第千七百八十六話
良心に従い、善良に暮らし、気高く生きて教会で語る牧師さま。
思えばどんなに孤独に陥っても、教会に足を運び、話せる人が絶対にいる。
その安心は計り知れないものがある。
胸に勇気を育てるために、人には居場所が必要だ。
言うは易く行うは難し。
カナタを見ていると、ぷちたちを見ていると、否が応でも痛感する。
無力を学ぶことがある。
たとえ望まなくてもね。
どれほど拒絶したくても、学んでしまうことがある。
言ってもなにも、変わらないのだと。
ぷちたちが、私に言っても変わらないと学ぶ。ぷちたちが求める関係性を、私にどれほど訴えても得られないのだと経験を重ねるほど、学んでしまう。
カナタが、シュウさんが、コバトちゃんが、それぞれにサクラさんが戻ってきてほしいと、お母さんと一緒に過ごしたいのだと、そう言っても戻らない無力にさえ、学んでしまう。
根が深いんだ。とても。
人は効率化を求める。
かかる負荷の軽減を求めて。
無力にさえ、そういう側面があるのでは。
仮に、そうだとしたら?
世の中はあまりにもむごくて、残酷で、痛みに満ちあふれている。
もし人を無能だと、愚かだと述べる人がいるのなら、その人は知らないのだろう。想像したことさえないのだろう。その必要がないか、あるいは痛みにもがき苦しんで目を逸らしているのだろう。
なにもできない状況に、その解決が困難なほど、私たちは無力に抗わないよう学んでしまう。
そうして起きてしまう。いつの日か、なんでこんなことがと嘆くような出来事が。
どんどん、こういうものだと受け入れてしまう。
だからね?
まちがっている。
学ぶだなんて。
ほんとのところは、ちがう。
諦めていくんだ。
ただ、諦めていく。
諦めることが増えていく。
それは空気に溶けて、私たちを息苦しくする。すこしずつ、すこしずつ。
のみならず、身体を重たくする。疲れさせていく。じっくりと。じわじわと。
諦めが増えるたびに鈍感になっていく? ちがう。熱くてとても入っていられないお湯からでることができず、のぼせていく。湯船は世界。抜け出る方法は、もはや死ぬことしかない。そう、思わされる。
それくらい、私たちはちがう温度を生きている。
めまぐるしく変化する温度の中で、我慢比べをしながら過ごしている。
完璧でも万全でもない。そんなものはない。
ましてや個人の努力などでは到底、抵抗しがたい社会に私たちは生きている。
だから、摩耗していく。
抗う人ほど、すり切れていく。
だれかの無力や配慮のなさ、勝手で雑な振る舞いに対して無能だと、愚かだと言いたくなる。最初は。
次に経験を重ねていくと、学んでしまうと、やがて気づく。そもそも人って、なんなのか。どの程度の限界があって、その限界に対してどのように接しているか。
それでも解決を求め、抗うとき、ふと気づいてしまう。
諦めてしまったことの重さは、どれほどか。
その重さを軽減する術など、ないのではないか。
そんな問いに気づいてしまう。
緋迎さんちなら、家にたまる埃のように。ぷちたちなら、目を逸らして遊べることに向かっていく私の背中に。自分たちではないと。私が視界にいれたいのは、私の求めることだけなのだと。じゃあ私はどうかというと、どこに目を向ければいいか、諦めたくないのかどうか、そもそも私はなんなのかさえ感じ取れないほどの日常の積み重ねから。
気づいてしまう。
増えていくことに。
それはどうやら、一朝一夕には解決できず、死ぬまで綱引きをするように付きあわなきゃいけないのだと。
気づいてしまう。
そしてある日、問いかける。
この無力を感じていたいのか。諦めてしまえ。どうにもならないことが、世の中にはあるのだと。
痛みと無力しかないのだから。
変えられないのだから。
諦めてしまえと。
いやでいやでたまらないのに。
諦めるとき、許せないことを覆う。許せないことが蓄積していく。
心の矢印を自分か、自分以外のなにかに向けて貯めこんでいくと?
どちらにせよ、暴力へと向かっていく。
だれかを傷つけるか、あるいは自分を傷つけるか。その先になにが待つかは想像に難くない。
だからね?
楽しいことは大事だ。
湯船の温度を下げる手段がいくらでも欲しい。
けど温度があがる理由に、過去にだれかが無力感をあたえて、諦めさせたことが積み重なっていたら? もはやだれかを頼ることも、信じることも、その勇気を持てず、期待どころかダメージしか想像できない状況に陥っていたら?
そのとき、アディクションへと向かう。
生きるため、居るため、傷つけないために、必要だから繰り返す。
ただね? もちろん、間に合わないんだ。
諦めてきたことが多いほど。無力に苛まれていることが多いほど。
抱えてきた時間が長いほど。
間に合わない。
どんどん過剰になって、結局は自分を傷つけるか、だれかを傷つける。
痛みは連鎖する。無力もそう。諦めさえ、そう。
知らずに生きていけたらいい。そう居ることができたらいい。けど、そうして過ごせるときほど、無力に諦め苦しんでいる人を平気で踏みつける。自覚さえなくね。
そうしてずっとずっと、続いていくの。
それはなかなかたいへん。
憂さ晴らしをしたい。
自分は無力ではないと証明したくなることさえある。
それで、弱さをなかったことにするべく、さらに弱いものを攻撃することさえある。
守るべきものがあるとき。
自分の幸せが、秤にかけられたとき。
だれかの不幸よりも優先するとして、暴力が選択されることもざらにある。
ずっと否定している。結局のところ、合理的じゃない。分別智として、ね。否定するだけの根拠がやまほどある。
けれど心はこわがりで、人それぞれに無力と諦めを抱えているものだからさ。
永遠に、すれ違い続ける。
それほどまでに無力も、諦めも、私たちを強く支配している。
小ずるい人がそこを利用して儲けようとさえする。だれかの背中を踏みつけて、蹴り飛ばして、必死に儲けを得ようとする。そうしてうそぶくのだ。こういうものだ、これが賢さなのだと、必死になって、無力じゃないと威嚇する。
その必要のない者が必死さとも無力の否定も、その術を知らずに振る舞う。けれど、知ったときに備えがあるということではない。彼らもまた同じように狼狽え、苦しみ、参加する。運よくぬるま湯から脱していたとして、一度でも脅かされると、無力と諦めへの恐怖にたやすく支配される。
過剰な話だね?
こんなのはさ。
無関係でいられたら。諦めや無力なんて、遠くに追いやれればいい。
この枠組みの中では、遠ざけて、排除してしまえれば、それが正しさなのかもしれない。枠組みの中で過ごせないことは能力がなくて、愚かで、それを誹ることで自分たちはだいじょうぶなのだと慰撫しているのかもしれない。自覚さえないままに。
やっぱり、過剰な話だね?
諦めの重さのぶんだけ、こうした過剰さにさえ参ってしまう。
無力も含めて、それでもまだ身軽でいられたとき、距離を置けるときほど、意外と手があることに気づきやすくなるし? 参ってしまうほど、気づけなくなったり、知っていて頼れなくなる。
ただ一心に歩いているときみたい。
目的地は遠く、たどりつくためには歩き続けなくてはならない。
そのつらさに参り、目的地につかなければと強迫観念に苛まれたとき、道の途中にあるコンビニさえ目に入らなくなるの。イメージ湧きにくい? でも、それくらい視野が狭まっちゃうの。おまけにね? ろくにお金がなかったりするの。
歩いているのは自分だけじゃない。だから商品が売り切れていたり、ATMに長蛇の列ができていたりする。
加えていうと、コンビニがコンビニの顔をしていないことさえある。いちいち探りながら歩く余裕なんてないまま、歩き続ける。そんなのはだめだと、お店に入って確かめようとすると、今度は強く非難されたり、暴力を伴う形で追い出されたりする。
ますます無力を思い知らされて、諦めることが増えてしまう。
安心できる人も、安全な場所もない。気づけない。知らない。だれかに教えられても、信用できない。仮にまっとうな場所があるとしても、まず自分を信じられない、許せない。そうして、袋小路に追いつめられていく。
ひどい目に遭ってばかりきて、怯えた犬を連れてきたとして、彼に「ここは安全だよ」と言って済ませられるのは、言葉を掛ける側だけ。犬が「ここは安全かもしれない」と思えるまでには長い時間も、必要な段階もやまほどあるだろうし、やっとクリアできるまでの長い長い間を犬は強い不安や恐怖、無力と諦めの中で過ごす。
だれの心の中にも、彼のような犬がいる。
知るのも気づくのも限界で、怯えと怒りで奮いたたせて吠える。吠えることに縋ることさえある。もはや吠えることしかできないくらい、摩耗している。そんな状況、よくある話だとして、それで済ませていいことでは断じてない。
断じてないけど、犬がどこかで遠吠えをはじめると、聞きつけた他の犬たちもまた遠吠えをはじめる。心の中の無力と諦めが刺激されて、自分の心の犬さえ吠え出そうとするから、なだめるために「怒りをぶつけやすいものに怒る」し「いきりやすいものへといきる」のだとして。
ねえ。
私たちはどうすればいいのかな?
無力も、諦めも、燃料をためるところに入ってきて、場所を取るの。
おかげで一日にためられる燃料がどんどん減っちゃうの。
もー。
あー。
わー!
って、なるの。
こういうときへの歌もたくさんあるよね。
名曲を並べると、そうだなあ。笑えれば、とか。上を向いて歩こう、とか?
人生わーっていうときに向けた歌よりも、恋とか愛とか、もっとピンポイントな歌誌のほうが多いような。古今和歌集や後拾遺和歌集、詞花和歌集にみる恋の歌とかね。
学校、仕事、うちの話とか。
そういうんじゃなくて、ひと肌こいしーとか。
触れることが持つ力と、だからこその忌避感と、人が人に触れることの意味と、そこにある切実さや、切実になるまでにあったろう数えきれない諦めや無力とか。
仮に人が愛着という接続を求めて出会いにエネルギーを注ぐのなら「さみしくて愛しくてキミのこと思うよ」って歌う人の声がしみるのはなんでなんだろう。
おばあちゃんがね? 好きなの。ユーミン。さみしくてだったかな。さびしくて、だったかな。一文字で変わる響きの切実さってあるよなあ。「もう二度と会えなくてもともだちと呼ばせて」って願い、心の無力と諦めにあいさつをして、荒ぶる気持ちをそっとなだめて、またねと別れるための作法として、そういうの、あるよね。
歌詞がエモさで押し切るとき、それを現実でだれかに言っちゃうのはけっこう問題。なにかあって、いろんな人に声を掛けられる立場になると、言う人にとってのエモさは聞く人にとっての暴力に変わる。そういうことがある。自分の心のなだめかた、つらさとの挨拶の仕方は、だれかに向けてかける言葉としては、ね。きついものがある。
ひとりで、しんみり聞くのがいいときがあるし?
好きな人とふたりで、カラオケとか、おうちとかで、しみじみ口ずさむのがいいときもある。
芸人さんでさ? 一目で「あ、こういう人!?」って思えるタイプの人がいるじゃない? やっばいおじさんをやらせたらばっちし! みたいな人もいれば、コントでだめな人やったらピカイチ! みたいな人もいてさ。
そういうノリで、聞いてしみじみする歌声があってさ?
おばあちゃんが好きだから聞いて、それでハマったけど。魔女宅のルージュの伝言つながりでもあるし。なんか、なんていうんだろ。心のママみたいな歌声してません?
深くて包容力のある、そんな響きを感じるんだ。
なら、無力や諦めの響きはどんなものなんだろう。
次に、そういうときに安らげる響きって、どんなものなのかな?
わかんないなあ。
うちはさ? 私もトウヤも、泣いたり、わーってなると、お母さんやお父さんがハグしてくれた。昔の私たちにとっては、それが当たり前だった。けどじゃあ、私やトウヤが限界きたら、なにも考えずにひとまずハグっていう流れだったのかどうか、うちの親目線だとどうなのかがわからない。
なぞだ。
圧力を逃がしたい。いまの自分からしてみれば、当時のうちの親にとっても程度の差はあれ同じだったと思うのだ。たくさんのぷちたちが、わーとか、ぎゃーとかなると、私も合わせてわーとか、ぎゃーとかなるわけで。
コメディ映画なら、顔を見あわせたふたりが「あああああああ!」って叫んでるような、お決まりのアレ。
もうね? たいへんだ。
名盤の流れでいくとビートルズの「That's All Right」で、ままーって歌うじゃん。だいじょぶ、ただね? ママの愛が必要さって。まあ、だいたいそんなノリで。
イマジナリーママみたいなの、いる? そのイマジナリーママは自分を安心させてくれる? 安全なほうへと導いてくれる? あるいは、自分で向かっていくための勇気をくれる?
どうだろ。
イマジナリーママと現実のお母さんが組み合わさっていて、同一人物になっていて、かつ現実のお母さんがろくでもないなんて人も世の中には、そりゃあごまんといるだろう。
そこまでじゃなくても、ああこういうところが合わないなあ、しんどいなあってケースはあると思うんだ。ママについて考える人も、その人のママ自身もね。
なので、いったん別にして、分けて、思い描けるかな。
どうだろ。
ただね? 理想のママをつくって、現実のママと比べて、現実のママにあれこれ言いだすと、話がこじれるだけだよね。
理想と現実を比べて、現実に対して文句をいったり、圧をかけたりしても、ね?
なかなかうまくいかないじゃない?
で、あれこれ右往左往したりさ。あるいは、そもそも現実で人によっては最低すぎて、無力と諦めで心がいっぱいになっちゃって、過ごすのがつらすぎることさえあり得るとき。
心のよりどころとして、なにをつくるのか。なにを思い描くのか。
それは達成したい目標かもしれない。
ベルセルクのグリフィスは、お城だった。そのために自分が率いてきた団員たちみんなを生け贄として捧げた結果、怪物たちの殺戮が始まった。
そういうんじゃなく、たとえば就きたいポスト、なりたい立場を目指して汚職に手を染めたり、加担したり、見ない振りをして、主人公に倍返しを食らう半沢直樹シリーズみたいなのもある。
自分の利益のためにだれかに犠牲を強いる。人の規模を増やして国家に入れ替えると、シンゴジラで覇道として表現されるし、ヤシオリ作戦か核攻撃かっていうジャッジが迫る中、総理大臣は人徳による王道をいくべきかなーって返してた。
フィクションではよくよく描かれる。だれかに犠牲を強いて、自分の利益を得るか、保つ。
それは自分の無力や諦めをごまかすという、ささやかな利益のためかもしれない。あるいはお金と立場のために、幼いこどもや妊婦がいるマンションに火をつけて、住民たちに立ち退きを迫り、開発計画と理想的な運用を進めることかもしれない。ちなみにいまのはボッシュのシーズン7の事件ね。
規模を変えて、内訳を変えると、現実でよくある話になる。
フィクションだと、商売上の計算も判断ももちろん入るとして、それでも描くことがある。ときにそれは猟奇的だったり、淫猥だったり猥雑だったりする。世の中さがせば負けじとえぐい事件はいまでも起きている。そのとき表現は? なんて話も定期的にブチ上がる。
けど、そっちのテーマは本題じゃないので、さておくとして。
ボッシュだとね? 十四才のこどもを使った美人局をやっている奴らがいた。地域によっては、こどもが路上に立つことさえある。買う者がいなければ、という理屈は通らず。人身売買組織の人間がこどもを殺して、お母さんが薬物依存になった。十年以上のときを経てボッシュがお母さんと出会い、事件を明らかにして犯人を捕まえるが刑罰はくだされない。組織の情報を売ることで犯人は司法取引をしたからだ。刑期はぐっと軽くなる。
組織は潰せた。捕まっている少女たちも救助できた。検察はそれでよしとするしかないとボッシュに訴える。彼は納得できない。少女を殺した男に、正当な裁きはくだされない。しかし彼の立場でできることは、もはやない。警察を訪ねてきたお母さんに事実を告げたその夜、ボッシュが彼女の家を訪ねると、お母さんは自殺していた。
詳しく述べるとこんな流れ。
利益はお金か、居るためか、生きるため。安全や、安心。
犠牲を強いるのは、だれか。あるいは、自分。それか、自分よりもさらに弱いもの。
夕暮れに叩いて、ブルースが加速していきそうだ。ブルハのトレイントレインね?
あるよなー。
あるあるだ。
半沢とか書いてる人の映画だと、悪党や小悪党は、だいたい自分より弱い者を攻撃してる。
自分の利益のために、だれかに犠牲を強いるという、覇道の定義。
いいのかな?
これまで整理してきたことから踏まえると覇道の定義がこれじゃあ、利益を得る人の樹に一時的に栄養を集めて、周囲を枯らせて、とうとうその樹も枯れるたぐいのアプローチ。
いっちゃなんだけど、先細りする。
自分が死ぬまで維持できればいいのかな? 自分がいる間さえ維持できれば、それでいいの?
よくないけど、他に手がないからドヤって言ってるだけなのでは?
心の犬も、自分の中にいるこどもも、ろくに対応できない人の言い分に過ぎないのでは。
わー。
これ全部、私へのブーメラン。
えぐいくらい、心を刺す。殴るし蹴る。楽にはならない。
ただただ、無力を知り、気づいて、諦めそうになる。
これでいいやって、先なんか考えてこなかった。
どこかであったんだろうなー。できないのがだめ! って感覚が。
その感覚は、私を苦しめこそすれど、傷つけてばかりきたけれど、一度も救いにならなかったし? 私の接するだれかも一緒。ぷちたちと接して痛感するばかりだ。
むりむり!
いーっさい! 役に立たないから!
自分を育てるときも一緒。
いまのところねー。
トイレットペーパーのほうが何億倍も役に立つ。
覇道はどーって言ってる間はね?
自分に対して、トイレットペーパーよりも救いがない。
なので!
ぷちたちが、わーとか、ぎゃーとかなると?
私も、わーとか、ぎゃーとかなる。
昔にさかのぼるほど、こどもを叩く、殴る、怒鳴る、鞭で打つ、狭い場所に閉じ込める、寒い外に追い出してしばらく家に入れないなどが「しつけ」とされてきた。人と人、うまく回らないときの暴力たちと、それにラベルをつけた覇道は、なんてことはない。
できないから。弱い者を叩く。ただ、それだけのことだ。
ただそれだけのことが、連鎖して、ねずみ算式に増やしていく。
無力や諦めを抱える人を。時間をかけて、次々と。
で。
あかんぜよ、と。
変わっていっている、真っ最中。
おーいいねーって思うことも、いやいやそれはどうなのよってことも。人によって、いろいろと。
海外のコミックスが率先して時代に新たに広まっていくことをキャッチして、いま勇気がほしい人たちみんなの味方でありつづけようとする、という文脈で私は見ている。
ヒーローって、だってそうじゃん。
勇気がほしい人の味方と、勇気がほしい人。
もしも雑に安易にふたつに分けるなら?
こうなるじゃん。
けど「世の中、そういう人たちとか概念とかができたら、即座に媚びたり、配慮してみせてるっていうポーズをとっているに過ぎないでしょ」って冷笑しながら「作品としてきちんと表現してみせろやー」って捉えている人たちもいる。その中にはかつて、自分の無力や諦めを暴力的に刺激してくる人たちと同じ顔して「けっきょくどうせ、自分たちに都合のいいもん欲しがってるだけっしょ」と言ってるだけの人もいる。
ほんと、嘆かわしい。
偉そうなことは言えないけどね。
そう読み取るまでに、えらく時間がかかった。
こわかったもんなあ。
勇気が出なかった。
無力も、諦めもあった。
私はなにもできなかった。失敗のほうが、痛く、苦く、心に残っている。
私の犬は吠えている。
疲れたら、鼻を鳴らしている。
勇気がほしい。
でも勇気の前に、安心したい。
ただ、これだと噛みあわないか、いまはまだ手段を知らない状況が多すぎる。
陰陽じゃないけどさ。
どっちもほしい。
どっちもだいじ。
恋愛物には人同士の王道があって、戦闘物や戦争物には武と武の覇道がある。
どちらかに偏るわけじゃない。比率の問題でもある。日常にはどっちもあるものだから。
ただいまは恋愛物のほうが傾向のある人同士の王道のほうが、鍵。
乱世なら後者によるけど、ずっとは続かないし、続けられない。そして結局、殴る蹴るより頭で稼ぐ人のほうが強くなっていく。ひとまず、いまのところはね。
もしかすると、心のどこかに憧れがあるのかな。
殴って蹴って、刀で脅して、それでまわることに。無力とも諦めとも、一見すると遠く感じるかな。
だけど、実のところは真逆。
遠ざかっていく。
ただただ。
シンプルな話、強迫がそこにある限り、安心からも安全からも遠ざかる。
だけど雄ライオンになりたい人は多いのかもしれない。
狩りをするメスライオンたちのハーレムにて、行動する。手に入れれば、それで終わり?
まさか!
次の雄ライオンを遠ざけて、こどもを作って、繰り返す。
やがて負けて殺されるか、追い出されて弱った身体で死ぬか、弱った肉食獣を狙う生きものに殺されるか。ろくなもんじゃない。そんな生き方に、憧れる人は多いのかもしれない。
私?
やだなー。
あったかいベッド、やさしくて腕のある人たちの心溢れる対応と医療の現場で、祝福されながら死に向かっていきたいよ?
遊びたいし楽しみたいし、旅行もしたいし、たまには羽目も外したいし、おいしいものやまほど食べたいし、世界中のどこでも安心して行きたいよ?
争ってたら無理でしょ。
できないことが増えていくんだもの。
なんでかってさ?
ゆるぅく依存を増やして繋げていきながら、できることを増やしてるんだから。つらいことをなくしていくんだからさ?
争ってたら無理でしょ。
ライオンの生き方じゃだめなんだよ。
単純な話でさ。
日常のバトルは戦場よりも長くてしんどいぞー? 戦場とは別ベクトルの消耗が待ち構えてるぞー? まず自分との付きあいが大変だぞー?
合わない人とは絡まないで済ませたいし、合う人とはほどよく楽しく遊びたいじゃない?
となれば?
日常と戦場のどっちもは?
むり!
むりーっ!
ぜったい、むり!
リアルに寄せれば寄せるほど日常のままならなさが入ってくる。だから映画ヒートがめっちゃ好きなんだけど! 現実しんどい、リアルむりってなってるときは? 見れない! まーむり! 戦場どかすか、人がばんばん倒れてくアクション映画で? よし!
いまの自分、明日の自分、昨日の自分、それぞれにちがう。みたいもの、みられるもの。
合わなくなっていくと、自然と離れる。
いちいちそのとき、ちがう自分やいまの自分にマウントとったり、無力や諦めをごまかす暴力を使うこともない。だれかを相手にするなら? むしろ、口に入った苦いものは、流しにぺっとして、おいしいジュースかなにか飲んだほうがいい。ほっとくと、白湯までまずく感じるくらい、おかしくなっちゃうから。
そう考えると、お笑いってすごい。いろんな作品がわーってあるの、すっごく助かる!
だからこそ記号化、象徴化が進むほど、アイコンになっていくほど、それに出会ったときの自分がそれに合わないときのつらさは覚えておきたい。みんなが盛りあがってるとき、自分が「んー」って微妙に思ってるときの感覚は、忘れずにいたい。こどもが走っていて転んだときの「あっ」とあわてるときくらい、だれかが無理なアイコンに出会ってしんどそうにしてる場面に「わっ」とあわてそうなものだけど、これには鈍感になっちゃうことがある。
ままならない。
ところで!
なんでこんな辛気くさい話をしているか、なんだけどさ。
「うううう」
お風呂上がりの私たちの布団に寝巻き姿で座ってさ?
私のうしろで、未練がましく私の尻尾を梳いてるカナタさんから漂う「今夜は!? ねえ!」というオーラがね?
ものすごい。
けど、なー。
んー。
約束はしたけど、気分じゃない!
そういうときは、ほどほどに。
それが今夜の約束よりも強いルール。
自分の喜びのために、だれかに我慢を。
ただそれだけだと、一見して噛みあわないこともある。
私の心に緊張が。カナタの心に欲が。それは噛みあわないもの。
ファッション雑誌のこどもから老齢の方まで、一問一答! みたいな動画にね? ふたりの長続きの秘訣は? というテーマがあってさ。
ユーモアだね、と答える方が、年を重ねるほど増えていくの。
あれ、いえてる。
嘘は? なし。
無理矢理も? もちろん、だめ。
そうじゃなくて、無力でも、諦めでもなく、緊張を緩和させる手段がほしいね?
その話をしたんだけどね?
「俺……じょうだん、苦手!」
こんな感じで、おれさまおまえ丸かじり構文くらいの残念さで、カナタさんはユーモアを考えている。ずっと。
寄り添ってくれていると私は感じている。
なんならずいぶんゆるんでる。
ただ、これだけのことに参っちゃって、やまほどあれこれ考えて悩んじゃうくらいには、私の緊張は手強い。ひとりじゃまだ、立ち向かえない。
尻尾を梳いてもらえるのが気持ちいい。とてもリラックスできる。
「それなら最近あったこと、教えてよ」
気持ちのやわらぐ方向が見えているのなら、一歩。
勇気のハードルを下げて、ゆっくりと。
今夜は微かに見えている。
淡く光る星を目指して、おまぬけ顔で冗談を考えてくれるから、カナタの心の犬と私は過ごせている。
私は牧師さまじゃない。
教会に通った経験もない。
神社も、お寺も、そう。熱心に通って、歩き回って、御朱印を集めたこともない。
ただ、そんな私が雑に思うのは。
まず罰が、という話じゃなく。
どんな人も必ず見守っている神さまがいるよ、とするか。あるいは、どんな罪があろうと絶対に浄土にいけるよ、とするか。
どちらも、そこから王道へと、人に寄り添い、促そうとしているんじゃないかな。
王の道とは即ち、人の道。
これほどふわっと、すべてを包摂していそうなことばもない。
それはエモさと同じで、自分の心の犬が吠えて、鳴いて、うなるときになだめる術。
心が楽になる、そっちにみんなと向かうことをするんだよ?
しんきくさぁい意味じゃなく。
「ぷちたちと一緒に遊べた?」
「ああ、それがさ」
櫛で尻尾を梳きながら、饒舌に語る。
いますぐできないことが多すぎる。万全でも完璧でもない、という言葉によって心の犬が暴れる度合いさえ、大きく異なる。
目的の達成までの距離も、求める段階も。
まあ、でも、解決を望むとき、あとはいかに継続し、いずれ掴むかどうかに話は移る。
ひとりより、ふたり。ふたりより、三人四人。もっともっと。
強固にがっつり、ともだち大勢! じゃなくて、ゆるぅくふわっと大勢で、くらいでいいんじゃないかな? まずは。実際、そうなってるし。
なので負荷も、無力も、諦めも、それぜんぶ、ゆるぅくふわっとたくさんに、くらいを目指そう。ひとつにがっつり強く、精鋭で! とか、効率的な最適解で! とかじゃなくね。
みんなで、わーっと。
ライブ、最高だった。
みんなの時間が、エネルギーが、わーっと集まるから。
みんなでがーっと発散するから。
ただ、あれはけっこう大変だ。やる私たちも、スケジュールを調整して、現地に集まってくれる人たちも。みーんな、けっこう大変!
もっとゆるくできないかな?
私の金色、私だけじゃなくて、もっとみんなでなにかできないかな。
そんなアプローチがいいな。
今夜に関していえばね?
ふたりで和む話をして、リラックスしたら?
ようやく忘れられるとき、ふたりでくっついて、たっぷりあまあまできればいっかな!
しんどい無力や諦めに苛まれるひとりに出会ったとき、みんなでもっと楽ちんな安心と安全をお届けする! っていうのが、理想ライン。具体的な状況に、具体的な手段を思い描くには?
経験値が足りない! 手段も知識も必要だ!
それには時間がいるし?
心の犬が気ままに過ごせることが大事。
ライオンの生き方じゃあ、届かない。
けど、うちにはある。学校のみんなといる時間にだって、それはちゃんとある。
ぷちたちといるときにも。
カナタといるときだって。
もちろん、ちゃんと、ある。
だいじょうぶ。
きっと、うまくいくよ。
心の犬が「だいじょぶ? ほんとに?」と怯えた顔で見あげてくるから、そっと挨拶をして、頭を撫でて、あったかい毛布のある寝床に連れていく。背中を撫でて、寝るのを見守る。
できる。今夜は、ひとまず。
だいぶ長い夜になったけど!
ま!
ひとまず、そんなノリで言わせてね?
おやすみなさいって。
つづく!




