第千八百九十三話
およそネガティヴな感情が引き起こされたとき、ふたつのとうそう選択肢を提示する。
ひとつは闘争。
もうひとつは逃走。
ゲームだと敵は主人公を放っておかない。
だけど実際には食と生活のエネルギーは常に有限だ。余裕のない生きものたちにとって、戦うことそのものがエネルギーを消費する行動だ。肉食獣は生きるために狩りを行ない、毎度の狩りで確実に成果が得られるわけなんてないから、仕留めることができるまで体力をやりくりしながら狩りを続けなければならない。仕留めることのできる生きものだけを狙うし、それだって保証はない。地味にたいへん。ライオンだって苦労する。仕留められたばかりの屍肉を狙うハイエナの戦略だって意味がある。
食べるために行なう。命を賭して。
けれど営みは食べることだけじゃない。居場所、住まい、巣の確保。自らの捕食者がいるのなら? 子を成すのなら。他にもあらゆる場面で安穏とはしていられない。
脅かされ度を感じたら、戦うか逃げるかを連想する。
じゃあ営みのすべての選択基準は、脅かされ度が決めるの?
選択の自由があるとしたら? 運に恵まれている。そう思えるよ。
選択肢が「最悪」と「最悪の一歩手前」だったら話は別だけど。
最悪の基準はどう決める? 自分の中にしかない。
他者を利用して、相対的に比べて基準を見いだす? できないでもないけれど意味がない。
自分の状況はなにひとつ変わらないもの。
自分の中にある負荷の意味合いもまた変わらない。
ただ、あらゆる基準が自分の内側だけで決まるわけでもない。
自分ひとりで生まれて、自分ひとりで大きくなって、自分ひとりで食べものを調達し、住処を整え、ひとりで生きることはできない。
住む場所なら? 建築された家なら建材と工事と人材がいる。建材はひとつところにあるわけじゃない。運んでこなきゃね。木材がいるなら、加工前の樹がなきゃだめだし? 樹が生えて育つまでに必要な時間と栄養と環境だって。
食べものひとつとってもそう。
あ。
自分が存在するうえで必要なすべてに頭を垂れなきゃって筋じゃないの。
いろんな経緯で妊娠、出産があり得る。育児もそう。
ひとつひとつの要素を取ってみても、それぞれが完璧か、それか現状維持すべきか、みたいな議論とは切り離して考えたいし、いずれにせよ限界はあるだろうし? だからって止めることができなかったり、止めにくかったりする。
実はあらゆる要素が絡みすぎているから、評価ってそうそう下せないの。個人の内側に留まる話だ。それをだれかと共有することができたら、うれしいね。でも、だれとでも共有できるわけでもない。ただ、それだけ。それでつい、みんなと盛りあがるためになにかをネタにする。いいことばかりじゃない。ひどい扱い方をすることだって多い。
つながろうとする、そのための努力を続ける戦いを選ぶか。あるいはやめておいたほうがいいと離れる逃げを選ぶか。他にもいろいろある。相手に肉体的か精神的か、あるいは両方の暴力を振るい、苦痛を与え、支配しようとする戦いを選ぶか。それともどうにもならず、自分をどうにもできず、相手をなじり、非難し、評価を下しまくって怒りと叱りに支配される逃げを選ぶのか。
闘争にも逃走にも、人と状況の数だけ定義があるんじゃないかな。あるいは、あったんじゃないかな?
昔のドラマに「痛いか! だがお前を殴った俺の手も痛い!」みたいなセリフがあったそうだ。
言い返すとしたら?
そうだな。「けど殴ってせいせいしたあなたとちがって、あなたに殴られた私は痛いだけじゃなく、あなたがとてもきらいで怖くなった。あなたを見ると痛いだけじゃ済まない。自分のことだけ言って済ませるあなたのそばにいるのが生理的にきついし、痛い」って感じ。
正当化される暴力はない。また、あるべきでもない。
だから叱るについても、正当化はできない。
すると今度は悩みが浮かぶ。
どれほど言っても車道に飛び出そうとするぷちがいたら? 私は叱ること以外で、その子に車道がどれほど危険で、飛び出さないでほしいのかを伝える術を持たないことになる。
だけど預けられる先もなく、お金にも余裕がなく、どうしても一緒に外に出ざるを得ない状況だとしたら? 仕事も生活も余裕がなくて頭がいっぱいいっぱいで、ろくに食べたり休めたりできずにいらいらしていたら? そんなときに飛び出していったら?
叱るだろう。感情的でなくても、叱るようになるだろう。
ひとまず、飛び出さなくなるのなら。
そうして、先回りをして、ぷちのすることなすこと、目標から、語る夢にいたるまで、すべてに叱るようになっていく。
ぷちからしたら?
なにをいってもケチをつける、いやな人だ。離れることのできる他人ならまだしも、それが家族となったら最悪だ。学校や職場で離れることのできない距離感の人でも変わらず最悪。
そんな空気を察するときほど「叱るこっちの気にもなれよ」なんて思っちゃいがちなんだ。
けど、叱ることでなにかをした気になっているだけ。
おまけに相手がするべきことを怠っている、とさえ感じて、ますます傲慢に抑圧的になっていくだけ。
意味がない。
手段と選択に、自分しかいない。
自分しかいない手段と選択に、相手を無理矢理おしこめようと圧をかけたって?
無駄。
無駄なんだ。まったくの、無駄。
意味がない。
伝える術がない。生きるペースが合っていない。
結局そこんところがネックだ。
自分の中にあるネックの対処をだれかのせいにして、叱ることで済ませようとしたって、自分のネックは変わらず存在し続ける。
そのとき私とぷちの間で循環するのは「相手のせい」で「相手が悪い」という怒りと叱りだけ。しかも、このふたつは膨らんで育っていく。傷と痛み、苦しみと不信感をばらまきながら。
おまけに「聞く」ことも「共感する」ことも置き去りのまま時間が流れる。年月が重なるほど、しない・できない状態からする・やってみる状態へと切りかえるのが怖くなる。怖さのぶんだけ、切りかえスイッチが重たく錆びつき、元通りのやり方に戻りたくなる。なんならこれまでを正当化するために躍起になる可能性さえある。
でも、これを無駄だと断じることはできない。
無駄だと感じるのは、あくまでも無関係でいられる自分の一面。だけど無駄だと感じることから離れることのできない、もう一面の自分には、それから離れがたい流れがある。
こどもは叩いて教えるもの、という親が百人いたとき、そのうちのこどもがいったい何人、同じ考えでこどもを叩く親になるだろう。
こどもや親につらくあたる教師が百人いたとき、そのうち何人がその後に受け持つクラスで、変わらずこどもや親につらくあたり続けるだろう。
でも待って? そもそも過酷すぎる教師の仕事は変わらず続いているというけれど、それはいったいあと何年、何十年、何百年を経たら改善されるのかな?
そもそも、こどもは叩いて教えるものだなんていう考えは、どうやったら「それはおかしい」ことになるんだろう? 広まるまでの間にどれほどのこどもが叩かれてしまうのか。真夏に炎天下で行なう体育で、外で、水分補給の機会もろくに与えず熱中症になるこどもは、これからもでてしまうのか。場合によっては死んでしまうことさえあるというのに。
熱中症が起こりえるときの運動で、必要な対策はなに?
運動しない。元も子もないけど、いちおうあげとくね?
他には?
適宜、日影で休む。動いたら水分補給を忘れずに。そもそも長時間、無理して動かなきゃいけない運動は避ける。
熱中症が起きたときに備えて、冷たい水タオルや経口補水液の備蓄も。体育のときは、すぐに出せるように携帯し、使うこと。冷房が効いていて日射を避けることのできる部屋、たとえば保健室に迅速に運び、救急に連絡できること。
このあたりがまず浮かぶし? これくらいがまずむずかしいって話。
どんな先生であろうと、生徒とどんな関係値であろうと、迅速に行えるようにするには先生だけの裁量に任せちゃだめだ。でもあまねくすべての学校に、そこまで気を配ることができる体力があるのかっていったら、それはそれで話が変わってくる。
たまたまできない、したくない先生や、先生頼りで放任といいつつ単にほったらかしてるだけの学校とかちあい、ぷちたちを預けていたら? だれかが熱中症になる、なんてことになりかねない。そのとき私は強く学校をなじるし、叱るし、怒り狂うだろうけど、最悪の組み合わせに出くわす可能性は現状では永遠にゼロにはならない。低減し、ゼロにする動きがなきゃ、減っていかない。それには学校や先生たちの協力が必要不可欠で、そもそも学校や先生たちの利益に繋がっていかなきゃ始まらない。
結婚してようやく「相手にはトラウマがあるぞ?」と気づき「待てよ? 私にもあるぞ?」と気づき、とどめに「親にもあるやんけ!」とか「こどもにも既にトラウマが!?」とか、怒濤の展開で問題氷山の一角に囲まれてしまうこともある。伴走してもらわなきゃ困る結婚相手は「さあ、自分を回復して! 成長させて!」と全乗りなだけでなく「それはちがうと思う」とか「あなたの思いこみじゃない?」とか、好き放題なパターンだってあるし? 相手の親の影響を見て、とどめに相手の祖父母が相手の親に影響を与えていることに気づく場合も。もちろん、自分と自分の親にもありがちだ。
全員が利益に向かって伴走する。
正しいありように思えるし、必要だとさえ感じる。
けどそれは条件をつけた変化を回復とタグづけして、共感して挑める伴走者でなければ、まず伝わらないし、伝えようもない。家族のみならず、互いの親や親族までそうだったら? 孤軍奮闘するほど、心がどんどん削れていくばかりで、参ってしまう。
他者を変えることはできない。
だから「ああ、この人は、自分を変えるほどには、私を想ってくれはしないのだなあ」と痛感する。愛されていないのだ、とさえ感じるかもしれない。付きあっている頃はよくても結婚して、ふと気づくの。こどもの立場でいうと、親にみる。ああ、この人にとって自分はほんとに、とことん、大事ではないのだなあ、と。
もちろん、相手にとって自分がそう見えることだって大いにあり得るわけでさ?
叱ること、なじることの無駄さを痛感して、だけど変わらないのだと気づいて、死んだように生きることに疲れて浮気したり、離婚したり。そういうエピソードは海外ドラマの恋愛シーンでありふれすぎているほど、何度も見た。
でもたぶん、それほどフィクションじゃないんだ。フィクションで済んでたらいいのに。
諦観や諦念と、そんなものに人生の貴重な時間をだめにされるのが耐えきれないから、変化を求めて行動する。それは逃走なのか、闘争なのか。あるいは、第三第四の選択肢なのか。
結局さ。
ネガティヴな感情から浮かぶふたつのとうそう以外に、選択肢はある。
選べないこともある。
末期な症状の病にかかって、現状では治療できないとわかるときみたいに。
打つ手がないとわかったら、あとは受け入れることしかない? 受け入れた先なんか、考えたくもないようなときにはどうしたら?
わからないよ。そんなの。
わからないけど、結局さ?
怒りや叱りに参っているとき、そこにはたしかに痛みや苦しみがあるんだ。
だったら結局、痛みや苦しみの低減を目指す以外にない。
いまのところ、以前だした結論のまま、揺るがない。
ひとりにできることには限界ばかり。それでも動かずにはいられない、やらずにはいられないことなら、なんとか継続できるような気がする。
叱りや怒りを膨らませても、それは私の心を頑なにして、視野を狭めて、苦しめるばかりだ。
やりたくなくても心が苦しくなるとやっちゃうのだから、具体的な対応策を作っては自分にできることを増やし、縁を広げて伴走者が増えたとき、一緒に対応策を広げていけばいい。
じゃあ、私の痛みや苦しみを減らすことから始める?
それって、なんだ。
シュウさんや教授が相手のときは?
どうやったら、減らせた?
さっぱりわからない。
霊子を転化じゃい、転化の技術を磨くんじゃい! と意気込んでいたけど、小手先だ。
いや、手段が増えるんだから、大事だし学ぶけど! 修行するけどさ?
痛みや苦しみを低減、でしょ? 隔離世で。
それってどうやったらいいんだろう。
その人の中にある叱りや怒りを形にする、とか?
いやいや。
見たくなくない?
本人が見るかどうか決めることじゃない?
見るだけでかなりきついよ? 考えるだけで頭も心も「わー」ってなるもの。隔離世で形にしたら、相当きついって。
なのに「あなたにはこれしかないの!」と力を振りかざしたら?
それこそ暴力だ。反撃は必至。相手にとって「あ、それいいな!」って思えないんだったら、意味がない。仮に転化しようにも、元は相手から生じる霊子なら? 相手の気持ちが制御する。制御権は奪えないし、奪うべきでもない。
どんなにやっても水掛け論のように、なんにもならない。
治療にしたって、本人の希望と意欲がなきゃ続かない。それがたとえ大病であろうとも。治療が苦痛を伴うものであれば、余計にそう。治すべき、なんて決めつけた枠組みに圧をかけて押し込めようとしたって、つらいだけだ。
仮に戦いになるのなら?
相手の主張や、たまりにたまった怒りや然りをすべて残さず出してもらうしかないんじゃない? だれにも話せず、聞いてもらうことができなかった痛みや苦しみを、とにかくぜんぶ吐きだしてもらうしかないのでは?
いや。
それも拙速だ。
そもそも越権行為だ。
話す話さないは、本人が決めることなんだから。
仮に今後、出くわすだれかを相手にするのなら?
そのだれかが、安心して、安全でいられる環境下で、かつだれも脅かさない、周囲にとっても安心で安全な環境下にしたうえで、本人が望んではじめてって感じだ。
だとしたら、必要な段階は?
暴力の渦巻く現場をおさめること。
その人が安心していられる環境。
本人が望んだとき、聞く人。
すくなくとも、このみっつがいる。
最後だけ意識してちゃ足りない。
でも思い浮かばない。実感が足りない。
突如として奇襲した教授や、カナタと傷つけあうわ相手などお構いなしに無茶するわのシュウさんを例にしてみても。あるいは、だれかの霊子を食らっても食らっても腹ぺこ状態で気が狂いそうなほど参っていた、私が入学当初に手ひどくやられたユリア先輩を相手にしてみても。
場を収めたところで、相手の中にある苦痛は減りやしないのだ。
より強い力で制圧したら? ますます火に油を注ぎかねない。
基本の想定は一対多。私たちが、多の側。これまでずっと、そうだった。
心が暴れて苦痛に制御を委ねると、果てがない。
こないだのビルの爆破跡地で相手をした謝肉祭遊園地なんかは規模がちがった。苦痛から生じる霊子に限界がないと、私たちがどれほど邪を斬ろうと、黒い御珠を壊そうと、相手が安心できる状況に運ぶことはできない。
だってアダムは死んでしまったのだから。
「ああ、そっか」
あれからずっと、折れてたんだ。
隔離世の戦闘でどんなにがんばってみても、心は変わらない。
だれかを変えることはできない。
救うことだって、できやしない。
できることがあるとしたら、本人に意思があるとき、一緒に伴走することまで。
「――……そんなのやなんだよなあ」
アダムみたいに終わってしまうのが、いやだ。
なのに具体的な対応策がひとつも浮かばない。
残業代がつかず、パワハラセクハラ当たり前の職場で心がくたびれている人に「その会社、やめよ?」って言うのはたやすいけれど、実現するのはむずかしい。本人にとって、やっとの思いで決まった会社だったら? 再就職先が見つからなかったら? 社会福祉に繋がれば、で済まないケースだってある。
繰り返し繰り返し、私は逃げることって大事だって思ってきたし、社会福祉を利用するのも大事だって認識しつづけてきた。でもその決断の重さは、人によってぜんぜんちがうのだ。その決断に対する感情も、そう。できない、いやだ、むり、という人に「お前のせい」って済ませるのは、あまりに自分勝手な言いようだ。それはない。
同じ毎日が連続する。
そこではケアが循環する。
ただただ居るだけ。
なにも脅かさないでだいじょうぶだし、脅かしてこないの。
そういう環境を現場で作りあげればいいんじゃね? なんて。
いや。相手がそう思えるように整えるのは、とことん骨が折れるし、短絡的にはいかないよ。
いまのままじゃ手詰まりだ。
隔離世や現世で戦闘での接触になる、もっとずっと先。あるいは手前の毎日を彩る日常から、なんだもの。そっちがつらかったら、戦闘でなにしようと意味がない。
「黒いのめー」
本はもうずっと前に閉じて、枕元に戻した。
ひっついて寝ているぷちたちを撫でながら、遮光カーテンで薄暗い部屋で目を閉じた。
隔離世とは、言い得て妙だ。
世の中から隔離された場所でなにをしようと、そこで得た尻尾だ獣耳だの、鬼だのなんだの、星を出せたりすごい速度で走れる力を得ようとも、現世の日常を生きる他の人たちの心までは変えられない。
隔離された世界。
黒いのが関わっていそうな、この世界のあり方に学ぶ。
私たちの心は、繋がってない。
それゆえに、思いを馳せる。共に感じようとし、ときには大勢ですごいことだって成し遂げる。文明社会なんか、まさにその結晶体。意識しがたいし、いろんな問題もあるし、人と人の対立の理由にさえなるけれど。
繋がっていないからこそ、繋がりたいと願う。
徹底的に、とことん、ひとはひとりでひとりぼっちだからこそ、だれかと出会い、一緒に過ごし、ひとりとひとりで対話をしながら安心と安全の中で幸せを育んでいくことができる。
心を寄せあって、ようやく繋がれるときもある。でもそれは、ずっと続くわけじゃない。疎かにしたり、相手から仕事だけに心を寄せたら? 離れていくよ。
お互いを隔離しあうのは、あまりにさみしい生き方だ。
だけど隔離壁は苦しみや痛みに出会うたびに増えてしまう。
安心と安全の中であれば壁は減るかといったら、そんなこともない。
本人が望み、こつこつと一日一日の挑戦を重ねていくことでしか、シャッターは開いていかない。
ひと肌を望みすぎて執着していたら? 触れるだけで勝手に開くことはあるけれど。数多ものシャッターで押し込められていた負荷やさみしさが、どっとあふれだして暴走してしまう。だから、そういう隙を利用したあけ方も正直あんまりよろしくない。
そんな風に思っちゃうからさ?
聖歌ちゃんのように、あなたが安心できるように私はハグする! という決意が眩しい。
これまでの戦いをふり返るほど、彼らが安心できるように必要だったものを、戦いの中で渡せる気がしない。戦ってる場合じゃないだろ、とさえ思うのに、彼らを止めるためには刀が必要だったのも事実でさ?
現場をおさめるターン。安心できる環境。望んだときの聞き役。
最初に刀が必要だった。
それが飲み込めないし、つらいんだ。いやだし。
制御できない苦痛にもがく相手は、いわばサビ。いちばん盛りあがっている。言い換えればいちばん暴れずにはいられない、制御できない状態。
教授のように、それをどうにかするべく攻撃性に転化して、私を捕まえて拷問する人が今後でてきたら?
ぜったいにもう無理だ。次なんか、耐えられない。前だって耐えられなかったのに。
いやだ。いやだいやだいやだ!
「――……」
どれほど経ったろう。
深呼吸を繰り返しながら、自分をなだめる。
そう。相手はとことん追いつめられて、手段を選ばなくなっている。
もっとも過剰な状態だから、こちらもなんとかおさまるよう、手を尽くす。
初手がエスカレートし放題。そこが怖い。
もっと悲惨な体験をする羽目になるかもしれない。
ぜったいに、いやだ。
もういやだよ。やめてよ。
「――……」
深呼吸のはずが、荒い。
じっとりといやな汗を掻いていた。
そんなに傷ついてたなんて認めたら、壊れてしまう。
ほんとは。
いまも。
たまに夢に見ているなんて。
そう認めてしまったら?
この世のどこに、私にとって完璧な安全があるの?
戦いの中にはない。
ぜったいにない。
「ああ」
いやだ。
関係ない世界にいたいよ。
無理なのわかってるよ。
強くなりたいよ。
自分の怒りや叱りをだれかに叩きつける侍にはなりたくないよ。
ぷちたちにとって安心でいられる私でいたいよ?
楽しいことしてたいし、そっちにいこうよって言える私でいたいよ。
並べた自分の願いに、無理だと感じたり、いますぐ完璧ってのはむずかしいって知ってたりするもうひとりの自分が困ってしまう。
だから学んできた私が、音頭をとる。
ひとつひとつ、解決していこう。できることを増やしていこう。
問題は小さく小さく切りわけて、解決して増える「できること」を徐々に徐々に積み上げていくの。
怖いよね。そうだね。ここはだいじょうぶだよ。ちゃんと今日のような日が続いていく。
私にはそういう居場所がある。
試せる場所も、修行できる環境も、支え合える人たちも。
手段だって、こつこつ増やしている最中だ。
ぜんぶ、ゼロじゃない。思ったより世界はきつくて、苦しんでいる人もいて、ときにはトシさんの好きな昔の曲の歌詞みたいに弱い者がさらに弱い者を叩くけど。それでも、そればっかりじゃない。
金色から繋がる縁がいっぱいあった。
刀を得たときもそう。
歌だって。
どんな日を過ごしたいか悩みに悩んで選んだ高校でも。
願いはシンプル。愛したいぞ? 愛されたいぞ? どっちも欲しいんだぞ?
それにはひとりじゃいられないの。
だれとでもは無理そうだよ。悲しいのか、そうでないのかもいまじゃすっかりわからないけど。変わる、という基準でみても、むずかしいよ。
それでもひとりじゃいられないの。
いまある縁は奇跡。心を寄せて大事に育てても永遠はない。
家族でも。恋愛でも。友情でも。なんでもそう。
心を寄せ合えるとき、育んでいく。
無理ならやっぱり離れてしまうし、離れていくよ。
でもその結果よりも、いまどうしたいかなのよ。相手はどうなのか、なのよ。
そのうえで、愛したいぞ? 愛されたいんだぞ?
目標として捉えるのなら、いっぱい段階があるぞ? 続けて一緒に居ることのできる人がいたら、それもう宝物なのよ。
その宝物に囲まれながら、いまもまだ怖くてたまらないんだよ。
愛されていると確認したくて、お試し行動を始めたら? 目も当てられないことになる。
相手を試す時点で、もう終わりなんだ。
自分を満たそうとすることができないとき、それを相談できずに相手を試してしまうのなら、その渇きを癒やせるのはまず自分だと忘れたまま、足のつく浅瀬で溺れているようなものだから。本人にとってどれほど怖くて足掻かずにはいられないとしても、きついよ。
力を抜いて。ちゃんと浮かべるよ。
相手への気持ちを確かめるのは、自分に対して。
相手の気持ちを確かめたいのなら、日々の中で。
日常に溶けているから。
あらゆるものが。
戦場は極端さと過剰さの坩堝。トラウマを量産し、苦痛を際限なしに増やしていく。
その後遺症に苛まれている。
私は日常に触れたいのに。根っこを辿っていきたいのに。
苦しみミルフィーユがどかんと乗っかって、幾重にもシャッターガ下りていて、途方に暮れてしまう。
眺めるほどに私の傷が刺激される。怒りと叱りが噴き出てくる。
生還者が生還する状況に陥っている人たちを助けたり、生還者としてできることはないかと活動すると、自分の生還した状況の脳内再演を促してしまったり、だれかの生還に傷を刺激されてしまって、回復ができなかったり、傷口が開いてしまったりする場合があるのだそう。
学校の訓練や体育はいい。
でも、二年生になってからの戦いの数々は私をどんどん萎縮させていく。
参ってんじゃん。
しっかりがっつり。
傷ついてんじゃん。
いろんな死を見て、ときに黄泉路に送り届けたりもした。
まるでなにかのショック療法みたい。
無理なら根を上げればいい。いますぐにでも終わる。
刀もそうだ。金色も、狐憑きも。もしかしたら、ぷちたちの存在さえ。
だけどそれはいやだ。ぜったいに。
私のへこたれに負けてなるものか、譲ってやるもんかって。結ちゃんじゃないけど、強く思う。なのに同じくらいの強さで、あんな目には二度とあいたくないって怯えている。
殺しあって死んだ人たちを見送るなんて。神使、ほんとは楽じゃない。
他に術がないし、できる人もいないし、やらずにはいられないからやる。そんなノリ。
侍もそう。きつい。
私の苦痛も。これまで会っただれかの苦痛も。
そんな苦痛にどれほど陥れられようと関係ない。止めたいし、止めずにはいられない。
ようやく落ち着いて話を聞けたとき「ああ。くそ。もう!」と、愛したくなる瞬間がある。
矛盾を感じる。
教授を憎み、彼にされた仕打ちを怨み、深く傷つきながら、それでもシャルを愛したい。
それには分けるしかないようであり、分けられないようでもあり。
やっぱりどうしたって、私の傷付きは、愛したい気持ちとは別に存在する。
苦痛と愛したい気持ちがぶつかりあって、落ち着かない。
先がないの。
見つかってないのは、そこだ。
音頭をとる勉強してきた私には申し訳ないけど、いま願うのはそこなんだ。
過ぎてなお終わらず、凍りついて心に漂う。愛したい気持ちが太陽で、そのときどきの私が地球なら、苦痛は月。私の周囲を漂い、太陽に照らされて露わになる。
その苦痛を、どうしたらいいの?
太陽をなくしてしまえばいいの?
そうは思えない。
思えないのに、痛いんだよ。ずっと。
つづく!




