第千八百六十二話
稲穂に挟まれた山道に辿りつくまでの短い間にさえ、私の心は騒いだ。
通りすぎた砂浜よりもくすぐったがりな敏感さは、どこからくるのかな。
塩の香りも降雪もなし。
雲に見えるようで別のなにか、もこもこしたものが天国にはいっぱいある。大地のようであり、創造物のようであり、あるいは霊子の凝縮体のようでもある。土や砂だってあるし、草木もある。ただ、稲穂に挟まれた山道の頂点から見える雲スキー場の先、レンちゃんのいう狸街のある森やその周辺は現世と同じ大地があった。
埋め立て地ならぬ、増設地ってとこかな?
雲を土台に土を埋めてあるのかな?
アマテラスさまの住まいとして? さすがに私の住まいなんてことはないだろう。
じゃあ、ここではどんな営みが行なわれているのかな?
狸たちの街って、なんだろう? その起源は?
狸を祀る社はあるよね。たしかさ。東京にも神奈川にもある。
この手の話は深くて、広くて、ここにいながら私はろくに知らない。
物語る人がいなければ、自分でするまでだ。
そうでしょ?
こどもの頃、ううん。もっとずっと前。
赤ちゃんの頃は、周囲の人たちが物語る。
こういうのが好き? おお、こういうときにいい顔するねえ! え、この曲で盛りあがるなんて、すごくない!? とかね。赤ちゃんの反応を見ては、みんなが赤ちゃんの物語を編み込んでいく。
わかりやすい例として用いたかっただけで、別に赤ちゃん時代に限らない。
トモと出会った頃の私がそう。
ツバキちゃんがめいっぱいの愛情で私に語りかけてくれたときもそう。
最初はシロくんやギンに。シュウさんの騒動を通じながら、彼とカナタに。
事件や出会いが大事かって? まさか!
なにげなく人と接する中で、私たちは物語る。すべてがそうとは言わないけどね。
雲とはなにか。
空中に漂う小さな水や氷のつぶの集まり。
こんな風に「こういうものだ」となるともう、そこで物語ることをやめる。
あいつってこういうやつ。
そう定まると、もうその相手について物語ることをやめる。相手を利用して自分の物語を編み込む道具にして終わる。済ませる。
先はない。
空に漂う雲を見て「あれは空中に漂う水や氷の粒だね」で終わらせてよしとする人に「じゃあ、どこからきた雲なんだろうね?」という問いは発生しがたい。
そこが肝なんだ。
先に続く問いが生まれるかどうか。
次の問いとして設定した内容を言い換えて「どのあたりから空に浮かんだ水なんだろう」としたら、それを調べるために必要なものは? 途端に付随して多くの謎が生じる。答えを限定するために必要な情報も増えそう。
ただし忘れちゃいけない。
この次の問いは、結局のところ雲とはなにかの返しを土台にしている。無駄になるわけじゃない。いらないわけでもない。
物語るには、段階がある。
段階を手段として利用するのなら、物語るにはいろんな手段が存在する。
物語るとき、そこには目的がある。
目的に合わせて物語るとき、いくつもの手段がある。
手段に留まるなかれ。目的を忘れるなかれ。なんどでも目的に立ち返っていい。
世界を歩くひとりとして、物語ることもできる。
観客は自分だけになるかもしれない。
それはとてもさみしいことだ。
だけど、ほかにもさみしいことがあるよ?
だれかといながら、ずーっと自分相手に物語ること。あるいは、ずーっとそばにいるのに自分を無視して、相手が相手自身に閉ざして物語り続けること。
実をいえば、ちがういきもの相手でもぜんぜん物語れる。鳥を相手にする人もいれば、動物とふれあえる喫茶店で働いている人や、動物園や水族館でお世話している人だって、そう。飼育している人も、畜産でお世話している人さえもね。
学校の先生たちも、生徒の私たちも、お互いにね? いくらでも物語れる。
対話やオープンダイアローグはその手段じゃない?
相手とふたりで物語るデュオをやるには、息を合わせる。セッションは一方通行じゃ成り立たない。歌と演奏のよう。自分が自分がとか、相手の音を聞かないようじゃ、そんなの合わせる意味がない。ひとりでやって、となるよ?
それでも人生にはいろいろなことがあるものだから、そうなるくらい参っちゃうこともあれば? それが普通で当たり前になり得る環境で、ずっと育ってたなんてこともあるよ。
なにが大変って、セッションの感覚を体系的に学ぶ機会って、ある? あろうがなかろうが、どうかな。説明したら聞いた人は習得できるような伝え方、できる? それだけの内容、自分の中にある?
かなり、むずかしそうだ。
ひとりでできる訓練には限界がある。
そもそも、だれかが自分を物語ってくれる機会を得られにくい。
和歌集をよんでいると、たまに見かける。自然の光景を自分に重ねて、自分で自分を物語る歌を。
だけど、やっぱり、だれかに物語ってほしい。
いろんな人と物語っていきたい。
そのさみしさに参って、めげてるとき、自分を相手にやさしく物語ることもまたむずかしい。
だったら?
だれかと一緒にいて、物語りあうのがいい。
そうして、悲しいかな。だまされたり、利用されたりするくらい?
人は求めずにはいられない。
だれかに物語ってもらいたい。それに自分が物語って、相手が喜んでくれたらうれしい。
この感覚への欲望を捨てられない。
だから人は集まり、社会を営むのかもしれないとさえ思えるくらいに、虜だ。
夢中なんだ。
それが当たり前の頃は大事さに気づかないけど、苦しくなるほど執着していくんだ。
なのにひとりじゃ気づけないってやばくない?
そういう気づきを、レンちゃんはくれた。
そう、セッションだ。響き合うのがいいんだ。
平安時代に歌を送り、返す文化があったけれど、それなんかもういまの私から見たらめちゃくちゃ切実な対話だ。
自然を相手に詠むとき、露骨に出るね?
物語る自分そのものが。きっと。世界をどう見て、なにを感じるのか。
それは物語るときに歌う癖とも言えそうだね。
人によっては、それは一度きまれば変わらないんじゃない? なんて思うかもしれない。
いやいや!
出会いと経験、物語り合う体験と、物語る訓練でいくらでも変わっていくでしょって私は思うかなあ。そんなものじゃない? 体調や近況次第でも、勉強や人付き合いによっても変わるでしょ。いくらでもね!
なので、ここにある雲も「本当に雲なのかなあ?」と疑問を置いて、いろいろと試しながら、いくらでも物語れるんだ。
私自身に対しても、そう。
だけど、いまの私のやり方だと?
もうなんかとにかく物語らずにはいられねえ! とやってるだけで、私自身を置き去りにしてる。こういうとき、レンちゃんの言うように、ひとりじゃだめだ!
かといって、カナタやぷちたちが私を物語れるかっていったら? 最近の私は余裕がないわ、ぴりついたり、ぼーっとしたりするわで「いまはやめておこう」ってなりそうだ。
人と一緒にいるだけじゃだめ。
一緒にいるひとりぼっちのままだと、演奏には参加できない。
みんなが好き勝手に自分の音を出してる時間には、それはそれで意味があるだろう。
だけど対話のときには、どうなんだろ。
もっとうまく音を聞き、聞いてもらう手段があるかもしれないぞ?
相手がことばにして声にだして物語らない対象、たとえば地面や空気みたいなものが相手なら、どれだけ自分が相手に寄り添えるか勉強できそうだ。相手の音に集中することから始めるのもいいし? 触れてみるのもいいね。
だけど触れるという行為は、自分だけが決められるものじゃない。
物語ることもそう。
大仰な印象があるかもしれないね? いまさらだけどさ。
お父さんが持ってる昔のドラマのビデオ(そう! ビデオだ! VHSだ!)を見ると「そんな話ききたくもねえ!」というセリフをいうおじさんがけっこういる。
そんなの昔のドラマだけかと思いきや?
いるいる! 現代にも普通に!
おばあちゃんちに帰ると? 古くてだめな男尊女卑を引きずってるおじさんが、おばさんたちの話に「うっせえなあ!」と言って、続けてセリフでたたみかける。そういう残念おじさんを目の当たりにしたことがある。
昔の私にはそれがひどくショックだったけど、でも、テレビでもその手の返しをする人はいるし?
老若男女なんて関係ない。
言う人がいて、言わない人がいるだけだ。
話には価値があるものと、ないものがある。
それを前提とした価値観で過ごしている人がいる。
じゃあ、その価値はどう計るのか。
結局のところは主観による。
自分で判断できないときは、目に見えてわかりやすい指標を頼る。
たとえば、イイねやハート、評価の数。
あるいは、自分の生活範囲でよく聞くだれかの評判。
でも、それじゃ危うい側面がある。だって、そこには共有可能な指標がないもの。
じゃあ共有可能な指標とは、なに? 真実はいつもひとつみたいなこと? キャッチフレーズ的なもの?
ううん、ちがう。みんなそれぞれ主観的に捉える中に真実があるのだから、人の数だけ、ううん、人が人と関わる数だけ増えていく。真実だけじゃなく、価値や評価さえも、そう。
学校でいえば、先生の好き嫌いで生徒の評価が変わっちゃうようなもの。
それじゃあ生徒は困るよね。先生のさじ加減で進路が左右されちゃうんだから。
おうちでさ? 強権的なおじさんが、その日の機嫌で家族への態度を変えるようなものでもある。機嫌がよければ「うまいめし、さいこうのかぞく」でも機嫌がわるいと「まずいめし、さいていのやつら」になる。
だれかの主観は、べつのだれかにとって大概、虫がいいものだ。
価値もそう。
ピカソも美術もなーんにもしらない人たち五十人を集めて、ムンクの「叫び」を見せて、彼らは現代の価値までたどりつけるか。
たぶん、かなり難しいんじゃないかなあ。
実験する時間次第かな? ヒントが必要だとしたら、どの程度かな? 美術史にまつわるテキストと講師がついて、時間をかけたら全員、わかるようになるのかな?
いや待て、ゴールの設定次第じゃない?
すくなくとも参加者はもちろん、この実験が有用であると示せる設定が必要じゃない?
ってな具合に、雑には済まない。
客観性の担保を得ようとするほど、個人の主観によるもので決められるものじゃない。
じゃあ大衆が熱狂すれば価値がある?
まさか!
第二次大戦にかけての悲劇をお忘れか? となっていく。ヒトラーとナチスが作りあげた熱狂も、その下地としてあったであろう優生論という土台も、踏まえておかないと危うい。
身近になった「他者やなにかへの価値評価」は実のところ、現状では主観による好悪の表明どまりになっている。厳密にやろうとするほど、その難易度はとびきり高いし? おまけに物語ることから遠ざかる。
そもそもきらいや苦手な人やものに対して、価値を感じていないのに、物語るという価値のある行為をしてたまるものかよ、という感覚を持っている人さえいるだろう。
実際には?
人による。
ほんとに、とことん、人による。
アマテラスさまのお屋敷で読んだ、医学書院「対話と承認のケア」によると英語と日本語による違いについて触れている。
英語からはじめると? ナラティヴという単語がある。盛んに研究されているものだそう。だけど他にもストーリーという単語も存在する。
三十一ページから引用するね?
『両者の違いは語源にさかのぼる。ナラティヴはラテン語の narrare に由来する。これは「述べる、説明する、物語る」といった行為を表す動詞である』
行為に強調記号あり。
『ストーリーはラテン語の historia に由来する。これは、「物語、歴史、説明」などを意味する名詞で、簡略化されて storia となり、英語の story になった(ちなみに英語では history と story が異なる語として定着したが、フランス語では histoire という一つの語が歴史と物語の両方の意味で使われている)』
そして?
『このために、現在でもナラティヴは「語る」という動詞(行為)としてのニュアンスが強く、ストーリーは「語られたもの」という名詞(ひとまとまりの話)としてのニュアンスが強い』
ラテン語の話に触れてのことばの変遷について読めるの、すごく助かるね!
日本ではナラティヴを物語として読む人もいる。けれど、これがどうにも具合が悪い。
私はいましがた物語ることの価値について「人による」とした。
対象に対する価値もまた、物語る行為についての影響を与えそうだ。すると「人による」だけでなく「時と場合による」までつきそうだ。
これじゃあ、物語ること。ナラティヴって、なに? となるし? 結局、主観的な価値はどう影響を与えるのか、具体的かつ客観的な話が一切できない。指標が示せないんだもの。
同著では物語は「もの」と「かたり」からなること。「もの」は特別なものを指し示すこと。なので「ものがたり」は特別なことにまつわる話になる、としている。
電車で隣に座った人が肘でつついてきて「自分の話、聞いてもらえます?」と言ってきたら、そもそも見ず知らずの人に肘でつつかれて話しかけられて怖いし、しかも長話になりそうでいやだし、なに考えてるのかさっぱりわからないからやっぱり怖いし近寄らないでほしいし話しかけないでほしいし、いますぐ席を立って離れるまであるけど、それらを差し引いても「興味ないのでけっこうです」ってなる。
だけどともだちや好きな人が「話きいてほしいのー!」って言ってきたら? 聞く聞く。
憧れてる人の話もそう。
逆に「あなたはどう思う?」と、まるで興味のない人に言われるのと、好きな人やともだちに言われるのとじゃあ、やっぱりちがう。
結局のところ、相手への関心や親近感、好きかどうかが大きく左右する。
しょうもなくてくだらない話でも、ともだちとしてばかみたいに笑える。だけど、見ず知らずの人たちと集まって、同じ話でそこまで盛り上がれるかっていったら? 別だ。
やっぱり結局、価値が影響を与えていそうじゃない?
じゃあ、その価値はなんだろう。
『今日の物語論では、この「語るべき価値」を報告価値 rellability と呼ぶのだが、「物語」という和語そのものに物語価値のニュアンスが含まれている』
三十二ページより引用すると、報告価値というものがあるそうだ。
続けよう。
『これが「ナラティヴ」や「ストーリー」と大きく違う点である。「物語」とは、「単なるストーリー」ではなく、「特別なストーリー」なのである』
『そのため、ナラティヴに関連する欧米語を「物語」を使って表現すると、客体としての物語のニュアンスが非常に強くなり、語るという行為のニュアンスが薄まってしまう』
『たとえば、 narrative account とか、 narrative identity という語を、それぞれ「物語的説明」「物語的アイデンティティ」と訳した場合、「ストーリー的な」に近い響きになってしまう』
『それに目をつぶって使いもするのだが、原語のもつ「語る」という動詞的なニュアンスが伝わらないように思えてもどかしさを感じるのである』
『この難点を克服する一つの方法として、語るという行為のニュアンスを強調するために、「ナラティヴ」に「物語り」という訳語を充てることもできるだろう。そして「ストーリー」のほうに「物語」を充てて訳し分ければ、原語のニュアンスの違いにより近くなる』
ただし音のうえで区別がつかないから、この点は問題あるよねと続けている。
ここでも価値はついてまわる。人によって扱いも指標も大きく異なる価値が! 「かたる」うえでの「もの」に対して。それにきっと「もの」を「かたる」「ひと」に対しても。
ここが厄介。
「ひと」の属性、とりわけだれにもわかりやすい特徴的な要素を指して「もの」を「かたる」行為に対する言説はよく聞く。年長者の話はよくきけ、とか。若い者の話はよくわからん、とか。差別的に性別や立場、貧困などを用いて語る人さえいる。
でね?
ぷちたちが「今日でっかい蚊が飛んでた!」って私に言ってきたら? あるいは「セミがちょう鳴いてる!」って教えてきたら?
それは報告価値があるのだろうか。ないのだろうか。
外から家族が帰ってくることに気づいて、そわそわしたり吠えたりする犬の歓喜は?
狩りに成功して、仕留めた昆虫やネズミを枕元に運んでくる猫の行いは?
記憶をさかのぼる。
お母さんやお父さんに、あれこれ報告してた昔の私のこと。歳を重ねて、かつての私みたいになんでもかんでも、めっちゃ知らせてきた幼いトウヤのこと。
仕事から帰ってきたお父さんの話。たまに大仕事に出かけるお母さんの土産話から、ふたりそれぞれから聞く日常のなんてことない話もそう。
ストーリーを求めて語るのか。聞くのか。注文をつけ、親指を上や下に向けまくるのか。
それともナラティヴを求めて語り合うのか。
頭が痛いから頭が痛いみたいな言い方しててなんだけど!
私はナラティヴが好き。語り合うことが好き。
自然が相手だと、まだまだむずかしい!
タレントさんと一緒に出演する研究者さんがフィールドワークの楽しい沼に引きずり込んじゃう場面とかさ。
あとはー。趣味人すぎる大御所さんが研究者さんと恵比寿顔でフィールドワークしちゃう番組とか! あれを見るとね? あの人たちみんな、やってるじゃない?
知識がいるなー! 情熱も!
正しさと同じできっと、価値もね? 枠組みによるんだ。
もっといえば、属する集団によって変わるものでもあるんじゃないかな?
そういうところが危ういし、繊細。
集団Aの素敵な価値は、集団Bのしょうもない価値なんてことも多い。
自分についても、そう。
レンちゃんは壁を越えて、物語ってくれた。私に向けて。
その喜びをレンちゃんに強烈に結びつけて、彼女に接したらもらえるみたいな刷り込みをすると? 途端に危なくなる。
けど、それくらい「物語ってもらう」ことを欲している人っているのかもしれないとも思う。
自分自身に向けてもできるよ。
それにきっと、日頃から「物語っていく」ことで、縁が増えるんじゃないかな。
いいことだけが起きるわけじゃないだろう。噛みあわなかったり、ぜんぜん感覚がちがっていて、ケンカしちゃうこともあるだろう。
ヒーローはストーリーに宿る。たぶん。
でもストーリーは嗜好品で、酔っちゃう。
私はもういい加減、悪酔いしすぎて無理だ。
いまの私をストーリーに押し込めると? ますます心を貫く刀が増えるばかりだ。
なのに、ストーリーは嗜好品なだけじゃなくて、自分を物語るときの刺激剤にもなる。
私はね?
親愛なる隣人ってあり方が大好きだ。
カナタのおうちにお邪魔して過ごした夏休みに、いろんな人に顔を覚えてもらって、お狐ちゃんって愛着を持ってもらえたことを、なんでかなー。愛しく思うんだ。あの繋がり方がいい。
ナラティヴで寄り添える隣人になりたい。
おいなりさんの神社って、たくさんあるんだもの。
なんかぴったりな気がするじゃんね?
「うーっし! 滑るぞー?」
金色雲をスノーボードに化かして、足袋越しに装着しながら吹っ切れてた。
ひとりでさくっと簡単に。思ったよりずっと晴れた気持ちで、眼下の長い坂を見おろす。
レンちゃんがきっかけをくれた。
いろんな人が語りかけてくれたことばは、あえてふり返らずともやまほどあって、私の心にちゃんと息づいている。目標もなく考え悩み、塞いでいただけで、きちんと輝いてる。
どんどん元気が出てくるぞ?
「それいけ!」
ジャンプして斜面へ。
速度をあげて進んでいく。
雲の斜面はふかふかの滑り心地。アイスバーンのような固さや滑落感がない。
とても滑り心地がいい。
「いぃぃいい――……やっふう!」
すこしふくらんだこぶを利用して、思いきり飛ぶ。
不安や恐れが心の内へと引きずり込んで塞ぐ引力をもつ。
ひとりじゃなくせないなら、旅に出よう。
だれかと対話しよう。
体験と経験が世界をすこしずつ広げていく。
問いが増える。挑戦を重ねて知識を得ていく。
次はもっと先に行けるようになるかも。
対話と承認のケアの副題にこうある。
ナラティヴが生み出す世界。
私はそれを、見てみたいと願うのだ。
ノンちゃんのことばが胸に響く。
なにかについて学びたいのなら、そればかりじゃなくて、別のことをするの。
広げていくぞ?
狭くしてる暇はないぞ?
お狐ちゃんと呼ばれた九尾の私は、いまから! 狸たちの街にいくんだぞ?
わ! どうしよ!
狐だー! って叫ばれない!? 歓迎してもらえないとしても、やな感じにならない!?
いまさら不安になってきた!
ええい! レンちゃんが待っているんだ! まずは待ち合わせ場所まで滑っていっちゃえ!
つづく!




