第千八百三十六話
ぷちたちの描くピザの設計図。
ぷちたちが教えてくれる、ひとつひとつの意味。
気持ちがめいっぱい伝わってくる。とてもわかりやすいし、基本的に一緒に体験したことばかりだ。そうでないとしても、カナタがお世話してくれているときだったり、イチゴやコトネが面倒を見てくれているときだったりして、よくわかる。
すごく特別なこととして話してくれるんだ。教えてくれるのなら、気持ちよく話してもらおうと思いつつもさ。実際に聞いてみると、ひとりひとりの人柄が見えてくる。こどもだと侮るなかれだ。
本当なら、この子たちがそれぞれに自分を気持ちよく学べるようにしたい。ぷちたちの親。式神の主。どちらも初心者から始まる。人と人とでもそう。それでも、やっぱり親、主、教師や上司、先輩や経験者はさ? のびのび育つことのできる環境の整備や理解に努めるものなのかなーって考える。
ただね。プレイヤーとして学んだことを、そのまま伝えればいいかっていうと、なかなかそうもいかない。
自分の枠内にある手法や評価に執着するほど、相手ではなく、自分の枠内の正しさを証明することに集中してしまうし、執着してしまう。話ができない人のようにね? 自分の枠内に寄せよう寄せようと、抑圧してしまう。
慣れれば慣れるほど当たり前になっちゃうから、無意識に済ませてしまう。
我慢してきたり、それでがんばってきたと実感しているほど、離れがたいからさ? 抑圧は連鎖しやすい。あらゆる環境に、すべて抑圧を押しつけるように生きるかっていったら? 人はそこまで単純じゃない。
外でいい顔をする加害者だっているという。「そんな人には見えなかった」ってやつだ。
社会での抑圧を家庭で解消しようとする環境は存在する。それこそクリミナル・マインドじゃ、わりとよくある題材として利用してなかったかな。
自分よりも弱い者、未熟な者を攻撃対象として選び、暴力を振るう。殴る蹴るだけじゃなく、人格を否定したり罵倒したり、ひどいことを言ったりするように。
反撃をされない、されるわけがない状況で攻撃する。そうした暴力に依存して、日常のストレスに対処する。それは大昔から長く続く人の病なのだろう。暴力への依存症。人を上下に分けて、下とみるや攻撃する。否定し、罵倒する。拒絶し、遠ざけ、排除する。
最近だと能力主義が、これをしがち。自己責任論もそう。
抑圧がある場所は、既に信号が点灯している。ここは危ないぞ、と。
傍から見ると「あいつ、なにひとりで勝手にいらいらしてんの?」って感じなんだけどさ。
ほんと、そうなのよ。
そうなんだけど、そんな自分をどうにもできなくなるのよ。
外へと発散しようとしていたエネルギーが、なにかのきっかけで抑圧されると? 本来、外に出るはずだったエネルギーが内側に押し込まれるの。それを気軽に外に出して、それで解決できるんならいい。けど、そうもいかないんだなー。
たまってっちゃうんだ。
だから、家庭で抑圧が始まるときつい。
家庭でどんなにのびのびしていても、小学校で抑圧されたら? 家で、出先で、いつもと同じように振る舞っているように見えて、心に強い負荷をかけられていたら?
つらいよ。尋常じゃなく。
それを私はぷちたちにやってしまいがちだし、自分を抑圧しがち。
その度合いは人と比べるものじゃないし? だれかに対してあれこれ言うようなものでもない。人のことはわからないからね。こうだよねというとき、相手に抑圧を仕掛けてるまであるから、言わないよ。
そういう前提を踏まえるとさ?
相手の感情にフォーカスして、共同体として上下も強弱もなく対等に共感していけるのか。それが困難なとき、自分の衝動が揺さぶってきたとき、抑圧の徒にならずに、距離を置けるのか。
それができてやっと一人前のおとなっしょ! と考える?
いやあ。
でもほら。
それはないでしょ。
ないんだけど、それはそれ。
なんなら難易度高いまである。楽な状況が整うと支配的に振る舞う可能性さえある。だれもがそうとはいわない。それは雑な抑圧放出。
焦点は自分に向けて。対象は自分に絞って。
危うい可能性さえ、排除せずに視野に入れて、回避できるように備えたい。
自分はなれるかな。
自信がなくなるばかりで、いまやもう私の自信は値崩れして取引停止状態。
ぷちたちが一途に求めてくれるほど「私、みんなの好意に値する人じゃない」と怯んでしまう。
困ったことに、抑圧は耐えるよりもぶつけるほうが楽だ。これは正しいから、相手は未熟で伝えなければならないから、必要なことだから。わからせなきゃいけないから、とかね?
そういう理由付けだって、抑圧するほうはこじつけやすさの難易度が低い。圧倒的に。
押しつけるほうが、とても楽。耐えるのはつらい。
耐えるのはいやだけど、押しつけるのも問題があるから毒にも薬にもならない態度を選ぶとして、やっぱり結果的に抑圧を押しつけていることにしかなってないこともある。
私にとって、それはふた。
身体に当たる側には棘や刃物がついている。
押しつけるほど傷つく。
自分が傷つくのはいやだから、だれかに押しつける。
正当化するための言い訳なら、やまほどある。
ピザはトマトとチーズの下地が、とか。フルーツを使うスイーツなピザなら味の組み立ては、とか。そんなに大きなピザにしてどうするの、とか。あなたたちは料理の経験がないから、とか。転化だってろくにしたこともないじゃない、とか。
わかっていないから、教えてやらなきゃ! と、先回りしようとする。
ぷちたちの立場で考えると、こんなに興ざめなこともない。余計なお世話だ、そんなの。
自分の中の結論を優先して、ぷちたちの気持ちなんかどうでもいいとして私の思うままに進めることを是とする理屈なら、つけられる。でもその理屈の単語にはね? へがつくんだ。共感性なんて欠片もないのなら、屁をかけるくらいがちょうどいい。
そんなに「ねえほら! 私が正しいでしょ!?」ってやりたいの?
そこまでして「ほら、やっぱり私が一番よくわかってる!」とか「だれよりも深く理解して、一番面白く語れるのは私でしょ!」とかってやりたいの?
やめてよ。
勘弁して。
そういうの、もう、うんざりなんだ。
したいことがあるのなら、自分でやってみよう。伝えたいことがあるのなら、話してみればいい。けどもう、競うのやめてよ。うんざりなんだよ。
切磋琢磨するためならいいよ? お互いにモチベを維持するのは大前提として、向上するように刺激しあえるのならいいよ?
でも、そうじゃないならごめんだよ。
そう感じているくせに、執着は根強くて離れがたい。
楽しくない。つまらない思いばかりさせちゃう。
抑圧を周囲に押しつけたり、露悪的に「ほらみて!」ってやると衝動は和らぐかもしれない。それでお金を稼ぐ人さえいる世の中だから、もしも話術次第じゃ稼げるかも。
でも、楽しくない。つまらない思いばかりさせちゃう。
そんな私でぷちたちといたくない。そんな私で十兵衞とタマちゃんといたくない。
そこまでわかっているのに、執着は根強く離れがたいんだ。
昔の私は苦しむシュウさんに訴えた。
いやなら、むりなら手放せばいいじゃないって。
そんなのむりなら、めいっぱい愛せばいいじゃない? って。
手放せてないのは、そこに執着があるから。
証明したいのかな。やり返したいの?
かつて受けた抑圧は、我慢して自分に課した抑圧は、間違いだったと。
復讐の話なのかな。反逆か。あるいは、報復なのか。
私にわかるのは、私の人生にまつわる抑圧と、その仕返しについてだけ。
抑圧は連鎖する。たぶん、加害もまた連鎖する。
なにかを理由にだれかを叩く者がいたら? 叩かれる者がいる。すると今度は叩かれた者が、さらになにかを理由にして別のだれかを叩く。
私が機嫌よくいるのが、どれだけ環境に与える影響が大きいのか。そのために代償を求めはじめたら、どれほど取り返しのつかない影響が生じていくのか。
学んで感じた問題は、私の心をいくらでも怖がらせる。
だけどこの問題からして、怖がったほうがいい。
ぷちたちの笑顔も、興奮しながら語られることばと感情も、みんなと私を支える環境さえも、ガラス細工のようだから。
ますますビビってしまう。
頭がいっぱいになる要素が多すぎるんだ。
そのはずなのに。みんなの話を聞けば聞くほど自信を失っていくのに。
それよりなにより、みんなの熱情を浴びては「ああ。この子はこういうところがあるんだなあ」と実感するたびに、なにかが溶けるような実感がある。
私の手を取り、はしゃぐ子の熱や。私の尻尾に飛びついて、何度も跳ねて歓声をあげる子の興奮や。すごいでしょ合戦に夢中になりながらも、ねえねえママって言われるときの依存さえも。これまでの私の不足の影響を見たとしても、それさえ吹き飛ぶくらいの威力があった。
私の余白を埋めつくす、私の怖さをぷちたちは「はい、じゃまじゃまー! どいて!」と押しのけて「さあさあ!」と主張してくる。こっちのほうが、ずっと心地いい。延々と続くと疲れちゃうけど。まだ初心者マークが取れないままだからね。
私はまだ、私で手いっぱいだ。
岡島くんと一緒に協力しながら、ぷちたちの転化と料理を手助けする。
どうしたって我欲が出るんだ。
手法に集中できるように立ち返ろう。
願いの出し方、叶え方は、ぷちたちのスタイルを見て学ぼう。
楽しいという感覚や、意欲を軸にして型を利用すればいい。なのにいまの私は執着を優先させてしまう。意欲にせよ、楽しい感覚にせよ、構えようとしても執着のぶんだけ崩れてしまう。
いまはそういうことばかりだ。
自分を慰める言葉が浮かばないわけじゃない。
トラウマやコンプレックスは日常の型が崩れてマジョリティの枠内に居るのに苦労が増えるし、好きなことを軸にしなければもたない! なんてね。
でも、これを言い切るのは?
ただの抑圧になり得る。自分以外のだれかに何の気なしに伝えることじゃない。
言うなら、自分のことまで。
他人がどうであろうと、そこは一線を引いて。楽になるなら心の中で引用し、つらければやめとくくらいの無責任でラフなくらいが使い勝手がいい手段かも。
これも、抑圧?
窮屈? 型が崩れる?
知らん!
ただ、ぷちたちといるときや、みんなといるとき、私がなにかに集中しようとするとき、邪魔になるものがある。うまく活用できない手段もある。
なにかに接続し、噛みあうときほど、お互いにお互いの一部になる。
自分の痛みとして刺激するなにかがあるのなら? 接続した先に痛みさえも繋がる。我慢していることや、言わずにいることもね。関心がお互いにきちんと向いているほど、共感するように繋がっていく。地味に隠せない。言葉以上に伝わるよ。
だから連鎖していく。みんながみんな、自分のことを自分でできるよう完結しているのなら? そもそも集合になる必要性がない。そこまで極端じゃなく、だけど曖昧な「自分でやって」は人によって幅が違いすぎて、痛みの元になる。実のところ、お互いにケアを重ねながら過ごしているような気がする。弱りすぎたり、痛すぎたり、未熟だったり、あるいは病にかかったりするほど、バランスを保つ重心の位置がずれていく。
キテイの本によれば、完全に一方的にケアを求める状態として産まれて、やがて戻っていくという。居るのはつらいよ、だと? ケアは循環していく。
一緒にいるとき、感情さえも循環するのかもしれない。
私の痛みは、ぷちたちがピザを振る舞おうとしている獣にも伝わる。
言うまでもないけど、ぷちたちにも、カナタにも、うちの親にも伝わってる。
十兵衞にも、タマちゃんにも。
御珠にだって。
そうまでして、私はなにが許せないの?
怒りがある。その刀を、私はどうして下ろせないんだろう。
泣けちゃうよ。
「ママ、あのね? このお城はね」
ぷちたちの話に耳だけじゃなくて、心を傾ける。
もはや刀は余計だった。有事に向けて、あるいは心身の鍛練のために利用するならいざ知らず、ここでは無用の長物だった。
わかっている。
心が騒がない限り、刀は自ずと鞘に収まっている。
たまらず抜いて、振りかざさない限り、下ろすまでもないのだ。
この子たちが夢中になって、みんなうれしいの実現を目指すその活動に、どうして水をさせるのか。
届く届かないは別だ。失敗するかもしれない。
いいんだ。それを糧に学べれば。
シュウさんたちがいる。橋本さんたちだっている。
私たちにできること、私たちがしたいことは、侍隊や忍びのできることじゃなくていい。
同じじゃなくていい。だめでもいい。だいじょうぶ。
次に繋げていけばいい。
循環するなら痛みじゃなくて、怒りでもなくて、みんなうれしいのがいい。
刀を抜かずにいられない気持ちは、意識して動かすのを一度やめてしまおう。
離れてしまえ。習慣を破って。
守るべきものへと立ち返るんだ。
意識せずともあったじゃないか。私の心の鞘が、ぷちたちの笑顔の中に。
ちっとも足りてないんだ。
この子たちに感じてもらいたいこと、ぜんぜん届けられていないんだ。
なにもわかってないんだよなあ。私め!
いつだって、わかんないことのほうが多いんだよ?
だからゆっくり思いだそうよ。
帰るべき場所だ。原点が、すぐそばにある。
ぷちたちの記す夢に、そこへと誘うぷちたちの笑顔にこそ、帰る場所がある。
しらけるくらいに繰り返そうよ。
さあ、これからだ。
いまここに区切りをつけて、高らかに歌い上げるよりもぷちたちの夢を聞こう。
私を飛び越えて、ことばが広がっていくからさ。
きっと、うまくいくって。
つづく!




