第千七百八十九話
もしも~。わたしが~。鳥に~、なったら~。
空から~。うんちを~。落とすのでしょう~。
なんて鼻歌を、公園で遊んでいるときに鳥のうんち爆弾を目撃したぷちたちに歌って聞かせる。
意味?
そんなものはない!
興味津々な子が何人か駆け寄り、落ちてる枝を拾って、先っぽでつつく。
くちゃい。みんなで顔を「あー」と歪めるし、私は離れるように促す。
たとえここが宝島だとしても、基本は現世と同じ。
うんちから感染すること、ある。寄生虫とかね。
そういうのはみんなを連れて砂場にて、絵を描きながら説明する。
ぽんぽんが痛くなるかも。頭がぱぱらぷうになるかも。胸が痛くなって、虫さんがわらわら増えちゃうかも? ちょっと脅かしすぎな気もするけど、ちゃんと説明を。
すると「なんで?」や「ねえ、どうしてー?」や「鳥さんはだいじょうぶなのー?」という質問を浴びせられる。
ならばと記者会見セットの登場だ。金色を出して、化かして、パイプ椅子を並べてぷちたちに着席を促す。自分はテーブルを前にして、後ろにホワイトボードを出して、ペンを片手に説明。
ちょうど最近、ぷちたちはテレビのワイドショーで記者会見を目撃した。だから記者の真似っこをして突っ込んでくる。あれこれやりとりをして、記者会見が終了する頃に痛感した。
この子たちがここまでノリがいいとは知らなかった!
途中で飽きちゃう子もいたけどさ。ペンで絵を描いて説明するだけじゃなくて、金色を化かして模型を出して説明するとか、工夫の仕方次第でなんとか気を引けそうだ。
高橋先生がやってくれてたっけ。授業で。
私は先生みたいに刀鍛冶じゃないけど、金色を使えばそれっぽいことができる。
珪砂列車として思い描いた悩みと遊びの珪砂。
あれ、私にとって金色なのでは?
一理ある!
『いやあ』
ああっ! 十兵衞に呆れられてるぅ!
はよ気づけやぼけやぁ! って話ですかね!
『ぼけや、が余計だな』
おう。
『たわけ、と和尚なら笑うだろうが』
おう……。
宝島でお昼を食べると費用がかかる。
霊子払いはどうにもきつい。現世のお店の中には、定食一食お皿洗い免除で面倒みてくれるところもあるとか、なんとか。だけど霊子払いの疲労度は一時間働くくらいのしんどさがある。
ぷちたちのおねだりを聞いていたら、大通りひと区画を通り抜ける頃には疲労の蓄積で私しんじゃう!
ひとまず、うちへ帰ろう。
遊具が盛りだくさんの公園でさんざん遊んだし?
うちに戻ったら、一度かるくシャワーを浴びてもいいかもしれない。
ぷちたちの服は概ね私が化かしてなんとか回しているけど、ぷちたちからお洋服ほしいという声を聞くことも増えてきた。
みんなを促して鳥居を目指しながら、悩ましさに唸る。
そう。
お洋服だ。
避けては通れないもの!
こども服……っ!
かわいーんだー。ほんと。
だけど、前にも考えたことだけど、なにせこどもはすくすく成長する。
着回しがきかない! サイズがね! 丈がね。
でもね? かわいーんだ! ほんと!
寝巻きもそう。なんでもそう。靴だって、靴下だってそう!
でも、待て。しかし、待て。人数が人数やねんぞ? 全員に最低七着の上下を買うと、いくらになるの? 下着からなにからそろえていくと、どんなことになっちゃうの?
えげつない出費になっちゃうの。
そこで登場!
でれれでっででぇん!
ふーりーまーあーぷーりー!
他にもいくつも手はある。
お古の洋服が売ってる実売店舗もあれば? 近所のすこし年上の子たちのご家族と仲良くしておくという手もあれば? 生地を利用して、ミシンをゲットして、お裁縫! なんて具合に。
お裁縫もお古も、どちらも長い歴史を誇る手段じゃない?
合成繊維ができる前、服の布地はどうやって確保してたのかな。
日本だと蚕の絹?
やば。掘り下げると長くなるやつだ!
ところでお古は感覚的にありかなしか、という話がある。あとはデザインにどうしたって時代性が出るし、好む好まないという話もあるし、本人がよしとしても周囲がいじってくる可能性がある。いじってこないまでも「あ」という視線を向ける人がいたとき、それを気にする場合だってもちろんある。
それはそれとして、お金の問題もあってね? たいへんなんです。私はぷちが大勢いるから、という文脈で言ったけど、ひとりのこどもですっごいかかるんです。感覚は個人差があるかと思います。生活費も教育費も、負担として無視できるものじゃない。公立か私立かでも大きく変わる。塾に習い事、部活動もものによっては負担額、かなりのものになる。
たとえば学校や図書館に十分な学習本が――……って、ちがうちがう。これも掘り下げると長くなるやつ!
あふれんばかりの悩みの砂は、結局のところ、人が成長するうえで欲しいもの、必要なものがたくさんあるぞ? あればあるほど助かるぞ? っていう内容に尽きる。そして、どれかひとつに悩み始めると? 連鎖的に他の出費についても考えてしまう。
いやいや! 出費ぃ!? ちがうでしょお! と言いだす人もいて、そういうのはその人の中で考えてもらうとして。
実のところ、ぷちたちの将来について、私はなんの展望もなく、悩むべき議題だと認めた瞬間に、膨大な砂が溢れ出して潰れて死んじゃうんじゃないかなって怯えてる。
そんな恐怖心は現実と分け隔てられていて、現実は変わらず、ぷちたちのしたいことがある。ぷちたちは育つ。すくすく、健やかに。そう求めるのなら? がむしゃらに行動を、という場面だって、そりゃあ増えるし? 金色を化かしてひとまずこれで、と押し通しちゃうことも多いのだ。
参ったね!
いっそ、みんなと化け術を練習して、洋服のアレンジが自由にできるようにする?
電子書籍と紙の書籍みたいに、物理的に触れられるものと、自由自在に作れて変えられるものとの差に「ううん」となるかもしれない?
そんときはそんときってことにするか!
足りないなにかと出会ったそのとき、補うなりなんなりしていけばいいってことで!
なにかと難しいもんなあ。
学校の授業にしても、実際のところ、みんなそれぞれでなにがどれくらいわかっていて、どう理解しているか違うじゃない? むしろ同じであることのほうが奇妙じゃない? それに、それぞれの家庭も、過ごしてきた人生も、日常もなにもかもちがうわけじゃない? 集中できるかどうか、その日のコンディションもちがうわけでしょ?
たくさんのぷちと過ごしていると実感するんだけどさ。
むりよ! 一緒にやろうとするほどむりがでるよ! むずかしすぎるのよ!
って、だから、これもまた長い話になっちゃうんだってば。
なので、それはそれとして線を引いたうえで、器を用意して悩みの砂をためておきつつね?
ぷちたちの要求が生じるとき、まず私の目線で「どう達成したらいいか」を考える。この時点で「ぷちの要求」から「私のタスク」に変化している。だから「ぷちの要求」がどういうものかよりも「私のタスク」がどういうものなのかが優先される。ぷちたちの話を聞くことも、どういう要求なのか一緒に考えることもしない。あるいは、省略するか、後回しにしがち。私の認識が上位で、ぷちの認識が下位になるようだと、いよいよやばい。
解決を目指す。自分の主観を主体にして。どんなに客観的に接しようとしても、主観は取り去れない。なんなら自分より未熟なだれかの主観は役に立たないとまで考えたりして。そういう人と接するのは、どういう場面、どういう状況でも、概ね疲れる。勝手にやってくれるならいいんだけど。そういう人に「どうしたらいいんですか?」と聞いたら、きっとぷりぷり怒るんだろうなあ。こどもに対して、こうなっちゃう親も、パートナーに対してこうなっちゃう人も、実はたくさんいるみたい。上司と部下、先輩と後輩、先生と生徒よりはできる生徒としくじってる生徒あたりで、よく起きがち。わかっている自分とわかっていないあいつら、という図式で捉えちゃっているときなんかは、特にそう。いたたた! 自覚があるから刺さるよ!
急ぐほど、主観で取り組もうとするほど、評価をしたくなる。
手段として実際に有効な場面もある、かもしれない! だからなしにはしにくい。
けど。けど。だっけどーもー!
ちょっと待て?
ネガティヴ・ケイパビリティって、なんだったっけ。
主観の存在を認識したままで「ふんふん。それで?」と話を聞いたり「んー、どうしたいかな?」と一緒に考えたりする。答えが浮かんでいても、急いで伝えることもない。解決を目指すんじゃなく、問題に寄り添い、考えてみる。
ところで、この概念。私が知った書籍の著者は精神科医。
私たちは学習する。問題があるとき、それをいかに解決するかを学ぶ。その過程は? 自分たちの手持ちの知識や技術を駆使して、終わらせること。そこには法則を見いだすことさえできそう。けど、法則を探る観察はせずに、私たちは繰り返し、反復して、学習する。
そうじゃなくてね?
自分の手持ちでさっさと片付けようとするんじゃなくってさ。あ、言いようではあるんだけど。
解決を目指すんじゃなくて、相手から学ぶべく寄り添い、共にいるっていう手法はどうかな?
我が先行する。たぶん、これは無意識にそうなりがちだという話か、傾向があるという話かで、観察の精度を助けているのか、邪魔しているのか、自分たちが思うより認識できないのだと感じる。
なので、意識して自分の知識や技術を活用するフェーズがあっていいのなら? それらは一旦おいといて、問題と一緒に過ごし、観察し、学び、情報を摂取してもぐもぐと味わうフェーズもあっていいはずだ。
仮に問題と自分が一対一のときなら、自分の知識や技術を試すフェーズがあっていいのなら? だれかの知識や技術を試すフェーズがあっていいはずだし。
そうじゃなくてだれかがいて、そのだれかが問題と接していて、そこに自分が関わるときなら? 自分の知識や技術を試すフェーズの優先度をあげる? その必要はないぞと立ち止まれる? 立ち止まれない、ないし、その必要を感じないのはなぜ?
単純に、その人といて、その人への感情に刺激されない? あるいは左右されない?
きらいな人から延々と「こういう問題がある。任せた」とか「進捗どうなの」とか言われたら? 内心で「お前の問題やろ!」と思ってもね。きらいな人から延々と言われるものだから、それってめちゃくちゃストレスだから、さっさと片付けるか、放り出したくなる。
弁護士もののドラマでSUITSが好きだ。
主人公のマイクは正義感を持って仕事に当たろうとするし、依頼人の言葉を真実として信じてことに当たる。対してマイクの経歴をちょちょっとごまかして引き入れたハービーは? 弁護士界のメジャーリーガーを自負する凄腕の彼はというと、ちがう。依頼人の主張、相手方の主張、相手方の弁護士の主張、それぞれを別個に認識したうえで、まずは自分、続いて事務所、その次に依頼人の利益を重視して行動する。彼にとっては利益を優先し、真実はそのために利用するべきものだった。
こんなふたりの凸凹具合がいいんだ。
ところで弁護士ものでも検事ものでも、自分の勝利を優先する人がいると?
裁判は彼らにとっての舞台になる。
SUITSだけじゃない。BULLでも起きる。
というか法曹に関わらず、あらゆる場面で起こりえる。ボッシュでも、クリミナル・マインドでも、NCISでも。ビッグバンセオリーだって、イカゲームだって。海外ドラマ好きだけど、日本のドラマでもよくあるし、使える文脈なのかなーとも思うのだけど。
自分の利益、自分の目的。
裁判なら、真実に根ざした対応か。はたまた仕事として挑む自分の利益か。基本的には自分の利益と結びつく依頼人の利益か。
しかし真実とはなんだ。
どうやって証明を?
BULLの面白さを支えるブルの会社の能力に「調査・分析」がある。依頼人、相手方について徹底的に調べる。ブルはよく、こう述べる。「依頼人は嘘を吐く」と。そもそも人は嘘を吐くことがあるのだけど、あえて依頼人とするところに注意喚起の目的がある。そこがいい。
自分たちの労力を最大限に活用して、依頼人を含め、裁判に関わる人ぜんいんに対する理解に努める。だから依頼人が不愉快なことをしでかす人物であると判明する場合もあるし、彼らの嘘によって敗訴になり会社が危険に曝されることを事前に防ごうともする。
依頼料の着手金だけで十分な報酬を毎度のように得られるとは限らないから。
実際、わからない。
それは刑事事件における警察も、警察の調査をアテにする検察も一緒。
ブルの会社で働く元検事で現在は弁護士として活躍する、ブルの大親友が、かつて検察時代に関わった事件で無実の人を冤罪で刑務所に送ってしまった疑惑に気づき、奮闘する回がある。つまり、無実の人の弁護に立って、警察の無茶な捜査を立証するのだ。
警察は警察で、いろんな人と接する。自分が軽蔑する社会的属性の人と接する機会さえある。ボッシュにおいては、ボッシュがいい仲になる女性警官が、まさにそんなノリ。自分の失敗を一般人に押しつけて、前歴があるしろくでなしだと頭から決めつけることで罪を免れようとした。
ブルにおける警察のでっちあげを行なった刑事もそうだ。街に溢れる薬物所持者、彼らに違法な薬物をこっそり販売する売人、そして売人たちを束ねて金を儲けるのみならず他の組織と揉める連中。薬物依存とその治療が社会保障であり、就学、十分な報酬の得られる就労であり、そこでの差別があるほど妨げになるのだとして、それらは警察の仕事じゃないし、改善は果てしなく長い道のりを想起させるくらい、現状が長く続いている。だから、結局のところ、警察として働くのなら、定年退職まで彼らとずーっとお付き合いすることになる。たまに暴行事件が起きて、たまに死傷事件に発展し、たまに無惨な現場にまで繋がるし、おまけに一般市民からやり玉にあげられ続ける。ずーっとずーっと、仕事を辞めるまで、その繰り返し。貧困も、労働環境の改善も、警察の仕事じゃない。そして弱さはさらに弱いなにかへの攻撃を求めることがあるから? 社会構造にみる下水のような、ろくでもない感情の下流に起きる出来事をまざまざと見せつけられることさえ、ときには存在するだろう。
その汚水に気づいてしまった警官として、渋く働くのがボッシュだし、必要なら必要なだけ力を行使するけど線引きを心がけて平穏を守るのが犯罪都市のおっちゃんだ。
すごいことっぽく感じてるし、そう述べているけど、でも、そのあたりにはけっこう自覚的に過ごしている人、多いんじゃないかな? イカゲームのみんなもそうだったし。そうでなくても、考えてみると、わりと自明の理だと思うわけ。
で、そういう汚水の処理は、とか。自分がまみれたときの対応は、とか。
そこでの「摩耗」に魂が磨り減っていく感覚に対して、ボッシュは作品の良心である博士と何度か会話するシーンがある。象徴的な場面で、ふたりは語る。仕事を通じて、否が応でも人の悪意に触れる。あるいは悪意に苛まれて、苦しみ続けた人の末期に触れる。無惨な亡骸となった彼らと、彼らを追いやる状況。調べれば調べるほど、うんざりする場面と遭遇する。
悩みの砂がたまっていく。
その解決ないし、ストレス解消や、八つ当たりとして、さらに弱いなにかや、都合のいいなにかを利用するところが人にはある。あらゆる人に存在する振る舞いだ。
だから、砂がもこもこ膨らんで巨人になって、地面を叩き、あいつらを殴れ、あいつらに暴言をと求めてくるとき、そっとなだめて、砂に戻す。きっと、うまくいくのあーる・いーず・うぇーる! だって、そうした状況に向けての呪文になる。
ただ、問題が生じるとき、あるいはだれかに甘えられたり相談されたりするとき、ついつい悩みの砂の吐きどころに利用しちゃうことがある。
これはかなり無意識に、かつ反射的に行なっちゃう部分で、だからこそ当たり前すぎて気づきにくいところ。人によっては。私? かなり気づけてないほう。
あのさ。
悩みの砂の発生源って悩ましくてさ。
家族かもしれない。ともだちかもしれないし、赤の他人かもしれない。学校のクラスメイトかもしれないし、学校の先生かもしれない。それになにより、自分かもしれない。引き金がだれかだとして、その後の刺激要因が同じ人であり続けるわけでもなければ、ひとりとも限らない。
加工して、とっとと捨てたくなることさえある。
たとえば悩みの砂だけじゃなくて、汚水が混じってドロドロになって、自分の心に堆積しているように感じていたら? 捨てる機会を求める。無自覚に、無意識に。あるいは意識して、自覚的に。
ボッシュで市民にやらかしの罪を着せようとした人は、花形の弁護士生活を辞めて、刑事を目指して警察にきた。けど男社会だ。しかもクソッタレの男性至上主義者たちもいて、彼らの嫌がらせは度を超している。そもそも軽度な嫌がらせだって、やめろ? って話だ。連中によってボッシュの上司は、警察手帳の顔を別の女性のヌードと組み合わせて加工してネットに流されたり、車のバックミラーに卑猥な中傷を白いペンキで描かれたりした。おまけに上司の画策で、ワイロを要求した罪をでっち上げられて、仕事を失いかけたりもした。
根が深いんだ。悩みの砂の発生源はそこら中にある。自分がだいじょうぶでも、だれかにとってはちっともだいじょうぶじゃないこともある。そして痛みを感じるとき、その痛みは和らげて、治し、なくしていくもの。周囲がそんなのてめえでどうにかしろやと圧をかけてくるのなら、ますます、さらに弱いなにか、好機は逃せず、吐きだしてしまう。
そういうときほど、声高に正義を利用してしまう。それが、単純に怖い。正義を利用して暴力を振るう可能性が、怖い。
ボッシュもおっちゃんも、めちゃめちゃ自覚的で、自省について意識できる人だ。
SUITSだとマイクもハービーも、そのへん最初は全然だ。シーズンが進んでいく過程で自覚的になっていく。年長者でやり手で、多くを乗り越えてきたハービーのほうがずっと自覚的。
ついついこういうときの話で、おとなという概念を使いそうになる。
けど、そういうときのおとなの概念って、ものすっっっっっごく! 都合がよくない?
なんでもできるの。絶対に寄り添ってくれるの。すっごく褒めてくれるの。
あるいは、その逆。
できない状態を肯定するの。絶対に寄り添ってくれるの。あいつが悪いって一緒に言ってくれるの。
そういう自分を相手に必死になっちゃうのか。
はたまた、砂の巨人は挨拶してなだめておとなしく砂に戻ってもらって、目の前にいる人や、問題に取りかかるのか。
言葉にして整理すると、後者はなんだかできそうな気がする。当たり前な気さえする。
けど実際にはけっこうむずかしい。
朝の電車がぴりつくわけだね? 祝日前の夜の電車がちょっとうきうきするわけだ。ライブ会場に集まる人たちの顔の華やぐわけも。真夜中の居酒屋まわりのはしゃぐ雰囲気も。
病院に行ったときに感じたよ? 緊張してる空気。
なーんか、たいへんだ!
しょっちゅう「わー」となるよ?
そりゃあ、ねえ?
もしも~。わたしが~。鳥に~、なったら~。
空から~。うんちを~。落とすのでしょう~。
そうして生きていくのだよ、まる!
『長々と整理をつけているところすまんが、鳥居についたぞ?』
だね!
うっし!
それじゃあ帰ってぷちたちとめいっぱい過ごして!
遊園地ゲット作戦の計画立案といくかー!
つづく!




