第千八百八十話
寒いわけでもないのに、こたつの居心地いいの謎じゃない?
冬じゃないのに、みかんがおいしいのって最高じゃない?
めいっぱい堪能しながら、おばあちゃんの家を眺める。
どんぐりハウスの内装は、どんぐりだけに曲線を描いた壁に沿うように棚を打ちつける形でものを載せていた。家具も曲線に合わせて、壁に寄り添える不思議な形。中に入ると大きな見た目よりさらに広々としたおうちは四階建てなのだそう。
カナタから聞いた話じゃ地獄は現世のいろんな地域の番組が見られるという。どうやって放送を拾っているんだろう。謎。
天国じゃあどうなのか。だいたい、似たような感じ。私のいる現世よりも未来の番組も動画も見られる。いくつかの縛りはあるけどね。現世でそれを口外できない。物理的に声にしてしゃべることができない。文字にもしたためることができない。打ち込むことも無理。心で考え、感じるのは自由なので、ひとりで楽しむまでだ。
おばあちゃんちでもなにかが見られるのかっていうと、テレビがそもそもない。
そのかわりに年月を経て色褪せた革表紙の本棚がある。思いのほか、とても薄い冊子みたいなものも。紙の束を紐で留めるタイプの、古い本。針で縫うようにして綴じるんだって! すっご。
北斎漫画とか、浮世絵を集めて綴じたものが多め。おばあちゃんの旦那さんの秘蔵本なんかも混じっているから、気をつけてねって部屋に入ったときに教えてもらった。
つまり、春画本があるってことだ!
おおお。すごい。
現代現世のえっちなやつより、なんていうか、こう、肉感がすごいというか、生々しい。
正直、かなり気になる!
江戸時代の画家たちが、死して作った作品なんてあろうものなら?
見てみたい!
あの世でまで作っちゃう、えちちな春画!
どこまでいっちゃうの!? 私、とても気になりますよ!
男性のあそこが頭になってる小僧が出てたり、小僧があちこちの営みを眺めに回る旅のシリーズがあるという。昔はそれをみて「わお!」って笑っていたみたいだ。
どんな新作があるんだろう。気になって仕方ないぞ?
だけど、おばあちゃんのいる前で手に取って読むわけにはいかない。
さすがに。
ほら。
恥ずかしいし。
だめじゃん。
それはさ。
悶々としていたら、丸々とした狸のおじいさんが板前の白衣スタイルでとことこ歩いてあがってきた。
「ふいー。いやあ、さばいたさばいた。キュウさん、帰ったぞう」
と、豪快かつ太くて低い声を響かせる。
かなり、恰幅がいい。両手を広げて「よー、おっ!」ぱん、と拍手したら似合いそう。
ズボンもしっかり履いていた。それでもぶらぶら揺れるものの存在感がすごい。
「おや。お客さんかい」
「こないだお話した、狐のお嬢さん。おたまちゃんってアマテラスさまに呼ばれているの」
おばあちゃんの紹介で急いでこたつから出ようとしたら「あ、いいよいいよ」と止められた。
「悪かったなあ。なにか見繕って帰ればよかった」
「いっ、いえいえ、そんな、滅相もない」
「よろずに福と書いた店で、飯をだしてる。俺の名前でな。万福ってんだ」
「まんぷくさん」
ご飯屋さんをやっているって覚えやすい名前!
現世のお店とは一切関係ない! けど知ってる! けっこう見かける!
「おたまさんって呼んでいいかな?」
「ど、どうぞどうぞ」
「じゃあ、おたまさん。腹ぁ減ってないか?」
「ううんと」
みかんを食べたけど、私の感覚では真夜中。
そんな時間帯の空腹がみかんだけで満たせるかって?
無理! もっと食べたい!
「減ってます!」
「うっし。そんじゃあいっちょう、気張って気の抜けた飯を用意しよう」
「お、お?」
どゆこと?
「待ってな。お客さんはのんびりしててもらわなきゃあ」
せっかく帰ってきたのに、万福おじいちゃんは階段を下りていく。
いいんだろうか。休憩時間か、はたまた今日の営業は終了でのんびりタイムなのでは?
こたつを出ようか出ないかで、まごまごしていたら「いいのよ」っておばあちゃんに言われた。
「見てきたいなら行っておいで。できあがりを楽しみにしたいのなら、のんびりしていて」
うわ。なんて魅力的な提案!
見たい! 厨房でどんなことをしているのか見てみたい!
狸街の料理を知りたいぞ? でも。
「見られるの、いやじゃない?」
「あの人なら、だいじょうぶ。聞いてごらん?」
おばあちゃんのことばにいてもたってもいられず、私はこたつから飛び出した。
階段を三段飛ばしに下りて、キッチンへ。
鼻歌混じりに万福おじいちゃんが冷蔵庫の中を眺めていた。勢いよく一階に来たからか、おじいちゃんがふり返った。白髪がわずかに交じるまんまるお顔をゆっくりと傾げる。
「おや。どしたい?」
「あのう。見ていてもいいですか? お料理けっこう好きなんです」
「おお、そりゃいいが。おたまさんは料理をするのかい?」
「おうちでご飯を、ちょこちょこと」
「ちょこちょこね。そりゃあいい。人生で料理をするっていうのは、いいもんだ。時折面倒だが、だからこそ抜く手間を覚えるってのもありだ。自分の甘やかし方、励まし方ってのがある」
う。心がずきっと痛む。
「おっと悪い。いまのはだめだな。痛かったんだなあ、おたまさんは。ごめんよ」
まるで直接的に傷つけられたみたいに言われて、きょとんとした。
いや。実際、痛かったんだけど。
「あ、あの。万福さんは、べつにだめなこと言ってないのでは?」
「でも痛かったろう。顔を見りゃあわかるよ。だいじょうぶかい?」
とっとと冷蔵庫の戸を閉めて駆けつけてくる。
まんまるくおおきなおじいちゃん狸の顔がいまにも泣きそうになるんだ。
「だっ、だいじょぶです」
動揺する。
おじいちゃんが泣きそうなの見ると、すごく落ち着かない気持ちになる。
むしろとんでもなく悪いって気持ちになるよ?
本当かい? って問われて、両腕を掲げて上腕二頭筋を見せつけてみた。むん! だいじょぶ! って伝わらないかな。いまの私、おばかすぎないかな?
それでほっとしてもらえたから、お料理へと移る。
私は金色雲を出し、見えやすい場所で見学させてもらうことに。
おじいちゃんはてきぱきと、冷蔵庫の中からキノコと卵と立派な鮭を取り出す。それに鳥の肉も。たぶん、胸肉だ。キノコはしめじやマイタケ、あと見慣れないものもちらほら。恐らくキクラゲもある。
コンロに鍋を置いて着火。
ガスだ。通ってるのか。地中に?
飴色硝子の中身を注いだ。とろりと透明の液体が鍋の表面を滑る。油だ。植物油かな。
手早くキノコを刻んだり、ちぎったりしては、鍋に投入して炒めていく。
壁の突きだし棚の小瓶を取っては振っていく。硝子は色とりどり。だけど中身は粉。たぶん、塩コショウ。小瓶はほかにもいろいろあって、乾燥させた葉っぱが入れてあるものも。香草かな?
「おたまさんは、いっしょに感じる子なんだなあ」
「いっしょに感じる、といいますと?」
「キュウさんも俺も、御霊になったことがあるが、得がたい感覚を知る。縁を結んだやつが、どう感じるのかをな」
「はあ」
十兵衞ともタマちゃんとも話せるし、他の人の御霊の声さえ聞こえるのに。
私、いまおじいちゃんが教えてくれたような内容を尋ねたことがなかった。
あったとしても、忘れちゃってる。すごく新鮮に感じる。
「だれがなにを言っても、なにをしてきても、ろくに感じないやつもいれば? 自分のことのように感じるやつもいた。結局は自分が感じていることなんだが、相手の感情と同じものを抱かなきゃって思い込んでるやつもいた」
「――……おお」
そっか。
御霊の縁を結んだら? 御霊は宿主の心の声を聞く。逆はハードルがかなり高い。だれでも聞こえるわけじゃない。前は力だ才能だって考えて済ませていたけど、もっと単純な話かも。
心に逃げ場がなきゃたいへんなことのほうが多いからかも。
赤裸々だしなあ。心の中ほど開けっぴろげな場所はないもの。
それくらい、御霊にとってはよくわかるんだろうなあ。
もちろん、話の核はそこじゃない。
「おたまさんは、いっしょに感じるんだなあってなあ」
まだ会ってからすこしも経ってないのに、わかるの?
おじいちゃんも神使だから、心得があるとか?
あるいは、それくらい露骨に私が傷ついた顔してた?
あるとしたら、一番最後かな。
おばあちゃんにも伝わったしなあ。正直、顔に出るタイプだってよく言われるし。
ただ、共感とはちがうのでは。
自分のことでずっと手いっぱいだもの。
「そう、できたらいいかなあとは思うんですけども」
「そうなのかい?」
「式神がいて。こどもたちなんですけど、気持ちがわからないんです」
「ほお」
「他にも、たくさん。人の気持ちがわからなくて、ひどいことしちゃうし、されちゃうし」
「ほおほお」
「だったら、やっぱり、わかろうと――……しませんかね?」
「つまり感じとろうとするのかい? 感じることに集中するってことかな?」
「そう、かも?」
「そうかい、そうかい」
うんうんとうなずくけれど、そこまで。
おじいちゃんはこうだ、と決めつけることも感想を言うこともなく、包丁で鶏肉をそぎ切りにする。包丁がよほど切れ味がいいのか、一度ですっと切れる。見惚れる手際に、よく手入れされた道具たち。
小鉢をたくさん、主菜に副菜、あれやこれ。ずらりと並べることができると、たしかに華やかで気持ちがいい。けどそれを毎日の基準にするのは、やめている。
一汁一菜。
元気のあるときにおかずを山盛りで作っておく。作り置きは食卓を豊かにするし、元気なときにやればいいしで幾分、気楽。
それが私なりの毎日料理の続け方。
お惣菜も活用を。野菜が高くて手が出せないときは冷凍野菜を。噛むのに問題がないのなら、ホルモンも視野に入れて。季節のものは取り入れる。果物はもともと値が張りがちだから、気をつけて。炭水化物はきちんと目安がある。ダイエットしようとなんだろうと、控えるのはむしろマイナス。
そういう知識と余力は、余裕のあるときに。
ないとき基準を忘れずに。
そのないとき基準は人によってちがうから、自分に合う人を参考にしたほうがいい。
そんなことを考えて、逃避してる。
おじいちゃんは調理を続ける。水を張った鍋に具材を入れて出汁を取ったり、干したキノコを水につけて戻していく。冷蔵庫そばにある棚に、乾麺がたっぷり入った大瓶を取り、中身を取り出す。茹でるんだ。一緒に煮込むのかな?
いや。
ちがうって。
そんな話じゃない。
わかろうとして、めいっぱい感じようとする。
私なりの感じ方なのに、何倍にも増幅して感情があふれる。
相手との境界線があいまいになって、自分の感情が相手の存在に、相手の感情が自分の存在に直結しているような錯覚さえ抱く。
そんなことする必要?
ないよ。
まったくない。
ないんだけど、たぶん、おじいちゃんの言うとおり。
いっしょに感じるんだ。相手と同じかどうかは別として、相手がなにかを感じたとき、私もまたいっしょになって、なにかを感じずにはいられない。私は私の、相手は相手の感じ方でだ。
スイッチのオンオフを自分で切りかえられない。
ぜんぜんしてないときもあれば、しすぎてどうにもできないときもある。
自覚? ないない。
言われてはじめて「あ」ってなっただけ。
みんなはどうしているんだろう。
相手の感じたものに合わせなきゃ、なんて思い込んで、自分の感じたものを矯正しようとしたら?
痛い。痛くてたまらない。
おじいちゃんが炒めているお鍋に、瓶の液体を注ぐ。じゃっ、と音が鳴る。ぷんと漂ってくる香りからして、しょうゆかな。他にも液体の入った瓶はいくつもある。減り具合も様々。
たまにちらっと見て「ああ、こいつを足さなきゃなあ」と呟いている。
時折、炒めている鍋の持ち手を掴んで具材を返した。
見事な腕前。なによりおいしそう!
同時進行でてきぱきと進めていくようで、時折「んー?」と悩む声をだす。
すぐに「よし」と決断している。
尻尾がゆらゆら。まんまるい身体に負けじと、尻尾もふさふさでまんまるい。
やや短め。でもおじいちゃんの身体がそもそもおっきいので、じゅうぶん長く見える。いまの私の身体くらいは。
じーっと眺めながら、ふと尋ねた。
「おじいちゃん」
「ん?」
「感じようとするの、だめかな?」
「むずかしいなあ。長くここで暮らして、御霊に何度かなっても、いまだにわからないなあ」
「そう、なの?」
「キュウさんに、娘たち。感じよう感じようとしても無理だったり、ちぐはぐだったり。そうかと思えば、そんなのいいと引きたいのに感じてしまったり。わからんなあ」
言われてみれば、そうかも。
むずかしさからして、きっと当たり前の話なんだ。
なのに私、いまさら一から悩んでる。
わからないから、わかろうとする。わかりたくないほどつらいから、わかって痛みをなだめようとする。意識してたり、してなかったり。オンオフもできなかったりで?
参ってる。
「自分だけじゃないから、いらないとも思わないしなあ。思ったよりも自由にならないのが厄介だ。老いてもずっと変わらない」
「……そっかあ」
「でも、一緒にいたいから、感じたいと思うのは大事なんじゃあないかなあって思うが、おたまさんはどうだい?」
「そりゃあ、大事、かな。大事だと思う」
「じゃあ、次だ。なにを感じたい? なにを感じるのはつらいかな」
「ううん」
あまりに候補が多すぎて、絞れないよ。
「むずかしい。まだ、わかんないや。おじいちゃんは、どう?」
「いまも考えてるよ。店で働く若いのが新しく入ってくるとき。キュウさんに、娘や孫たちを思うとき。店の常連さんや、たまのお客さんの反応もね」
味覚はちがうし、価値観も考え方も感じ方もちがうもの。
同じ景色を同じように見て、同じように感動するなんて無理だ。
ちがいがある。
だから、そのちがいをどう伝え合い、感じとるのか。
一体感の楽しさや気持ちよさに浸る瞬間もある。
同じじゃなくても、ひとかたまりにならなくても「ひとつ」にはなれる。
ぜんぶがまるで同じじゃなくていい。
ぜんぜんちがっていて、だからいいとか悪いとかない。そういう状態に対して、いいとか悪いとか含めて、どう感じるかだけ。
極論でいっちゃえば、アダムや教授が私に向けた敵意や苛立ち、憎悪を見て取り、私も同じようになにかを感じようとしたら?
たとえば、センサーの感度があがっていく。それが温度でも振動でも、金属探知でもなんでもいいんだけど。どんなに遠くてささやかなものにも「ここにありまぁす!」って声高に主張しちゃう。
あるいは、情報収集したものの管理が無制限かつ単一の場所に押し込まれる感じ? 相手の反応をせっせとひとつの場所に押し込める。ろくでもない関係性の相手からの情報って、ぞっとするほどろくでもないものばかりになる。自分にとっても、恐らくは相手にとっても。
ダメージになって、引きずる。
養育者の失望とか。好かれたい相手の気のなさとか。いろいろ例はあるけれど。
そういう刺激を何倍にも増してしまう。感じようとするほど。
うれしさもかなしさも。区別なく。
自分で切りかえられないのはつらい。
どうせなら、感じようとする感覚をうまく使えないかな。
どれくらい私に感じようとする一面があるのかはわからない。どれくらいのものなのかも。
だけど、なんだろ。
諦めて終わりにしたくはないかな。済ませたくない。
自分を育てていくのだ。大事にしていくぞ?
神使としてお仕事がいま与えられていないのなら? 私らしく活用していきたい。
もったいないもんなー!
「私、考えてみるよ」
「ああ、そうしてごらん。そして、いつでも話においで」
「もちろん! ありがと、おじいちゃん!」
「おうさ。ところで、ちょいとひと味たりない気がするんだけど、味見を手伝ってもらえないかな」
なんてこった!
「よろこんで!」
嬉々として受け入れながら、ふと思い出した。
ちっちゃい頃、お母さんでもお父さんでも、料理をしているところを見ているのが好きだった。
なかでも好きなのはね?
こういう瞬間が訪れること!
味見は好きだ。どんどんおいしくなっていくのを体感できるのが、最高に刺激的で!
感じようとするのも、お料理や味見みたいにできないかな?
つづく!




