第千八百六話
問題! じゃかじゃん!
私のエネルギーを仮に十に設定するとき、ぷちたちのハミガキで百を消費します。
朝ご飯でも一緒です。なにをするのでも、百がゴリゴリ削れていきます。
すると当然、これまでの人生で貯蓄してきた余剰分は一瞬で底を尽きて、魂までもがゴリゴリ削られるわけです。
そういう時間が気がついてから気を失うまで続く感じです。だいたいおんなじ毎日~!
これで心が保つはずもなく!
さあ、どうしますか?
答えは~。
ん~。
わかりません!
ひとりで「やらなきゃ」というどん詰まりに押し込められると? 外からの刺激がすべて、どん詰まりの壁を狭め、天井を落とし、床をぶち上げ、中に油を注いで火をつけるような状態に!
それくらい「やらなきゃ」や「こうあるべき」という、曖昧でゴールがない課題が増えると人生って簡単におかしくなる。
ぷちたちがこどもサイズであるから私は体験していないけど、もしもぷちたちがこの先なにかをきっかけにして赤ちゃんになったら? 育児本というより、呟きアプリや情報サイトで気をつけなければならない事故対策を見かけた。
とても儚くて脆い。幼いこどもを一時的に預かる施設で起きてしまったことが、たまに報道される。その印象も頭に残っている。
人生でいきなり、だれかの命を守り抜くことになる。おまけに、それだけに集中できる、なんてことはない。あり得ない。あり得なさすぎて、社会問題として提起されているし、いろんな角度で話題になっている。
家庭における依存労働は、長い間、女性の仕事にされてきた。主夫になったり、シングルファザーになった男性はそれを担うことになるだろう。
収入面で男性と女性で格差は存在するし、年齢によってもそう。労働時間に対しても、職業ごとによっても、格差は広がる一方だ。正社員と派遣などの非正規雇用で働く労働者とでは収入の中央値に大きな開きがあるそうだけど、シングル家庭の女性はどちらにより多く就いているのか。
離婚時の養育費の支払いにまつわる問題はどうだ。
相手が他界したケースは? 養育者とこどもの心のケアは、どこでだれがどの程度、しっかり対応してくれるのか。
加えてケアが必要になるシニア世代と同居していたら、依存労働の過酷さはぐんと跳ね上がるが、これに対して社会の制度はどれほど支援ができていて、どこに支援が届かずにいる?
これらで現状できること、できないことは?
果てしない。
養育費に生活費。広がる貧困と、厳然として存在する環境や教育過程による成人後の収入格差の拡大は? それはシングル家庭にとって、どれほど対応が困難なもの?
依存労働はジェンダーとは紐づかない。
けれど女性がやって当たり前という感覚で生きている男性は未だに多くいて、男女で結婚した家庭で男性が女性に丸投げ、依存しまくりで依存労働の負担が悲惨な状態になることも。
言っちゃうと。
自分の面倒をみる行動ひとつに対して、エネルギー消費が十一くらいなんだよね。一日とおして。ちょっと息抜きをしたり、好きな食べものを食べたり、ともだちとだらだらしゃべったり、笑える動画で爆笑したりして、エネルギーがちまちまっと回復するし? ぐーすか眠れてぐんと回復する。
自分でわりといっぱいいっぱい。
年齢に応じて、みんなだいたいそんな感じに見える。たぶん、私やカナタが二十代になって、三十代になって、年を重ねるほどにね。
他の人もだいたいそんなんじゃないかなー。
付きあっている頃も、だいたいみんなそんなノリで付きあっているとして。あくまでも仮定だけど、そうだとして!
結婚したら、だんだん相手が大きなわがままクソガキッズに幼稚対抗して、なんでもかんでも丸投げするわ、やったらやったで上から目線で評価したり文句言ってきたりするわじゃあ、さ。
まあ。
別れるよね……。
けど、こどもができて、出産してからだと? クソガキッズのパワハラクソ野郎になったいい大人と、激しく依存労働がんばらないと気がついたら死んじゃいかねない赤ちゃんと、その狭間に立って「毎日わー」ってなってる自分のお世話までしなきゃいけなくなったら?
毎日がクリアできずに終わるイカゲーム状態になっているまである。
っていう、状況が、実際に存在するわけで。
赤ちゃんを育児中のいとこのお姉ちゃんから聞く、お姉ちゃんのお友だちの噂話が毎度えぐい。
ちっちゃい頃はレア中のレアケースだと思っていた離婚も、それほどレアじゃないみたいだと知ってショック。
こどもがいても、ううん。こどもがいるからこそ、さっさと別れたほうがいい派もいれば? どちらかの親が出てきて「いいや! だめ!」って圧をかけて地獄が始まるパターンもあって。親が出てこなくても「こどもがいるのに別れるのは」と二の足を踏む人もいて。
いずれにせよ、敵意や憎悪で手続きだけを済ませようとするの、しんどい。
収入格差と、長い時間を悲惨な精神状況で過ごすこととを秤にかけることも。イカゲームだと主人公と別れた奥さんは、収入のある次の人を見つけていた。そういう解決をする人もいれば、自分で働く人もいる。けど。じゃあ、と先を考えると、たいへんだ。
地域ごとにママさんの集まりとか、赤ちゃんをお迎えした家族の集まりとかを開催している施設もある。馴染めたらいいんだけど。
果てしない。
多層で多重で繋がりあっている状況は、繋がりや連携の取れていない公的なサービスじゃまだまだ太刀打ちできない部分もありそうで。そこで有志の人たちが自助活動をしている面もありそうで。
いろんな人の中でイマジナリーモンスターが吠えていそうだ。
愛があればエネルギーは消費されませんトークには付きあわない。あなたがそうだとしても、私はちがうから。まったく想像できなくて、付きあうことがそもそもできない。
モンスターが私の中で遠吠えをする。
楽しかった時間、居場所を思い出して、懐かしくて帰りたいよと吠えるのだ。
お母さんが世代の、セーラー服で戦う戦士の女の子たちの話でひとり、ずーっと好きな先輩を思っている子がいた。木星の子!
片思いや失恋なら? モンスターは、幸せのふるさとを、その相手に求めて遠吠えをし続けるのかもしれないね。
アメリカの刑事ドラマじゃ事件の大定番として、刑事たちがしょっちゅう語るものがある。事件の類例。とびきり多く、ありがちなこと。
たとえば?
痴情のもつれの末の殺人。金銭トラブルによる殺人。それと一緒で――……別れた相手の元にいるこどもを連れ去る誘拐事件や、同時に起こりえる暴行や殺人など。
アントマンの主人公は別れた奥さんと、奥さんの再婚相手となんとかうまくやりながら、娘さんとの時間を大事に過ごせている。
けれど、実際にはね? なかなかそうはいかない。
こどもや周囲が、こじれたふたりに「家族は一緒にいるの」と求めた結果、ひとりが死ぬことさえ起こりえるのだ。
連れ去りを行なう人が「こどもといる権利がある!」と頑なになるほど追いつめられて至る犯行に、ブレーキはもはや存在しないだろう。
モンスターが荒れ狂うほど、私たちはブレーキをかけられない。
人はそれほど強くない。
脆くて儚いよ。
ありとあらゆるケースに陥ったとしてもケアできる社会って、どんなだろう。全体で、あれこれ必要そう。連携が必要な部分が多そうだし「だいじょうぶってことにする」という暫定的措置で現状維持に必死な現場には人手と予算と権限を、そして連携したほうがいい先との綿密な調整をって言いだしたい。
それがどれほど困難で遠大な道かを想像すると、途方に暮れちゃう。
そこまでできるはずもなくて。
ひとまず身の回りのことをするとして。
実際、そこまでしか気が回らないし、そもそも回復量に対して消費量が圧倒的に多いのだから常に頭が空っぽ状態だとして。イマジナリーモンスターがしょっちゅう怒りの雄叫びをあげている状況だとして!
この問題、解けなくない?
かといって手を抜けばいいかっていうと、そういうことでもない。
一緒に楽しめたらいいんだけど、それはそれとして消費がえげつない量あって、回復が間に合わない現状は変わらない。
じゃあ、どうするの?
ネガティヴ・ケイパびっちゃう?
ハミガキを終えて、和室を覗いてブロックオモチャで作った剣でちゃんばらやってるぷちたちを見た瞬間に吹き飛んだ。
「ちょっ、ちょっと! 危ないってば!」
血の気が引いて怒鳴り込む私にあわててカナタが「ああ、いや。あたるとふわふわする感触に弄ってあって」と説明してくる。私の剣幕に和室の子たちが一斉にビビり散らかしていた。
カナタがちゃんばらをやっている子たちの持っているのと同じ剣をつついてみせる。当たるとぐにゃんと曲がる。恐る恐る触ってみると、たしかに押した瞬間にぷにっと柔らかく折れ曲がる。
ひどくドキドキしていた。
めまいがして、その場にへたり込む。
それならいいの、ごめんと。なんとか言って、立ち上がるのに苦労してから廊下に戻った。
リビングを見たら見たで、負けじとごそーっと消耗するのが目に見えている。
学校に戻りたい。
みんなとわいわいやりたい。
あそこがいまの私の心の居場所だって、モンスターが鼻をすぴすぴしながら訴えてくる。やめよ? そういうのに弱いから。もらい泣きしちゃうから!
ふり返って確認すると、カナタはつぶさに見ていて、たまにぷちたちがエキサイトしかけそうになると「待った」をかけて、ちゃんばらの技を伝授したり、アドバイスをしようと試みている。そのたびにぷちたちから「ばしばしやりたいの!」「そういうのいいから、なんかだして!」と、べきべき主張を叩き落とされてる。
なにかをやらせようだなんて、おこがましくて、響かないし、届かない。
そんなの当たり前なはずなんだけどな。忘れちゃうんだ。カナタを笑えない。私もしょっちゅうやらかしてる。
こちらが用意した枠組みの中でおとなしくしてろ、なんていう下心なんて、ぷちたちはお見通しだ。本来なら私たちだって、そうだ。学校の先生が妙なやる気で「はい! これをみんなでやりましょー!」って言いだしたときの「あーもう、ひたすらめんどいなあ」という感覚だって、似たようなとこあるし。
窮屈なのは?
お断り!
こどもの頃にあったものが、私たちの心のモンスターになるのかな。
どうして、そんな風になっちゃうのかな。
「――……」
なるべく声に出さずに、だけど壁にもたれかかる。
このまま座って、夕方までぼーっとしてたい。
お昼が待っているし、夕ご飯も待っている。それまでの途方もない時間も。
決意は朝に生まれ、昼までに死ぬ。
だいたいそんな毎日だ。きっと時間が経つほど、決意は弱く儚く脆くなっていく。もう生まれなくなる可能性さえ、ある。
追いつめられてる? それはモンスターが怯えるためのエネルギーにしかならない。
わかっているけど、理性じゃ太刀打ちできない。答えがない。出口が見えない。
ネガティヴ・ケイパビリティが答えのない事態に耐える力なのだとしたら?
耐えたくない! って、モンスターに負けじと叫んじゃう。
早くなんとかして!?
私をあの場所へ帰してよ! って、気がついたらモンスターと同化して吠えてしまう。
中学時代の気持ちも、小学生時代の気持ちも。もっとちっちゃい頃の気持ちも。ぜんぶ食べて、モンスターは育っている。私は一時的に忘れられても、モンスターはたぶんちがうんだ。
御珠の垢や匂いは、私がなかったことにした気持ちがぐずぐずになってこびりついた、モンスターなのかもしれない。
モンスターはなくせないもの。
ずっと一緒に過ごすもの。
まず、そこを踏まえて考える。
だってどれほどなくさなきゃ、どうにかしなきゃと焦っても、むりむり! なくならないよ。とつぜん自分は変わらない。だれかを変えることなんてできやしない。また、望むべきでもたぶんない。
人によっては、当たり前にあるモンスターの安寧の地。
人によっては、一度としてろくに体感したことのないもの。
前者と後者でモンスターがどれほど怯えるか、想像に難くない。
両手を組み合わせて、思いきり伸びをする。背筋に心地よさを感じるくらいの角度と力で留めて、しばらく制止。ヨガかなにか、したほうがいいかもしれないや。
とっとこリビングに足を運び、ソファに寝転がる。
ゲーム勢の盛りあがりは激しい。とにかく競いたい子もいれば、技を練習したい子もいるし、フォトモードでお気に入りの写真を撮りたい子もいれば、へんてこ写真を撮りたい子もいる。みんなやりたいことがちがうけど、テレビは一台。ゲーム機もそう。
お父さんとお母さんのぶん、それぞれにあるから、書斎のテレビを使えばふたつに分けられることを昨夜、知ってしまった。お父さんが口を滑らせたのだ。なので良し悪しではあるけど、フォトモードで遊びたい子と、競技をしたい子とで分かれている。お父さんの書斎でお仕事したいお母さんがお願いしてくれたのが効いていて、ぷちたちはいま和室かリビングにいる。
そのぶん和室とリビングで大騒ぎ。
あんまり揉めると手が出る子もいる。そりゃあ「うちの子はそういうのなくってぇ」と笑って言えたらよかったけど、悲しいかな、そうはならなかったのだぜ。
そういうときにも、私のモンスターは荒れる。
ねえどうするの? トウヤとしてたケンカを思い出すんだけど。これってほっといてだいじょうぶ? って。止めなきゃだめなんじゃない? 揉めたらたいへんだよ? こじれたらしんどいよ? なんで静かにしていてくれないの!? って。
パンドラの箱の逸話をついつい思い出す。世界に絶望があふれる箱の中に、希望が残っていたっていう話。さもエモく言ってるけど、でも世界にあふれた絶望はやばいやん。半々くらいにしといてー! って思うんだけどなあ。
モンスターの声は、パンドラの箱みたいだ。
あふれる絶望があまりに多すぎて、とてもじゃないけど希望を見つけられない。
そんな状況でだれかにアドバイスされたり、答えを提示されて「それをやれば」と言われたら? モンスターが叫ぶ。できないんだよ、こんなの望んでないよ、解決できてればしてるよって。
オープンダイアローグも、未来型ダイアローグ――……じゃなくて、未来語りダイアローグ! これ間違えて覚えてた。いずれにせよ、どちらも助言も解決も、答えの提示もなし! アドバイス? のんのんのん! だめだめ! そんなことしちゃ!
ナラティヴが大事。
もの語る。生ものとして、生きものとして、モンスターと同化してもいいから、発話する。
モンスターの歌を聴くのだ。
邪魔はなし。
トシさんたちと思い思いに楽しむときのように、セッションできるのならいい。
だけど演奏をやめて、楽器を取り上げたり、後頭部をぱっかーんと叩いたり、指揮棒を投げつけたりしちゃあしょうがない。そういうのは? なし!
正しさも事実も責任をどこに置くかという話としてモンスターを刺激しやすい。とても強くね。それは攻撃性を帯びてしまいがちだし、指向性を求めざるを得なくなりそうだし?
ひとりの声に向かっていってしまう。
そうじゃなくてさ。
トシさんとナチュさんとカックンさんがいて、ツバキちゃんがくれるフレーズを口ずさみながら、私たちはブースの中で重なりあう。ひとつになるんじゃなくって、なんだろ。小節の数を決めて、旋律を決めて、だれがどこで仕掛けるかの遊びとかして、それぞれを感じる。エモさはさておき、単純にそれぞれの音をよく聞く。フレーズの意図を感じる。そのとき、私の声だけではなし得ない音の重なりが、そこには確かに存在している。
そういう方向性がいい。
モンスターとのセッションを。
同一化していくのでもなく、さりとて「こうやるの!」とモンスターを傲慢にも躾けようとするのでもなく、音を重ねながら、いろいろ歌って、お互いがどんなか理解を深めていく。
解決を目指すのではなく。正しさの枠組みに押し込めて、檻に閉じ込めるのでもなくね。
「ママ、みてー!」
「ひげおじさんのおしり!」
「そういうんじゃないでしょー!?」
「いいおしり?」
写真を撮るのに夢中だった子たちが、せっせとゲーム機を持って見せてくる。
地味に揉める。なにしても言いあう。
これはこれで、音が重なっている――……のかなあ。
お父さんとお母さんが世代のアニメに出てくる少年が言う、有名な台詞がある。歌は心を潤してくれるって。
心にモンスターはいる。
かれらは生きている。モンスターを生み、生きものとして心の中に、共にいる。
ほんとは最初、同化しているのが当たり前なのかもしれない。
ぷちたちに「見せて?」って起き上がって、気楽に構える。いろんな写真をたくさん撮って、データをせっせと増やしている。そのせいか、お父さんが「新しいカード買ったほうがいいかもなあ」と昨夜いっていたっけ。
私にはとても思いつかない。とてもできない。けど、ぷちたちはそれぞれに自分のやりたい遊びに夢中だ。夢中になりたいから、自分ができないときにぷりぷりすることもあれば、やってる子の遊びに惹かれたり、反応せずにはいられなくなったりする。
そういうのも、いっちゃえばセッションだ。
映画のセッションの講師はパワハラおじさんだった。ああいうのは、なし!
トシさんたちと私がやるセッションは、もっとゆるい。和やかだし、素直に言うよ?
それよりもうちょっとだけ、ぷちたちのセッションはじゃれあいが強い。甘噛みもする。たまに力加減を間違えてしまう。
繰り返し、反芻してみる機会がゆるく増えてきている。意図的に増やしているんだけど。これやると、自分の気持ちを説明しようとしたり、あれえ? ってなったり、ぷちたちが自分の言葉にいろいろな反応を示すんだ。
モノローグとダイアローグっていうのがあってさ?
ダイアローグは対話。モノローグは独白ね?
対話をしようとするとき、私たちは違いを認識する。
人はだれしもみなちがう。それをオープンダイアローグでは他者性というようだ。
他者性に攻撃されると身構えるとき、私たちは人と話しながらも独白を選ぶ。反撃されないよう、ツッコミを入れられないよう。理屈をこねたり、数字を持ち出したり、正しさを頼りにしたりする。と同時に、人はだれしもみなちがう他者性を、自分と同じものに変えようと試みる。
同一化を目指す。支配しようとする。
独白を絶え間なく延々とする人がいるし? 自慢話でマウントを取るように独白を続ける人もいるけれど、みな対話のステージにあがって他者性における自分を攻撃されることを恐れている。面倒だし、いやだと感じている。そういう場合がある。
オープンダイアローグは人を変えようとしないアプローチによって、結果的に人が変わっていくそうだ。けれど、たとえばスタッフがクライエントをどうにか変えようとするのではない。むしろ真逆で、変えようとしないんだ。
対話の質をあげる、という捉え方もけっこうされている。そもそも対話自体はそれほど目新しいことでもないからこそ、エビデンスを元にした技術として分析できるように取り組まれてもいるそうだ。
対話をするとき、お互いがお互いの他者性を尊重し、変えようとしない。
当たり前なようで、根が深い話だ。
ぷちたちと接しているとね。疲れるほど私のモンスターが暴れ狂う。そして私に吠えるのだ。支配を。変えてしまえ。私が楽なように躾けてしまえ、と。夕方には声が頭にがんがん響くときさえある。みんな大きな声で元気いっぱいしゃべるからね。そういうときには、より一層モンスターは声を大きくする。ぷちたちの声よりも私を惹きつけるのだ。
こども時代におとなに自分の他者性を尊重された人ばかりかっていったら?
まさか!
比率として分かれていくんじゃないかな。
おばあちゃんたち世代は大戦期を経験した親御さんがいるだろうし、その親御さんにしたって、ねえ? 場合によっては「こどもの他者性を尊重」とは真逆の教育が当たり前だったかも。
時代と家庭と個人の他者性、あるいは人権という文脈にさえ行き着くテーマだ。
そりゃあ、根が深いよ。
私はいま、どうやれば他者性を尊重できるのかを考えている。
それだって、さっきした問題と同じでさ?
答えはわからない!
ネガティヴ・ケイパビリティだと?
答えを出そうとしない。解決しないまま、付きあっていく感じみたいじゃない?
オープンダイアローグにしても、何度だって繰り返すけど、アドバイスはなし。正しさとか、客観的な事実とか、そういうので他者性を自分の思想に変えてしまえおう、なんていうのもなしだ。
ぷちたちと一緒に過ごしながら学んでいこうとするほど、モンスターは暴れる。
そんなのずるい! って。
ぷちたちと過ごして、意識するほど心の中でモンスターが鼻を鳴らして泣きだす。
私にはそんなの、なかったよ。つらかったよ。うまくできなくて、傷つけちゃったよ。それなのに自分の痛みで精いっぱいだよ。だれか助けてよ。許せない人もたくさんいるよ。憎くて悔しくて仕方ないよ。その中に私もいるよ? 惨めで恥ずかしくてつらいよ。助けてよ。
あんまり切実すぎて私の心をかき乱すモンスターを、私はずっと触れられずにいた。
生きものなら、そりゃあさぞ汚れてしまったろう。狐や犬なら、伸びた毛が絡まって、垢と毛玉にまみれて、皮膚病にさえなっているかもしれない。お尻回りの毛にうんちがいっぱいついている可能性だってある。御珠の惨状は、とどのつまり私自身に対する育自放棄の結果。
そういう捉え方、感じ方だと、ますますモンスターがつらくなっちゃう。
毛玉まみれの毛はバリカンで処理。お肌をシャワーで綺麗に洗う。目やにとか、伸び放題の爪とか、そういうのも丁寧に処理を。おいしいご飯と綺麗な飲み物、そして寝心地抜群の寝床を。いっぱい遊び、いっぱい一緒にいよう。安心して。
そういう、悲しさの先に向かうだけじゃ足りなくて。
なんだろな。
なんなんだろうね?
たまらない気持ちが胸をいっぱいに満たす。
余白がなくなっちゃって、それじゃ対話がむずかしいからさ。
焦らずに、いまはぷちたちの心に歌うように重なっていく。
百がもりもり私の中から出ていって、ぷちたちの元気と混ざりあうんだ。
なにができるかっていったらさ?
たぶん、そいつは思い出って名前になるんだ。
つづく!




