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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!
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第千八百五十七話

 



 目的の混同。

 いきものは食べて、排泄する。おしっこをして、うんちを出す。

 もちろん犬でも猫でも一緒。いまどき、いろんな動物の飼育をする。

 飼育するべくお迎えするのは? 人の選択。

 ところで賃貸だと動物の飼育は認められていないことが多い。糞尿、鳴き声に、アレルギーなど、トラブルの元になるからだという。動物によっては物件の壁や床を破損する可能性があり、退居時のトラブルになることもあるため忌避されやすいとも。

 仮に飼育が許可された賃貸物件でも、飼育した動物によって傷ついた場所の修繕費をもとに揉めることもあるかもしれないね?

 退居せずとも住んでいるあいだに匂いのトラブルも起こりえるかもしれない。

 そんなわけで、飼育時に「頼むから騒がないで」や「お願いだから所定の場所でトイレして」と願うかもしれない。ただし、それはあくまでも人間のニーズだ。

 飼育という単語を用いてはいるけれど、引き取って育てるという選択は人がしているのだから、これもやっぱり人間の都合。

 そんなこんなでお迎えされた犬も猫も、ハムスターでもフェレットでもなんでもそうなんだけど、彼らは食べて、排泄する。人と同じく、いきものだからね。

 人は幼い頃に、親か養育者に教わることでトイレを学ぶ。トイレトレーニングをする。それでも最初はなかなかひとりでできない。おうたを聞いたり、ダンスをしたり、おまるにまたがったり? 正直、私自身よく覚えてないけど! 一からお勉強して、できるようになる。

 それも一定の年齢になったら、いまの私みたいによく覚えてないか、すっかり忘れてしまうかもしれない。

 意識せずとも出るっちゃ出る。身体にトラブルがなければ。

 なので、犬も猫もそう。基本的に出る。

 けど彼らは知らない。

 人の都合も。選択も。

 そんなんあんの? って感じだろうし、言われたところで「こいつなに言ってんの?」って感じだろう。

 彼らにとっては彼らにとっての好みやタイミングがあるよね。だから自分の欲求に従ってするのかもしれないし? 安心してできる場所がないんだけど!? って不安かもしれない。

 いずれにせよ、人にとっての「ここでして」っていうのは人の目的であって、彼らの目的ではないからね。人がどこまで真摯に、誠実に、彼らが応じて学んでもらえるよう努めなきゃね。

 なんだけどさ。

 トイレトレーニングについて知らず、ろくに学ばず「生活させてもらってんだろ? 面倒みてもらってんだよな? じゃあやれよ!」って怒っている人は、たぶん知らない。気づかない。

 自分の目的を彼らの目的と混同したまま、なんで彼らが自分の思いどおりの場所にトイレしないかわからず、彼らに問題があるとして、怒り続けるかもしれない。

 逐一、彼らがいかに悪いのかを語るのかもしれない。

 思いどおりにならないせい?

 自分の価値観や知識では、彼らは自分に従うべきで、それができるのが最低限の知恵であり、できない彼らは愚かだから?

 ちがうちがう。

 ぜんぜんちがうよ。

 ちがうんだけど、でもじゃあ、どうする?

 飼い主は目的を混同している。だけど、飼い主の主観においてはちがう。

 だから仮に「ペットと一緒に暮らしていきたいんでしょ? 一緒に居てくれるじゃない。じゃあ、あなたがしっかりしないと」ってたしなめる人って、飼い主の主観においてはむしろ、指摘する人と動物から見た飼い主くらい「ちがうこと言ってる」認識になるんじゃない?

 なのに飼い主、ではなく。さんをつけて、飼い主さんと自分の価値観をごちゃごちゃにして、飼い主さんに対する認識のままに「どうかしてる」の路線で責める一手だと?

 飼育されているいきものと、飼い主さんとの環境が悪化するままで、いきものが最もつらい状況になりそうじゃない?

 さあさ、目的を整理しよう。

 飼い主さんの立場にもしも自分がなるのなら?

 人と、人とはちがういきものとを分ける。人の文化は別のいきものにとっては「しらんがな」か、そもそも意識してないかもしれない。昆虫に興味のない人がハチの生態やコミュウニケーションについて「しらんがな」ってなるように。

 多くのちがいがあるから、まずはそこを学びたい。

 彼らにとっての食事や排泄がどういうものか、人とはどうちがうのかを知りたい。

 そして自分の願いに添って、彼らが決まったところに排泄してくれるには「自分が」どうしたらいいのかを学び隊。できないときの心構えや、対処法もきちんと知っておきたいね?

 だって彼らにとっての食事や排泄を、人に寄せて「もらう」んだからさ。

 そこ、大事じゃない? その目的が自分にあるってとこ、すっごく大事じゃない?

 大事なんだけど混同しちゃう。

 飼育する動物がするべきだーなんて言い始める。

 挙げ句、いらいらしちゃう。

 こうした構図は人同士でも起こりえる。

 共有されていない目的って、相手は知らない。重要性をあれこれ「わああああ!」って言われても「はあ」ってなる。

 意欲は内から発するものがいい。循環するからね。それはとても得がたいものだし、仕事と噛みあう人なんて、まあああ! いないそうだ。人生、生きるのもそう。まあああ! いないそうだ。となれば、なあに?

 報酬でしょ。

 ごほうびだ。

 それはなにもお金に限らない。

 悲惨な例をもちだすけれど、暴力が振るわれないことかもしれない。

 先ほどの飼い主の例えでいくのなら、暴力による均衡は、支配していた者の弱体によってたやすく反転する。それに均衡としながらも、暴力を軸とした時点で、さらに弱い者を叩いている可能性は大いに高くなる。

 報酬も循環する。

 定義も。過ごす環境における正しさも。

 だから?

 目的の混同もまた、連鎖し、循環しやすい。

 ハリポタのハリーが階段下に居候している状況は、ダドリー一家にとって、そしてなんならハリー自身にとってさえ「ダドリー家の過ごし方」として定着してしまっている。

 糾弾したいし、どうかしてるって思うけど。

 一家の両親の振る舞いを見て育つダドリーが、ハリーに対してどのような態度を取っていたか。母親が、ハリーの母親に対してどのような感情を持っていたか。ハリーの父親がどういう人柄だったのか。ひとつひとつ要素を集めて推測すると?

 だいぶ陰鬱とした話題になりそうな気がする。そういう印象を持っている私は、ついついそういう文脈で読んでしまう。たとえばそう、ファンタビに出てくる女性に虐待されながら育ったであろう青年のように。

 おうちに、学校。ともだち、先生。やがてバイト先や仕事先。先生が教授やプロになっていくし、先輩や後輩との付きあいも増える。それにいつかは上司や部下、お客さんなど仕事で関わる人も。

 人や世界と関わることで、目的が生じる。

 それに感情だって、そう。

 現実に触れて、理想を夢見るし、ギャップに気づく。

 理想を土台に現実を従わせようとするか。はたまた、現実を土台にしていまできることを積み重ねて理想に近づいていくのか。さあ、どっち?

 どっちかしかないみたいな問い方してるところは問題ありまくりだけども。

 目的の混同。

 気をつけたいね。

 最後が妙にふんわりしてるけどさ。

 そんなことをつらつらと考える私いま、天国にいる。あ、死んでるってことじゃなく。アマテラスさまにお呼ばれしてる。眠っているときにされる、お決まりの時間だ。

 ちなみに私を呼んだ女神さまはというと「いそがしいから、のんびりしてけ」と達筆でしたためられた文を置いて、姿は見えず。おつきのみなさんが入れ替わり立ち替わり、お茶やお菓子を持ってきてくれるので、くつろいで本を読んでいる。

 こういう、おひとり時間がごほうびまである。

 天国じゃあむしろ、私がぷちさいず。なんならアマテラスさまにとってのぷちまである。

 座布団のうえに寝そべって、身体がはみ出ないなんて体験、ものすごく新鮮だ。

 さてさて。


「りそうどおりじゃない。げんじつ、ままならない」


 いつもより舌足らず。

 微妙に眠気があるのも手伝って、雑になっているのもある。

 ちびの頃に戻った気分になるのが、天国修行ではいつも気恥ずかしかった。

 でもいまはむしろ、勉強になるなあと感じる。

 ぷちたちのように、私もちびの頃に戻って考えてみたい。

 まあ、姿がぷちさいずになったから同じってわけじゃないけどさ。

 いいんだ。

 なんか浸れるから。よくない? いいじゃん。あ、自己完結しちゃった。


「んー」


 整理しよう。

 みんなそれぞれに目的を持ったり、あるいは原因に心を悩ませたりしてる。

 それでモチベが上がる人もいれば、下がる人もいるし、そうでもない人もいる。

 いろいろだ。

 ぷちたちがそうだし、私自身もそう。

 みんなそう。

 そのときどき、状況や環境がすこし変わるだけでも万華鏡が傾いたようにまったく別物に思えることさえある。結局この人って、どういう人ぉ!? と混乱することもある。だいたいはそのずっと手前で止まる。さっぱりわからんって。

 だから「あ、こういう人なんだ」ってわかると見通しが立つ。好ましいことだと、うれしくなるまであるしさ? どんとこいだ。

 なんだけど、じゃあそれがどれほど正確かは微妙。

 容姿で遊び慣れた人のだめっぷりは調べず「顔がいいから」結婚したら、日常の雑さ、だめっぷりと、その問題をぜーんぶ自分のせいにされて離婚するまで、ひたすら心労がたたる人もいるという。

 こう書くと見た目しか気にしてないんでしょって思いがちだけど、顔がいいのみならず身なりも立ち振る舞いも「遊び慣れている」のだから洗練されているんじゃないかな。そこで「さすがにだいじょぶだろ」って安心しちゃってたのかもよ? 遊び慣れてたら人付き合いもそれなりにできているんだろうからさ?

 取り繕っている外面はばっちり。だけど日常の「力を抜いたとき」に出てくる地金が露出したら? ごまかしが効かない。

 地金もばっちり素敵だったらいい。ただ、理想と現実は別。

 現実で地金を整えるのは、たいへんだ。とても、たいへん。

 今回、話にしやすくてやり玉にあげちゃったけどね。

 別に顔がうんぬん関係ない。

 だれでも地金がある。

 いろんな体験をして、磨かれたり錆びたり、でこぼこしてる。

 過ごした時間と経験のぶんだけ、自分の形になっていく。

 その形でよしとするのみならず、だれかも「自分に合わせるべし」なんてやりだすと?

 ろくなことにならない。

 みんなちがう地金。

 出会ってはじめて、自分の地金の知らない点や見え方に気づくことばかり。

 刺激は好ましいものだけとは限らない。

 相手を自分の理想どおりに従わせようとする? ないない! のんのん!

 さあどうするか。

 苦労することばかりだ。

 まずは、自分を育てられるかどうか。

 世界と交流しながら、自分を省みることができるかどうか。

 鍛えるという言い方もできるだろうし、修行という言い方もできるだろう。

 躾、でもいいかもしれない。

 ところで自分がいけないことをしたら、自分を鞭で叩いたり、傷つけるのって、どう?

 あり?

 個人的には、なし。

 見かけたらお医者さんと、国家資格をもつカウンセラーさんに相談することではないかと身構える。

 そういう文化圏も世界のどこかにあるかもしれないけど。

 個人的には! なし!

 ブッダもそういう苦行はやめなさいって言ってなかったっけ?

 自分になしなら、だれかにするのもなしだ。

 さてさて。

 そうなると?

 自分を育て続けるうえで、罰していたらやりきれない。

 そもそも目的の混同が起きている。

 育てるために、自分に向けてなにをするのかって話をしているのであって、罰してなにがどうなるの? 罰したら育つの? なんで? ぜんぜんちがくない?

 育てるために必要なのは栄養じゃない? 環境じゃない? そして縁や、だれかの協力じゃない? 挑戦しつづけられるために必要なすべてじゃない? 本当に危険な結果になることを回避する術や情報もほしいな?

 どこに罰が入る余地があるのかな?

 罰したいのは、なんでなのかな? どういう感情が安らぐのかな? その感情は、だれのものかな? 罰して傷つく人はいないかな? その人は、だれかな?

 歩いていて壁かなにかに身体がぶつかって「いったいなあ! もう!」って怒鳴るようなものになってない? 言い換えるとさ。その場限りの感情の処理で「済ませたがって」いない?

 行動も価値観も循環するし、反復する。

 罰したら、その振る舞いが循環し、反復する。

 気にしたいのはむしろ、行動し、常に存在する価値観を本人が心地よく、自発的に変えていくために必要なものは? 自分が参加し、協力できる範囲はどこ? ってところ。

 自分が相手でも一緒。

 それを罰する行為はカバーできるのかな?

 私にはできないと思うんだ。

 だーけーど!

 ついつい自分を非難する。

 評価して、それを自分を攻撃するための材料にする。

 痛みを生じる暴力性となって、自分の中で循環し、反復していく。

 結果、隔離世で刀に転化すると?

 もれなくすべて、私を貫く刃となる。

 刀の数を覚えられない。

 自分を殺すための敵意。

 許せない気持ちの象徴だ。

 そこで出てくるのが、セルフ・コンパッション。

 自分に優しくする力。

 評価して私を傷つけようとする振る舞いを、私は半ば自覚せず行なっている。

 思考するとき、行動するとき。だれかと接するときにもね。

 そういうとき、心は語っている。

 常に心は、訴えている。能動的に。

 けれどもうすこし踏みこんでみると?

 私を許せず「なんてダメなやつなんだ!」と思う私が、私の心に怒鳴りつけている。

 心から生じる「ああ、これがしたかったなあ」と願うことばを聞こうともしない。

 自分の願いを、自分で否定していく。


「ううん」


 映画でもドラマでもそう。

 外に出かけているときでも、たまに見かける。

 感情的になって、わーっとまくしたてるばかりで相手のことばがすこしも頭に入っていない人。いまなら「ああ、ほんとにいっぱいいっぱいなんだなあ」と思うんだけどさ。

 ああいうノリになるの。自分に対して。

 いやだなって思う対象が自分以外にいても、同じなんだよね。

 わーって感情的にぶつけたくなる。理性的に「こういうところがだめ! はいだめ!」って述べているつもりになっているときは、もっと危うい。どっちも結局、自分がそうしたいし、そうせずにいられないことだからさ? だれかのせい、だれかがきっかけってことにして、自分を置き去りにしちゃっているときはとても危ない。

 心を置き去りにすることをそのままにして、わーってまくしたてて心に寄り添うことをせずにいると? そうした振る舞いや構えもまた、循環し、反復していく。

 私の立場でいうのなら、ぷちたちに優しくするどころじゃないし? いまのままならなさをカナタに見つけては、いちいちイライラしていく。おまけに余裕もないから、現実で積み重ねるなんて、それどころじゃないままだ。

 おまけに、そういう選択をし続ける。自分で。

 抑圧の日常は、どんどん自分と世界を小さくしてしまう。

 出歩ける世界、ふれあえる人が減ってしまう。

 責める力が強まるほど、人が離れるか、人から離れてしまう。

 そして心地よさを感じられる身近な手段に依存する。依存先の数が減るから、依存の度合いはとても強迫的なものになってしまいかねない。

 その低減をし始めるとしてもさ? 低減の代替策が常習性を高める危ういものだとしたら、どん詰まりになってしまう。

 危険でしょ?

 やめよ。

 日常をしっかりと。そのためにも、まず心の声を聞いて、素直でいたいし、優しくしていこうよ。そうして、挑戦できる環境も、目的も増やしていくんだ。学び続けるの。

 楽しいし、いい刺激になるからね。

 いまはそう、捉えている。

 勉強不足で資格のない私の限界ともいう。

 大学部にいったら勉強したいなあ。正直いま、とても興味ある。

 話を戻そう。

 目的の混同は起こりえる。私の中に循環してもいる。

 その結果が、私を穿つ数多の刀たち。

 そして、私の心を斬らずにはいられない帯刀男子さまだ。

 和解もなにもないなあ。

 私が私に優しくできるかどうかにかかっているんだからさ。


「せーるふ」


 クリスティン・ネフ著、セルフ・コンパッション。

 コンパッションとは慈悲や思いやりを示す。

 それを自分に向けられるか。

 レジリエンス、つまり立ち直る力を発揮するために、人にはいったいなにが必要なのか。

 自他への慈悲と思いやりは、どのようにして獲得するのか。

 四十二ページより引用する。


『自分に優しくするということは、当然ながら、自己評価しつづけるのをやめ、自分を見下すような内的な実況中継をやめるということである。私たちの大半は、そうした自己評価や内的実況中継を当たり前のことだと思うようになっているが、自分の欠点や失敗を責めるのではなく、それらを理解して認めなくてはならない』


 この「理解して認め」は太字で強調されている。


『容赦ない自己批判によって自分がどれだけ傷ついているかを明確に見きわめ、内なる戦争を終結させることは必須である』


 内なる戦争を終結させるっていう表現は、かなり強いものだね?


『しかし、自分に優しくすることは、単に自己評価をやめることを意味しているだけではない。積極的に』


 積極的にも太字で強調されてるよ? 失礼、続けるね。


『積極的に自分を慰め、困っている親しい友人に接するように自分自身に対応することも必要である。つまり、自分自身の苦痛に心を揺さぶられてもいいということであり、ちょっと立ち止まり、「今、本当につらくてたまらない。どうやって今のこの自分を大切にして、慰めたらいいんだろう?」と言ってもいいということである』


 どうかな?


『自分に優しくすることで、不安になっている自分の心をなだめ、鎮めるのである。思いやりや優しさや共感を、自分から自分に』


 からとにが強調。繰り返すね?


『思いやりや優しさや共感を、自分から自分に注いで心を穏やかにするのである』

『真の癒しはそのようにして生まれる』


 心強い断言だ。


『失敗したとき――その失敗がとんでもなく派手なものだったとしても――容赦なく自分を責め立てること以外に、もうひとつ選択肢がある。誰にもしくじることがあると認めて、自分に優しく接することである』


 中略。


『しなしながら、悲しいことに、多くの人は、自分に優しくしてはいけないと思い込んでいる』


 いけないが強調。


『子ども時代にそのメッセージを受け取った人はなおさらである』


 循環するほど、強固に思い込んでいく。


『そして、自分にもっと優しくしたいと思っている人、自分の中の暴君を始末できたらこんなにいいことはないのにと思っている人でも、変えるのは無理だと思い込んでいることが多い』


 もっと優しくしたいの、したいが強調。


『徹底した自己批判の習慣をつけてしまったせいで、自分に優しくする能力が』


 能力が強調。

 とても大事な強調だ。いい?


『自分に優しくする能力が、まさか自分にあるとは思えないのである』


 そのため、ついつい、自分に優しくして「くれる」なにかに依存してしまいがちになるのかもしれないね?


『けれども、ありがたいことに、自分に優しくするのは、思っているほど難しくない』


 として、続いていく。

 四十二ページから、四十三ページにかけて。まだまだ序盤だ。

 頼もしいね!

 と同時に切ないね。

 自分に優しくしてくれる、全肯定してくれるなにかを外に求める。

 能力なのだから、トレーニングして自分でできるようになるのにさ。

 たぶん自分を否定し、傷つけられたつらさに参るほど、自分に優しくして「くれる」なにかを強力に求めちゃうのかもしれない。

 ゆうべのトシさんにぐらぐらきた私みたいに。

 よせ! 早まるな!

 そっちは危ないぞ!

 いまの私にはかろうじて、自分にそう言える余裕がある。

 けど、なかったら? 転がり続けるように、求め続ける。

 千と千尋のぶくぶくなカオナシの「ほしがれ」状態だ。さあ! 私を欲しがれ! 欲しがるやつがいたら、どんどんいくぞ! 後退はしない! って勢いで。

 容易に破滅に向かっていく。さぞかし、利用されまくることだろう。

 欲しがられたら、なんでもするんだから。

 そんな自分を嫌悪しても、やっぱり自分に優しくする能力は育たないままだ。

 かくして、循環してしまう。

 ここでも目的の混同が起きている。

 自分に優しさがいる。そのために自分はだれかの求めに対してなんでもする。

 成立しているかって? してないってば!

 だってそもそも、自分でできるんだもの。

 なのに、なんでだれかの無茶ぶりに応えなきゃならんの? なんなら求めなきゃいけないの?

 そりゃまずいよ。

 他者や外部に依存するか、それはそれとして、まず自分で行なうトレーニングをするか。

 結果は同じだ。

 安定していれば、とつくかもしれないところが私の未熟で無知の至らなさではあるけどね。

 結果が同じで、自分でできるのなら?

 まずは自分でやれるところから始めたい。

 学べば学ぶほど、刀は抜ける。帯刀男子さまは振るう刀が減り、やがては刀を下ろすことになるかもしれない。

 あ。

 念のため。

 自分でできなきゃだめ、自己責任、できてない人はだめ! って話じゃあない。

 ぜんぜんちがう。そういう意味じゃない。

 まず私は本を読んでいる。この時間はいろんな支えがあって成り立っている。天国修行がない状況だとしたら? お母さんやカナタや、ノノカたちがぷちたちのお世話をしてくれて、ひとりで外出してのんびり過ごせる時間がなきゃ無理だ。本を知るきっかけもいるね? 買うお金も。図書館で借りるのなら、そこに本が届くまでの過程も。

 やまほどの依存に支えられて、学ぶ時間にたどりつけている。

 これから先を読んでいく過程で「だれかと一緒にやってね!」って内容にいくかも。そのときはさらに依存先が増える。

 そういうひとりじゃできない事実を自己責任論はただただ暴力的に蹂躙する。いま困っている人たちを、ただただ責める。

 そんなのはいらない。

 求めてない。

 帯刀男子さまが勢いづき、私が私を貫く刀が鋭さを増す。

 それじゃ私は生きていけないからさ?

 いらない。

 ばいばい!


「げんじつー、こつこつー」


 いまいち舌足らずだけど、いいや。

 寝そべって本を読む。だれに邪魔されることもなく。

 たまにお菓子を食べたり、お茶を啜ったりして、涼しい和室の中で風鈴の音を聞きながら。

 しみじみと言いたい。

 助かるわー。感謝!




 つづく!

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