第千八百九十二話
自分の感覚は変わる。
トマトを食べると口の中でかゆくなるのが、やがて気にならなくなるみたいに。
あ、別に身体にぶつぶつが出るとか、呼吸困難になるとか、そういうことはなかった。
いわゆる食べものアレルギーなのかどうか。それはそれこそ、厚労省の食物アレルギーの資料を見てどんなものかを調べたり、お医者さんに見てもらうのがいい。わからないままアレルギーうんぬんかんぬん言っても始まらないからね。
脚色した例のように思えるけど、ビッグバンセオリーのハワードがピーナッツアレルギーだ。食べるとじんましんが出て、皮膚が腫れ上がり、呼吸困難に陥る。わりと初期のシーズンの劇中で彼は何度かアレルギー症状を引き起こした。
洒落にならないので、だめ絶対。お酒を強要するのも、無理して呑むのと同じくらいダメ。それってつまり、絶対やめろってことだ。強いことばで表現するのは、こういうとき。
やがて刺激もあまりどうってことなくなる。そうなると、もはや前の感じが思い出せなくなる。それこそ自転車に乗れるようになったら、そうなる前のふらふら感を再現できなくなるくらいにね。
ニンジン、ピーマンの味が無理な時期の「うっ、こいつめ!」とかさ? とろろを食べたときのかゆさとか。あるいは生理的にどうしても無理って食べものを口に入れた瞬間に吐き気をもよおして、なんどか「おえ!」ってなっちゃう感覚さえ、だいじょうぶになったらもう思い出せない。
昨日の自分は今日の自分とはちがうから、メモを残しなさい。記録なさい。そういう教えをシオリ先輩はプログラムを習得するうえで学んだそうだ。プログラムだと? 整理したコード、適切でだれでもわかるコメントを残すと、読みやすくて再利用も改修もしやすいのだそう。
それくらいのノリで過去の自分はいまの自分とはちがうと踏まえると?
昔やったもんね、知ってるもんね! は、実のところそこまで確かなものじゃなくなる。
学校でいえば五教科にしても時が流れれば内容も変化していく。変化しそうにない歴史にしたって、研究によって変わることもあるし? 論文で発表されました、はまだまだ初期段階。長い時間を経て、査読され、引用されたり、調べてみたら違うぞ? と指摘されたり、実験の仕方がおかしくね? と突っ込まれたりもするのだそう。すご。やば。
その最先端に繋がろうとしない限り「はいだめー!」ってするのは大人げない。正してやろうなんて態度で話しかけたら、うざいまである。
ただ、それはそれとして、情報は変化していく。
ことばさえ新たな単語が生まれたり、誤用とされていたものが気づけば根づいていたりする。
私たち、根本的にはわかりあえないまま生きてる。
そのうえでわかりあおうとすることで、その先にあるいろんなことができるようになる。
それでもやっぱり「ああもう、これでだいじょうぶだな」として、以前の状態をすっかり忘れて、わかりあおうとすることを怠ったら? ひどいことになる。
どうやら自分の感覚は変わり、以前の状態を忘れることの中には致命的なこともありそうだ。
理想的な恋愛をしたくて、相手役としてだれかを選び、求め、なんとか付きあう。いよいよ理想的な恋愛のはじまり。思いどおりになるように、なんとか相手の求めるものを渡したり、いい気分にさせながら、台本どおりにやる。足りない知識の中で、断ったらきつそうな状況下、トレードオフな選択を求められて「もういいや」と別れることができないときに「わかった」としぶしぶ、あるいは本当はいやなのにやむなく受け入れたりして。惚れたほうの負けって、結局この綱引きに負けやすいっていう意味だよなあと感じる。
なんか派手できらきらしてて楽しそうな過ごし方として、付きあって、えっちもして。最後のは人によるとしても。だんだん重たくなったり、あるいは学生なのに妊娠が発覚すると? 男は逃げる。「そこまでする予定なかったから」で。生でしたがるの男のほうが圧倒的に多いだろうにさ。全部とまでは言い切らないけど。
それまで語った愛だの将来だのは、すべて吹き飛ぶ。「そこから先の責任は無理っす」という現実で洗い流そうとする。振る舞いとして無責任くそ野郎の典型例みたいな振る舞いにしたって、以前の自分がなにをしたか、なにを語ったのかという状態はすべて棚上げ。怖いから、周囲には女の子のせいにして吹聴するかもしれない。
だけど、そういうことがあっても時が流れればしれっと年下の子と付きあってこども作ったりするんだろうし?
ねえ、これなんの話ぃ!?
そうそう。
自分の感覚は変わるって話だ。
やー。仕事のラジオのメールを思い出してた。
いまのは生でしたがる男は逃げ得優先で、責任とろうとしたとしても付き合い方からして誠実じゃないから、その先ろくな人生になるかどうかはあなた次第だけど私ならやめとくって話ね。
けど、そういう恋愛模様は案外多そうだなあとも感じるよ。
統計に載らない症例がどれほどあるのかわからないけど、十代で学生で妊娠っていうのを表向きにしたい親がどれほどいるかって考えると、さ。ね?
うちのおばあちゃんは、まさにお母さんに対してつらく当たった典型例だ。
お母さんを産むときの心細さよりも「いま・ここにある」怖さが先に立つのかもしれない。
自分の基点が先にくる。
忘れてしまう自分の変化模様や、もともと知らないしわからないだれかの基点、あるいは過去に意識を向けるって、無意識にできることじゃないのかもしれない。そもそもの話。
だから「私とちがうなー」って感じるだれかの目的も、あるいは「共感できないなー」って感じるだれかの衝動も、突きつめると、そのだれかの内側にあるものがなんなのか触れることができない限りはわからないだろうし、触れることなどできやしないものだし。
あいまいな共感が精いっぱいな生きものなのかもしれない。
杉田玄白の解体新書。彼はターヘル・アナトミアという解剖学書のオランダ語訳書を翻訳してしたためたという。ではターヘル・アナトミアはというと、ドイツの医師ヨハン・アダム・クルムスが記したものだとか。
外科器具はエジプトで発見された紀元前のナイフからして、エジプト文明時代には切開と切除が行なわれていたのでは? なんて話があるそうだ。他にも整形外科手術として、紀元前にあったっぽいぞ、とかね。このあたりはきちんと医学の歴史についてまとめた書物を参考にして述べたいところだけど、さすがに私も持ってない!
人の体内がどうなっているか、ひとまずターヘル・アナトミアや解体新書に頼るとして「私の身体の中も、この書物の記述と瓜二つなのだろうか」ということは、記された当時でさえわからなかった。中身を知るためだけに切るわけにはいかない。死んじゃうもの。
いまはレントゲンがあるじゃない? X線があるわけじゃない?
長い筒に入って、ずっとじーっとしていなきゃいけないからX線はたいへん落ち着かないですぞ? だいぶしんどいですぞ。
でも「どうやらだいたいこんな感じ」ってわかる。読み取る解像度はあがっていくんじゃないかな? だけど直接みるべく胃カメラを飲んだり、お鼻から入れたり、内視鏡をお尻から入れたりすることもあるという。
耳鼻科にしたって、お鼻に金属の筒を入れて、かぱっと開いて中がどうなっているのかまじまじ見られるんだから! あれ死ぬほど恥ずかしくない? ねえ。お医者さんによっては「いたたたた! そんなに開かない! 開かないから!」って勢いでやってくる人いない? ねえ!
なんの話なんだってば。
ああ、そうそう。
身体の中さえよくわからない。心は余計に。過去も。
文書にしても、電子の情報にしても、残っていて、変遷がたどれることが大事。いろんな情報と、ひとつの情報に対して多種多様な視点からの記述が溢れていると助かる。
人に尋ねるよりも見えやすいから。
自分が相手なら、どう辿る?
歌がいい。好きな方法として、歌を聴きながら、歌いながら、さっきとちがう、昨日とは明らかに別の発見をすることがある。ちがう感覚に浸れることがあるの。
世界と自分の色濃さを溶かす水や油としては物足りない瞬間もあって、そういうとき、音楽は私を撫でて終わってしまう。
なりたい私になるためのスイッチとしての音楽は、のど飴や風邪薬のようにわかりやすく作用する。それよりもっとわかりやすい、七味や唐辛子みたいな音楽はすぐに飽きてしまう。
なのに、意外にも新たな一面が自分か音楽、あるいは両方に見つかると?
すこぶるたかまる。
そういう一瞬の喜びも、過ぎれば溶けて忘れてしまう。
なにもかもが昨日になっていく。私が、時間が、置き去りにしてしまう。
覚えよう、大事にしようとしても、しないのと変わらず過去に繋がっていく。
いっそ不感症のほうが楽な気がしてくる。
どうでもいい人に触られてもなんともならんし、なんにも感じないように、どんなことでもなんともならん私のほうが、嘆く必要のある過去が増えずに済むんじゃないかって。
そんなことないのにね?
変化は記録しておかないと忘れてしまう。
記録はいろんなやり方がある。表現するのもそう。うれしいよ、ありがとうってお礼を言うのもそう。逆にサゲたり陥れたりする発言は記録の表現じゃなく、自分の感情耐性が間に合ってないので、いつかあなたにもなにかいい表現が見つかるといいねって話ね。
歌や絵画。他にも詩とか? テレビで人気! 俳句とか。短歌もいい。
我のみや思ひおこせむあぢきなく人はゆくへも知らぬものゆゑ。詞花和歌集の和泉式部の作。恋の短歌としては執着が感じられて好き。旦那さんについて居を移すことになって、別れることになった男に渡した歌だそう。
旦那さんとの生活はどんなだったんだろう。彼女の人生は?
私にはうかがい知ることもできない。彼女の内を知ることはね。
彼女はどうだろう。翌日、翌月、翌年、この歌を見て彼女はなにを思うのだろう。
わからないなあ。
わからないや。
人は変わっていく。
連続する日常が変わらないという変わり方を強固にしていくこともある。それだって実は立派な変化だ。
小野小町の作で百人一首に選ばれた有名なものでいえば?
花の色はうつりにけりないたづらに、我が身世にふるながめせし間に。
あるいは同じく百人一首より、紀貫之の作は?
人はいさ心も知らずふるさとは花ぞ昔の香ににほひける。
宿はずっとあったのに、来なかったねえ? と女主人に言われて、二十年くらいぶり? に戻った紀貫之が梅の花を手折って伝えたそう。いやあ、花の香りは変わらないけどなあ! なんてな! もっと深い意味があるのかも。
時の流れは変化の印。そう捉えて勘定する人のほうが多いかも。
連続する日常でなにがどのように維持され、なにがどのように改められていくかは、それこそ地域や集団によって大きく異なるからなあ。時の流れがすべての人、すべての環境で等しく影響を与えるかっていったら、話は別だ。
だから「この街も変わらねえなあ!」とか「十代の頃に出ていったときとぜんぜん変わってない」とか「ああ、昔の面影なんてどこにもない」とか、実感として言葉が出てくるんだろう。
「ううん」
今日はノノカたちが来てくれて、ぷちたちのお世話をしてくれている。
これでカナタもオフなら一緒にデートでもってなるところだけど、今日も舞台のお稽古だ。
外出て、ひとりでのんびりしておいでってお母さんにも促されたのに、私は部屋でごろごろしてる。私が家にいたらほっとかない子がいるから、三人のぷちたちと寝ていた。
途中で荒ぶったものの、理想の恋愛台本という枠組みに人を当てはめるっていうのは覚えがある。私がそう。恋愛からずらせば、教授やシュウさんが私にしたのもそう。
ともだち同士でも、恋人同士でも起こりえる。
いつだって忘れてしまえる。特別で大事なことほど、日常に溶けてしまう。繰り返していくのも、その日や瞬間ごとに調節しながら維持していくのも、それくらいむずかしい。
やるぞと決めた修行も新技も、転化の学習も、それどころじゃないくらい疲れてる。元気になったと思った途端に、疲れが染み出てくる感じ。憂うつさに拍車がかかってる。
キューブの調整をするから渡してと言ってくれたときに、ノノカには話したんだけど「悪いこといわんから寝とけ?」って返された。
それでついつい、あれこれ考える。
途中で荒ぶった理想の恋愛台本。未来の青写真。
大好きな人が相手なら、触れられるといいかっていったら話は別。そうだったらいいけど、そんなことはない。えっちなやつは見る人が興奮できるように、どういうカップリングでも基本的には盛りあがるようにできてるけど、もちろん現実はそんなことないから、ふたりの夜もいいときもあれば、微妙なときだってある。昨夜はわりと微妙だった。それもほんと、珍しいことじゃない。
いまじゃこども向け番組の有名作も、漫画時代だと親の場面に遭遇して「ぷ、プロレスやし!」とごまかされてる場面があったような。でもそのプロレスって、言い得て妙。お互いに相手を気づかいながら、演出しながら、盛り上げながら楽しんでいくのが私は好き。
江戸時代あたりまでは男色もけっこうありがちだったというけれど突っ込まれる側を体験しておくと、男性陣も無茶なえっちはしなくなるのでは? なんて過激派なことをだらだらと思い浮かべつつね? 思わず圧つよめに思い浮かべたメールの返事で使えばよかったかも、なんて考える。すぐにラジオで言えないなあって自重する。高城さんの顔色がいろんな色になっちゃうもの。
私のように、日常もまた変化する。
なにかをすると、高城さんの顔色くらい変わっちゃう。
あまりに持てあました時間の中でドラマを見たりもした。医療ドラマ、弁護士もの、刑事。一話で一番ひっかかったもののシリーズを見始めて、いまの私には濃い味すぎて早めに離脱。どのドラマにしても、作中で描かれる職業の時間に、働く人の日常が溶けていく。
学校に戻れば学生の私になるし、収録現場やスタジオに行けば仕事する私になる。うちにいればぷちたちと過ごすママの私で、キッチンに立てば料理を作る私に。いろんな人と出会うのに合わせて、私もまた変わっていく。でもそれって海を漂う氷山が流れに合わせて、水面に出す一面を変えているのに過ぎなくて、どれも私そのものだ。だから刀を握ろうと、怒りでなにかに当たろうと、それもやっぱり私。かっとなろうが、なんだろうがね。なにかを見下そうと、下げようと、やっぱりそれも私。
氷山が流されて水面に覗かせるものが変化しようと、私自身は連続している。なのに一面が変わると私そのものが変わったように感じられる。侍としての私が行き詰まるとき、仕事の私が行き詰まっているわけではないと感じて「ちがうところに行けば救いになる」と錯覚するときもある。
実際、それでなんとかなる場合もある。
だけど自分の中で連続しているなにかしらの性質が、問題を生み出す原因として強く作用しているものなら? 別の一面でもまたなにかが起きかねない。さっきのラジオのメールなら? ろくでもない元彼はたぶん、別の女性とも似たような問題を繰り返し起こすし、やっとごまかせるようになったとしても、それはそれで別の問題を生み出すと思うし? その男がどうだろうと、期待してもあまり実りはないだろうし。じゃあ別の人に行けばなんとかなるってわけじゃなく、そういう男じゃないと見抜く術を鍛えておいたほうが、同じようなのに引っかからないように備えることができるかもしれない。引っかかっても、前のように別れる! って、すぐに決断できるかも。
対策がないと、一面を変えても、相手や環境を変えても、何度も繰り返してしまうことがある。
こういうのぜんぶ「叱られてる!」って捉えるほど「ああもうほんときつい、もうだめ、だれも私を許さない!」モードになると? 心の元気は空っぽに近い。
ノノカの言うとおり、休んだほうがいい。
こないだ叱る依存の本の話をしたけれど、叱る依存があるよっていうだけで「叱られた!?」って身構えちゃうことさえある。それもうフラットな状態じゃない。常に叱られないかに備えている。無意識に溶けていたら、かなりきつい。
私たちは変化する。
その変化に対して問う。
苦しみは必要か。
痛みは必要なのか。
昔のスポーツものとか、大戦時の軍隊の訓練とかじゃ「必要! それ以外あるまい!」ってノリだ。
幼稚園にせよ保育園にせよ、ところによるだろうけど「なんとか優しさの中で育って」としてくれる園と職員さんに当たり、家庭も円満で育つことができたとしても、まず小学校で「苦しみも痛みも必要!」にぶつかる。小学校をやり過ごせても、中学、高校と三段構えで「くるしめ……痛みを感じろ……」と圧をかけられる。
そんなの楽勝っすわ、とやり過ごせる人もいるだろうけど、百人中百人が楽勝に向かえなきゃあ環境としては不十分だ。目指すは百人中百人。あくまでも。
だけど「しょうがないよね」とすると実力は運のうち、が強まる。生まれた家庭の財力と安定、そして両親の仲。生まれた地域の安定や雇用。
そういう根深い問題が、一面を変えても変えても、どの面でも「待ってたぞ」と出くわすことになる。程度の差はあるだろうけど。
喉元を過ぎた苦しみや痛みと、その体験を肯定するべく「苦しみも痛みも成長には必要です! 苦痛は義務なんです!」って言いだしたら?
やばいよ。それもうだいぶやられてるよ。
目がぐるぐるしてるよ?
だいじょうぶ?
そんなことないんだよ?
そんなことないんだけど、たとえば根深い問題と苦しみと痛みに囚われてしまいやすくなる。そこから自分を引っこ抜くことが、なかなかできない。苦しむほど、痛むほど。
お構いなしに世界は続いていく。いろんな氷山がごろごろ流れ、ときにぶつかり、ときにくっつきながら。
どんなに切りかえようとしても根深い問題を意識する。
痛みや苦しみに、そのまま痛みや苦しみをぶつけたくなる。それが抗うことなのだとさえ感じてしまう状況もまた、ある。
けど、変化には痛みが伴う必要があるかって? 苦しみが必要なのかって?
まさか!
負荷を低減し、なくしていく。できないことはできるようにしたり、練習できるようにする。体勢や環境を変える、状況に干渉することで達成できる場合もある。
それらに痛みが必要か? 苦しみがいるのかって?
いらない。
関係ないというか、減らす対象だ。
ストレスは「これやばい」ってサイン。だから「あ、これなくすか減らすものだ」って捉えるもの。
だれかが負荷を感じているときには、その訴えによく心を傾けて、痛みや苦しみを減らしていくためにできることをする。
なにもむずかしい話じゃない。
だけど直ちに「こりゃやべえ」と感じて変えたくなるほど、拙速さを求めるほど雑になり、短絡的になって、暴力に依存する。相手がどのような感情を抱こうがお構いなしに「自分のこの負荷をなんとかする!」として、怒り、叱り、無茶をする。
いやいや、怒ると叱るはちがうからって?
いやいや。それこそちがうから。
それぞれ辞書で調べてみよっか。<叱る依存>がとまらない、でも広辞苑と大辞林の用例を引用しているけど、改めて私は四冊で意味を並べてみるね?
新明解国語辞典から。
怒るは「がまん出来なくて、不快な気持が言動に表われた状態になる」、「目下の者などのやり方が悪いと言って、強い言葉でしかる」。叱るは「相手の仕方を、よくないといって、強く注意する」。
三省堂国語辞典では?
怒るは「不愉快なことをされて、頭に血がのぼ(って、どなったりす)る。腹を立てる」、「感情的にしかる」。叱るは「〔ふつう同等・目下の人に対し〕その人の行動・態度がよくないと(強く)言う」。区別として「相手を「怒る」場合は感情的になっているが、「叱る」場合は必ずしも感情的になっていない」。
広辞苑だと?
怒るは「不愉快・不満を感じて気持がいらだつ。また、その気持を表に出す。腹を立てる。いかる」、「叱る」。叱るは「(目下の者に対して)よくないことであると強く注意し、厳しく言い聞かせる」。
最後に、大辞林。
怒るは「腹を立てる。立腹する。いかる」、「しかる」。叱るは「(目下の者に対して)相手のよくない言動をとがめて、強い態度で責める」、「怒る」、「陰で悪口を言う」。
三省堂国語辞典が明確に区別として記述しているけれど、どうかな。
広辞苑と大辞林は明確にふたつを結びつけている。
怒ると叱るを並べると、行為者が感情的であるか、または感情的とは必ずしも言えないかの違いがあるね?
だけどさあ。
それってさ?
相手にとっては、違いがないよ。
叱るの意味を見ていくと、叱られる側にとって叱る側がどういう立場かは述べず、また述べることもできない前提がある。加えて、叱る側にとって「自分にとって相手は自分と目下」とする意訳が多い。
ここには立場における権力勾配の差を見て取れる。親と子、教師と生徒、上司と部下だし先輩と後輩。強いやつと弱いひと。富める者と貧する者。マジョリティとマイノリティ。
また、叱るの内容を見ていくと「とがめる」し「強い態度で責める」。「強く注意」して「厳しく言い聞かせる」。基本的には立場の強い者が、自分の思うとおりに支配することで達成しようとする。ここに両者の双方向性のあるコミュニケーションは一切、存在しない。あくまで叱る側の都合だけが優先される。反発されたら、より強く相手を支配しようと振る舞う。
結局のところ、怒る側、叱る側の都合のみが優先され、そちらの意図が通るように振る舞うだけで、相手の都合はお構いなしという傲慢さが存在する。
それが枠組みの示す正しさと、両輪の歯車となって走りだしたら?
止まらない。
自分は正しい。集団は、社会は、自分の立つ側にこそある。だから従わなければならない。
反発されるほど、その思いが強まり、叱るを正当化するだろう。
相手にとっては理不尽な怒りと大差ないのにね。自分の内側だけしか見えてないから、相手がどう感じているのか、どう考えているのかなんて思いもよらないの。
そうしてどんどん自分で溢れていく。だれかが入る余地なんてない。
叱るという選択に、だれかの意思が入る余白が一切ないまま、失敗を繰り返し、苦しみと痛みを広げ、長引かせていく。
そんな厄介な人が身内にいたら、もうひたすら面倒だからごまかすか、聞いてる振りをする。付きあいたくないし、受け入れたくない。反発するだけ面倒だって人も大勢いたろう。それを勘違いして受けとる叱り人もまた、大勢いたのだろう。
かくして叱る行為が循環していく。
教授もシュウさんも、怒っていたし、叱っていた。
理不尽に。社会に。仕組みに。制度に。環境に。
私も怒りと叱りを抱えている。同じものに向けて。
やばい。
ノノカの言うとおり、いますぐ休んだほうがいい。
だってさ?
そんなのじゃ、青澄春灯さんはちっとも楽しくないんです。
幸せになれないんです。そこでがんばっても。
安心や安全のなかで、回復した先にあるんだよね。
負荷もストレスも、低減しながら安心や安全に向けていくんだよ?
完成なんかさせなくていい。つらい、苦しい、痛いままで終わりにしなくていい。
ちょっとずつよくしていっていいんだ。
なのに心で燻る怒りと叱りが癒えないのは、どうして?
安心が足りないのかな。
まだ安全だって思えないからかな。
「本でも読むかー」
ベッドで寝そべる私のそばで、ぷちたちがひっついて寝息を立てている。
起こさないよう、眠りやすいようにカーテンを引いていた。
目が悪くなりそうだけど、動けないし動きたくないし、カーテンを開けるなんてもってのほか。
金色をひとつぶ浮かべて、それを明かりに枕元の本を手に取って読み始める。
ご長寿刑事ドラマで異常犯罪を取り扱うクリミナル・マインドは、いまの私が見ると心がだいぶやられちゃう。彼らの痛みや苦しみに思いを馳せずにいられないし、怒りや叱りがふくらんでしまう。
犯人の中にいるんだもの。
ボッシュもそうだ。タイトルになっている主人公のボッシュ自身、強い怒りと叱りを抱えている。彼は同時に悲しみや傷を抱えてもいる。
デクスターは幼少期のあらゆる衝動と強すぎる怒りを、義父のルールと連続殺人で癒やしている。フィクションにしても過激。みんなはそうはいかないから、クリミナル・マインドのチームやボッシュは仕事にのめりこみ、ビッグバンセオリーのみんなはゲームや友人たちとの日常を満喫する。
自分の一面が出る海域を多く持ちたい。
安心できる繋がり、安全な環境を、ひとつずつ、ゆっくりでいいから増やしたい。
何度も思い返すのに。
いまもここにあるのに。
泣きたくなるほど、満たされない。
なぜか怖くてたまらないのに、答えがどこにも見つからない。
つづく!




