第千七百八十話
悔しくはないけれど、でも縁が多くて広くて羨ましい人っている。
満月日和によって、それは青澄春灯をおいて他にない。しばらく彼女が頂点。
世の中ひろいから、彼女よりすごく顔が広い人もたくさんいる。私の世界が狭い。年相応だとは思うけど。夜は飯屋先生から組織に言伝と荷物を預かり、渋谷に向かう。
電車の中で考える。
ひとりの特別になるのはむずかしい。
有名人だと、特にそう。春灯は芸能活動をしていて、顔が広い。動画配信をやっている子や、アプリで活動している子もけっこういるけど、いまのところは彼女がうちの学校で一番。
だからなんだっていう話でもある。彼女に対するバッシングという意味ではなくて、だれもが知ってて当たり前ってことはそうそうないよねっていう話。
軽く話したけれど、春灯は知ることや理解について、星の点と繋げた星座で考えていた。
卵かけご飯でいえば? 卵とご飯と、つける味のみっつの点を仮に置く。けどふわっと指定されたご飯も、卵も、味つけも、人は点を中心に好きなところにずれる。
料理のように、頻度のあるものなら?
作るたびに正確に前回の点からずれないよう気を遣う人もいれば、そこは比較的あいまいでいいとする人もいる。毎回おなじとも限らない。
星座の絵はいつだって不思議だ。
ただの点と点、つなげた線から「どういう想像力なのかな!?」と思えるほど複雑な絵を描く解説ばかり。それはそう。だって、星空にそんな絵は浮かんでいないもの。
浪漫がある。美しい絵を思い浮かべる夜の点たちへの、人の想像力には。
正解を厳密に定めず、人が想像する前提で星座を語るとき、それぞれにどれだけのちがいがでるだろう。
たとえば高校生、中学生、小学生、幼稚園児で、どれだけの種類ができあがるだろう。おとなになったらどうかな。
画一的なものを目指す人たちと、自分ならこういうのがいいという絵を目指す人たちと。他にもいろいろいそうだ。
なんなら既に、絵画教室的な場で試してる気がする。現在進行形で。美術の授業で描くのさえ、似たところあるし。
卵かけご飯でいえば?
私ならほかほかのご飯に生卵、あとはお醤油を回しかける。
ご飯はあったかほかほかなのか、炊きたてあつあつなのか、それとも冷蔵保存していて冷えてるものか。いやいや、ご飯の熱で卵に火が入って半熟気味になるのがいいんだ、待て待て固ゆで気味になるくらいご飯は熱くなきゃだめだろ? 冷えてるご飯においしい生卵が混ざるだけで十分よくね? などなど、いろいろありそう。
卵はどういうものがいい?
調味料は? 私はお醤油。じゃあ、その量はどれくらい? お醤油派だとしても人による。うま味調味料は卵かけご飯と相性がいいと聞いたことがあって、中にはお醤油ひかえめのうま味調味料ぱっぱとふたかけしてたりして。お醤油じゃなくて白だしもおいしいそうだ。
マヨネーズが大好きな人はマヨをいれるかも。風味をつけたくて黒コショウや油、は、オリーブオイルやごま油? ああいうのを入れる人もいるそう。
味つけといえばお醤油として、自分で打った点から動かない人もいれば「今日の気分は、ほんのりちょびっとレモンを足して」なんていう人もいるかもしれない。
そもそも点の位置からしてずれる。数が増えていたり、減っていたりすることさえある。
そしてなにかに対する態度や、習得そのものに対する考え方や、習得するときの考えや行動だってそう。
みんなちがう星空を見あげて生きている。
見えている星の数さえ個人差がある。北極星や夏、冬の大三角形くらい、明るくて目立つ、わかりやすく共有しやすい星さえ、ままならない。
ちがう空を過ごしている。
どんなに大事な人とさえ、ちがう。
食事の趣味さえばかにならない。お互いの趣味がちがうときの対応だって大きい。同じであることが大事なんじゃなくて、とことんちがいまくっているとして、さあどうするかの部分が大事なのかなーって、春灯は言っていた。
そんなことを言う彼女もつい先日まではずいぶん疲れきっていたというのに、気づけば少しずつ元気を取り戻しているように見えた。
ついつい「やっぱりなにかあるのかな」と恨めしがるより、彼女の星座を探ってみるのがいい。星座の元になる星と、数と、その配置も。また、星そのものも。
本がどうたらという話は正直あまり頭に入ってこなかったけど、星の話はよくわかった。
この人の星空はどんなだろうと気になる人って、どれくらいいるだろう。
狐と狸だから、なんていうのはもはや動機にさえならない。
単純に春灯を知りたい。それだけでいい。
吹部の仲間たちもそう。
お父さんはむしろ身近で、つらすぎて、いまはまだむずかしい。
お母さんについては、より複雑だ。
そもそも私自身の星空はどうか。
見あげたいものになっている?
そうじゃなかったら、どうすればいい? どうしたら、自分の星空を愛せる?
わからない。ちっとも、さっぱり、まるっきり、これっぽっちも、わからない。
春灯にとって、はじめてこの話の生まれるきっかけになった星との出会いは、中学時代の天使だそう。私にそういう出会いは、いまのところ、ない。
強いて言えば春灯がそうなったらいいなあというぐらい。
彼女にとってすぐわからなかったそうだ。三年間、しくじりぬいて、あれこれ紆余曲折を経て再会して、いまになって、あれこれ学んで、ようやく、なのだそう。
焦らなくていい。
けど、こつこつやっていったほうが、よさそう。
星空観察。天体観測。プラネタリウム。なんでもいいけど。
車窓からみえる夜の景色は、車内の明かりに比較してとても暗く見える。明るい場所で見あげる夜空と、そうじゃない場所で見あげる夜空とだとぜんぜんちがう。ちなみに電気の明かりのそばで見あげるのも、キャンプファイヤーやたき火のそばで見あげるのも、それぞれなんかちがうよね。
ざつか。
ざつだな。
ざつだけど、それくらいの理解度なんだな。いまは。
どうせ隣に人がいないから、ふり返って後ろの窓から夜空を見ようと試みる。
特に見当たる星がない。東京で見つけられるの、とびきりまぶしい星くらいじゃないか。
そんなことないのか。
たんに人の目で捉えられるかどうか、みたいな話がありそうだ。
いまは見えても、明日は見えない星もありそう。天体の一部分から見あげたとき、天体はくるくる回り、眺められる範囲が変わる。私が天体なら、太陽系はどうなってるんだ。
ツッコミどころがあるけれど、それこそ自分で構築していけばいいとして。
蹴りたい背中ならぬ、見たくない星空もある。
というか、見るに堪えない星空かな。
茜原、あいつだいじょうぶかな。参っていても春灯の星空は見たくなるものだった。私が興味をもっているから。反面、漏れ出る毒を自覚なく吐くことがある茜原は、できれば距離を置きたかった。彼も彼でつらいとして、私がなにかをする義理などない。むしろ関わるとお互いつらいだけなのが目に見えている。
ただ、それとは別に元気になって、毒なんかとっととなくしてくれたらとわがままに考える。
泉が来たのだ。あいつが見当たらないけど、迷惑かけにきてないかって。泉が来たことがそもそも迷惑まであるとコトネがぼそっと言うので、来てないし会ってないと伝えてお引き取り願った。私よりキレてる。
なんでだ。
つっこんだら「振った相手に迷惑かけてくる連中は、引き際のよさってものの利便性を理解してない。ほんと、そういうとこな」とのこと。
春灯の本の話のように、コトネの話もたまにさっぱりわからないことがある。
星空の話でいえば、きっとだれの感情も、だれかにとっては大事か、あるいは制御がむずかしいものだ。
私にとっては父と母、父にとっては母、そして私を産んで家から去った頃の母にとっては父と私に対して、頭でどうこうする段階じゃない。どうにか整理をつけるべきだという正論は、私たちの心を殴るだけでしかなく、より悲惨な行動を取る促進剤にしかならない。
それくらいつらいこと、ある。
できごとそのもの云々ではない。
ただただ、たいへんだという話だ。
けど、それとは別に「ねえ、あれやって」と自分の延長線上に人を捉える感覚みたいなものはたしかに存在していて、そのあたりの境目があいまいになることが人にはあって。
スマホを操作していて微妙に反応がにぶくなるときの負荷やいらいらは、だらだら歩く集団が道を塞いでいて先に行けなかったり、試験で思い出せそうなのにぜんぜん思い浮かばなくて答えられなかったり、ペンが思ったよりもすぐにインク切れを起こしたりするような、ああいう感覚があるでしょ?
そういう延長線上に、だれかの行動を含めていらつくのは、ありふれたことであると同時に、慣れて、そういうときの自分とほどほどに過ごしていく手段を学ぶくらいが限界かなーと思っているのだけど。
恋は、もしかすると、自分の延長線上に接続したい欲求めいたところがあるのかも。
自分と、恋する相手の星と星を繋ぐこと。
境目を重ねて、繋げて、ストレスがなくなるようにすることを、目指すのかな。
無理じゃないかな。
青澄家にお世話になって、うちとのちがいに自分をなだめる機会が何度かあったけど、それでもやっぱり、あるっちゃある。完全に溶けあうんじゃない。ちがうまま、一緒に居るのが楽なのだ。
なんていえばいいんだろう。
お父さんと居るとき、うちに居るとき、私も、恐らくはお父さんも、自然にあれこれわーっと考える。感情的に言葉を並べるか、逆にそうならないように必死に自分を抑える。
どちらも極端だ。
必死にあれこれ考えて、相手にぶつけるか、求めるか、あるいは自分を抑えるか、ますます必死になるか。それって、沸騰している鍋の泡のよう。ぶくぶくと泡立ち、蒸発していく。
その泡の数だけ、いろいろ浮かぶ。
鍋を掴んで相手に熱湯を浴びせても、その鍋は自然に水がわき出ては、ずっと沸騰し続けているから? 延々と泡立っているのだ。
ふたをしてもだめ。
火元から離れるしかない。
なぜなら鍋は自分そのもので、感情も思考も、いずれも水だから。
沸騰しつづけている状況から離れないかぎり、沸騰はつづく。しかし水は一向になくならない。泡立つほど感情か、思考か、あるいは両方が暴れる。
理性でどうにか制御できるたぐいのものじゃない。
それを相手になんとかしてというのも、自分になんとかしろと求めるのも、どちらも無理だ。
沸騰した鍋はどんどん熱くなっていく。物理的に触れない。大やけどするだけだ。
冷ませというのも酷だ。繰り返すけど、相手にも自分にも、どうにもならないのだから。
父にも、母にも、家にも。おそらくは私自身に対しても、ずっと鍋は沸いている。
茜原の毒は加熱し続けて赤く染まった鍋の部分。私も負けじと鍋がきわどい状況だから、お互いに干渉しないのが応急処置。これをよしとはしないけど、自分を守るうえで他に思いつかない。茜原は無自覚なままだろうか。
コトネは容赦なく、それを情けないと断じる。
泉はただただ心配なのだろう。迷惑だけど、でも行動してる。それはそれでわかるから、私は思ったほど怒ってない。むしろ茜原がなにかやらかすほうが迷惑まである。なんなら、そう考えること自体が容赦のないことかもしれないけど、仕方ない。事実だし。
男子はガキみたいな文脈でいつものメンバーの評価が鋭いけれど、ま、それが事実だろうとなんだろうと関係なく、ガキから変わるための次の手が浮かばないのだから仕方ない。
星座で語るのなら、それが見あげて素敵な形に思えるようにつなげられる星と、ひとまずの予想図がなきゃ、見るのがつらい星は永遠にそのままだ。また、どんなに素敵な星座に仕上がったように思えたところで、星は残り、光を放ち続ける。星座を見つける前の状態と変わらぬままに。
過去は消えない。残り続ける。
星の光は途方もない距離から、思ったよりもずっと長い時を経て届いている。いま見ている光の先にはもう、星はなくなっていることさえあるという。
けれど、私たちのすることは星の光に比べるとずっと身近で、もっと気が長く残るもの。
父にとっては、そうだった。
私にとっては、どうだろう。
母にとっては?
「――……」
深呼吸は控える。電車の匂いが苦手だから。
宝島の空気がなまじ馴染んできたぶん、獣憑きには都会の匂いがきつくてつらい。
息苦しくて、落ちつかない。
あ。文明のなにがどうとか、そういうんじゃなく。
単純にね。慣れない。あっさりそれで済ませられたらいいんだけど。なんでも。
ただ、そうもいかない。沸騰しているのに加熱しつづけていて泡立つ鍋の中のように、わーっと浮き出ることがある。
春灯のことで区切りがついてしまうと、いやでも考えてしまう。
お母さん。いるのかな。榛名ホノカなのかな。あいつは私のこと、知らないのかな。知ろうともしてこなかったのかな。なんで。どうして。お父さんはさておき、私は。あんたが生んだ娘は。そういうの、普通は大事にするもんじゃないのかよ。私はあんたの顔も知らないんだぞ。
勝手に捨てるなよ。大事にしてよ。愛してるって、そういうの伝える必要がないくらい、あったかい日常をちょうだいよ。
そんな、私の沸騰してる感情は、生半可なことじゃ止まらない。
春灯は本を読んでは、沸騰したまま、なにかを変えられないかと試しているみたいだ。
じゃあ、私は?
知らない。わからないよ。そんなの。
気づいてしまうともう、止まらない。
沸騰しているときほど、鍋にも、沸騰にも気づかない。
自分がそのまま、そのものになるから。
鍋に水を張り、生きた蛙を入れてじっくりと弱火であたためると? 蛙は水の温度の変化に気づかず、気づいた頃には遅く、死んでしまうという。水を張った浴槽に入って、湯沸かし器であたためながら、ぐるぐるとかき混ぜてみたことがあった。
そりゃあ、噴出口付近から出る熱水はわかる。けど混ぜてしまうと、すぐに冷えてしまってまぎれるし? 操作パネルの温度表示を見なければ、いつも入る四十度ちかい湯温に近づく実感みたいなもの、あんまりない。あくまで、あんまりだけど。感知できるようになるべく練習なんかしてないし。
ああいうのとも、ちがう。
もっと、なんていうか、沸騰しているお湯そのものになる感じだ。
考えが煮詰まってきたというけど、それよりよほど手に負えない、あの自分が沸騰してしまっている感覚から抜け出す方法を、私は知らない。
知るべきかどうかさえ思い至らない。
沸騰している最中は、沸騰するきっかけで満たされている。あふれてしまっている。なのに、なくならない。思い至ることなど、思いつかない。
移動している最中、星を見つけられなかった。
沸騰している自分に気づいてどうにかする、その余地がない。
母のことだけ。私のことだけ。父のことだけ。
ぐるぐる回って、果てがない。
バイト先について、飯屋先生の言伝と荷物を渡した。言伝だけなら通話で済ませてくれって話だけど、荷物があるから仕方ない。郵送でよくない? と思いはしたけど、気晴らしがしたかったからいい。惜しむらくは、私は間違いなくしくじった。気晴らしどころじゃない。
沸騰していることに気づくのさえ、疲れる。とても。
荷物を渡した店長が「中、みた?」と聞くので「みてません。先生に見るなって言われたし。なにか?」と返す。興味は僅かばかりあったけど、正直それどころじゃなかった。
じゃあいいと、なにか食べてくかと提案されたけど、やんわりと辞退して店を出る。
意味なく渋谷を歩きたくて。
終電にさえ間に合えばいい。補導されたら困るから、そのあたりは気をつけて、お店を巡りたい。
生きるのはたいへんだ。
愛してほしいなんて、ただそれだけのことも満足に言えない。
春灯と話したときに「いちばん最悪な状況から、ひとつずつ楽にしてく。そういう手段を増やしていくアプローチ、大事なのかも」と言っていた。
私にとっての最悪はいまだ。なんなら、物心ついてから、ずっと続いている。
けど、それは私の星空の話であって、お父さんの、お母さんの星空の話じゃない。
そこがね?
ややこしい。
沸騰しているときほど、どんなに身近で大事な人の星空さえ見えなくなる。そもそも自分の星空さえ、沸騰する鍋からあがる蒸気で隠れて見えやしないんだから。
私にとっての最悪は、だれかにとっては別物。だれかにとっての最悪もまた、そう。
おねがい、だれか助けてよ。
そう願って自分の延長線上に無意識につなげては、思いどおりにいかなくてストレスを感じて、さらに沸騰するなんていうことさえ、実はけっこうありふれている。
春灯の言葉を借りるのなら?
それは分別の顔をした、理不尽として、当たり前の理屈のように語られることさえある。
お母さんにとって、それはもしかすると、こどもを生んだらうんぬんかんぬんのたぐいだったのかもしれない。
その仮定は、仮とはいえ点を打つだけで、私の沸騰の勢いが増すほどしんどくて、つらい。
ああ。ほんと。だれか助けてよ。
そう願わずにはいられなくて、そういう星が世の中にはそれこそ星の数ほどあるにちがいなくて、ややこしくて、わからなくて、ままならない。
もしも茜原にあえて伝えられることがあるとしたら?
つらいよね、ということくらい。
私にとって茜原の接続は暴力そのものだから、それは受け入れない。けど、距離を保てるのなら、他のみんなと同じように一緒にいられる。ただ、前になにかがあると、なかなかね。信用しにくい。安全に関わるのだから、そこはなんとかしてよと言うし、求める。
そういう段階に、いまはないのも見ればわかった。
私もそう。いまのままくるなら、私もよりきつくなるしかないから、そうなる前にお別れを。
届いてないんだろうなあ。
沸騰してそうだもの。
私も、そう。
春灯の尻尾に空いた穴も、臭くてたまらない汚れにまみれた御珠も、それを化かして見えた似姿に刺さる膨大な刀も、ぜんぶ、沸騰を続けて鍋にできた傷や穴なのかな。
私も空きそうだ。いい加減、傷だらけになりそうだ。
店の前で立ち止まって、夜空を見上げた。
深呼吸は、できない。
いまの私に東京はきつい。なのに、人が多く集まる渋谷を歩かずにいられないくらいだ。
ねじれてる。ゆがんでる。
帰ったほうがいいのかも。いまの時間を確認しようと思ってスカートのポケットに手を入れたら、妙な感触が。
ぺらぺらとしたものを恐る恐る摘まんで、取り出す。
お店に入ったときに、だれかがいたずらで忍ばせてきたのだろうか。
薄気味悪さを覚えながら、摘まんだものを確認する。
「……なにこれ」
謝肉祭遊園地と書かれた、金色の紙だ。
まるでなにかのチケットのようだった。
銀紙の金バージョン。すこしだけ厚みがあって、奇妙なことに青い糸が縫いつけてある。糸を使って文字や装飾をしていた。インクじゃない。右下に「Lv.3」とある。
どういう意味だ。わからない。
ただ、生理的な気持ち悪さを感じて、思わず手放す。
ひら、ひら、と。花びらのように地面に落ちた。
捨ててしまいたい。悪趣味ないたずらにしか思えない。けど、街中にポイ捨てっていうのも問題ある。最低でもコンビニの燃えるゴミかなにかに捨てたほうがマシ。それか、お店に戻ってゴミ箱に捨てるか。
どうにも気が進まない。
酔っ払ったお客さんがトイレで盛大にやらかした場面を掃除しなきゃいけない、それくらいの感覚だった。
だれかが忍ばせてきたような覚えもない。士道誠心でいろいろやってきて、スカートにこんな紙切れを入れられるようなことはないと思ってた。事前に気づくか、すぐに気づくかするはずだって。
実際、まるで覚えがない。
ネオンを反射して煌めくチケットの金色は、春灯が見せてくれるあの輝きとまるで異なる露悪的なものにしか見えない。
捨てよう。
これは、捨てたほうがいい。
三秒かぞえてから、店の扉を開けて「すみませーん!」と先輩を呼ぶ。
頼れる人たちがいっぱいいるのだ。ここは素直に頼っちゃえ。
聞いたこともない遊園地のチケットなんか、いらないんだから。
捨てる前にビリビリに破いてもらった。こんなの、こうすれば怖くないでしょって言われて。
それでも気味が悪いから、心配する先輩たちに「駅まで送ろうか?」と聞かれたけど、断ってとっとと帰ることにした。できる限り気をつけたし、ポケットに両手をなるべく突っ込んで移動した。
電車とバスを乗り継いで、すっかり夜遅くになって士道誠心の敷地にたどりつき、鳥居をくぐるその前に、ないとわかっていて両手をポケットへ。
長い電車移動中も、学校の最寄り駅についたときも、バスに乗る前も、下りたあとも、ぜんぶ確認した。神経質なくらいにチェックしたはずだ。
そして、だれも近づかなかった。なんなら、学校前のバス停でおりたのは私ひとりだったし、座席もひとり用で、隣に座れないタイプだった。そばに立ち止まった人もいなければ、後ろに座った人もいなかった。
ちゃんと、確認したはずだ。
だれも、入れられるはずがないんだ。
だというのに。
「やめてよ」
まるで私に取り憑いた亡霊のように、そのチケットは、いつの間にやらポケットの中に入っていたのだ。
捨てたものとまったく同じチケットが。
ビリビリに破かれたはずのチケットが。
さも当たり前のように入っていたのだ――……。
つづく!




