第千八百七十六話
結ちゃんを訪ねに病院に顔を出す。
フロアに姿が見当たらず、受付で尋ねたら「いまちょっと、不安な患者さんの付き添いをしているの。一時間はかかるんじゃないかな」と言われちゃった。
途方に暮れていたら、ちょうど病院にやってきたおばあちゃん狸が隣に並ぶ。大きな葉っぱで包んだなにかをカウンターに乗せた。ほのかに甘い香りが漂ってくる。ぜったい、お菓子だ。
「どうも。娘にこれ、お願いね。いつもの量だから」
「いつもありがとうございます、キュウさん。私もあとでいただきます」
「どうぞどうぞ。それで? お嬢ちゃんはどうしたの?」
ボタン留めのゆったりとしたワンピースにケープ。目元に小さな眼鏡をかけて、手袋までしていらっしゃる。香木の穏やかで甘い匂いがふわりと漂ってきた。
声からして、いかにも根っからの優しいおばあちゃんって感じだ。
「あら、いまにも泣いちゃいそう。よかったら、おばあちゃんに話してみない?」
どうしよう。悩んで視線が迷う。
「こういう声かけ、久しぶりでうっかりしちゃった。私ね? こちらにお伺いするとき、決まってこちらのカフェに寄って、のんびり本を読んでいるの。あたたかいお茶とお菓子をいただいて。よかったら、どう?」
ナンパだ! 私いま、ナンパされてる!
って、あほか。素敵なおばあちゃん相手にそぐわないぞ?
お誘いっていうんだ。こういうときは。
「それがいいわ。キュウさんとカフェにいるって、結ちゃんに伝えておきましょうか。どう?」
外堀が一気に埋められていく。
受付の狸のお姉さんのフォローに押されて、提案に乗っかることにした。
ふたりで院内をのんびり歩きながら、自己紹介をした。
彼女はキュウおばあちゃん。娘さんが病院でお医者さんとして勤めているのだという。けっこうな激務だそうで、おばあちゃんは栄養たっぷりのおやつを持ってくるのだそう。甘さは控えめ、お茶と相性抜群のおまんじゅうを。
集中力と思考の栄養、糖分。もちろん取り過ぎたら脂肪になるけど。クリエイティブ職の人の中には氷砂糖や飴、お砂糖たっぷりのコーヒーや紅茶を愛飲する人もいるそうだ。
行きすぎると? エナジー系のドリンクに。糖分だけじゃなくて、カフェインの取り過ぎもやっぱり身体にとっちゃしんどい。眠りが浅くなったりして。どぎついヤツを常飲すると? かなりの負荷がかかる。そういうやつは大概、糖分もたっぷり入っているから。
けど、きちんと栄養管理してるのなら?
おまんじゅうを一個や二個たべても、きちんと調整できるんじゃないかな。
いいなあ。
意識してお菓子食べることって、そうそうない。
おっと。つい甘さほしさに長引いちゃった。
私は私で、アマテラスさまのお屋敷にお世話になっていること、神使だけどのんびりしてることなどを話した。
おばあちゃんは相づちと声の穏やかさと、なによりおっとり優しい包容力が全開でさ?
気づいたら、なんでも話しちゃってた。
金長ちゃんに言われたこと。現世でもうなにもかも「わー」ってなっちゃうくらい大変だってこと。日常の話、循環の話題、それにトラウマの話まで。
それだけのボリュームだ。話している間にカフェについたし、お茶やお菓子をいただいた。
なのに、止まらない。
おばあちゃんは気持ちのいい質問をこれでもかと投げてくれるし、聞いてくれるの。
だめだ。こんな一方的なの。そうわかっているのに、止められなかった。
やっと喉の渇きが我慢できなくて、あったかいドングリ茶をいただいてから、はじめて謝った。遅すぎたくらいだ。
「すみません、いっぱい話しちゃって」
「いいのよ? だってあなたは、そんなにも、いっぱいお話したいことがあったのよね?」
真芯を射貫かれた。
ずどんと一発。
話したいことをとことん話したことよりも、おばあちゃんのことばのほうが何百、何千倍も涙腺にきた。涙が溢れてきた。やばい。なにやってるんだ、私は。
「す、すみません」
「あら。謝ることなんてないのよ? いっぱいお話できて、すごいじゃない」
「す、すごいですかね?」
「金長狸さんほどじゃないけど、私もずいぶんと長く生きているの。現世ですこし。それから、この街でとてもとても長いときをね。だけど、まだお話する勇気のでないこともたくさんあるのよ?」
「――……おぅ」
「あなたは私にいっぱいいっぱい、お話してくれたでしょう? よくお話できたね。よく、お話してくれたね」
お礼なんて、言われることぜんぜんない。
そんなことぜんぜん、だって。言葉がやまほど溢れては、そのたびに詰まる。
そのぶん涙がいっぱい出てきた。
ハンカチまで差し出してくれる。
戸惑っている間におばあちゃんは手を伸ばして、私の目元をそっと拭ってくれた。
柔らかくて、ふんわりしていて、鋭くなった嗅覚でも安らぐほのかに甘い花の香りが気持ちいい。涙を吸った布地の感触は、それでも気持ちがいいまま。
「ありがとうね?」
そんなのぜんぶ私のことばなはずなのに、おばあちゃんがくれる優しさの中でやっと「あ、がんばってたんだ」ってわかって、それで張りつめていたなにかをやっと緩めることができた気がして。
がんばってたぶんだけ、涙が次から次へと流れていく。
蛇口の栓がばかになっちゃったのかな。ずっと全力で放水中。タンクの中身が空になる気配なんてない。
自分でもびっくりするほど、ギャン泣きしちゃった。
おばあちゃんに抱きついたし、どれほど長い時間をかけて泣いたかわからないや。
そもそも途中で泣き疲れて寝た。
やっと起きたときにはもう、私の席に結ちゃんがいて、私はおばあちゃんに抱っこしてもらっていた。恥ずかしいとか情けないとか、そんなのぜんぜんない。
ただ「いつでもおいで」といって、おばあちゃんちの場所を教えてもらった。
結ちゃんに抱っこされなおして、アマテラスさまのお屋敷に向かってくれる。結ちゃんともいろいろお話したよ? あのおばあちゃんはとても面倒見がよくて、結ちゃんもいろいろとお世話になっているのだそう。娘さんがお医者さんになる前は、おばあちゃんはお医者さんとして働いていたのだという。
神使、いろいろ。お医者さんという働き方も、あり。
送り届けてもらって、座布団に丸まったら? すぐに寝ちゃった。
気づくと朝。
悩みをほんとのほんとに、ただただお話して安心するって体験が久しぶりすぎた。
私にとっては、心配と不安のぶんだけ言えないことが多すぎたのかもしれない。
おうちがたいへんだった聖歌ちゃんや未来ちゃん。ギンはお金でたいへんな場面がちょいちょいあったそうだし? カナタさんちもかなり大荒れ。
そういう傷の治し方がわからなくて、ケアの仕方も見当がつかなくて、気持ちの向けどころがわからないとき、人はどうするの?
支えを探す? 自分で立とうとする? たったこのふたつだけ?
まさか!
そんな単純な話じゃない。
じゃあ、いろんなケースがあるなかで、なにが共通してるかな?
それだってやっぱり、単純化を求めているに過ぎない。
簡単に並べられるほど単純な話じゃない。
ほんとにいろんな状況があって、いろんな傷つきがあるから、平易でわかりやすく「これだ」と思える説明を求めがちだけど?
ないない。そんなの。
その場でなにが循環するか。環境による。そういう解釈を最近の私は好んでいるけれど、これにしたって人と刺激にまつわる数多の要素の、たったひとつに過ぎないもの。
選択も、だから、複雑だ。
意識と無意識、自覚と無自覚。その他にも、いろんな階層がある。
それぞれの階層がどういう状態で導きだされた選択なのか。
探ろうとしたら?
やっぱり単純には決まらない。
日本じゃ活用されがたいけど、アメリカドラマで見かけがちなのが? 問題を抱えている依存症患者さんたちの集会を含めた援助組織。フィクションに活用されがたい、というだけで、これは日本にだってちゃんとある。海外にどれくらいあるのかは調べなきゃわからないけども。
たとえばメンターを設定する。病院に通い、グループの集まりに参加して、自分の問題を話せる安全な場として利用しながら仲間との縁を築き、メンターの指導のもとで治療へと向かっていくんだ。
犯罪ドラマで、こうした集まりに虚偽を用いて潜入し、病に苦しんでいる人たちを内心であざ笑うクソッタレがいた。あるいは患者の振りをして、依存症の物質依存を提供して儲けようとするクソッタレもいた。
人生の長い文脈の中で、やっと不安を緩和させる手段が共依存となるなにかだった、というケースを踏まえて考えると?
風邪を引いた! 病院に行ったら注射を打たれて治った! とか。
虫歯になった! 歯医者さんに行ったら一日の治療で治った! とか。
そうはならんでしょ?
風邪ならだいたいはお薬もらって、おうちでゆっくり休む。あたたかくして。汗は拭いて。栄養があって消化にいいもの食べて。何日かかかる。インフルエンザならもっとかかるかも。
歯の治療は? だいたいが何回も通うことになる。
それで治るとわかること自体、長い歴史と研究と実践で積み上げられた技術によるすごいこと。まあ、虫歯は進行度によるし。風邪はかかったときに他に症状がなければ、になるし? 安易な発言は、ここでさえできないわけでさ。
簡単に「これは? こう!」で「こういう人はこう!」とはならん。
したくなるんだけどね。
楽だから。
わかりやすいし。
「腑に落ちる感じ」があったら? とても安心できるから。
でもその安心は、理解とはほど遠い。自分を納得させることに「しか」使えないものだ。だれかに向けて語るなんて、あり得ない。
ちゃんとお勉強しないとね。
みんなそれぞれに苦しんでいる。
深い傷であろうと浅い傷であろうと、痛みと、その痛みによって生じる不安や恐れをどうするのか。
本当に様々だから、一概に語ることなんてできはしない。
そういうことを語る人には要注意。
偏見と差別への第一歩になるからさ。
傷つきが過激さや過剰への道になる、またその可能性がある、なんていうのは特にそう。
「――……特に、そう」
密集するぷちたちに押しつぶされながら、天井を見上げる。
私はこのところずっと、そういう目で見ていた。
偏見と差別。
そうすることで、私は自分を守っていた。それと同時に、自分をずっと責めていた。
偏見と差別に向かう「腑に落ちる」が結びつく「だれかや集団への見方」は、常に要注意。
わかっていたはずなのになあ。
安心したくて仕方なかった。
怖いことだらけだった。
そういうとき「可能性を示す」ことや「可能性があると予測できる」、そうした「腑に落ちる」、「だれかや集団への見方」は転ばぬ先の杖になりそうで。
それって、結局のところ、意味がない。
構えが増えるだけだ。
緊張する理由を増やすだけ。
そんなの増やしてどうなる。
そのとき的を射る感覚があろうと、どれほど「腑に落ちる」としても、意味がない。
まったくもって。
意味がない。
だってもう、その先なんかどうでもよくなるでしょ?
済ませるための方便として利用するだけでしょ?
だれかやなにかを見て使う定型コメントが、ただ増えるだけ。
そんなのに、なんの意味があるの?
ないでしょ。
先入観は自覚して「偏見を持っているぞ」と捉え、固執せずに視点を多く利用して「先」を探っていかなきゃ手段になり得ない。そこに真理はないんだよ。
先生たちの授業をふり返りながら、深呼吸をする。
私はずっと、定型コメントを増やして済ませようとしてた。
済まないから?
やまほど積み重なってきた。
たくさんたくさん、お話したんだ。キュウおばあちゃんに。
それだけたまってた。
済まないことが山盛りだ。富士山? キリマンジャロ? エベレスト?
とにかく、いっぱい。
あふれかえる済まないことが勝手に弾ける。心の中で。
定型コメントを打ち込んでも、そんなの防波堤じゃない。海に石ころを投げるようなもの。たくさんの視聴者であふれる生放送で、すごい勢いのコメントに埋もれちゃうくらいささやかなものだ。
行動が伴わなければ、知識は空虚なことばに成り下がる。
そんな感じの教えがあるそうだけど、納得。
たしかにそうだ。
実感に結びつく「腑に落ちる」「納得できる」考えであろうと、傷や痛みにアプローチできて安心と安全が循環できる行動に繋がらない限り、手段にさえならない。
逆転させて考えれば?
手段に繋げていけるかどうかが指標になるし?
選択する行動がいったいどんなものかは、とても重要だ。
それを忘れてはいけない。
お互いに循環させようとしているものがなんなのか、そこに関わる人それぞれが、だれを、あるいはどれだけの人を見て選択しているのか。切りかえていけるのか。いけないとき、離れていけるのか。
方針しか打ち出せない。
日常の作り方は、だって継続的だ。
ベースがそもそもたいへんさから始まるから?
だけど世の中マジョリティベースで構築し、整備されがち。
済ませてはいけない。
私はどれだけマジョリティベースで居心地がいいだろう。どれだけマイノリティベースで居心地が悪いのかな。
いろんな面を持つ人は、接するすべてに対してマジョリティってことは、そうそうない。
マジョリティは集団の中で形成されるもの。マイノリティもそう。発言力における優位、劣位としての側面もある。
だからこそ権力勾配は無視できないし、したら強烈なしっぺ返しを食らうものなんだけども。
環境を変えることが手段になり得るのは、権力勾配、あるいは発言力における優位・劣位に対するスタンスないし、マジョリティとマイノリティに対する振るまい方が変わったり? 環境に循環する感情と、共感性や共同体としての感覚が異なるからなのかな。
狸街、いまの私にとっては「居るのが楽」な場所だ。
とても居心地がいい。
その中でもレンちゃんに、結ちゃん、それからキュウおばあちゃんや病院はとても安心できる場所だ。
逆算して考えるとさ?
私はそれを、どうやったら日常で増やしていけるだろう。
どうやったら、循環しあっていけるのかな?
ぷちたちは?
悩み始めると身体が重たく、頭がきゅっと締めつけられるような感覚に陥る。
それは身体が心に教えてくれてるサインなんだ。
つらいのかも。こわいのかも? 不安なのかも。
そのしんどさにめげて、そのまま叫び出すと? 訴えはじめると、感情の流れができる。すくなくとも、外に出せる実感を抱く。なのに、終わりはない。
ないんだ。終わりなんか。
傷からくる痛みの感情に任せて、どれほど時間をかけて表現しても癒やせない。癒やせない傷の痛みはなくならない。
傷がそのままだと、ささやかな刺激にも過敏になる。身体をぶつけたら、ぶつけた場所がじんじん痛むし、疼く。足の指なら、歩くと痛くなるし? 太股とかふくらはぎがつったら、ちょっとでも歩こうとするだけで耐えられないくらい痛む。痛みが和らぐまで、ちょっと待って!? ってなるよ。
動かしたくない。だけど身体ほど刺激を止められない。人と接するほど、情報に触れるほど、心は刺激を感じて痛む。
ところで筋肉痛になったときは、休むまでなるべく痛くないよう気をつけながら動く。痛みを感じないように庇う。我慢できる痛みの幅ってものがあるから、それを越えない範囲で動きながら、治療できる場所に向かう。学校なら保健室、保健室でカバーできないか、日常生活なら病院へ。常備薬でだいじょうぶそうなら、常備薬を飲むまで。
心だと、どうだろう。
刺激されないよう、そして自分から刺激しないよう、動けるかな。
生育環境が痛みの循環する場所だと、どうか。私にはわからない。小中と個人的に痛みが循環し続けていた場所で、なにかができた実感なんて欠片もなかった。痛みばかりが循環していたとさえ感じるよ?
するとかなりむずかしそうだ。難易度がとても高い。
加害を受けていると感じたとき、相手から、ないし相手のいる環境から離れられるとも限らない。できるとしても、生活や生存に大きな影響を受けるケースがある。いじめられたら学校かえろ、はさ。言うほうにとっちゃそれで「済む」だろうけど、いざ実行するとなると果てしなく煩雑で強烈な負担のかかるもの。そもそも、なんでそんな負担を?
そりゃ海外じゃいじめる子を休学にしたり、カウンセリングを受けるよう勧めるべく親を呼び出したり、家庭環境に問題がないか調べる国もあるのも納得。加害や差別をさかのぼると、被害があるケースが多いというのなら? そこにアプローチする必要があるかを調べない限り、再現しかねない。また、被害を受けている人に負担を課すべきでないというのも原則として理解できる。おまけに慎重に、権利を侵害しないようにことを運ばなきゃ、いずれにせよだれに対してもなにも進まないし、やはり再現性を回避できないというのも納得だ。いまの学校に、そこまでの体力がある構造になっているかっていったら、ないだろうし。
ほんと、きつい状況だ。
構造も文化も、あらゆることがマジョリティに向かっていきやすい。権力勾配もそう。
なので環境にアプローチする必然性はある。常に。
でもそれは怒りではなし得ない。怖さや不安でも。もちろん、差別や偏見でもだ。済ませる手段でも、定型コメントでもそう。
「あああ――……」
だけど私はなにかと未熟。
この先がない。だから刺激を感じるたびに、済ませたくなる。
だけど済まないから、どうにかしたい。
アクセルとブレーキをめいっぱい踏みつけている。おかげで心がすっかり参ってる。
そうして抱えている話がやまほどあって、おばあちゃんに話した。
ずっとずっと、現在進行形なんだ。
私の傷は。
小学校時代さえ、そう。ことばにできない期間さえ含まれる。
中学時代のことさえ、ほんとのところは現在進行形。
ちがうちがうってやりたかった。けど、まだ続いてるんだ。
カナタと過ごした時間も。いろんな人たちとの戦いも。ぷちたちとのいまも。
もちろんぜんぶ、現在進行形。教授につけられた傷も、そう。
昔のことでも、いまの私の心をぎゅっと締めつけるなにかの引き金があるんだ。
敏感な心が思わず、うって怯むような引き金は、なんだろう。
怒りや恐れ、あるいは諦めや無気力。それらを私の心に知らせる、身体の反応。
それって、なんだろう。
私を育てる。自分を育てていく。
すごく大事な感覚だと思うのだけど、そのわりに私はまだまだ、自分のことを知らないんだ。
なら? 知っていけばいい。
わーってなることを続けても、そのわーをただただ表現しても、身体が教えてくれるサインの根っこがなんなのかは見えないし、わからない。
自分の安心や安全を得るために、だれかの安心や安全を脅かすだなんて!
あり得ない。
そんなやり方じゃ、だれかがだれかの安心や安全を守るため、押し返してくる。
そうでなくても、このあたりの感覚は人によって様々だし? 脅かされずとも脅かすタイプの人もいる。
そんな循環に留まったら?
つらくなるばっかりだ。
わーって気持ちが循環していくのは、とてもきついもの。
いままでつらさの循環することに接してきたけどさ? よくがんばってんじゃん、私。
でもがんばりすぎて、もうすっかり参ってる。
お休みが必要だ。
ここは安全。ぷちたちは元気で暴れん坊だけど。不安になることばかりだけど。なんとか一日を過ごせるくらいの痛みの幅だって、わかってる。
よくなっていくよ。きっと、うまくいく。
そう自分に唱えて、まぶたを伏せた。
だからどうか、いまはもうすこしだけ寝かせて。
つづく!




