第百七十八話
真夜中のことです。
晩ご飯を終えた食卓の片付けをした私の手を引いて、カナタがお部屋に連れて行くの。
デートでは? お外に行くのでは?
不安がる私にカナタは笑って、いいからおいでの一点張り。
あらがう理由もないから素直に従う。
それでもカナタが何をしたいのかはわからなかった。
二階の部屋に行っても教えてくれない。
自分の眼鏡を取って御珠に変えて、二人きりで隔離世に行っても……それでも教えてくれないの。
さっぱりわからないよ。
「じゃあ……月を目指そう」
窓を開いたカナタが私を見てから、その足を宙に踏み出した。
「あっ――」
落ちちゃう、と思った私の前でカナタがふわふわ浮いている。
窓の縁に近づいてカナタの足下を見ると、きらきら煌めく白銀の霊子がカナタを支えていた。
「おいで」
誘われて、手を引かれるままに外へ。
踏み出す私を支える黄金の霊子。
二人で空に浮いている。
でもそれができるのは私だけだと思っていた。
そういうものだと思っていたの。だから……本当に驚いてしまって。
思わず聞いたよ。
「な、なんで?」
「俺一人だとできない。種明かしは……昨夜、ハルと愛し合った時に」
囁かれる秘め事に照れながらカナタを見つめる。
「霊子を繋いだの?」
「いや。ただ……ハルに触れていたら、ふと気づいた。俺はお前なら信じられるんだって……そのためになら、なんでもできるって」
「う……」
す、すごく恥ずかしいことを言われてる……!
ど、どうしよう。
熱くて、熱すぎて……それどころじゃなくて気がつかなかったよ。
でも心が重なり繋がっていたから、できるようになったんだ……そっか。
どうしよう。心ごと膨らんで弾けそうです。
「ハルの心のありように触れて、知って……信じる。俺は俺をまだ信じられないけれど」
囁くカナタが私を抱いて、とんとん、とまるで階段をのぼるように夜空の星へと近づいていくの。月を目指すように、まっすぐ。
「お前は信じられる。ハルの信じるものなら……俺も信じられる」
どきどきする私を抱き締めて、抱えて、どんどん高くのぼっていくの。
「お前が空を駆けるなら、俺もまた……隣に並べるように駆けてみせよう」
先へ先へと進んでいく。
その足取りは確かというには不安定で、たまに滑りそうになるから思わずカナタにしがみついたりもするけれど。
それでもしっかりと雲の上にまで辿り着く。
まんまるいお月様がいつもよりずっとずっと近くに見えるの。
肌寒さも息苦しさも感じないのは、カナタがなにかをしてくれているせい?
わからない。ただ……。
「すごいね……」
眼下に広がる東京も、見上げて眩い星空も、すべて。
二人だけの世界。二人だけの光景。
こんなの反則だ。
「こんな贈り物されたら、カナタのことで頭がいっぱいになっちゃうよ……」
「それが狙いだ……おっと」
カナタが私を抱いたままでぴょんと飛んで言うの。
「飛行機が来たら危ない、気をつけないと」
「隔離世なのに?」
「隔離世なのに。車は動くし、人の営みと繋がっている……ここはあの世じゃない」
微笑み言うカナタの視線の先を見る。
もっともっと高いところを確かに飛行機が飛んでいた。
「……だからこそ」
見下ろしてみれば光が幾つも動いてる。
人の営みがきらきら煌めいているの。
「見惚れてしまうのかもしれない」
「……うん」
海に煌めく宝石を数え切れないほど投げ入れたような光景を、ずっと……飽きることなくずっと見つめ続けた。
◆
歩くの。
雲の上から下へ。
けれどカナタは私を抱き締めたままだった。
それで思ってしまった。
「……もしかして、京都でラビ先輩にお姫さま抱っこされて空から下りたの気にしてた?」
「嫉妬するには十分だ」
「おぅ……」
まずった、と気づくのも遅すぎなのでは?
「だからもっと素敵な経験をプレゼントしたかった」
お前のことで負けたくないから、と言っちゃうところはきちんと男の子だった。
ラビ先輩と戦うとか、そういうんじゃなくて。
私がもっともっと喜ぶ何かを探ろうとするところがカナタのらしいところなんだと思う。
「……、」
ごめんって謝るべきかと思った。
でも……カナタが求めている最初の言葉はそれじゃない。
「ありがとう」
「……ああ」
だから次に言うの。
「ごめんね?」
「いい。仕方なかった……あの時、これが出来ていれば……そう思いはするが、結果論だ」
そして、と囁くカナタは私を見つめる。
「結果論でいえば、今……俺たちはこうしている。俺はそれで十分だ」
「カナタも一途……」
「だめか?」
「私でいいのか不安になるの」
「じゃあ……不安になる暇もないくらいときめかせる」
「もらってばかりなの……申し訳ないなあって思いますよ?」
「お前が思っているより、俺は多くのものをもらっているよ」
これもその一つだ、と言ってカナタは空から下りていく。
白銀の穢れのない霊子はそのまま、カナタの気高さ……それに気づく切っ掛けがもし私なんだとしても、それはやっぱりカナタの力だ。
「何かしたいのに」
「生きていてくれればいい。隣にいてくれれば……それで」
「無欲だよ」
「いいや……十分、欲は深いさ」
こめかみに触れてくる熱に顔を向ける。
繋がり合う。どこまでも。深く。沈んでいく。落ちて、ゆるやかに、落ちて。
「たまに怖くなるんだ」
緋迎家のおうちの屋根に辿り着いて、腰掛けながらカナタは言うの。
「俺にとって、ハルは中心だ。世界の……すべての」
真摯な告白だった。
「捕まえていたい。離したくない……どうしたらもっと、繋がりを増やせるのか。そればかり考える瞬間があるんだ」
「私はカナタのこと、特別で……大事だよ?」
「ああ……ハルと繋がり重なる度に思う。もっと……そんな瞬間を増やしていけたらいいな、と……毎日願わずにはいられない」
寂しがってる。
こんなに一緒にいるのに、カナタは……孤独を感じてる。
いつだって一緒にいるのに。
素敵なことばかりしてくれる大好きな王子さまが、それでも孤独を感じてる。
「……俺は、お前を幸せにできるのか。自分を信じられないんだ」
そしてなにより不安がっている。
「だからもっと……頑張らないと。もっと、愛するために」
もっともっと、そう願うのは……熱に触れれば触れるたびに高みが伸びるから。
果てがなくて……ああ、確かにカナタの言うとおり欲が深いのかもしれない。
貪欲に、信じられる理由を求める。
「好きだ。だから……安心したいのに、不安なんだ」
それを否定することなんて、私にはできない。
なぜ恋する二人を心配するんだろう。答えの一つが見えた気がする。
カナタが安心できるなら、なんでもしたい。なんだってしたい。それに果てはないのかもしれない。
深まる欲に答えて制限なく進み、切実に溺れていく先に……自制なんてない。
お母さんが心配して、ソウイチさんが諭すわけだよ……もし身体の繋がりでなんとかなるのなら、それをしてしまったかもしれないもの。
繋がりが増えて、その強さに溺れたら……確かに私は間違えていたかもしれない。
もっと他にもあるはずだ。カナタの孤独を癒やす何かが……きっと、何か。
『妾には……わからん』
タマちゃん?
『じゃが……お主ならどうする?』
難しいね。
心は身体の内にあるもの。
身体に触れたら心が繋がった気持ちになれる。それは今の私はもう、痛いくらいにわかってる。
でも……それでも癒えない何かが人にはあるのかもしれない。
それは時に孤独、時に恐れの形になって私たちのもとへとやってくる。
少し離れただけで冷えてしまう。生きていくのは吹雪の中を歩いて行くようなものなのかもしれない。
そうだなあ……。
「共犯者なのはカナタ……契約したのもカナタ。カナタだけ。それはこの先ずっと変わらない」
「ああ」
笑顔で頷いてくれるけれど、カナタの心に届いていない気がする。
届いていたとしても、カナタが心の底から安心するためには足りない気もする。
カナタが自分を信じる理由はなにかないのかな。
どうしたらいいんだろう。
どうしたら……カナタの不安に触れられるんだろう。
安心してもらいたい。なのに……方法がわからない。わからないの。
『抱き締めたら一発じゃろ』
そ、そんなのでいいの?
『だめだ、狐。それは一時的に過ぎん。根本的な解決にはならん』
だ、だよねえ。十兵衞もそう思うよね?
『そもそも……自分を信じる力は、すぐにはつかない』
う……。
『そして、それは誰かにつけられるべきものじゃない。自分で勝ち取るものだ。男なら、自分で……それでいいんだ』
十兵衞?
『与えるな。寄り添え。好きなら、それだけでいい』
『む……』
思わずタマちゃんも口籠もるくらい、十兵衞の言葉には不思議な説得力があった。
でも……じゃあ、抱き締めるだけでいいのかな。
『ハル、お前の心の力は、強さは……自信は、お前自身が積み重ねてきたからこそ生まれたものだ。それをみなが教えてくれただろう?』
……うん。
『彼にもまた、あるはずだ。積み重ねたものが……自信の種が』
自信の、種。
『どうしても与えたいというのなら……教えてやれ。お前の中に、既に答えはあるはずだ。愛する気持ちの積み重ねが教えてくれるはずだ』
見つめ合うカナタの身体に触れる私の左手の薬指には、カナタがくれた指輪が光っている。
私の首には今日カナタがくれたチョーカーもある。
それをもらう関係性に至る道筋……全部が積み重ね。なら、そこにきっと種がある。
「思い出せる? 初めて会ったときのこと」
「……体育館、刀鍛冶との初顔合わせだったな」
頷いて、カナタの上から下りて隣に並ぶ。
繋いだ手、指先を絡ませて。
「手を引いてくれたの。すっごくどきどきしたんだよ」
「……ああ」
私を連れ出すカナタの手の感触を覚えてる。
「シュウさんと兄弟ゲンカの真っ最中で。私を身体から引き離して……コバトちゃんを刀にしちゃうシュウさんと同じくらい、カナタも無茶苦茶だった」
「……反省はしてるんだ。これでもずっと」
もしかしたら、これも……カナタが自分を信じられない理由の一つかも知れない。
「十兵衞を頼って、着実に事をなそうとしたんだよね?」
「……ああ。兄さんは強いから。勝つには、並外れた剣士の助けが必要だった」
負けたけどな、と俯く表情に傷が見える。
まだ癒えてないんだ。あれからもう結構経つのに。
ならやっぱりこれも、カナタの自信を奪う理由の一つなんだ。
でも、じゃあ……なんで癒えていないの?
どうしてその傷はそこにありつづけるの?
「お前を傷つけて、俺は何もなせなかった」
呟かれたその言葉が、不安の形をしていたから。
ああ、これが答えなんだと思った。
カナタの心に刺さった楔はこれなんだって。
救ってくれたじゃない? と笑うこともできる。
そんなことない、カナタはちゃんとシュウさんを救ったんだよって励ますこともできる。
でも……もっと、シンプルに。
茶目っ気たっぷりに素敵な冗談を言ってくれるカナタみたいに、私にも伝えたい気持ちがある。
「んー。それたぶん、こういうことだと思うの」
繋いだ手を両手で持った。
思いついたから、止まれない。
気づいて欲しいから、進みたい。
さあ、覚悟を決めて。
私はいまからすっごくはずかしいことを言うから。
「カナタは私の王子さまです」
「……ハル、けど」
頭を振る。けどはだめ。
「なので、私を幸せにしてくれたら……それでいいんじゃないかな」
「……だが」
だがもいらない。
「今の私は幸せ。カナタが自信の種に水をあげるお手伝いができたら……もっと幸せ」
「……、」
「あなたが大好きなの。もうずっと、これからもずっと、あなたが大好きなの」
シンプルな想いは一つ。
「私もね? めいっぱい、負けないくらい、ううん! 勝っちゃうくらい、カナタを幸せにする」
カナタの目元が歪んだ。顔中に広がっていく。
仮面が壊れるように、けれど私を一途に見つめる顔はやっぱり私の愛する人の物だった。
「カナタが私を……カナタのお姫さまだと思ってくれたら……私はどこまでだってがんばれる」
カナタはどう?
どきどきしながら恋人の顔を見た。
「私は……カナタのお姫さまになれますか?」
震える声で尋ねたよ。
「……もちろん、そうだ。とっくの昔に、いや……出会った頃からそうだったさ」
喘ぐようにカナタが言葉を紡ぐ。
だから全力で微笑む。
「じゃあもうだいじょうぶ。あなたはきっと、もうだいじょうぶ。私を助けて、シュウさんを助けるあなたはもうとっくにだいじょうぶなの」
そっと息をして。
「失敗したら、成功するまで進めばいい。カナタはそう言ってくれたし、もうとっくにそれをやっているんだよ? 私はめいっぱい幸せになってます。気づいてないみたいですけど」
信じて欲しい、と囁く。
「私はカナタを信じてる。カナタも……私を信じてくれるなら、私の信じる分くらいは自分を信じてあげてほしいなあ」
だめですか? と呟いた時にはきつく抱き締められていました。
「……また、もらってしまった」
「カナタ?」
「俺は、いろんなものをもらっている。今日も……そうだな。自分の敵になっている場合でもないな」
深呼吸をすると、カナタは私をそっと離して微笑むの。
きらきらした目元で私を見つめて。
「すごく、シンプルに考えるんだな」
「だめ?」
「いいや……お前らしくて、好きだ」
「うん!」
そうか、と呟いて笑うカナタに言うの。
「そうだよ! もっと気づいてもらえるように言うね? お揃いのチョーカー嬉しかったし、カナタが触れてくれるのも好き。手を繋いでくれるのだって大好きだし、カナタが話してくれる何気ないことだって好き」
「止めないとずっと話し続けそうだ」
「まったくもう。むしろ逆に止める気なの? たくさんあるんだよ? カナタはないの?」
「夜空に二人でお互いの好きなところを語り合うか、青春だな」
もう!
「カナタが信じられるようになるまで、私は幸せアピール止めないから」
「……本当に? 本当に俺は、幸せにできてるか?」
不安がるあたり、まるでわかってないんだもんなあ。
「指輪もチョーカーも、お詫びのつもりだったなんて言ったら怒るよ?」
「――……、」
カナタの顔からどんどん不安が消えていく。
かわりに安堵が広がっていくの。
「じゃあ、一つ……怒られてみるか」
「ばか」
泣きそうに歪んでいくその眉間の皺をきゅっと摘まんだ。
「私をあんなに愛してくれているのに不安なら……じゃあ今度は私がめいっぱい愛するターンの到来ですかね」
「なにをするつもりだ?」
「ずっと私のターン!」
カナタの肩を押して、倒して……するよ。
たっぷりと。キスをするの。
悪い夢をもし王子さまがみているのなら……もうやめてって言うくらい、目覚めのキスをするの。
伝わって欲しい。
もうとっくに、あなたは私のすべての中心にいるんだよって。
だから……それが伝わるまで、何度でも私は彼にキスをするの。
つづく。




