第千八百十七話
いまのところ、私はただの高校生だ。
事件現場に戻るのも、観察するのも、意味がない。
野次馬と変わらないからね。できることはない。
それでも、こんな現場を目撃する日が来るなんて。ショックが強い。
どういう対策を、だれが、どこまで取ればいいのかがわからない。
これまで日本で起きた事件との比較を始める番組もある。地下鉄でばらまかれた毒ガス。山荘で起きた人質立てこもり事件。映画か報道で聞いたことがある有名な事件といったら、このふたつ。アマテラスさまと見た「青天を衝け」だと薩長のテロによる明治維新という描き方だった。
他にも襲撃、爆破、誘拐、人質、暗殺。ないわけじゃない、どころか、凶悪犯罪について学ぶ海外のテキストに日本の事件が扱われていることも多いなんていう噂も。
作家が起こしたクーデター呼びかけもあるし? 列挙したらきりないほど、センセーショナルに煽るべきではなく緻密な取材と分析という文脈で語られるカテゴリに入る事件も多い。
そりゃあ、目立つ事件に着目して語っているんだから?
どれも極端に見えてくる。
極端さは日常からほど遠く感じるよなあ。
なら、渦中の人たちはどうだろう。
青天を衝けを見ていると? たぶん、日常の蓄積が過剰さに向かうんだ。
それは徳川側も、栄一たちの村も、若者たちも。新撰組のみなさんも。そして、薩長側もね。かなり周到に準備して、海外でも活動していた。えげつないことしてたよ? 幕府を倒し、転覆させて奪うっていうんだから、そりゃあえげつなく、周到にしなきゃあ達成し得ないもの。妙に納得しちゃった。
あたたかい癒やし系の漫画の世界にしても、日常系の四コマ漫画にしてもそう。極道系の映画でも、たぶんそうなんだろうなあ。
なんにせよ、さ?
日常が人生のレシピ。
そうはいっても、ねえ?
いまはわけがわからなすぎて怖がるターンだった。
みんなして、威嚇するように唸りあっている。
そういうテレビに私もカナタも、お母さんでさえも目をそらせない。
だいたいのぷちたちは遊びに和室やお父さんの書斎へと向かっていった。お母さんの仕事部屋に入る子もいるかもしれない。けど、みんなじゃなかった。
私の靴下をくいくいっと引っ張って「ママ?」と不安そうに尋ねてくる子がいたんだ。
あれ、なあにって。
テレビを指差すの。
瞬時に浮かんだんだ。わかっていることを話すのか。テレビとこの子の間に入って、遊びに誘ってごまかすのか。嘘を吐くのか。わかんないけど怖いことが起きて、でもだいじょうぶだよって気休めを言うのか。
気休めは気休めで大事だ。けど一時しのぎにしかならない。
私はどうしたいのか。
そして、この子はどうしたいのか。
膝を曲げてその場に屈み、目線を合わせて尋ねた。
気になる? って。
うなずくから、言える限りのことをいった。だれかが建物を壊しちゃったみたいなの。なんでそんなことをするのか、だれかひどい目にあっていないか、みんなで調べてるよって。建物さんも、痛い痛いってなってるのって。
それで、すっかりしゅんとしちゃってさ。
それでお母さんがテレビを切りかえた。
「リビングのテレビ、空いたよーっ!」
家中に散らばったぷちたちが四人ほど、わーってリビングに駆け込んでくる。
意気揚々とゲーム機を持って。すぐにテレビと繋げて、遊び始めた。
どこかでなにかが起きた途端、地球上にいるすべての人が一斉に「なんとかしなきゃ!」とはいかないし? そうはならない。
どう、なんだろう。
折に触れて考える。
悩むときにはだいたい、そうはならない理由の負の側面に気持ちが向かっている。
傍観をよしとして、できることをしていないのでは?
傍観は罪なのでは。
学校で起きる暴力事件をいじめと呼んで、それが精神的なものなら肉体的なものより軽度だとして、暴力でないような印象でかぶせて、傍観しているのは罪だという感覚が広まっていっている。
環境問題でもそう。労働問題でも契約絡みでも、業界ごとの悲惨な実情に際しても、一緒。
関わらない、という選択肢をこのまま続けていていいのだろうか。
いやでも、だよ?
後方腕組み彼氏面マウントで「あれをすればいい」とか「これをすればいい」とか言うことを「関わる」ということに「してしまったら」、それってただただ厄介じゃない?
おまけにさ?
専門性が高い分野に、勉強も研修も受けずに足音高くどしどしどしとやってきて「自分はこうするべきだと思うのであります!」と主張して、行動をし始めたら?
それは傍観とは別。邪魔だし厄介だ。
怪我をしたり、病にかかったりした患者さんと繋げるのは「このサプリで治る!」という人じゃない。公的な医療機関だ。治療にかかるプランを相談するのは、患者さんの友人知人やテレビや雑誌じゃなくて専門家であるお医者さんだし、セカンドオピニオンとしてお医者さんを変えていくことはあっても「おれがおれが」と押し売りする商売人や善意マンはその輪に含めない。
かつ、その輪が健全であるうえで、信頼性を高く維持するうえで、消耗するときへの備えを確保し投資するうえでも? 輪へ加わる経路は整然としていて、加わるには公平性を確保し、担保したうえで、後進も現役も育ち続けて育て続けられる循環を設けて、と。いろいろと欲しい要素があるとして。
それをたとえば雑誌の記事にしたり、報道で取り扱うにしても、ろくに取材せずに済ませる人よりも、礼を尽くして現場に足を運び、つぶさに観察し、丁寧に取材する人のほうがいいわけで。惜しまれた手間や投資のぶんだけ情報の精度も下がるよね。
こうすればいい、という要素も、現状を動かすために必要な要素とケンカすることだってある。取り外すとろくに機能しないという前提さえ、場合によっては存在する。だから言えやしないんだ。「こうすればいいじゃん」なんて、だれかには。
そこまでいくと、ますます頭がこんがらがってしまう。
結局、傍観、どうなん?
ほんとのところ、傍観するしないじゃないのでは?
問題が起きて、そこに苛まれている人がいるときにはさ? 共感して、その人の求める共有を対話で探り、解決を目指すってことなのかな? そうして共同体として犠牲をゼロに近づけていきながら、快適さを目指していくんじゃない?
扇動家は「犠牲なくして勝利なし」という言葉でみんなを酔わせようとする。
でもちがう。
犠牲はなくしていかなきゃだめだ。増やす意味がない。
犠牲が生じる筋で勝利を目指すという考えそのものがそもそも筋違いだ。
なんだけどなあ。
それを目指すうえで、実際どんな問題があるんじゃろ? と並べていくと、まあ! なんということでしょう! やまほど問題がありますよ? と気づく。うんざりするくらい。
一歩はなれて、近視眼的にではなく全体を見て、問題がある割合のほうが高いのだと見たら? その客観的とも思える視点は魅力的だ。大勢、大多数、ほとんどが問題を抱えながらぼちぼちやっていて、犠牲も生じているし、新技術のためにほかの生きものを食い物にもしているように思えてくると? ますます犠牲だらけ! もういいじゃん、それで!
なんて、もっともらしく思えてしまうかもしれない。
うんざりする。けど、それが現実。みんないやだいやだと文句をいったり、だれかに圧をかけたり、かけられたりしながらやってる。ちっともよくないけど、それしかないなら、仕方ないじゃないか、って。消極的に現状維持を受け入れ、あまつさえ広めようとさえする。教室内で起きるいじめの傍観者のように、サイレントマジョリティーとして暴力に加担する。
お助け部でせっせと依頼を受けていた頃は、部活のひどい慣習の相談なんていうのもあった。前例にのっとって。自分たちはこれで苦労して乗り越えたから。まるで体育会系の根性論による暴力依存。これが当たり前だとして定着すると、そもそも慣習そのものに対する分析が甘くなる。情報の精度が鈍るから、評価を適切に運用できなくなる。それじゃ失敗や問題を内包していても、対処しないほうが正解になってしまいかねない。
加えていうと、どれだけ現場で圧をかけようとも、そこに集まる人たちは結局やっぱ人生経験の多様な文脈を経ているのだから、どのような運用がなされるのか、人に任せるほど幅が広がるし? 失敗の度合いも、生じる暴力の悲惨さも増してしまいかねない。
おっかな!
これはもう、いっそすべて管理するっきゃねえ!? なんて、言いだすと「おいおいおい」って待ったをかけるんだけどさ。でも、そういう流れが生まれることもまた止められない。
同じように、既に起きた悲劇の代償を支払わせずにはいられず、復讐せずにはいられない人が出てくることもまた、止められない。
止められるとしたら、日常という綱、安心できる居場所という休憩場所だけ。頼りなく、儚い。世界の警察機関がそれぞれ捜査をまっとうするとき、彼らを頼れるほどに依存できる、けど。それさえ十分でない。
心の痛みを癒やすのは、とにかくむずかしい。治せない傷もまた、ある。だれにでも。
いままさにつらいとき、苦しいとき、心が痛くてたまらないとき、頼りなくささやかな依存の糸をいくつも伸ばして、やっと引き留める。
強烈な出来事、たとえば今日の連続ビル爆破事件だと? この不安は犯人の逮捕で心を慰めようとする。犯人への刑罰という刺激をもって、傷を刺激しようとする人も。
出来事に対して、直ちに心をなだめようとするほど、刺激を求める。
長期に渡って悲惨な体験をした場合には、どうか。
長期間、飢えた状態でいるとき、いきなり食べものを食べると身体への負担が大きすぎて苦しめてしまう。最初は白湯から。固形物を食べられるようになるまで、時間がかかるから。そんな話を聞いたことがある。
心もたぶん、似てる。
仮に家庭環境で無理をし通して五十八十問題に突入していたのなら? こどもの五十代の人は、その気になって、五十年をかけてゆっくりと慣れていくことにさえなるのかもしれない。
根が深いでしょ。そう考えると。
多様性って、現在の制度が拾えていない個人的属性に用いられがちだけどさ。
可視化が行き届いていないだけで、小学校一クラスに集まる子たちだって、その子たちのご家庭だって、十分、多様性に満ちているんじゃない?
それぞれに抱えている、あるいは乗り過ごしたりやり過ごしてきたりした問題さえも。ふたをしたり、逃げてきたトラブルさえも含めて、多様性に満ちているんじゃない?
経験していく人生で、加齢に応じて複雑性は増していく。多様性もまた、同様に。
仮定としてそう考えるのなら? 選択肢が加齢に応じて狭まっていくいまの社会は、そりゃあ問題がいっぱいありそうだし?
客観的というマジョリティの立場で「枠組みの中に入る努力を」と言って済ませていたら、それこそマイノリティになったときの追いつめられ感や飢餓感は増して、体感できる暴力もまた増えていくのだろう。それだけでも十分すぎるくらい、貧困や社会保障制度の貧弱化が加速すると犯罪率がどんどんあがっていくっていうのも納得できてしまう。
転落への恐怖が具体的に増す理由が増えるのなら? マジョリティの立場を守ろうとして排他的になったり、問題を傍観する形での暴力を振るったりする人が出てくることもまた、防ぎようがない。マジョリティのための理論構築さえ行なわれるかもしれない。煽動的であるほどいいかもしれないし、広告宣伝が利用される時代さえあるかもしれないね?
それは家庭の中でさえ起こりえることだ。
ほら。やっぱり根が深い。
根が深いってことは?
自分の領域で、過ごす環境でやっとバランスが取れてきても、あるいは整えようとしていても、同じ根に苦しんでいる人や、それをだれかに圧をかける形で済ませている人と遭遇するってことだ。
協力して対応できることもあれば、協力して圧をかけられることもある。
このところ、根っこをたどっていって「こういうのがよくないと思います!」って論調の私だったけど、空振り気味なのは? 良し悪しに関係なく、根と根本は強く依存しあう関係にあるからだし、簡単には変えられないからだ。
根に絡め取られる私たちはもれなく、前提として多様な状態にあるから細分化していくのに、適当な解決策を提示して「できないのはやらないからだ」なんて言っちゃってさ? 後方で腕組みされても。ねえ? ただただむかついちゃうまであるじゃん。それか「絡まないようにしとこ」とか? なるじゃん。
するとさ?
結局は協力して圧をかけてくる人たちへの対応ができないし。そもそもいま大変な状況への対応だってできない。
ぷちたちは夜はすやすやと眠ってくれる。一度寝たら、朝まで起きない子ばかりだ。でもじゃあ、みんながそろって赤ちゃんでバブちゃんを発揮したら?
眠れなくなる。
睡眠不足はシンプルに自分の一日の土台が削れていく。睡眠は生活の基本で大事なものだ。ショートスリーパーさんの話題はよくわからないけど、彼らにしても大体は眠りたいタイミングに眠っている印象があるよ?
けど、赤ちゃんがいる状態だと? 夜泣きに授乳、寝ているとしても不安。眠りたくても眠れない。眠るにしても熟睡なんて夢のまた夢。さあ寝るぞと自分のタイミングで、たっぷり眠る形で起きるのに任せたがっつり睡眠なんてないとなると?
その眠れなさは心の土台を削り、やがて心そのものを削りはじめる。
精神的に参るとき、サインがいくつかあるっていうけどさ?
そのひとつに入っているそうだ。睡眠がままならない状態が。
未来ちゃんから教えてもらったことだ。
もちろん個人差はあるし、そもそも自分はどうなんだろって不安に思うんなら病院に行って、お医者さんに相談だ! って話なんだけど。
話によると、人によってはほんとに眠れないんだってね?
土台が削れて気持ちがちっとも休まらない状態でいると? 居ることがつらくなる。電車に乗れなくなったり、おうちを出られなくなるんだって。気持ちが悪くなったり、ひどい吐き気がしたり、悪酔いして酩酊していてお腹ぺこぺこなのに何度もトイレでげーげーやったあとに、クラスのみんなにぼろくそにいじめられてみじめな気持ちになってさんざんみたいな気持ちになるそうだ。未来ちゃんが通うお医者さんで、そう言っている人がいたのだそう。
他にもね?
めっちゃ食べるか、なんにも食べられなくなるかしたりさ。
趣味のものを見てもちっとも面白く感じないどころか、気持ちがまるで動かなくなったり。
笑えなくなったりするという。笑顔の時間が端的に減るんだって。
そういうサインもあるそうだ。
ぷちたちがみんな、赤ちゃんになって常にだれかがギャン泣きしている一日が、そうだなあ。二、三年は続くとしたら?
壊れるなあ。
天国修行がきつめだった時期をふり返ると、気持ちが休まる時間がろくになかった。スサノオさまにまで呼び出されたりしてさ? すっかり参った私を見て、アマテラスさまは映画を観たり、のんびりしたりするようになったのでは? ふり返って、こっちのほうがいいなって切りかえたのでは。
正直、助かる。
自分の気持ち次第で寝る寝ないを決められたり、あー夜更かししちゃったなんてノリだったりじゃわからない。ぜんぜんちがうからなあ。
GDPってあるじゃない? 国内総生産。リーマンショックの話題でも使ったやつ。
新明解国語辞典だと?
『国籍にかかわりなく、居住する人がその国の内部で一年間に生産した財貨とサービスから中間生産物を差し引いた所得の合計。ジーディーピー(GDP)』
だとある。
それなら、大辞林だと?
『〔gross domestic product〕国民総生産から海外で得た総所得を差し引いたもの。一定期間に国内で生産された財・サービスの価値の合計で、国内の経済活動の水準を表す指標となる。GDP』
海外で得た総所得を差し引いたもの、という記述が気になるね?
海外に資産を移して運用した富豪や企業のお金は含まれないってことだよね?
日本のGDPのランキング高いやん、という話もあるし。ファクトフルネスだと世界保健チャートのレベル四にいたけれど。
格差が広がる状況で鑑みるとさ? 正規雇用の収入の中央値がレベル四だとしても、非正規雇用だと場合によってはレベル三に該当する人もいる。レベル四、それも高い水準に合わせて社会が向かっていくと? レベル三に該当するとき、かなり苦しい状況になるのでは?
国内で新たにチャートを作り、分布を見たときの中央値あたりと、中央値よりも厳しい状況におかれた人たちへの保障は急務だろうなーと思うのですが!
そういうのは?
いったん、頭の中に置いといて。
ね?
仮にさ。
人が活動して作れて、ふり返ったときにちょっぴりでもいいから幸せだわーって感じる思い出作成指標みたいなものを作ったとしたらさ。
あるいは活力生成活動指標みたいな?
思いつきだから名前はわからないし、でもって名前は大事なんだけど、ひとまず名付けは置いておくとして!
仮にだよ?
意欲に応じて活動的になれるかどうかを示す基準があったら?
それをレベルで四つに分割したとき、ファクトフルネスにならってレベルごとの条件を考えてみると、どういうのが適切だろう。
私が勝手に思いついたものだから、分割したところで、その妥当性と、具体的な説明はむずかしいし? 結局それって扱いようのないものではあるんだけども!
それでもファクトフルネスの貧困のレベル分けのように、あえて分けてみるならどうなるだろう。どういう要素を考えるだろう。いま現在、意欲を持てるのか。それを行動に移せるか。行動にまつわる依存先それぞれへのアクセスは可能か。
負の要素は入るのかな。別枠で考慮したほうがいいかな。肯定感についての考察は含めるべきかな。レベル四を仮に「自分を肯定してくれる養育環境で安心して、のびのびと活動できる」とするのなら、レベル一はなにが想定されるのかな。
意欲にまつわる条件を考慮するとき、もっとずっとたくさんの要素があるはずだ。それはどの程度フォローする? 逆にフォローしないものは、別枠でどのようにフォローする?
これは難問なのでは!
素人の私には足りない知識と経験が多すぎるでぇ……。
御珠にひっついているくちゃくてねばついたなにかのようにさ?
人にくっついて離れないままにしておくと、意欲はだれからもアプローチしがたい、出すか出さないかみたいな雑なことしか言えないもののままだ。もうちょっと解像度をあげて、だれでも利用可能なものに落とし込めないかな?
おかね?
愛着?
んー。
レベル一の要素や環境にアプローチするときに利用できるものがいい。
やっぱり、おかね?
労基法が変わってさ? 正社員でも「なにをしたか報告して。業績が出たら、歩合でお金だすから」と言われたら?
働けないよなあ。
青天を衝けで、武士たちが無茶を言って農民たちから金をまきあげるとき、栄一が雨に濡れながら訴えていたシーンがあったけど。
社員や末端は働いて当然、差し出すのが当然みたいな時代に逆戻りされると?
買いたたかれて当たり前っていうのがまかり通ると?
意欲どころじゃない。
眠れなくなる。
でも、そういう状況で暮らしている人だって、大勢いる。
意欲を守るとなると?
結局やっぱり、根本をたどって行き着くのは?
まっとうな生活とか、当たり前の収入とかになるんだろうなあ。そこんところが大前提。
ぷちたちを対象にしてさ? 私が生活に必要な依存先とのパイプ役を引き受けながら、一緒に過ごすのだとしたら? ぷちたちの意欲で考えると、どうなるんだろうね?
きつい状況でも自分を守り育てる力の栄養源は?
休息が大事とか、そういう条件をひとしきりクリアしたうえでさらに得られる、そういう類いの栄養源は?
みんなと話すモチベとか、気力って、土台を必要とする。土台がしっかりしていればいるほど出しやすくなる。そんな偏見を私は持っている。なんにでも偏見を持っているという前提を置いて、自覚して、偏見を見失わず利用しながら考察するとして。
いまの私が考えているのは?
たとえば「がんばれ」とか「それが当たり前」とか言ってるのは、わりと無茶だなあっていう感想?
やばくなるなら「事前にわかっているでしょ。準備してちゃんとやればいいだけだろ。できないのはがんばりが足りない」と、当事者の状況も文脈もどちらも知らずに浅く知ったままで、後方腕組み面で言っているのは、とどのつまり、体育会系の根性暴力だっていう所感?
どっちも恨み言やんけ。
んー。ちがうぞ?
思いはするけど。とことんそのとおりだと思うけど。
でもそういうことじゃないぞ?
なんだろね?
日常のレシピ。
がんばるだけが成分じゃ、無理だ。そこまで人間、タフじゃない。
どっこいなんとかやれるのは?
日常のレシピに安らぎとか、休めるのとか、楽しいこととか、気晴らしとかもしっかり入っているからだ。がんばると出る汗ばっかり入れちゃあ、しょっぱさもあもあっと入れすぎて?
塩辛くて臭い何かになっちゃうぞ?
それこそ、御珠にへばりついた汚れのようにさ。
それでも十分、自分だけでできてるぞ? なんて思っちゃうときほど、見逃してる。支えを。だれかを我慢させちゃっていることを。
もしも私の高校生版日記、名づけて黒の聖書、士道誠心編なんて作ったら? もうこの時点で何冊分になるんだ!? って感じだし。一緒に過ごしてくれるトモたちみんなに、心から感謝せずにはいられないんだ。いつも、ほんとに、ありがとって。
ぷちたちにはぷちたちがいて、私がいて、お母さんたちもいて、カナタもいてさ? 学校のみんなも、なんだかんだ大事にしてくれてる。みんなで行くスーパーとかでもね!
日常のレシピはひとりで完結しない。
みんなと作っていく。
だから自分だけ、自分たちの気持ちよさだけで進んじゃうと?
ついつい味が濃く、くどくなってしまいがち。過剰にさえなってしまうことも多い。
爆破はその一端として捉えるには過激すぎた。より恐ろしく感じる。あれを行える人々が、被害を押さえて、けれど届け出も出さずに無理矢理敢行した事実に、ダークナイトのジョーカーとか、ドラマ版のハンニバルみたいな気味悪さを感じる。
もっと俗かもしれない。もっとしょうもない悪党かもしれない。それで警察が対応できて、ことが済むなら? それでいいまであるんだ。取り越し苦労で済むのがいい。
そうじゃなかったらと怯えてる。目に見える範囲で発破解体したビルを見たから、そりゃあもうビビってる。そちらにシフトして「ただちに力を示すんだ」と私のイマジナリーモンスターが訴える。ヒーロー願望が叫んでる。
でもまだ違う。
私にはまず大事に作っていきたい日常のレシピがある。
見失っちゃだめだ。
土台を見失って、怖くて暴れて? 力をさらに求めて。
それじゃ無理なんだって、もう認めてる。
専門家が対応している真っ最中に、なんの手がかりもない私がみんなを煽動してしゃしゃり出ていいタイミングじゃない。
東京湾の一件にしたって、シュウさんがちゃんと呼んでくれたじゃないか。
そのときがきたら? また、お呼びがかかるさ。
隔離世の事件にしたって、何度も警察と連携した。
みんなで繋げて、解決に向かう繰り返しだったでしょ?
日常を大事にすることからだ。それは決してがんばることで達成できるわけじゃない。
安らげて休めて元気をめいっぱい回復できて、どんなに疲れても維持できて、やっとできる挑戦ばかりだ。
「おいで」
ぷちを抱き上げて、だいじょうぶだよって背中を撫でる。
私の不安を怖がるこの子たちは敏感に察する。特に繊細な子はね。
どえらいことが起きている。シンゴジラの政府の動きは美化されてる、なんて揶揄する人もいるにはいるけど、でも、たくさんの人が働いて維持されている面だってちゃんとある。
現場を知らずに勝手に言わずに、私は私の現場を大事に育もう。
まずは、そこから。
準備はいい?
あちこちにまいていた不安の種はぜーんぶ回収だ。
こうだったらいいな、という願いに転化して。
それが過剰なら? 依存の糸をほどいて、ばらして。
たくさんのちっちゃな目標にして、挑戦だ。
いいね?
まずは、そこから。
つづく!




