分の報酬を守るために。
それくらい、脅かされないことって大事だと思うの。
安心できること。安全であること。これらもまた、重要な報酬。
人が当たり前に旅をしていた大昔から人体がそこまで変わっていないとしたとき、その報酬は生きるうえで大きな支えになりそうだ。
学校できつい状況が待っていたら? そこは自分の生存を脅かす。
だったらどうする? 行かないことが報酬になり得る――……なんて極端かな。
でもね? そう感じる。
すれ違いを重ねて、とうとう自分をないがしろにし、人生を共にしようとせず、脅かすと感じる理由が増える伴侶との離婚がどう揉めるのか。悲惨だという話しか知らないなあ。そういう相手といる、という事実がもう本人にとっての苦痛になっているから。
そこまできたら? もう、一緒に居ることはできない。
同じだ。
学校にしても、会社やお仕事にしてもね?
そこにはもう、居場所がないの。行かないことが報酬になる。
心を許し、自分を信じることができない場所に居ることはできない。
そこで冒険することはできないんだ。
仕切りたがりはだれの心の中にもいて、こういう枠組みに従え、かくあるべしと訴える。それが法であることもあれば、ライフルである地域も。子を叩き、人を罵倒し、陥れ、追い出す抑圧であることも。自分を守るために「さあ!」と訴える。
学校に行けないとき、そのことに苦しんでいたら? 自分の中にいる仕切りたがりは「さあ行け。行くんだよ」と訴える。家から逃げ出すときだって。
まあ。人による。状況も、みんなちがう。だから、そうじゃなきゃって話じゃない。もしそう思うなら、あまりにステレオタイプを盲信しすぎまである。私、だいじょうぶ? 気をつけていこう。
さて、仕切りたがりは自分を責める。苛む。
あるいは?
だれかを責めるし、苛む。
それか、両方かもね?
基本的には一方的。双方向性はない。
対話について学ぶと「コミュニケーションはお互いに相手に領域を譲り合うこと」でもあるのではないかと感じる。関係性は、そうやって育まれるんじゃないかって。
それでも。やっぱり。
どれほどかけがえのない輝きに出会おうと、諦めなければならないときがある。
素晴らしい報酬に巡り会えることさえ、滅多にない。
なのに、手に入らないのだと思い知らされる瞬間がある。
結果がどうあれ、過程がどうあれ、命を投げ出さない限り、人生は続く。
報酬が生きることに感じられないとき、死を連想する。それが「ばかげた考え」なのか「いっときの過ち」なのか、あるいは「他に報酬に繋がる冒険や世界を知らない」のか。
別のだれかを比較対象にして、やり玉にあげても現状の慰めにはならないし? いまの自分の負荷への対処はわからないまま。
自分にとって「わかるかどうか」が肝心だし、感じ取れなきゃ進めない。
傷を負うことも避けられない。生きていればいつかは傷つく。一度や二度なんて、生やさしいものじゃない。数多く傷つきながら生きる。
前へ進め。
走れ。
心は私にそう願う。
悩む時間は永遠に感じられるほど、長引いてみえるからさ?
教授の襲撃から流れた時間の、およそ十倍から百倍は時間が流れているような気がするの。
だから影に追い立てられるように、求めている。
いいじゃん、もう。
しょうがないじゃん。
さあ、前へって。
これが現実だ。どれほど暴力的であろうと、これが現実だ。だれかに傷つけられようと、それが現実なんだ。
人は傷つけられたとき、そう唱える。
これが現実なのだから。
おおぜいの、そしてこれまでからつづく未熟と、荒れ狂う暴力に傷ついたとき、唱える。
いまはまだ、人は雨を止められない。台風をなくすこともできないし、なんの手入れもしなかったら草が生え放題の土地に待ったをかけることだってできない。だれかを変えることはできないし、心変わりをさせることだってできない。
起きたとしたら、そう思えただけ。
相手の中に、それを願うなにかが最初から存在していただけ。
叶わないことだってやまほどある。
結果に傷ついたとき、唱える。
そうするしか思いつかない瞬間に否応なく追いつめられる。
だから、どんな暴力に見舞われても「これが現実だ。さあ、前へ」と、嵐の中で進めもしないで立ち止まることを選ぶ。選んだらもう、そうでないと感じるすべてが暴力になる。追い暴力だ。ましましもあもあで足されることに耐えられないから「現状維持。なにもしないし、がんばらない。これが現実だ。自分は前に進んでる」ということにする。
結果はどうだった?
んー。
襲撃事件以来の私の悩みと苦痛の増え具合からして、大失敗。
傷つけられたと感じて、目を逸らしていた。
現実だろうがなんだろうが、知ったことか。
つれえわ。
無理だわ。
そんなのやりたくないっすわ。
その先なんか行きたくないっすわ。
延々と続く台風で、暴風に煽られてろくに前に進めない。やりすぎじゃね? っていうくらいの台風中継で「ここは! かぜが! やばくて!」と、その場に留まることさえできない状況。そんな環境で前へ進めっていったって!
どう考えても、風のない日に居心地のいい場所へとわくわくしながら出かけて、すたすた歩いたほうが早いし? 心身どっちもマシに決まってる。
できないことをどうにかしようとするよりも。できないできない、だめだめっていうときよりもね?
できることを積み上げていけるほうがいい。できるできるぅ! ってほうがいいんだ。
お掃除できる。お片付けも。ゴミ出しだってできるし? 料理だって、なんとかなった。去年の夏休みでカナタさんちに滞在してた時期、ツッコミどころはやまほどあるけどさ? うちじゃやらない、ひとり暮らしして初挑戦しそうなことにやまほど挑めた経験自体は「ま、いっか!」と思ってる。カナタんちのみんながどうかっていう比較はさておいて、ね?
タマちゃんと続けるストレッチとかヨガとか、食事とか服選びとか、日頃の過ごし方とか。そういうのだって一緒。
やりたくて続けられることって、できないことの先にあるんじゃない。
やりたいこと、やってみたいことの先にある。
興味や好奇心の先に、冒険したい世界が広がっている。
あんなところ、あんなやつといなくなってせいせいしたわ! っていうのと同じ感覚で、同じ報酬として感じるのなら?
それはさ。どっちも大事にするとして!
もしも私自身を誘うのなら?
冒険したい世界へ。私の中にある興味や好奇心の、その先へ。
ハンニバル・レクターみたいな興味や好奇心はノー。悪ふざけの大味ざっくり映画にいそうな「人と人とで文字通りの捕食者がいたら人々はどうなる」的なのもなし。
いや、そんなの例にも出さないわって話なんだけど。
あえて出すのはね?
コミュニケーションはお互いに相手に領域を譲り合うことでもあるのではないかと感じるから。関係性は、そうやって育まれるんじゃないかって思うから。
繰り返しになるけど、それには双方向性がほしいの。
そのためにも「私の領域はいどうぞ」って、まず自分から手を伸ばすにはさ?
なにがこようが私は動じぬ! 支配されず、また支配せんぞ! 安心せい! 私は安心しておる! さあこいや! と、覇王の器くらい「ドドン!」と構えてからかなーって思うから。
愛したいし、愛されたい。それって私ひとりで完結しない。
ずっとそういう感覚で捉えてきたけどさ。
ちがうな?
まず自分相手にできんのか! ってことだ。
いいとこどりしたくても世界は思いどおりになるわけないので、やっぱり傷ついて、失敗して、やまほど恥掻いて、ちょいちょい「これが現実。さあ先へ」なんてまやかしに逃げたくなるぞ? 右往左往しながらも「ああ。これが私だわー。さあ、どこに行く?」って開き直るんじゃ足りなくて、私になる道は果てしないものだけどもさ。
自分を満たし、癒やし、幸せにできること全部やってからでも遅くない。
焦るには、絶望し諦めるにはまだ、早すぎる。
孤独はなにもつらいものじゃない。
ぼっちもそう。
ほんとのところは、ひとりを楽しむ術なんていっぱいある。
そういう生き方も。
見つからないから「あなたしかいない」と押しつけるのはたやすい。恋愛でそれっぽく語れもするけれど、ひとりぼっちという国の繁栄なくして望ましい他国との交流は得がたいものじゃないかな。
ひとりを越えてからなんだ。
ふたりの幸せに向かうのは。愛しい人や、なにかとの幸せに旅立てるのは。
ひとりを越えてから。
だけどふたりになって、自分のいろんな場面に気づく。
いいことばかりじゃないから、領域はいどうぞじゃなくて「そっちが領域あけわたせ!」とか「リソースよこせよ!」とかって荒ぶる人さえ出てくるし?
そういう人たちの荒ぶりを体感したし。
私自身の中にもあるものだし?
人生、つらい。
それでもどうしたって、自分ひとりで得られない幸せは世界にやまほどあふれている。
一年の体育祭で恋ダンスしたけど、しみじみふり返っちゃうなあ。
なんとなくそれぞれがそれぞれの思うままに思い描く「夫婦」を越えて。あなたとふたりで、ふたりを越えて。それにはやっぱり、まず自分自身のあれこれが浮かぶから。どうぞ、ひとりを越えて。
それなんよ。
私は私を越えてんの?
越えてねえよなあ!
傷つくと、たぶん直視できなかったり、身動きが取れなかったりすることさえ、報酬になりえちゃうぞ?
もちろん、だからって安易に「じゃあ傷に触れちゃえ! いてー!」ってやるのもだめ。おばかか。
覇王の器なんてさっき思いついたけど、勉強してきた記述の中に釈迦が「いやいや。どんなことにも動じない悟りなんてないぞ?」って言ってなかった? 釈迦がそれじゃ私にはとうてい無理では?
動じるし、怯むし、傷つくし。どんなやべえ修行しても身体は普通に傷つくし、心もそうだし、病にだってかかるし、やがて死ぬぞ? 中傷を受けたらへこむし怒るし叱るし、大事な人が心変わりをしたり、大事に思ってくれていなかったらうろたえるし嘆くぞ?
それでも「やる!」っていう境地が悟り?
勇気の第一歩が、悟り?
わからん!
さっぱりわからん!
枕草子の清少納言はその手のお話を聞いて「おー」って思ったそうだけど、私にも「おー」って思えるだろうか。正直、かけらも自信がない。
興味はある。
これってまるで魔界転生の冒頭の森宗意軒みたい。いろんな豪傑たちを転生させて、十兵衞と戦う小説。映画にもなっている。りっちな登場人物たちがでてくるんだけど、その冒頭で老いた宮本武蔵に野心ぎらぎらで会いにきた男が言ってたような気がする。
ところで魔界転生の著者さんって、えっちなシーンもある作風なイメージ。甲賀忍法帳なんか、漫画からのアニメになってたけど、あれもかなりのものじゃない? ああでも他の著者さんだけど剣客商売なんかもなかなかになかなかなので、当時の流行りなのかな? なぞ。
話が逸れてるぅ。
逸れてるけど続けちゃえ。魔界転生の豪傑たちも、やがて老いる。やりあいたい豪傑がいようとも、年の差もあり、対決叶わずってケースだって。みんなの中に欲がある。どれほど老成し、周囲からはひとかどの人物とうたわれようと、死が迫る中でより一層もえる欲がある。
それまでの彼らなら、器があったように思えたけれど。実際には、欲を選び、女を抱いて、女の中から転生する。その過程を読みながら「ああ、でも、そうなっちゃうのかあ」ってしみじみ思っちゃうくらいには、私の中に「欲、つよし」って感覚があるんだ。
大きく揺らぐんだなあ。
歳を重ねると、ますます「よかったことにした!」けど実際はちがっていたなにかの揺り返しが、自分の心を揺らす。どんな人生を過ごしても、大なり小なりあるものじゃないかな。
おーって思える話を聞いたとき、それで打ち消してなかったことにできる! って話じゃないんだな。自分の心に支柱を作り、彩りを足していくっていう、そういう筋なんだろう。
だとしたら?
覇王の器なんてざっくり言ったけど、もっとずっと緻密で、かつ整備の必要なものなのかもしれないね?
それは「ひとりを越える」も一緒でさ。
教授はできなかった。
黒いのはなんとかやってた。ミコさんもなんとかやってるように思える。
でもなんとかしてたふたりにしたって、揺らいでないわけでもないだろう。
慣れたってことでもないんじゃないかな。
傷つくことに慣れたら、傷つけることにもまた慣れてしまう。痛みに鈍感になるから。ふたつはもちろんちがうけど無理は心身に、日常の振る舞いにでるもの。
だからといって緻密に、正確にやるのはきびしい。
ずーっと、生きている限りつづくんだから。
そう考えると。
人に委ねたり押しつけるの、無理しかないな?
だってたいへんすぎるもの。
みんなどう育ってきたか、なにをどう感じ、どう考えるのかがちがうのに。
人に結びつけるの、無理しかないぞ? わりと末期的だぞ?
共同体として、利他共生って話がでてくるのわかるな?
だけど同時にまず自分、迷惑かけるなって声があがるのだってわかるなあ。
ままならない世の中なのだなあ。
みんな苦しんでんなあ! 私もだ!
『童丸出しじゃなあ』
うんざり声のタマちゃんに「ごめんね!」と返す。
『呑気』
たしなめるようにぴしゃりと言われてしまいました。
でもさあ?
実際そういうことなんじゃない?
だからってやっぱり、一方的なだけなのも、領域の譲り合いがないのも、淀みを生むんじゃないかな。
『故にお主の魂は淀んでおる、と』
ねー。
御珠がばっちくなったのも。におっちゃうのも。
私の領域をどんどん狭めながら「これが現実」とか「どうにか先へ」とか、自分自身を置き去りにしてたから。そりゃあ淀むよ。
まず私のためにできること、しっかりやらないと。
ひとりを越えるなんて、とてもとても!
『ふり返るのなら、できたこと、できることを並べてみせよ』
そうだね!
高校に入ったこと、よかった。トモと話せたこと。
『いや。いますぐひとつずつちまちま並べるくらいなら、書に記せ』
それもそっか。
赤ずきんとオオカミのトラウマ・ケアでもやってたなー。
森の賢者がオオカミたちに宿題を出すの。
自分のいいところ、自分が成し遂げたこと、自分が以前より進歩したところを、なるべくたくさん書き出すんだ。
順番どおりにやらなくていいよ? とにかく書けることから、いくらでも書くの。
話はそれからだ。
「やってみるか」
呟いて、身体を起こそうとする。眠っているぷちたちが目を覚まさないように気をつけるのだけど、すぐに挫折した。抵抗を感じたから確認したら、三人とも私のTシャツを握りしめていた。経験上、外せない。
ならばと金色を出して、Tシャツにカンガルーのような袋をこさえた。三人がすっぽりおさまるようにしたけど、今度はTシャツが「いやいやいやいや! パーカーじゃないっすから! 三人のこどもを支えるほど強靱な布地じゃないっすから!」と悲鳴をあげるように、繊維がきつく引っ張られる。なんならなにかが破ける音がする。
しぶしぶ半袖パーカーに化かす。それはそれで重たい。
カンガルーに心の中で敬礼しながら、そろりそろりと机へ。
そりゃあスマホに打ち込んでもいいんだけどさ。
こういうときは、記す情報と指との間にもうワンクッション挟んでおこう。
記す手間がかかるほうが、味わって書けるかも。
なんてね!
最近ぜんぜん書き物してないから、気が向いただけ。
ヒヨリが教えてくれたけど、ガラスペンっていうのがあるんでしょ?
万年筆なら中学時代に買ってもらった。鉛筆、シャーペン、毛筆。他にもいろいろ。
書くという動作を味わう品がいっぱいある。
満喫しながら書いてみるのもいいな。
小学校時代の色鉛筆とか残ってるし。
久しぶりに私向けのノート、作ってみるかー!
内容は決まっている。
自分のいいところ、自分が成し遂げたこと、自分が以前より進歩したところ。
今日だけで終わりだなんてもったいない。
増やしていくこと、それ自体が報酬になるよ?
そんじゃま、いっちょ久々に書いてみますかー!
つづく!




