第百八十三話
食事は盛り上がった。
シオリがいれば生徒会メンバー勢揃いだったけれど、シオリには年に二回どうしても外せない日があるのを私、並木コナは知っている。
まだまだたくさん食べるという食べ歩きが趣味というか人生になりつつあるユリアと別れて、緋迎くんとラビと三人で佳村を駅へ送り届ける。
ラビの愚痴を吐かせようと盛り上がったのに、緋迎くんはあの子から連絡があって中座。
仕方ない。恋人は大事にするべきだ。
それに……緋迎くんとあの子は素直に幸せへと駆けていくから。
今の二人は幸せが満ちていて、眩しすぎる。
緋迎くんを見送る私とラビの影が伸びていく。日暮れになって、二人きり。
思えば、そんな瞬間は久しぶりだった。
「コナちゃんも帰る?」
「コナちゃん言うな。それより、どこへ連れて行ってくれるの?」
私の挑発にラビは帽子を目深にかぶって微笑む。
付き合いが長くなってきたからわかる。本心を隠そうとする時ほど、この男は目元を隠す。
演技過剰。なのにそれが似合う、腹が立つくらいいい男。
清廉潔白すぎるその清らかさは、ある意味どこまでも無邪気すぎる。
多くの女子生徒は彼に魅了されたけど、私は警戒した。
世界との付き合い方は人それぞれだ。その中に生きるもの、その外へ出ようとするもの、枠組みにとらわれるもの……そして、振り回すもの。
彼は最後に位置する男だ。実際、緋迎くん絡みでラビにはさんざん振り回された。生徒会結成の時だって……。
「コナちゃん?」
「ごめんなさい、考え事をしてた。それで? どこへいくの?」
「コナちゃんとデートか」
「心の中に太陽を見据えておいて、なに言ってるの」
許せないから鼻を思い切り摘まんでやった。
驚いた顔をして私を見る。ざまあみろ。
「決められないなら私が決める」
満足したから指を離す。
「そういうところ、結構好きだ」
鼻に拳をあてるから、ますますラビの表情が見えない。
「どうせ誰にでも言ってるんでしょ?」
「そうでもない。メイと……コナちゃん。あとはユリアとハルちゃんにも言ったかな?」
「全員女子ってところ、ろくでもないから直した方がいい」
「手厳しいな」
「ま、男子に元気をもらうタイプにも見えないけどね。それより行くわよ」
「どこへ?」
「先輩のところ」
歩き出そうとしたら手を掴まれた。
咄嗟だからなのか、力加減は……普段のスマートすぎるラビからは想像もできないものだった。
「怖いの?」
「……振られるの、二回目だから」
一回目はきみだ、とでもいいだしかねない真摯な瞳で私を見つめてくる。
覚えはない。けど本心を言えないこの男なら、わからない。
なにも、わからない。あなたのことは、なにも。
「意外って言うべき? それともおもてになるんですねって言うところ?」
「茶化さないで」
ラビの視線が鋭い。
「……今はまだ、会えない。メイがいいって言わない限りは」
「傷つけたくないって言ってる顔で、傷つきたくないって言わないで」
取り違えないで。
「――……」
ラビの言葉が続かない。
それはそうだ。私が図星を突きまくっているから。
深呼吸をして尋ねる。手から伝わってくる力から嫌って言うくらい、荒さを感じる。
それくらいメイ先輩に揺さぶられてるのに。
「怖いならいくらでも背中を押す。うまくいったら喜びを分かち合うし、だめならめいっぱい慰める。でも……私はまだ聞いてない。あなたがどうしたいのか」
メイ先輩を思っていた姿を知っている。
二つ上の先輩の悲劇があって、ボロボロになったメイ先輩を一生懸命一途に支えて、力づけたのはラビだ。
綺麗だった。美しかった。
輝きを取り戻して天照大神という破格中の破格の刀を手に入れたメイ先輩は、士道誠心の三年生と二年生……ううん、もしかしたら今いる生徒全員の太陽だ。
そんなメイ先輩から生徒会長の座を受け取り、ラビはがんばってきた。
理想の二人だとさえ思った。
緋迎くんとそうなれたらいいな、と夢想したことさえあった。
あまりに理想的過ぎたから……だめだったのかもしれないけど。
なんでも出来るラビなら、本音だって伝えるべきことを伝えることだって、自然とできたはず。
なのに隠し事をしていた。ずっと。
緋迎シュウ襲撃事件の時にカミングアウトされた私たちでさえショックだったのだ。
心の底から信じてラビを頼っていたメイ先輩のショックは……考えるだけでも恐ろしい。
「――……ふう」
息を吐く。
こういう時ほど、いろんな視野が必要だ。
私は今、ラビに強さを求めている。いつもの完璧な彼を。
けれど、ラビは言いにくいことを隠すという……極めて人間らしいことをした。
彼だって完璧ではないのだ。
誰だって完璧ではないのだ。
だからいま私は、彼の弱さに触れている。
メイ先輩も触れたはずだ。あのカミングアウトの場にいた全員も。
それを見て浮き彫りにされるものはなに?
彼への期待、憧れ、羨望……それが裏切られたことによる、完璧でない彼への失意?
もしそうなら、それはどれだけラビを傷つけるだろう。
「すう――……」
息を吸いこむ。
頭を回せ。どんな時だって考えろ。それこそ人が人たる所以なのだから。
メイ先輩は気づかないだろうか? 私が今考えた……ラビの弱さに触れて見える自分の中の暗闇に。
気づいていないはずがない。あの人が気づかないはずがない。
なのに……ラビと距離を取った。考えさせて、と言って。
受け止めきれない。
完璧に支えられたからこそ……その内側にある脆く儚いものに触れたら壊れてしまう絆。
悲しい。これは――……悲しい恋の結末の前の、線香花火のようなひとときなんだ。
「……終わるとわかっていて、それでも待つの?」
自然と口から出た声の泣きそうな歪みに心が砕けそうになる。
「――、」
何かを言おうとして、目元がどうしようもなく歪んだラビの顔が真実だった。
「愛は無償のものだ」
「――……ラビ、」
「自分が救った、支えた、だから愛して……なんてね。見返りを求めた時点で、それは執着になる」
「ねえ、」
「執着は誰も幸せにしない。そうとも……それでも待つ」
待って、と。
「メイが離れる決意をするのを……待っているんだ」
言わせたくなかった。言わせてはだめだった。
それを言わせたら、ラビに答えを出させてしまうから。
「……太陽は沈む。また昇った時に見上げるよ、けれど決して手は届かない」
だから焦がれるんだ、なんて囁いて。
「それでいいの?」
「支える後輩、支えられてばかりじゃいられないという先輩……今のままではどのみち、先がなかった。それが少し早まっただけのことさ」
「……、」
呼びかけようか悩んだ。
だって。
「……どんなにアプローチしても、核心には届かなかった。結局はそれが答えだった」
初めて見た。
ラビが心の底から悲しそうに顔を歪めているところを。
私がじっと見つめていることに気づいて、帽子で目元を隠して……やっと手を離して。
踵を返して立ち去る背中をただ見送ることしかできなかった。
なにかを言わなきゃいけないのに。
なにも言えなかった。
緋迎くんに告白しに行こうとした私の背中を見ているようで。
――……どうしたって、なにも言えなかった。
◆
深夜、メッセージが来た。
ラビからだ。窓の外を見て、というそれにどきっとして実家の自室の窓を開く。
ラビがいた。大型バイクに跨がっている。
寝巻きから制服に着替えて駆け下りた。
霊子刀剣部の活動も一区切りつくから寮から実家に戻ってきたんだけど、それを伝えた覚えはなかった。
ただ、どうしてって聞く気も起きなかった。
私を訪ねてきたラビの目元は真っ赤に腫れ上がっていて、それだけで何が起きたのか痛いくらいわかってしまったから。
「誰かとドライブしたくてさ。でもユリアは最初に頼るべきは妹じゃない、なんて冷たいことを言うんだ」
声も少ししわがれていた。
「シオリは爆睡してて気づいてくれないし、カナタは写真がばれてハルちゃんへの対応で忙しくて」
「呆れた……生徒会長のくせに、友達少ないのね」
「耳が痛い」
「それで、私なわけ?」
「……第一候補だったけど、今日は迷惑かけたばかりだから悩んだ」
純粋に一人ではいられない夜なんだろうと思う。
絶対に一人でいたい夜かもしれない。けれど彼の場合は、そうじゃなかった。
わかる。私も……振られた夜はつらかった。
すごくすごく……つらかったから、わかる。
「行き先は海にしましょう」
「……いいのかい?」
「花火を買って、二人で線香花火でもしましょう」
「それは……淡い光が目に染みそうだ」
ラビの差し出すヘルメットを受け取ってかぶり、彼の後ろに腰掛ける。
炎に変えて落として……燃やしてしまえばいい。悲しみ全部。
恋を知る前の私ならそう言っていたと思う。
けど言えなかった。
悲しくて、つらくて。けれど縋る相手もあまりいなくて。
それくらい……ラビにとって本心を言える相手は少ないということで。
学校でどれだけ人気があっても、どれだけ素敵な男の子でも。
ラビは孤独だったんだ。
言えない。言えるわけがない。
「……一度、こうしてメイを乗せたんだ。五月の病事件の時だった」
「うん」
いつもより素直に相づちを打つ。
強く気高く美しくあろうとする私をなだめて、もっとずっと……気を抜いた私で答える。
今のラビにはなにより素が必要だった。
素に戻ること、そのために私も素でいなきゃ……ラビは完璧であろうとするに違いない。
無理だから。それ。
……無理しなくていいから。せめて仲間や友達、好きな人相手くらいには……無理しなくていいから。
「いくよ、飛ばす」
「捕まらない程度にね」
「……っ、ああ」
息を呑んだラビがバイクを走らせる。
精一杯抱き締めた。そうしないと壊れて消えてなくなってしまいそうで。
ずっと感じる。ラビの鼓動、息づかい。
乱れて、荒れて。泣き叫ぶ子供のようだった。
完璧すぎて憎らしくて、いつでも私をちゃんづけで呼んでからかってくるから許せなくて。
それでも目標に追い掛けてきた背中がすぐそばにある。
震えて怯えて嘆き悲しむ男の子の背中だった。
触れれば届く、抱き締めることさえできる男の子の背中でしかなかった。
今のラビはそれどころじゃないだろうけど。
私は違う。
だから考える。走って海に向かう間中、ずっと。
今こうしている時間の意味。ラビが私を選んだ理由。ラビが私をからかう理由や、失恋は二度目という言葉の真意。
ぐるぐる考える。
素直になれないラビが、メイ先輩には甘えられなかったラビが……私には甘えて素直になる理由を。
答えはいっそ明白過ぎるけれど、それはまだ妄想の域を出ない。
積み重なる推論は一つの結論に到達するけれど、今は決してそんな段階じゃない。
可能性があるとしても種でしかない。
だって、あのラビが泣いているんだ。何が起きてもおかしくない。
だから妄想はどこかへ追いやる。
ただ一つの思い、最初に彼の腫れた目元を見た時の気持ちで私を満たす。
元気になってほしい。出来る限り。失恋したならそれを素敵なきっかけにしてほしい。
私は……それができているかどうか、毎日不安だ。
いまさら緋迎くんを見て、彼と仲睦まじくしているあの子を見ていらいらしたりむかついたりしない。幸せになればいいとだけ願っている。
でもそうなる私になるためにユリアとシオリに随分助けられた。
ラビが求めたのは私だ。私はユリアとシオリのようにできるだろうか。
真摯に思えるだろうか。
「――……」
だめだ。揺らいでる。完璧でない彼の弱さを抱き締めながら、私の心は揺れている。
今まで読んだマンガの台詞や、今までクラスメイトたちから聞いた言葉が浮かぶ。
今じゃない。もっと待とう。いいや傷ついているならほっとけない、私がなんとかしなきゃ。
全部恋に結びつけてどうこう考えている時点でどうかしてる、とか。
……だめだ。迷走してる。
それも全部……ラビの鼓動が早いせいだ。そうしないと、どうにかなってしまう。
みんなはこういう状況になったときどう……なんて考えている時点で弱っている。
私は私。みんなじゃない。なら、私はどうしたいの?
嘆き悲しむ男の子の背中くらい叩けないでどうするの。
……そうとも。悩んでいる場合じゃない。
心に決めた時、浜辺に辿り着いた。
バイクを下りたラビの手を借りて、私たちは海沿いのコンビニへ行って花火とライターを買った。
いろんな花火がある。
ラビがライターで真っ先につけた花火は火花が派手に出るタイプのそれで、明るく燃えるそれを楽しそうに笑って振って文字を描いていた。
ロシア語だろうか。読めない。
「さようならって書いた」
「……うん」
「まだたくさんあるんだ」
文字を書いていく。
私しか読まない消え行く手紙。
誰に宛てているのかなんて、考えるまでもない。
いっぱいあったんだろうと思う。言いたいこと、伝えたいこと、分かち合いたい思い出とか。
緋迎くんへ告白した時のことを思い出す。
もっと言いたいこと、伝えたいことあったかもしれない。でも後悔はしていない。
ただ……届かなかったんだという実感があって、それがどれだけ泣いても消えない。それだけ。
火が弱くなっていくから、私はライターで同じ花火をつけてラビに渡した。
ずっと見守る。
ラビなりの……自分の恋心への別れの儀式を。
「士道誠心お助け部に誘われて、最初はすごく面倒だったけど……本気で指導されてる内に楽しくなってきてさ。いいなと思っている子は、一人に夢中で眩しくて」
ラビが語る昔話は波音に負けないくらい大きくて。
それが意味する言葉の意味を考える余裕なんて、ラビは与えてくれない。
「だからもっと眩しいものに手を伸ばしてやろうって。本当に……メイは明るいから。どうしようもなく惹かれた」
泣きそうな声だった。
ラビでもそういう声を出すんだってすっごく意外だったし。
きっとそれはユリアと……別れ話をしたメイ先輩しか知らないんだろうなって思った。
……あと知っているのは、私だけ。
「目的のためならなんだってする。けど……焦がれるほどに気づかされた」
ラビの手が止まった。
「誰かを愛するためには、自分を愛さなきゃいけないって」
緩やかに火の勢いが弱まって、
「僕は僕を嫌いじゃない。どちらかといえば……好きな方だ。でも、愛せはしない」
消えてしまう。
「メイも同じだった。自分を愛せないと、誰も愛せない。誰かを愛することでしか自分を愛せないなんて……本末転倒だ」
そうかな、と思いはした。
そうかも、と思いもした。
誰かを愛することでしか自分を認められないなら、誰も愛せなくなった時……その人はもう永遠に自分を認められなくなる。
そんな単純なものではない。けれど苦しい生き方には違いない。
愛することは許すことだと思う。それをできる相手は多くないし、いつだってできるわけでもないのだから。
やはり苦しい生き方だと思うのだ。
「いやになるな……」
「そんなに自分を愛せない?」
「……僕は人をだます。のせる。動かして……目的を達成するために躊躇しない」
「なのにメイ先輩にはその手を使わない。つまり自分の手段を心のどこかで肯定できてないのね」
呆れはするけど、とても人間らしいとも思う。
「あなたがあの子を部活の後輩に選んだ理由がわかった」
息を吸いこむ。潮風の匂いがきつい。目に染みて。
「無垢に一途に素直に……行動できたらいいのにって、あなたは願っているんだわ」
その気持ちは痛いくらいわかる。
あの子の前でみっともない真似だけはしたくない、私の理由は明白だ。
あの子に泣いて叫んだら、鏡のように見えてしまう。
自分の醜さが。それもまた人だ。けど……あの子の一面を穢したらもう、取り返しのつかない状況に陥ってしまう気がしてならないのだ。
ああなれたらいいと思う。ああなれないからこそ思う。
だから私は踏み切った。私は私らしくあろう、と。ただそれだけの結論を出したに過ぎない。
私らしさはとっくに見えている。何に対しても強く気高く美しくあろうとする信念だ。
でも、どれだけ上手に見事に完璧に立ち回ってもなお、ラビは見つけられていないんだ。
当然だ。
外で大人の会話を聞いているだけでわかる。
テレビをつければ理解してしまう。
この世は案外、見えてないものに満ちあふれているって。
そして気づかないでいる人の方が多くて自然なんだって。
自分を規定した方がいいですか? その問い掛けにはいと答える人が正しいわけでもないし、絶対幸せになれるわけでもないのだから。
当たり前のことなんだ。
だからこそ……なんだかんだ幸せにやっている素直なあの子の生き方が輝いて見えるんだけどね。
「素直になりたいのよ。無垢に、一途になりたいの」
「……、」
ラビは否定しなかった。
できなかったんだと思う。
私なら……できないに違いない。
「でもその願いこそ、無垢で一途なもので……素直なものじゃない?」
はい、と線香花火を渡した。
二人分の線香花火に火をつける。
「……悲しいね」
「ああ……」
私の囁きにラビが呟いて、俯いた。
「……悲しい」
その言葉は純粋で。
「…………、」
語ろうとして、けれどもはや言葉はない。
だって一言に凝縮されていた。すべてが。
火花がぱちぱちと咲いていく。
涙と共に溢れていく。
大粒になって――……小さな太陽が落ちたのだ。
つづく。




