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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!
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第千八百十二話

 



 汗だくの少女が遺体を解体する。

 何度もこなして回数を忘れるほどだ。手つきもまた慣れたもの。

 しかし、それでも疲れるものだ。彼女は荒く掠れた呼吸を繰り返しながら、返り血に濡れながら、己の命を削るような鬼気迫る表情で作業を続けている。

 彼女の作業を「見飽きちゃったなー。あとはよろしく」と軽く流して、男は少女に背を向けた。すぐさま、少女はまぶたを強く閉じる。唇の端がひくひくと痙攣した。ついで左目のまぶたがびく、びくんと震えるように揺れる。返事はなかった。

 男は構わず骸の並ぶ隣室を抜けて、リビングへ。そこにも切り刻まれた亡骸が無造作に転がっていて足の踏み場もぱっとは見つからないほど散らばっている有様だが、男は足元を見ずに床を踏みながら壁に飾られたタブレットを見た。

 少女のように解体作業を行なっている者たちが見える。老若男女問わず、みな裸だ。獲物は様々。カミソリと決まってはおらず、包丁の者もいれば、電動工具を扱う者もいる。

 それだけではない。ビニールシートを貼り、壁をぶち抜いて温度と湿度を調整し、土を敷き詰めたフロアに緑が萌えている。そこには当たり前のように亡骸が並べられていた。


「深夜勤務手当、出さないとなあ。訴訟? 訴訟、そーしょう! 有罪! に、なっちゃうよなあ」


 顎を撫でながら画面に映る人物たちを注視する。

 老いて尚、筋骨隆々とした男は白く染まった瞳であらぬ方向を見つめながら、鉈を振るっていた。汗ひとつ掻いていない。しかし他のものはどうか。少女のように憔悴しきっている者がほとんどだ。数えて十二。これが現状、解体を行える最大人数。

 横に六台、縦に五列。合計三十台。

 下二列の解体模様、真ん中六台の牧場からうえの二列に視線をずらす。

 即席のラボは稼働中だ。


『社長?』


 最上段、真ん中のタブレットに映るくたびれたスーツの中年男性が画面越しに自分を見ていた。


「どしたの、湯波くん。もうとっくに定時すぎてるよ?」

『これほど大それたことで儲けようとしているのに、なにを呑気な。たまに社長の肝の太さに驚きますよ』

「褒めてもなにもでないよ。解体班のみなさんは振り分けに時間がかかっちゃったから、夜遅くの作業になっちゃったんだ。明日は大変だぞう? 帰ったら?」

『社員の安息をお望みなら、再三もうしあげてきたことですが、解体か懐柔かを選ぶ振り分けの手順を簡略化しては? どうかお願いですから』

「問題ないんじゃない?」

『“商品”化を受諾するまでに遺書を書かせて内容が社長の気に入らなかったら評価したり。参加を望むのであれば別のだれかを指定するよう促したり。いちいち面倒なんです。みんな苦労してますよ?』

「でもねえ。大事じゃない? そういう仰々しい手続きってやつ? 演出? みたいなのが」

『いりませんよ。例の遊園地の稼働率が増しているんです。さっさと納品を済ませて逃げましょうよ』

「弱気だなあ、湯波くんは。そんなんだから、生え際が後退しちゃうんだよ? 私のあげた育毛剤は使ってる?」

『余計なお世話です。使っちゃあいますが、ああいうのって本当に効くんですかあ?』

「知らないよ、そんなの。でも、気休めになるだろ? それでいいのさ」

『……愛用してる奴に戻します。それよりね、そろそろ車が見つかりかねませんよ?』

「だから足のつかない連中は、既にお金と一緒に国に戻ってもらったろ? 捨てられた大人たちにしたって順次、国外に出してる。キミはね、心配しすぎだって」

『しすぎても足りませんよ。警察は言うに及ばず、社長が大好きなオカルト連中も血眼になって探しています。それになにより今回の顧客が――……』

「はいそこまで。その先は言いっこなしだ。そうだろ? 湯波くん」

『逃げられるうちに……早く逃げたいんですよ』

「明日の処理と、いまの商品の加工が済んだら終わりだ」

『本当ですね?』

「お仲間だったはずのウィザードくんが捕まっちゃって以来、連絡がつかないからね。必要な材料のひとつが供給を絶たれた。続けたくても続けられないのさ。だから、終わりだ」

『じゃあ、もうちょっと残業したらあがります』

「よろしくぅ!」


 画面の中年は生え際まで含めて、手のひらで額の汗を拭い取り、画面の外へと離れていった。

 手と手を擦り合わせながら、ふり返る。

 並ぶ骸の山は変わらずだ。見守っていたら、玄関のドアが開いた。


「社長! 回収に伺いましたぁ」

「遅くなってすみません」

「ここんところ、急にペースあげすぎじゃないっすか?」

「若造が生意気いうんじゃないよ。仕事するんだよ」


 ぞろぞろと四人の男がカートを押して入ってきた。

 口元にマスクをつけているが、そろって「ひでえ匂いだ」とぼやく。

 しかし怯まない。ゴム手袋をはめて、床に散らばる山を拾い集めていく。

 四人のうち最も年かさのいった男が「社長! 加工しきれないものは溶かしちゃっていいんですよねえ」と呼びかけてきたからうなずく。

 思い出したように少女のいる部屋へと戻った。

 床も壁も、ますます汚れていた。匂いもひどい。鼻を摘まんでラジカセの取っ手を掴む。それから、少女へと「もういいよ。シャワーを浴びて、ゆっくりおやすみ」と送り出した。

 男たちが「部屋があいたぞ、後始末だ」と呼びかける。

 ようやく軌道に乗ってきたと思ったのに、せっかくの「仕事」も日本じゃ当分の間、お預けになりそうだ。


「あーあ」


 東京タワーが好きだから、ここの眺めが気に入っていたんだけどなあ。

 近いうちに見納めになりそうだ。


「社長。ここっていつまで安全なんですか?」

「そりゃあ、僕らがここから立ち去るときまでさ」


 一番若い男の問いに軽く答えて、部屋を出る。

 時代劇ならきっと、ここで天井を見るのだろう。

 しかし、ここでそんなことをしても間抜けなだけだ。

 鼻で笑って、休憩を取るべくエレベーターに向かった。

 まずは下層階へ。

 すぐそばにある扉を開けると、一メートル四方のパーテーションで区切られた小さなワーキングスペースがずらずらと並んでいた。キーボードを叩く音がいくつも重なって聞こえる。

 そのうちのひとつから、メガネを掛けた女性が立ち上がった。


「社長! ちょっと!」

「ほいっ、ほいっ、ほいっ」


 手招きされるままに、彼女の元へ。

 近づく合間にスペースの中を覗く。男女の比率は女性が多い。みな化粧っ気もなければ、衣服も総額よくて五千円程度。サンダル比率が高いし、足つぼマットを置いている子も目立つ。海外の投資家の動きを調べていたり、仮想通貨について情報収集している子もいる。男も男で、雑な姿が目立つ。きっちりしすぎている者もなかにはいるが、あんまりにもみすぼらしい者もいて、男のほうが悪い意味で幅が広い。

 デスクトップパソコンのディスプレイをこちらに向けて待っていた女性が、きょろきょろしている男を見て苦笑する。


「ラフ&イージースタイルデー。総額五千円までと仰ったのは社長ですよね? 歩きやすい靴、ノーメイクは推奨とも伺いました」

「それでも最低限の身だしなみまでは否定しなかったつもりなんだけどなあ。メンズ、臭わない?」

「社長のほうが、いまはくさいですよ? 上からのお戻りなのが丸わかりです」

「こいつは一本取られた。消臭剤、ある?」

「どうぞ」


 勝手に使えとばかりに木製のトレイボックスを差し出される。一度、ラジカセを足元に置いた。彼女は呆れた顔で一瞥するが、口出しはしてこない。

 ボックスにあるのは服の臭い消しだけじゃない。ウェットティッシュ、あぶらとり紙に、ドライシャンプーなどなど。気の利いているセットを常備している彼女にはいつだって頭が上がらない。

 ジャケットを脱いだら彼女が立ち上がって引き取ってくれた。そして足元から取りだした消臭剤を手に、容赦なく吹きつけてくる。


「ちょ、豆ちゃん!?」

「いつも戻る前に消臭をお願いしているのに、どうして忘れちゃうんですかねえ」

「い、いやさ。面倒じゃない? ねえ」

「私のお世話は高いですよお?」

「よく存じておりますとも」


 手早く臭い消しに努めてこざっぱりとしてから、デスクに手を突いた。画面を覗き込む。


「マーケットは順調に?」

「ええ。そちらの撤退準備は済みました。あとは太くて切り離しがたい上客だけ」

「それ、湯波くんも心配してたよ」

「お金と人材の収集、ノウハウの蓄積、人脈の構築。一通り済ませて、去り際に大きな事件を起こして、警察の目を欺き、海外へ。遊園地も、ここも、全部手放しちゃうんですか?」

「未練を抱え込むほど警察の助けになるよ? 捕まりたくないでしょ?」

「そりゃあ、だれもがそうですよ。日本から離れたい人だって、そうはいないんですけどね」

「お金を持って、世界でさらに稼ぎ、マーケットのバージョンアップを図りつつ豪遊。ほとぼりが冷めるのを待つ間、遊び道具はまだまだ豊富にある。世界中が遊び場なんだよ?」

「……いつもみたいに話が逸れてます。もういいですけど」


 マウスを手に、いくつかのファイルを表示する。

 表にまとめられたレポートをいくつか確認し終わると、男は女性からジャケットを受けとって羽織った。


「シャワー、浴びてくださいね? 洗濯も忘れずに」

「うん。花火の準備は?」

「明日の夜には盛大に」

「避難勧告が回るように、どでかく頼むよ?」

「シミュレーションも含め、万事滞りなく。うまくいきますかね?」

「いくさ」


 頼んだよと伝えて、ラジカセを拾い上げた。

 用事は済んだ。直ちにその場を離れる。

 通路に戻り、上に向かうボタンを押してエレベーターを待つ。

 その間に鼻歌を口ずさむ。

 だまって俺についてこいの替え歌だ。

 銭がない、仕事がない、出会いもなけりゃ体力も気力も育つ暇がない。そんな連中ばかりが日本中にゴロゴロしている。海外から研修に来て、就労費用を買いたたかれている連中もそう。

 自己責任論が謳歌するほど教育が偏り、はみ出された者へのケアだ保証だが予算を削られ、粗雑に扱われる。能力主義に潜む優生主義のおかげか人権ってやつの価値が、どんどん下がっていく。おかげさまで犯罪組織の立ち上げには都合が良い。銭だの仕事だの、出会いだの、安心して楽しく育てる環境だのを用意すれば? 人がどんどん集まってくる。人権ってやつの価値と相関的に、家族だの国だのに帯する未練がなくなっていく。「高齢ひきこもりを引き取り教育します」なんて言うだけで、親が喜んでこどもを売る時代だ。

 半グレではだめだ。むしろ真面目すぎるがゆえに適応できない人間ほど、仲間に引き入れ甲斐がある。こちらが彼らの誠意が適応できる環境であり、それが利であると伝わればいい。守るべき縁ができれば、尚更いい。

 三十、四十を過ぎて再就職に苦しんでいる人間もいい。大学に通うことはいくつになってもできるが、就職の窓口は加齢に応じて、ほぼなくなる。どの企業も手を差し伸べないのが現実だ。困る人間が多いほど、誘い甲斐があるというものだ。

 おかげで、勧誘対象はやまほどいる。やることがあって、負荷は調整が可能で、自己承認ができる機会の中で、うちの組織と医療の補助があれば? どれほど緩やかでも構わない。ペースが作れていく。

 個の問題は、自覚して、己が意欲的に変えたいと決意したときの年齢のぶんだけ、これから変えるのにかかる最低限、必要な時間と見なす。世間はそうは見ちゃあいないし、組織の中に教育や育てる概念が貧弱すぎて対応が難しい。だからこそ、うちでそれをやれば信のおける一員となってくれる。

 まあ、だいたいは。

 いますぐと焦らずに潜伏してもらえれば。そのためにも人材を集めて、整えていければいけるほど? この国に戻ってくる芽も育つ。リクルートは大事に。それよりもっと、人を大事に。

 悪党をやろうっていうんだ。

 ぜい弱じゃ瓦解する。

 間隙を縫うように、排除された人々を集めよう。

 そして育てるのだ。

 それには金がかかる。手間も。精神的な影響も。

 狭い場所に閉じ込め、幅のないルーティンに人を落とし込めると?

 人は簡単に病む。

 この国は狭すぎるんだ。あーもう。ほんとだめ。

 前進たる企業はひどいことになったが、当時から既にこちらが本命。ちょっとした組織になったし、悪党として愉快に楽しめればそれでいい。

 ご機嫌だ。

 扉が開いたから、中へ。

 最も上の階層へと向かうべく、ボタンを押して壁際に身体を預ける。

 しばしの休息の後に到着。自室を目指して肩を振って歩く。いちいち鍵はかけない。盗まれて困るようなものもないし。

 それがいけなかったのか。コンシェルジュが懐柔でもされたか?

 夜景を見渡す窓際のソファに、女が座っていた。


「部屋のカメラは潰させてもらった」


 近づくほどに見えてくる。

 ゆったりとした黒いドレスに身を包んだ女の背中が。肩甲骨の筋が浮かんでいる。背筋にかけての窪みは指を這わせたくなるほど視線を引きよせてくる。


「あのう。どちらさまですか?」

「今夜、私はなにも見なかったし、ここに来なかった。あなたも部屋でなにも見なかったし、だれとも話さなかった。よろしい?」


 目だけを動かして、周辺視野も意識しながら広いリビングルームを探る。

 女以外にだれもいない。


「飲み物くらい出すのが礼儀なんでしょうが、そちらも勝手に忍び込まれたようだし。構いませんね?」


 だれも男に知らせてこなかった。そうならないよう体勢は整えてあるのだ。現世の人間のみならず、オカルトな連中が相手であろうと構わず罠に嵌めるだけの備えがあるのだが。

 女の出方を窺いながら、隣のソファに歩みよる。

 見えてきた。下着は恐らくつけていない。身体のラインを浮き彫りにする濡れ水のようなドレスに、武器と思しき凹凸も見当たらない。

 三十代か、いや。四十代か。自分と近い年齢だ。皺が僅かに。けれどランウェイに相応しい美貌の持ち主だった。瞳がいい。世の清らかさも濁りもすべて心得て飲みこんでいるような瞳がいい。


「無作法ついでに、お名前くらいは教えていただけません?」

「お互いに自己紹介はなしで」

「連絡先をいただけたりは?」

「しません」

「スリーサイズとか、夜に添い寝が必要かどうかなんていうのは?」

「それは普通にセクハラなので訴えます」

「あっ」

「訴訟、有罪、賠償金でしたか?」

「あああ。聞かれてました? 恥ずかしいなあ」


 タブレット越しに、この部屋も見れた。最上段の画面に異常はなかった。

 いったい、いつの間に。

 一度見たら忘れない顔だ。端的に、タイプだった。


「それで御用は?」

「ひと目、お顔を見たくて」

「――……自分では三枚目なんじゃないかと心配で。いかがです?」

「うさんくさいお顔だとわかれば十分。それでは、失礼します」


 言い終わるなり立ち上がり、彼女は窓ガラスへと真っ直ぐ歩いていった。

 武器もなければ、その気もない。見つめていると、ガラスの壁に当たる寸前に、すぅっと霧が晴れるように消えてしまった。

 幽霊かなにかかな?

 鼻を鳴らして匂いを探る。香水の残り香か、石鹸の匂いに柑橘の香りが混ざり、遅れて蜂蜜の香りに変じて消えていく。意外に若い匂いが好みか。

 ソファを確かめる。小さく丸い臀部の痕が残っていた。触れたらぬくいのだろうか。

 いや。さすがにそれは。


「アウトだよね? リコーダーを舐めるか、椅子に触れるレベルだ」


 でも触る。僅かに暖かい。

 たしかにいた。彼女は幽霊ではなさそうだ。

 窓際に歩みより、眼下を見おろす。窓の向こう側の景色をどれほどつぶさに観察しても、奇妙な訪問者を見つけられるはずがない。アフリカ暮らしの視力のいい人か。


「こりゃあ、急ぎ撤退だな。しかしそのままってのも癪に障る」


 あーあ。思いついちゃったぞ? 悪だくみを。


 ◆


 明坂ミコとの通話を済ませて、重たく沈む息を吐く。


「課長。吸血鬼から連絡うけて、血でも吸われました?」


 ドアを開けて覗き込んでくる部下の佐藤にうなずいた。

 警視庁勤めの一部がいま、荒れている。

 返事をする気になれなくて、スマホをデスクに置いた。

 足を伸ばし、腕も伸ばす。それから後頭部にあてがうように両手を組んだ。


「――……やっぱ、手出しできないんすか」

「そんなことは知らないよ、としか言えない。そういうことになっているんだから」


 ふんと鼻を鳴らして佐藤は自分の椅子に戻っていく。

 柊とふたりして、待機しているのだ。しかし今夜に限っては、残業の必要がない。

 すくなくとも調査中の案件のいくつかについては。

 具体性に欠ける。数は指定できなければ。あいまいさは予防しようというとき恐ろしい。

 犠牲が出ていて、調査がしたい。

 各方面に協力を要請して、ようやくこぎ着けた。ラビたちの協力も大きい。尾張シオリ嬢の情報解析能力の高さも頼もしい。当たりをつけるところまで辿りついた。

 だが、もちろん組織である以上は必要な手続きを踏まえて行動を取らねばならない。正当な捜査手順も踏まず、令状等の必要な許可もなしに、それを手がかりに正式な段階を無視してはならない。

 もちろん、そうだとも。

 わかっていた。

 大事なことだ。

 現状では及ばないから、ふたりを集めて新たに始めた。

 しかし、遅すぎた。内部の感覚だと早すぎたし、急ぎすぎた。組織内部と現実の厄介な時間差が、悲劇を止められない。

 事件は起きた。ここ連日、立て続けに繰り返して。捜査は進んでいる。その有力な手がかりが見つかった。もし別件だとしても、間違いなくクロだ。それも今回の猟奇殺人よりも大勢の被害者がいると予測が出ているほどに、クロ。

 なのに手出しができない。控えよ、というのだ。このご時世に。情報流出を許さず。突き止めた情報を知っているのは自分たち三名と刑事部をまとめる中心人物のみ。

 彼は怒鳴り込んできた。「明日には自然と動き出さざるを得ない出来事が起きる」ので「明日まで待て」とさえ言われたと。それがなにを意味するのか。上は承知しているということだ。情報も。あるいは、吸血鬼に出向いてもらった場所で行なわれていることさえも。

 それはいったいなにを意味するのか。

 突如でてきた「明日」というきっかけの意味さえわからない。なぜ「明日」なのか。これをどうにか調べる手立てはないか。止める術は本当にないのか。時間が稼げればいい。だれがどういう動きを見せるのか、それを確かめるために打てる手はないのか。

 四校には連携しておくべきだろう。それぞれの学び舎にラビのような子たちがいる。言うまでもなく各地の侍隊にも連絡する。だが、隔離世絡みでなにかが起きるような気がしてならない。なぜだ。

 吸血鬼は通話で「あそこは間違いなくクロ。気づかなかったことを恥じるほどに」と言って説明した後、短く伝えてきた。


『あのビルに邪はいなかった』


 大勢の骸を確認した。連れ込まれた人物もいた。

 だというのに。まるで、一体も見当たらなかったと、彼女は断言した。

 朝の食事で親にむっとするようなことを言われた学生や、改札で止められた通勤客からさえ、邪は出る。ささやかな刺激からさえ、生じることのあるものだ。

 だというのに、それが一体もいないと?


『あと歌のセンスが箱テレビで白黒画面の昭和中期レベルだった』


 ――……いや、ちがう。

 通話を切る直前に言われたことばはどうでもいい。

 冗談の類いだ。いまそういうの求めてないから。

 若い子には伝わらないって。自分もテレビで昔の昭和とは、や、当時を舞台にした作品を通じてしか見たことがない。やめて。ちがうちがう。

 ビル一棟、まるごと犯罪組織が利用していると目される。ひとりやふたりどころじゃない。三桁の人間が関わっている可能性さえ、あるかもしれない。そんな組織にどうして気づかなかった?

 ちがう。待て。吸血鬼はかなりの被害者がいると伝えてきた。その被害者が、いきなり、ある日とつぜん増えたわけじゃない。継続的に被害者が増え続けていたとみるとき、なぜ「だれも声をあげなかった」んだ? あがっているのだとしたら、なぜだれも「問題だ」と声をあげなかった?

 そういう問題なのか?

 わからないし、手が浮かばない。

 今夜、できることがない。それで警察官だなんて言えるのかよ。青臭くいたい自分がいやだと訴える。ああ、本当にいやでいやでたまらない。

 どれほど考えても、いま直接的に動く手立てが浮かばない。

 明日起きるなにかとやらに備えるくらいしかない。

 腹立たしいことこのうえないが、まず動く。

 椅子から立ち上がり、荷物をまとめて部屋を出た。明かりを消して、ふたりに「あがるよ。ふたりも今夜はゆっくり休むといい」と伝えて駐車場に向かう。

 するべき連絡がいくつかあるが、呑気にどこでもできるというわけでもない。

 信頼できる、ごくごく一部の人間を相手にだけ。

 足掻いてるなあ。

 別に今夜が初めてでもなし。まずは、行動を。

 呑気な一日で済んだのなら、カナタが青澄家にお邪魔しているそうだから、ひとことご挨拶に伺うのもありかとさえ思っていたのだが、今夜は無理そうだ。

 青澄くんはいま、なにをやっているのだろうか。

 カナタはだいじょうぶなのか?

 ふたりのことを考えると、すこしだけ気が紛れたが、足りない。

 今夜帰れる気がしない。新婚なのに!




 つづく!

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