第千八百七十九話
ハインリッヒの法則。
大辞林より引用するところによると?
一件の重大事故の背後には同種の軽微な事故が二九件あり、その背後には三○○件の異常がある、という労働災害の発生確率を分析した法則。
じゃあ、ハインリッヒとはだれ? アメリカの損害保険会社の安全技師さんのことだそう。同種の研究をしている人は他にもいるんだそうだ。
なんと厚生労働省の職場のあんぜんサイトというところで紹介している。安全衛生キーワードとしてね。
参考文献に「新しい時代の安全管理のすべて」とある文章の一部を引用すると?
『これらの研究成果で重要なことは、比率の数字ではなく、災害という事象の背景には、危険有害要因が数多くあるということであり、ヒヤリハット等の情報をできるだけ把握し、迅速、的確にその対応策を講ずることが必要であるということです』
さて、注釈の入った数字を並べてみようか。
同じサイトの題字には、こうある。
『ハインリッヒの法則(1:29:300の法則)』
繰り返し確認しよう。
そのほうが覚えられるでしょ?
厚労省の説明記事を読むのが一番わかりやすい。
『同じ人間が起こした330件の災害のうち、1件は重い災害(死亡や手足の切断等の大事故のみではない。)があったとすると、29回の軽傷(応急手当だけですむかすり傷)、傷害のない事故(傷害や物損の可能性があるもの)を300回起こしている』
さらにいうと?
『300回の無傷害事故の背後には数千の不安全行動や不安全状態があることも指摘しています』
三百件のさらに先があるってこと。
『また、ハインリッヒは、この比率について、鉄骨の組立と事務員では自ずから異なっているとも言っていますが、比率の数字そのものではなく、事故と災害の関係を示す法則としては、現在も十分に活用できる考え方です』
結局、全文を引用してしまったけど、こんな感じだ。
さて。
特に事件も事故にも巻き込まれていない頃の私からしてみたら、事件も事故も、こと身の回りに限ると? そうそう滅多にあるものじゃない。
正直にいえば、そんなの小学校に入る前の話にさかのぼっちゃうけどさ。
病気にしたって、せいぜいインフルエンザにかかって三十九度近くの熱が出るくらい。それさえもまあ、そうそう起きることじゃない。
漫画や映画で見がちな重病にかかったヒロインが主人公になにかを残して去っていくド定番中のド定番展開でも「そんなことそうそうない」って言えちゃう。
死ぬ前にやることリストはいまじゃ終活の定番になっているそうで、それもお父さんとお母さんが学生の頃には映画で見かけるネタだったそう。きっと時代を遡っても、たくさんあるんだろうね?
その組み合わせで重病にかかった女性が死ぬ前にやることリストを消化する、なんて映画もあった。
だれかの心に残ろうとするか。
それとも自分のやりたいことに忠実であろうとするか。
あるいはその両方か。それともさらに他の意欲があるか。
一口に語れるはずがないので、こうあるべきなんて言えないなあ。
ただ、ねー。
日常がちがってくるよね。
人それぞれに特性を持っていて、産まれも育ちも、その環境も選びがたさも。
人がちがうのだから、親もそれぞれ。養育者もそれぞれ。接する同世代も、その親も。集まるこどもたちと接するおとなたちも。
だれかの常識は、だれかにとっての非常識。
例えば、うちの常識が緋迎さんちにとっての非常識だったり、その逆もまたあり得る。
幸い、実際にはそれほどひどいギャップはないものの、あり得るものだ。
一緒に過ごしたり、同棲したり、共同生活をするようになって「ほんとにあり得ない」って思うようなうんざり習慣を持っていると感じることもある。もちろん、相手だって自分に感じている可能性が大いにあるよ?
ふたりで過ごすとなると、いやはいやで伝えるし、それが普通かどうかよりも、お互いに一緒に過ごしていくうえで相手に配慮してやめられるかどうかってかなり大事だ。お互いさまでもある。
形式的にやればいいってものでもない。
息をする音が耳障りだから息をするな、前にこっちは要求を呑んだろ? みたいなのはもう、問題外。だけど、そういうことを日常的に言っちゃう養育環境や教室、人間関係だってあるわけで。
そんな環境で長く過ごしていたら、三百件の手前にある予兆はどれほど経験して、知っているだろう。逆にそんな脅威なんかかけらもない環境で過ごした人は、どれほど知らずに済んできただろう。
脅かされ度、脅かし度は過ごしてきた環境と、経験で変わる。
主観的なものだ。相対的なときもあれば、絶対的なときもあるのかもしれない。このへんは、要研究かな。
ただね?
ハインリッヒの法則と仲が良さそうだ。
そもそも日常的にきつい体験を繰り返していたら、そりゃあいくらでも連想して心が参ってしまうよ。まあ、ハインリッヒの法則は労働災害の発生確率を分析したものだけどさ。
さて、ここからが厄介だ。
日常的にきつい体験が繰り返し起きる環境下だと、あらゆる予兆やひやり、はっとする瞬間の連続だ。そんなの通り越して暴力に傷ついていくし、その対応策として暴力を選ぶくらい過剰な状況に追いつめられ、それが成功しようとしまいと、ますます日常の内訳が過酷になっていく。
刺激と体験から予想する情報も、その対応もどんどん厳しくなっていく。情報量は増すばかりだ。きつい体験をするほど、連鎖的にあらゆることにひやり、はっと、過敏にならざるを得ないから。
こうなるともう、脅かされ度も脅かされ経験も悲惨な状態に向かっていくばかり。
それに備えたり、自分で意識的に切りかえるのはかなりむずかしい。というかきっと、意識的にどうにかできる類いのことじゃない。
トウヤが小学生の頃、テーブル中央の醤油差しを取って使ったら、手元に置いて戻さない時期があった。あれがほんとにいやでさ。しばらくはちっとも気にしなかったのに! 一度気になると、どんどんむかつくようになっていく。テレビを見ているときのお父さんの貧乏揺すりもほんとに無理。他のタイミングでも、いくらでもしてるんだけどなあ。
それにトウヤが食べものアニメで麺類を豪快にすするのにはまって、じゅるじゅる音を立てていたのがほんとにきつかった。いますぐやめてほしかった。毎回いうのに、あいつは続けるの。
だいたいケンカすると、トウヤが先に折れるんだけど。
そういうときのフラストレーションって、なかなかゼロにできない。
相手を支配して変えようとしたくなる。いますぐやめての一点張りか、好きにさせての一点張りか。水掛け論になるだけ。先がない。そりゃあ、場合によっては争いだって起きる。その争いも、下っ端にやらせて指示を出す側に回って利用しちゃえ、なんてあくどいのも出てくる。
ほんともー。
たいへん。
感情的になることも、そういう状態を利用されることもありえる。
なのに?
脅威のある経験に紐づくのなら?
制御できるわけがないのに、ねずみ算式に増えていく。
レンちゃんと結ちゃんがいて、キュウおばあちゃんのいる狸街で過ごすのなら? 私がひやりとしたり、はっとしたりする場面に出くわそうとも、安心していられる。安全な場所だとわかるほど、いい。
けどもしも、教授やアダムみたいな人たちが継続的に私を襲いつづける環境で過ごしていたとしたら? 脅かされ度がどんどん捉えきれなくなっていく。コップの中にたまる塊はコップの底で、トウモロコシ、それも爆裂種の粒が弾けるようにポップコーンみたいに膨らんでいく。
そう、感じるの。
しかも粒が増えていくんだよ?
膨らんで、増えて。その繰り返しに耐えられるかって?
無理だ。そんなの不可能だ。
落ち着いて過ごせる環境で、まずは過ごす。
そしていやだなって感じる相手には近づかない。
それを実行可能なベターな手段だと捉えたとき、それでも実現可能とはいかないことだってざらにあるからつらい。
学校を転校するしないとか。養育環境がさんざんだから変えるとか。それができなきゃ我慢するか、さもなきゃ、なんて。無理だ。どれも無理なんだ。
アメスパ2の話が多いから、スパイダーバースあたりの話もするけどさ?
ヒーロー活動で人を救うとしても、全員は救えない。
ひとつの次元に集まった大勢のスパイディーたちが、おじさんを失ったばかりのマイルズ・モラレスにそう語る。悲しみと経験の痛みを思い出しながら。
災害救助、悪党がいたら犯罪の進行を防ぐ。
日常の活動がこれだとして、それで万全かっていったらちがう。仕事でやらかしたり、人間関係で悩んだり。彼らも結局、人だ。
夢見るのはいいけど、私はどこまで求めるの? どうなりたいの?
脅かされ度が限界を超えていて、そろそろひやりやはっとに過敏になってきてもいて。言うまでもなく、まだまだひどさには先がある。底なんてない。
ほんと、参っちゃう。
「どうしたらいいのかなあ、おばあちゃん」
「そうねえ」
悩みを打ち明ける私はいま、狸街のキュウおばあちゃんちで、向かい合ってコタツに入っている。おばあちゃんはぷちサイズの私用に座布団を何枚も重ねてくれていたから、こたつに置かれた小さくて甘いミカンを食べれたし、冷たくて香りのいい緑茶を飲めた。
レンちゃんも結ちゃんも今日はお仕事で忙しいらしい。
なのに私は神使のお仕事、特になし。
いつものようにね。
だったら開き直って甘えちゃおうっていう作戦だ。
なんだけど。
「どうしたらいいんだろうねえ」
「やっぱり、難問なのかなあ」
「そうねえ。ずうっと続けていくことなのでしょう? できないところから、始めていくのでしょう?」
「そうなの! できる気がしないのに、できる気がしない道を歩き続けようっていうお話なの!」
話していたら、気が昂ぶってしまう。
荒ぶるぞ? いくらでも。
「だけどもう、きっとその道を歩いているの。もしかしたら、私が思うよりずっと前から」
結ちゃんとキラリからしてみれば、中学時代にはすでに。
トウヤとか、うちの親に言わせれば、もしかすると物心ついた頃から、とっくに。
だけどはっきり歩きだしたのは、高校に入ってから。
聖歌ちゃんのお姉ちゃんほど、私は動けてない。
なんだろ。
自分にできることがあって、なにもしないでいたら、どんどんひどくなる状況もあって。
しくじるし、傷つくし、恥も掻くし、しんどい目にも遭うし? 自分に限らず、だれかがそういう目に遭うことを防げない瞬間にさえ、遭遇する。
いろんなドラマが好きだ。気づかされることが多いものは特に。
医療ドラマ、救えない人の多さに心がめげそうになることがある。ドクターストレンジの冒頭で出てきたER。救急救命室。まんま、アメリカドラマのタイトルにもなってる。他にも医療のドラマは多い。
救急で搬送された患者さんが手に負えない状況にだって遭遇することもある。ドラマは見られるようになっているけど現実は当然、そんな配慮なんか一切ない。
それでも、自分がなにもしないでいたら、どんどんひどくなる状況がある。
これまたやっぱり、万全な指標じゃない。
やらずにいられない、自分しかいないんだとして、つらい環境に耐えちゃった結果、心がどうにかなってしまうほど脅かされ度が高まる環境でしかなかった、みたいなこともある。そういう環境に向かっていく人だった、みたいなことだって。
地獄だって人がいくらでも作れるし、作れてしまえるものだ。
鬼の所業さえ、人がいくらでも行えてしまえるもの。脅され度が高まりすぎて、安全と安心を求めた結果が暴力による手段と、強烈な依存でした、なんてケースもあれば? それが嗜癖に向かうことも。
どうにもできないよって、うんざりしてる。
もう抱えられないよって、根を上げている。
おまけに日常にぷちたちとの生活が加わったんだ。
無理だよ。
カゲくんたちの誘いも。仕事でばりばりやるのも。学校で夢中になって学ぶのも。
私の一日エネルギーが十なら、雑にいっても千! 千! 千! 合計、三千! って感じ。そこにぷちたちの人数かける千が乗っかるイメージ。
無理やて。
それでも、自分がやらないとって思う気持ちが私の背中を押してくる。
ちょ、まて、押すなって! 振りじゃなくて! って必死に訴えても、心はどこかで求めてる。
だからなのか、今日はとことん「ヒーローも狐憑きも人」って繰り返してる。
無理っていっては、でもでもって粘ってる。
一日ごとに決意しては折れてを繰り返しているまである。
いい加減しつこい。
わかっているのに開き直れない。
これまでの歩みも。
これからの歩みも。
私にとっては恥ずかしいくらい現在進行形な、過去の傷だって? 粘りを見せている。
まだ気にしてーって私自身にアピールしている。
そして「どうしたらいいのかな」と、アピールする過去にさらに悩んでしまう。
わかってる。
ほんとにしつこいってことは。
わかってるんだけど、しつこいって言っても済まないんだ。
つらい。
これでもかっていうくらい、去年の五月にシュウさんに叫んだことばが追いかけてくる。
メジャーに移籍して活躍した、ある野球選手いわく、華々しい一打や一投の輝きよりも、ずっと続けることのほうが比べられないほどたいへんだそう。
続けるっていうのは、もうそれだけで才能だ、みたいな風潮もある。
一方で、続けるだけでは意味がないとする風潮もまた、存在する。
努力しているからいいでしょ? と言って済ませて、ただただ続けて実になるのかっていったら、たしかにむずかしい。
努力ひとつとっても「なにを」努力したか、「どう」努力したかとか、いろいろ言える。
調査、分析、改善それぞれの努力もある。
毎日、木の棒を持って十回振っていたらすごい棒振り人間になるか。そして剣道の達人相手に素早く一本が取れるようになるかっていったら、話は別。せっかく野球選手の話をしたから、バットをなにも考えず毎日ただただ振っていたら、どんな球でも打てるようになるかっていったら? ちがうよなあ。ボールがあるかないか、どういう球種なのかで変わってきそう。
なにも目標を設定せずに振るか。それとも早く振るか。あるいは強い打撃を与えるように振るのか。これだけでも変わっていく。
行いひとつとっても、いろいろやれる。
逆に、行いひとつとっても、いろいろやるどころじゃないくらい参っている、という状況もあるわけで。
うーん。
「私、がんばりたくないなあ」
「疲れちゃった?」
ウルスラ理論で「やりたくなるまで休む」のか。
ええい、これしか手はないが、やらずにはいられないんだ! と、トンボを助けに飛び出すキキのように、踏ん切りをつけるのか。
わーってなると連呼しているわりに、いまは日常をマイペースに繰り返していけてる。
ベストじゃないけど、なんとかね。
なにかが起きてはいけないという脅威に脅かされ度が上限なしで増していく。増しすぎて気持ちが追いつかなくて、カウントできないくらいだ。
もう遙か遠い昔のようだけど、ぷちたちの健康診断をしてくれたときに霜月先生が渡してくれた情報のなかには「これは注意」リストも含まれていた。相談窓口なんかも載っていた。
いよいよとなったら頼ろうとして、すぐに飛びつかないあたりに私の怯えがある。
ただ、まあ、なんとか、保っている。
とにかく頼れ。抱えるな。相談だ。声をあげていいよ! と、いろんな人が助けてくれるのがかなり大きい。すこしずつ視野も開けてきた。
それでも、きっかけを自分の外に求めちゃうくらいには、まだ、疲れている。
罪を数えている。
罰を考えている。
ひとりの中にマジョリティとマイノリティが混在するように、人と関わるうえで罪と罰が溶けあって混ざりあっている。加害だってそう。被害だって。ひとりの中で溶けあっている。
このまま続けたら?
取り返しのつかないことになりそうで。
いまならまだ引き返せる気がしている。
だけど、無関係を決めこんだら、それはそれで取り返しのつかないことになりそう。
どう選んでも、そうなるのだ。たぶん。
新たな力? 可能性?
このままの私じゃ無理だ。
目標が決まってないまま繰り返すことにうんざりしているし、そもそも繰り返しに参加すること自体に参っている。
ちなみにそんなエピソードも、いろんな作品でごまんとある。現実にもよくある話じゃないかな。
医療ドラマなら、とうとう最後の小さなドミノが倒れて、心のドミノ全部を倒してしまうようなことが起きる。仕事。治療。実のところ成功でも失敗でも起こりえる。
犯罪捜査ものはわかりやすい。加害者の根本に凄惨な被害を見たり。途方もない加害を目の当たりにしたり。そこまでじゃないにせよ、うんざりする仕事の連続と、身内の日常の乖離に参ったり。
職を変えたり、旅に出るおとなもけっこういるのだという。彼らの中には、日常に耐えきれなくなったというケースもあるのかも。
私の場合は?
狸街で息抜きしてる。
目標、未だに定まらず。
暴力を振るい振るわれる可能性のある現場に挑むには、タフさがいる。ガッツがいる。
気取ったつもりもないし、今後も気取れそうにない。
向いてないって切り捨てて、忘れてしまいたい。
無理だ。
そんなの。
捨てられないんだ。
ほんとは抱き締めたいことばっかりなんだ。
答えはとっくに出ている。
なのに、心の奥底からがつんと振り切るには、足りない。
タフさも、ガッツも。
なにより勇気が足りない。
選べない。
もー。
ドラマのボッシュが好きでね? 刑事ドラマだ。ハリウッド署に勤めるベテラン刑事、ハリー・ボッシュ。
裁判でいうと勝訴百パー、お医者さんなら治療率百パーなんてことはないんじゃない?
打席に立てば必ずホームラン、投げれば絶対に走者を出さずにスリーアウトなんて選手もいないし?
刑事でいえば、解決率百パーなんてものもない。
現実でないにせよドラマで泥臭く信念のある刑事たちが粘り強い理由はシンプルに、解決まで粘り、捜査を続けることでしか検挙できないから。
ハリーのデスクには、まだ解決できていない事件の被害者の、幸せだったときの写真が何枚も飾られている。現場は惨いものが多い。人間として扱われていない、というのをこれでもかと犯人が残忍に示すケースが。だからせめて「ひとりの人間であること」を忘れないため、そして解決する気持ちを忘れないために飾っているのだそう。
忘れがたい、解決していない、区切りのつかない楔のような記憶と体験は、続けていけばいくほど増えていく。
救いなどないと、思い知らされることがある。
そうではないと信じたくて、だけど羽目を外して自分を壊さず、逸脱しないように注意して、過ごす。
揺さぶられ続ける。だから参ってしまうことも、へこたれて心がすっかり折れてしまう夜も多い。そういうとき、自分を癒やす術を守る。そこさえ揺さぶられ、傷つくことさえある。
それでも続けられるのかどうか。
だれより自分に問われる。
ハリーの場合は、被害と誓いにも、なのかもしれない。
「ままならないなりに、幸せでいられたらいいのに」
「ままならないわねえ」
「そうなの」
おばあちゃんはアドバイスするでも、関係のない話をし始めるのでもなく、相づちを返してくれる。ちゃんと聞いてくれているとわかる相づちを。ほんと、すごすぎて助かり過ぎちゃう。
みかんのおひげを取りながら、綺麗に剥けたら私にお裾分けしてくれる。
すっかり和んじゃったし、私はすっかり懐いちゃった。
居心地がいいんだもの。
ハリーも若い頃は落ち込んで、しばらく塞ぎ込んだのかな?
私は長いぞー? しつこい。
傷はたぶん、そういうものだ。
執着は、完璧でありたいからかな。もっとうまくやれたんじゃないかって。
失敗を消したい。なかったことにしたい。上塗りしたり、他のことで代替したり。
なくならない。
わかりきってる。
しつこく繰り返していることは他にもある。
人は完璧じゃない。
こんな常套句を自分に伝えることになるなんて思わなかったけど!
だれでもミスは犯す。
だれでも間違える。
そして私が関わる現場じゃ、致命的な結果になり得る。アダムと教授がそれをわかりやすく証明した。あんなのはもう、二度とごめんだ。
立ち直ったかって?
そんなはずないよ。
立ち直ってなんかないよ。
認めちゃった。
何度やってもきっと慣れないんだ。これは。
すっきりもしない。
だよねっていう実感しかない。
そんなのごめんだから、おばあちゃんのくれたミカンを食べる。
おいしいものはいい。
食べている間は気分が変わる。
それでついつい食べすぎちゃうこともあるから?
ままならない!
隔離世に絡むイコール、たくさんの厄介やトラブル、実際に体験したことに繋がる。
備えていけば、ひやりとしたり、はっとしたりする瞬間に食い止められるか、それより事前に防げる率があがるかもしれない。だけど、続けていくほど、ハインリッヒの法則のなかでも一に繋がる出来事と遭遇しかねない。避けられない。
私にしてみれば、教授とアダムはどっちも最初の一だ。
一番避けがたい、一がふたつ。よりにもよって。
もうごめんなんだけどな。
なのに、捨てられない。
あのときのことばに足さなきゃ、いまの私には響かない。
どうしてくれよう。
結ちゃん流に言うのなら?
しつこいのも執着も、だけど粘りを見せていろいろ読んだり、なんだかんだ私にしては珍しく相談しまくってるのもさ?
こんなのにへこたれていたくないんだ。
さくっとはね除けて、前よりパワーアップしたいまであるぞ?
「あとすこし。ことばを探してるの」
「そっか」
見つかるよ、と朗らかに言ってくれる。
おばあちゃん、ほんとほっとするなあ!
ただそれだけでいいの。
いまはただ、それだけで。
いつか旅に出るための足踏みができるから。
元気よく足踏みできるほど、前に踏み出す足が楽だとわかる。
足は元気だ。
日常は過ごせてる。
あとは歩きだすだけ。
だからね?
おばあちゃんのことばが聞きたかったんだ。私はきっと。
いまはただ、見つかるよって言ってくれるだけでいいの。
つづく!




