第千八百一話
今日の応援はお姉ちゃんだけ。
そのお姉ちゃんも宝島に戻った。カナタさんくらいだ。常駐するのは。
移動に制限が加わってしまったのだから仕方ない。
お母さんにさんざん負けたカナタさんが、ぷちたちのおもちゃになる――……というようなこともなく、私への要求の圧が増すばかり。イチゴがすごいのであって、なかなかうまくやれないものかもね?
ママ目線で学べるテキストは? と悩んでいたけど、ふと気づいた。
そうか! 幼稚園や保育園で働く人たちのテキストが勉強になるかも!? と。
なんてことを、トイレに離席して口から魂でちゃいそうなほどぽけーっとしながら思いつく。
スマホでちょこちょこ調べるけどね?
「ママー。まだー?」
「うんちでたー?」
「でてない? でないの? だいじょぶ?」
扉の向こうから遠慮なぁくいわれちゃうので「だいじょうぶー」と返しておく。
ひい。やめてくれい! トイレ中にドアの前で待機するのは、やめてくれい!
「まだみたい?」
「ちぇー」
「はやくー」
とんとんとん、とドアを叩いてくる。
おばあちゃんちに行ったときでも、そうそう体験しなかった。いや、小さい子はいたんだよ? だけど顔見知りして、照れちゃって、慣れるまでタイムラグがあるじゃない? だから、ここまでのことって、そうそうなかった。
「リビングで待ってて? ね?」
やだやだ! ってなるときもあるけど、今日は元気に「はあい!」と答えてくれた。
境目がわからん! お姉ちゃんと遊べたのがよかったのかな?
夕暮れ時が近づいている。
帰る前にお姉ちゃんがカナタさんをゲームに引き入れて「こいつ初心者なんだ、教えてやってくれないかな」とぷちたちに提案してた。ゲームが好きな子たちがいま、ぎこちないカナタと交流してる。他のぷちは平常運転。私の部屋でアニメ見てたり、和室でオモチャで遊んでたり。
時間帯的に晩ご飯の準備がいる。晩ご飯は買いだし必須。お母さんのお腹が順調に大きくなっていて、体調もそれなりに。なので、できるかぎり家事は引き受けたい。
料理にまつわる行動は、調理だけじゃない。そこが地味に大変。だから一気にぶわっと買い込む。
節約するために、安くてなるべくおいしい食材を買うのなら? めぼしいお店がないか常にアンテナを張り、特売には頻繁に足を運び、無駄にしないレシピと、食べ続けられる要素がいる。要素に分解したはずが、最後のだけ要素として丸投げしちゃった。多いよ? 食べ続けられる要素って。
買い出し、調理。のみならず、食器や食卓づくり。食事シーンなど。できることは無限にあって、果てがない。おまけに人によって、あるいは状態や環境によって、簡単に変化する。
単純に、くたびれているとねー。
めんどいし。なにもかもが。手間が多いのよ。それくらい。だけど、きっつい食事が続くと気持ちがめげちゃうタイプだから、ついつい一定の水準を求めてしまう。自分が水準に見合わないと感じるときの料理ほどうんざりするものはない。もういっそ外食か配達たのむのでよくね? ってなる。
じゃなくて!
なんか術だよ。術。
ミコさんが教えてくれた宝島保育園にしても、当分先になりそうだし? なにかに捕まったことがきっかけで、私の宝島滞在も遠のきそうだし。術がほしいぞ?
なに調べりゃいーんだよー。
背もたれに背中を預けて、画面を無駄にタップしたりスライドしていて目に留まった記事がある。
おとなを感動させるこどもにするのか。それともこどもに感動できるおとなになるのか。
保育園で働いている方のインタビュー記事に見つけた問いだ。
将来の投資として、あるいは中流層、願わくば上流層へと到達できるように、幼いうちから教育しようという動きがある。三歳から始める英会話ーとか、上流層に適応しやすいスポーツの習得ーとか。いろいろね。
語学でしょ? 楽器とか。ゴルフとか? バレエに、ダンス。舞踊。芸事。
そうしたことをさせて、一定の水準での結果を求める。
能力は環境と投資のもと、習練を重ねて鍛えていく。ならば、幼い頃から蓄積させたほうが後々、競争社会において有利に働くはずだとして、それを行なう。
こどもの意思決定は後回しにして。
それでなくても「うちはこれを学べます」がウリになるのなら? 競争社会にて、こどもが競争に敗れて社会で貧しくつらい思いをするのなら、ウリのある場所を選ぶ。
お勉強をさせる。習い事を軽くできる。英語の時間もあるし? いいかも。
あらゆる層の人々に浸透しがちな価値観が土台となっていやしないか。
私たちは、すくすく育つ頃ほど多感で敏感にいろいろ感じとる幼いこどもに、おとなを感動させることを求めていないか。おとなをうならせる資質を見せてもらいたがっていやしないか。
そのときの基準は、なんだ。
流暢に英語をしゃべれること? 思いもよらない成果を示すこと? 厳しすぎるトレーナーが「お子さんの可能性には舌を巻きますね」とうならせること? 高等教育か、大学講義レベルの書籍を読み、理解すること?
いやいや、さすがにそこまでは。
じゃあ教わった英語をたどたどしくもしゃべれること? 算数がちょこっと答えられるようになること? コンクールで他の子に見劣りしない演奏を披露することかな。
そういうことなのかな?
そういうとき、その子たちって、それをする必要がなくなったり、無意味だと感じたとき、心になにがあるのかな。自由で楽ちんなときの、零点の自分という形を、ぱっと思い描けるのかな? どんなになっても居ていいんだと安心できる場所が、その子たちにどれほどあるのかな。
感動を求めるとき、そうでない場合に落胆が伴わない保証はない。
シオリ先輩に教わったプログラムの条件分岐っていうやつの処理を用いて例えるならさ?
もしも「感動できた」ら「よし」とするだけなのかな。
それとも「それ以外の場合」は「だめ」とするのかな。
人によるかな?
条件も、条件に合致したときの処理も。
条件から外れた可能性も、そのときの処理も。
もっと複雑かもしれないね。
そうじゃないで繋げる条件として、新たに「こういう場合なら」と加える人もいそうだ。
こどもに能力があったらいいなプログラム、なんて名づけたら? 一気に炎上しそうだけど。でも本質的に需要があること自体は常に否定しきれない。
たいへんだもん。
ぶっちゃけ。
めちゃくちゃたいへんだもん。
ぷちたちが多すぎて参っているよ。でもきっと、ぷちがひとりでも参ってた。比較して云々って話でも、もちろんない。きっとそれぞれにたいへんなのだ。
だって、知らないもの。
どうすればいいか。
わからないもの。
だけど待ったなしだ。
備えるにしたって、備えきれるものじゃない。
ぷちたちが赤ちゃんになったら? あるいはやがていつか、出産するときがきたら。お母さんに待ち受けているように。
そしたら、どうなる? 三時間おきに泣くし、目を離したらよくわかんないものを口に入れたり、思いもよらない場所にいて落ちたり転んだりしかねない。ちょっとしたことで死んでしまうかもしれない。それが、ずーっと続くような感覚がするという。
どうしろと。
いまで「わー」となる私にはとてもじゃないけど思い浮かばない。
だから、朝おくりだして夕暮れより一時間くらい早い時間までがっつり面倒を見てくれる施設があったら助かる。そこで、おうちでしたら困ることをしないように教えてくれたら? もっと助かる。小学校に向けていろいろ準備してもらえたら? めっちゃ助かる。おまけに将来にわたってずーっと使えそうな英語が勉強できるんなら? めちゃくちゃ助かる!
それって私の都合ですよね? と、私に言っても「うっせえ! たいへんなんだよお! ぼけがあ!」っておともだちパンチをぶちかますくらいには、求めてる。
料理の例えでいうなら、それぞれの段階の手間の軽減を。継続的な不安と負担からの解放を! 求めちゃうんだよなあ。
毎日元気で機嫌がよくて、すやすや快眠で、疲れは一日でなくなって、気持ちリフレッシュできて、おんなじことを楽ちんにやれるってか? おぉん!? そんなペースでやれると思うなよぉ!? って話でさ。
おまけに、ちっちゃい頃からできることが増えていくほどよさげじゃん。実際問題。もちろんジャンルによるけど、第一線で活躍しているプロは多くない?
そこまで求めないにせよ、需要はなくならない。
もっと根深く溶けてる感覚が、需要を無視しきれない。
ほんとはさ。
ぷちたちが、それぞれにあれこれやってるのを見て「ああ。この子はこういうのが好きなんだなあ」とか「おお。こういうときに、こんないい顔してたなあ」とか、じっくり感じたり、思い出が増えたりすればいい。
これができるようになりました、というお披露目会ってほんとのところは求めてない。それよりも「この子ね?」と、ああこういう子なんだなあ、とか。お、成長してんねえ! とか。おー、悩んでるねえ? とか。そういうことを私が知り、学べる助けが増えるほうがうれしい。
こどもの発表の場、成果を見せる場ってさ。
こどもの需要と供給なのか。
それともこどもを介したおとなの需要と供給なのか。
求めているのは、こども? それとも、おとな? どっちかな。
やらせているのも、眺めるのも、おとなだ。
親が喜べば子も喜ぶだろ、みたいな意見もありそうだ。否定も特にする気はない。
ただ、これ考えると根深くない?
おまけにね。
ぷちたちのことを知っていけたらいいな、そっちのほうがうれしいなっていっておきながら、それとは別に今日一日、これから続く三百六十五日がもうしんどいのも事実でさ。しんどさが軽減されるのなら是が非でも協力をって思っちゃうのも事実だ。
このふたつは別個に捉えられるはずなのに、なんでか同一のものとして結びつけて解決を求めちゃう。純粋に疲れちゃうし、日常の負担がずーっと続いたら楽になりたくもなるからなのかな?
それにね。疲れているところに、さらに疲れることがあると不機嫌になりやすくなる。すると、ぷちたちに不機嫌を振りかざしてしまう。気を遣う子も多い。ユメは特にそうだ。小さな大人にしてしまう。それがどれほどの暴力かは、何度だって認識し直す。どんなに思い出しても足りない。かといって、それじゃ疲れは癒やせないのも事実で。
もー。
わー。
たいへんだ。
こどももひとりの人間だ。ぷちだってそう。幼いとて立派な式神だ。
こどもが人の権利を知っているかどうかを示す指標があるという。おとなはそれを、ありとあらゆるすべてのこどもたちに漏れることなく伝え、教えているかどうか。
自分を守るために必要なことを知っているかどうか。それはどこまで普及しているか。
成長するほど、当たり前や普通という言葉にくくりつけられた概念が、実際はどれほどのものなのかわからないままに、理由をつけたり理屈をこねたりして、伝えまいとしていないか。
おとなを感動させるこどもを求めるように。
じぶんを感動させるたにんを求めていないか。
もうひとつ言い換えるのなら?
じぶんを満足させるたにんを求めていないか。
社会的な立場、関係性。ほかにもいろいろと条件を付与して言い換えられるけどね?
求めるとき、満たされなかったら? そのときの対応は。
条件分岐の数は。合致したときの対応は。
それぞれは、どのように自分を変化させるのか。だれかをどう刺激してしまうのか。
わかるとは言えないや。わかるはずがないとさえ思っちゃうぞ?
人の意識、無意識も。価値観も。知識も、経験も。
産まれてから生きて過ごしてきたぶんだけ、あらゆる成分として変換されると仮定する。
そして人を水とする。
つまり人には生きたぶんだけ、ありとあらゆる成分が注ぎ込まれているのだと考えてみる。
一部をすくいとって、だれかの一部と混ぜ合わせてどんな反応が出るか。謎。
お互いに相手のことは一切わからず、類推するとして。そのとき対話や共感を利用するのだとして。そうして好ましい反応を導きだそうとするのだとして。
相性が合わないとき、水を混ぜた途端に爆発するかもしれない。一気に加熱されて、もこもこもこーっと泡だつことさえあるかもしれない。
強引な暴力を振りかざして求める液体を出させたと思いこみ、また事態もそのように推移しているように見えて、相手の水に猛烈な負荷の成分が足されているかもしれない。
お互いにとって喜びは別種の成分かもしれない。
その成分の違いにどこまで行動できるか。
仮に成分を調べ、双方にとって好ましい反応を得ようと行動することを是とするとき。
それは容易なことだろうか。
困難であったとき、その困難さは排除されるべきなのだろうか。
こうした問いを浮かべるとき、いろんな成分が一瞬だけ、ちらりとわかることがある。
環境や状況が変われば、変質してしまうこともあるけれど。当たりはつけられる。
ぷちたちに。
私は。
能力を求めるのか。
成果を、感動を求めるのか。
だれのために?
なんのために?
こどもは大きな声をだしたり、元気に駆け回ったりする。よく寝るし、はしゃぐし、全力で遊ぶこともある。こどもによってちがう。その子がなにをどう感じ、どうしたいのか。自分を育む種は数多あるけれど、いまなににどれほどの興味を持っているのか。水をあげたいのかどうかさえ、そのこどもの中に答えがある。
私が暴く類いのことじゃない。
そういう意味で、零点のままでお互いにいられたらいい。
え? どんな加点も減点も興味ないが? と流して、ぷちたちがそれぞれに自分をどう育んでいくのかを見守りながら、学んでいきたい。
そう捉えるとき「できたらいい」が邪魔をする。
ついつい「こうあるべき」と考えては、私を苛む。
能力を前提とし、作法を求め、自分の秩序が保たれることを第一とするとき、こどもって相反する存在に思えてならない。だから負担が増す。
そこに問いを抱く。
便宜上、私たちはよくこどもとおとなという概念を用いるけれど、どちらも同じ人だ。
遊動民と定住民の話題でいう掃除が、定住民になって必要になった技術であり進化なのだとしたら、掃除ができるようになるには現代の人でさえ個別に進化しなくてはならないことになる。
それと同じで、定住民として、あるいはたとえば二十一世紀の人としてあればいい知識や価値観の習得は、これもまた個別に進化し習得しなければならないのだとしたら?
前提とする能力は、人の身で習得するのにどれほど困難なのか、実は私たちは無頓着すぎて知らないのでは? みんな最初は初心者なのでは。
初心者だぞ、やさしくしろやぁ! 教えてくれませんかねえ、せんせ。下手くそな教え方じゃなく、わかりやすく頼みますよぉ? こちとらお金はらってるんですよぉ! みたいに、お金払いましたビンタや初心者マウントみたいなことをする人はご退場いただくとして。
案外、わからないことだらけなのでは。
それをさらに複雑かつ難解にするほど能力主義が広まっているのでは?
ファクトフルネスに見た貧困の話。世界中で広がる貧富の格差。先進国でも、いわゆる学名としてのステータスを誇る大学は概ね上流層が通う。中流層が続く。貧困層が通う率はとことん低い。
貧困層から脱出することはとにかく難しい。
ドラマSUITSで主人公のマイクが、超やり手の弁護士ハービーに雇われる。経歴を詐称して。ハーバード卒しか採用しない事務所だから。新米の頃はマイクってとことんやらかしまくるけど、ぐんぐん成長して、どんどん頼もしくなっていく。記憶能力がずば抜けていて、ハービーを助ける場面も多い。
そのドラマでハーバード大学専門の受験コンサルタントがでてくる。憎まれ役ででながら愛すべきキャラになっていくルイスと一時期交際する女性だ。彼女は依頼を受けて、学生がハーバードに入学できるよう手を貸す。厳しい正門から正当に入学できるよう、厳しい態度で臨む。
ところでこどもにお金を投資して、あれこれとステータスをつけさせ、能力の証明をつけたがる親がいるのだから、あらゆるケースを想定してみてほしい。
裏口でもいい。必ず入学をと言いだす親が出てきそうじゃない?
実際にいる。
たとえば大学に多額の献金をする。見返りとして、こどもの入学を約束させ、実際に履行させる。大学はお金がほしい。新しい施設、新しい設備、老朽化しているなら補修、名のある教授の引き抜きまであるかはわからないけど! お金は喉から手が出るほど欲しい。
それが行きすぎて、順序が逆転し、上流層のこどもが入ることを望みたくなるような施設をせっせと建てる大学もある。寮をゴージャスに。目の前に流れるプールを建てたりして、本末転倒な状態に陥るのだ。
ドラマにでていた女性はたしか、真っ当に鍛えあげる方向性でアドバイスをするし、基準を満たさないのであれば率直に告げているような人だった。
けど、ね?
私はよく皮肉として「ビジネスは利益が出ればいい」と言うけどさ。受験コンサルタントで、実際にそれをやる人が出てきたら? 彼らはどのような手口で、大金を稼ぐのだろうか。
相手は言うまでもなく上流層だ。
空いているポストを探し出し、賄賂を払ったり口利きをしたりして、入学させてしまえばいい。大学講師たちすべてが高級取りかって? まさか! 利益ほしさに口を利く人もいる。
となれば、なにが起きるか。
受験を経て入学しようとする生徒のポストが、お金持ちによって減る。
奨学金制度があるけれど。それって、貧困層のこどもが何割、何人ほど利用できているのかな?
平均値じゃなくて、中央値で知りたい。
日本だと増え続ける非正規社員の年収中央値って、二百二十万ちょいなんだってね? ちなみに正規社員が四百万ちょい。そりゃあ「ビジネスは利益が出ればいい」として、なんでもやる人が上流層に増えるほど、非正規の増加は歯止めがかからないんじゃない?
職種によっても異なるよね。下請けは元請けよりしんどい。フリーもそう。このへんはナチュさんから教わってること。あれ!? 音楽業界のお仕事はどうなってんのぉ!? ぼ、ぼちぼち。
実のところ能力主義でいくほど、貴族社会化が進んでいってません? あるいは階層社会化かな。そのうち身分制度が復活したりして! あはははは。笑えない!
まあ陰謀論めいたブラックジョークはさておくとしてもさ。
社会の一面として見ていけば見ていくほど、私の中に溶け込んでる成分は、ぷちたちと過ごすほどに臭ってくる。
御珠の汚れと、その耐えがたい臭気は、私自身の中にある能力主義への忌避感であるかも。
すべてかどうかは断言できないけれど、一部ではありそうだ。
これまでの一年とちょっとの間に、いろいろな状況を目の当たりにしてきた。それまでに見てきたものと重ねると、より生々しく意味を持つ。
学んできたことを土台にして述べるのなら?
自己責任という単語が活用されるのであれば。
それはどのような出身で、どのような産まれ方をし、どのような親の元に誕生したとしても。
どのような過酷な体験をし、いかなるトラウマがあろうとも。
必ず治療とケアが確保され、社会で十全なる配慮のもとに生活でき。
教育や医療に確実にアクセスがつながり、等しく成長できる機会が、いつ、いかなるときでも、すべての人に保証され。
支援される状況でのみ許される。
けれどそんな状況にはない。
世襲で繋がりやすい貧富。この連鎖は強力だ。性別、人種。他にもいろいろと、いま述べた条件を不利にする面が社会にはやまほど存在する。
枷は数多。
さきほど述べた大学の話もそう。世襲さえも関わるし? そこから生じる言論がどのように広まるかは、ね。世襲議員さんがいっぱいな日本だと、わりと死活問題なのかも? 上流層の親が子を座らせるべく大学の席を買うようなことでは?
ほかにもね。
やがて責任のある管理職になると、退職後の生活や年金が枷になる。守るべきものが増えていく。家族かもしれないし、愛人かもしれないし? 浮気や不倫をしないとして、こどもの将来かもしれない。若い頃に「この会社を変える!」と意気込んでいたところでさ。
実際は自分の生活、人生を守らなきゃいけない場面で青臭い変化より現実的な今後を取る人のほうが多くても不思議じゃない。
ドラマで会社の不正をただして活躍する主人公を見ても、現実で会社の不正を告発して路頭に迷う人を知ると複雑。理不尽だらけで、なんとかやってくのが精いっぱい。
そっちのほうが、中央値なのかもしれないね? って、数値になってないってばよ。
で、そこに私が産まれたってわけ。
ついでにいえば?
私がぷちたちを産みだしたってわけ!
答えなんかないよー?
こんなの、どうにかできるわけないし。
備えなんて、そもそもなにをどうしたらいいのかもわからないよ。
零点から零点のままずっと、採点せずに作り出せるなにかを求めたい。
なんかもう。それって。なんなん?
芸術をやるのかな。
自分を表現するの。
ナラティヴを描くように、歌いながら生き続ける。
そういうこと?
知識も技術も、開拓を。
やりがいと、生活を。居ることを楽しむけど、それとは別に報酬を。
そういうことなのかな?
なぞ!
「「「 ママぁああああああああ! 」」」
「ひえっ!? な、なにぃ!?」
びっ、びっくりしたなあ! もう!
扉の向こうから、いきなり大声で叫ばれるとは!
「「「 うんちまだああああああ!? 」」」
「ただちにでます! あ、トイレからでるって意味ね!?」
だから、うんちうんち言うのはやめようね!?
くっそ恥ずかしいからね! うんちだけになあ!
「流しとこ」
内心でドヤって寒いこと言ったときの空しさときたら!
つづく!




