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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!
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第千七百七十七話

 



 分別がある、とか。

 分別がつく、とか。言いません? 聞いたことありません?

 じゃあ、分別ってなに?

 恒例の辞書タイム。まずは新明解国語辞典より「社会人として求められる、理性的な判断」。つぎに大辞林より「物事の是非・道理を判断すること。わきまえること。また、そのような能力」、「《仏》虚妄である自他の区別を前提として思考すること。転じて、我にとらわれた意識」。

 ちなみに大辞林には分別智について記述があり、いわく「《仏》自他の区別を前提として行なわれる、煩悩をもつ人間の思考。凡夫の思考。世俗的思惟」として対義語に無分別智を挙げている。

 なら無分別智は?

 まずは無からいこう。大辞林によればふたつめに「《仏》事物も現象も全く存在しないこと」として「禅宗で、世界の絶対的な真の姿。有と無の対立を超越した悟りの世界。絶対無」という意味も記述している。

 やっぱりムの修行なのでは!?

 こほん。好きなんだよね、マザー2。落ちついて続きに戻ろっか。

 無分別のところに無分別智がある。なので、無分別からいくと「分別のないこと。よく考えないで行動すること。また、そのさま」としている。一方で、無分別智だと「《仏》対象を客体として認識・分析する分別を超えた絶対的な智。世界の窮極の真理を把握する智慧。実智。真智。根本智」となる。

 新明解国語辞典には仏教の言葉としての記述が無の項目に見当たらない。無分別においてもそう。

 正しさは人が、あるいは人が集まる枠組みが求め、作り出す。分別において、新明解国語辞典のような概念で捉えていると? 同じことがいえそうだ。

 そうなると、今度は人によって、集団によって、あるいはある時期や段階において、それらは変容するし、いくつもの分別、いくつもの正しさが存在しそうだ。

 正しさも分別も合一を目指す。

 同一化を求め、標準化へと向かう。

 自分の正しさ、分別を絶対のものとして、相手に頑強に求めるほど過剰になる。

 それについて良い悪いの話じゃなくね? そういう性質がある。

 もちろんさ?

 分別はもっと先があるとか、柔軟性を持たせることができるとか、いえるとも思うし? 七十億越えの人が、そのとき求める水準を達成できるかっていったら、むずかしいとも思うし、またその必要があるなんてとてもじゃないけど言えやしない。

 たとえば。

 さっき述べた、西洋の宗教観にある原罪の概念。だけど教会のシーンじゃ「懺悔なさい。どんな罪も許される」というような主旨で語りかけている。どんな罪人も、懺悔を許されている。そして懺悔すれば罪は許されるとしているし、神父さまは概ね話を聞いている。懺悔室の中での懺悔は大事な秘密として守られる。そうでなければ安心して、安全に守られていると信じて懺悔することなんて、できやしない。

 それゆえに神の徒がこどもを相手に犯罪行為に及んだ事実はそうでない人が犯すよりも、もっと許されないわけで。クリミナル・マインドで判明した罪を犯した信徒は、刑務所の中でリンチに遭って殺された。穏やかな家庭は当たり前じゃない。愛にあふれる親も当たり前じゃない。ひどい生活環境で、やむを得ず犯罪でしか生計を立てられずに、刑務所に入る人が大勢いる中で、こどもにひどいことをするヤツがいるとわかったら? なにが起きるか、想像に難くない。

 罪をだれもが犯す。だから、正直に語る。なんなら平しくみな罪人なのだとして、その対策をとする。けど、そういう分別も、あるいは求める正しさも、人によって異なっていく。いろんな解釈が生まれる。それはとどのつまり、無分別智でさえ避けられないこと。

 ビッグバンセオリーのシェルドンのお母さんは、テキサスで暮らす敬虔なカトリックの信者だけれど、シェルドンやお姉さんはお母さんほど敬虔ではない。なので日曜日に礼拝にも行かない。ラージはインド生まれだけど、アメリカでこっそり肉を食べている。おいしいから! 日本はもっとごった煮だ。正月を祝い、クリスマスにサンタさんを迎え、ハロウィンは渋谷で盛りあがり、夏には花火にきゃっきゃとはしゃぐ。お葬式もちゃんとする。

 京都人の密かな楽しみという番組で、京都の風習をとても綺麗な映像で流している。ドラマ仕立てだったかな。そういうことを楽しんでいる人もいれば? そんなことやんのぉ!? すっご、と驚く人もいる。そんなの、別に昔から変わらないよなー。

 江戸っ子ってのは、こういうもんだい! と声高に主張していきるおじさんもいれば、あーいやだいやだ、ああいう連中! ってうんざりしてたおじさんもいたんじゃないかなあ。江戸時代の男衆たちの中にだってね。

 ここにお金儲けだの、立場だの、権力だのが入り込んでくると?

 もー! わけわからんくなるね?

 でも、そういうものでもあるよね。

 無分別智、いいねー! って言ってもさ?

 そもそも分別智で回っていたり、うまくいかないけど稼働中なこともやまほどあるし? 分けて、別れても、ねえ? どうなんだろうね。

 それからね?

 分別智は、蓄積されていくものだ。積木のように。ドミノのように。あるいは車くらい複雑な工芸品のように。ときには飛行機や宇宙船くらい、ネジの巻きひとつで致命的なことになるもののように。

 飛行機や宇宙船になると、無事なフライトのために徹底的にチェックされる。整備班の苦労が忍ばれる。利用される分別智はひとつだけじゃない。数多く。二重、三重、四重にチェックされることさえあるかもしれない。

 チェックしたからだいじょうぶ! チェックする人たちちゃんとしてくれるはずだからだいじょうぶ! そういうところで悪さするのはいけないことだからだいじょうぶ! それでも悪さをしたらひどい目にあわせるからだいじょうぶ!

 みたいなの、映画やドラマの悪役は意図してズルする。悪さチェックする人、取り締まる人と癒着してたり。そういう立場の人が命令してたりする。

 あとねー。

 手が及ばない。

 世の中ひろくて及ばない。人が多くて及ばない。まだまだ人には限界しかないもんだから、及ばない。

 なので、その枠組みにゆるぅく付きあっていても、なにかしらに巻き込まれたり、大病を患ったりすると、途端に「ほらだいじょうぶ! な!?」と押しつけられる側になる。圧に参って身動きがろくに取れなくなるか、はたまたとうとう耐えきれなくなって爆発するか。

 怒り。憎しみ。叫ぶ。罰を。罰を。罰を。

 どんどん取り返しがつかなくなっていく。でも、そうせずにはいられない。既に、取り返しがつかないことになっちゃってるから。先を考える余裕なんてない。

 分別も正しさも単純化されていく。そのわりに合一を強く求める。目指す。

 ひとつに。

 たとえば対立している側とひとつになるんじゃなく、むむっと思っているの私以外にもいません!? っていう感じで仲間を求めるという、ひとつになる方法もある。なんでもかんでも、七十億越えの人ぜんいんまるっとひとつにっていうんじゃなしに、自分の味方や共感できる人とひとつになれればいいっていうアプローチ。

 是非は語らないよ? 主題じゃないからね。

 いろんなアプローチがある。なので、そもそも疑問を抱く。ひとつにならなきゃだめ? あるいは、ひとつになると安心するの? ほんとに? なるとしたら、それってどうして?

 無分別智だと、なんだろなー。

 遠くからさ? 山を見るじゃない?

 学校のあるあたりから、金色で空に浮かんで富士山を見たとして、ぼやけて見える。樹海の木々が細かく鮮明に見えたりはしない。もしも登山している人たちがちょうどいたとしても、まあ見えないよね。砂粒がわかるほど見えることもない。

 ただ、富士山だとわかる。

 けどもしも日本のことをまるっきり知らない海外の人を連れてきたら、富士山さえでかいけど、他の山と同じじゃないかな。

 生まれたばかりの頃に分別智はない。あるいは極度に少ない。

 目に見えたものは、一枚の絵画で混ざりあっている情景に過ぎない、かどうかもわからん! わからないけど。どれがなにでなにがどれだか、区別がない。区別をつける発想さえないかも。

 そんな感覚でみる山は、目に入る情景そのまま。

 すべてが、一になる。

 ううん。むしろ一という感覚さえないのかも。

 そういう捉え方だとすると?

 なんかもー。わけわかんない。人と人との関係性を物語に書き起こすとき、無分別智的な書き方ってどうやってするんだろう。わからないや。

 あとね?

 いきなり無分別智に切りかえるぞー! なんて、かなりむずかしい気もする。

 たとえば林業でお仕事されてるみなさんが「やま」って、感覚的に捉えていたら「だ、だいじょうぶ?」って不安になっちゃう。樹の種類、樹そのものとしてないし木材に加工したときの特性、病とその種類とか、その樹を好むいきものはなにかとか、そこまでいくかどうかはさておき伐採の仕方はどうかとか、いろいろと習得することがあったほうが、仕事が捗りそう。あと、山での過ごし方が安全になりそう。

 分別智は使いよう。万能でも完璧でもない。人のすることには、失敗の幅が生まれる。段階ごとに、やまほどのケースが想定される。失敗さえ人によって判断が異なる。失敗さえも使いよう。失敗の捉え方も人それぞれ。成否さえも分別智じゃない? あるいは成否にまつわる判断の数々が分別智になってない?

 ところでさ?

 ケアってなんだろうっていう本の帯から引用するとね? 「すべてを言い表す言葉は、何も言っていないのと同じである」という。

 やさしさをもって対応なさい。受容なさい。受け入れなさい。悟りなさい。なにかを信じなさい。愛しなさい。

 ふむ――……それ、なにぃ!?

 と、なる。

 で、具体的にどうしろとぉ!? ってなる。

 仮置きする。点を打つ。これらの言葉を枠組みにおける正しさとして置き、あなたは正しさが足りないからダメなのだと強迫観念を置く。

 そして? どうなるの?

 ところで!

 こちらにあなたを救うものが! いまならなんと、毎月十万円かかるところを、初回無料で契約可能! さらに! 新規契約者を紹介したら、一万円に相当する商品を進呈! ますます正しくなって、ますます救われますよ!? どうですか!? 契約しましょうよぉ!

 なんていう詐欺師まで出てくる。

 お父さんとお母さんの世代から、おばあちゃんの世代までにかけての宗教って、だいたいそういう人たちが金儲けにやってることか、あるいは危険なカルト集団を指すみたい。

 そんなわけで私の世代もご多分に漏れず、そんなノリ。

 実際、不景気ふけいきっていうし、不景気に磨きがかかるご時世じゃあ詐欺師はますます大活躍。なんてことない普通のセミナーやスクールの集まりに参加して勧誘して、お金が儲けられるセミナーと称して転売の仕方やマルチ商法に手を染めるように促すことさえあるという。大学でもそういう勧誘してる人いるってね。いうよね。

 そこまで露骨じゃないとして。

 インテリほどだまされる思想みたいなのもあるそうで。ある日とつぜん農業に目覚めたり、オンラインサロンを始めたり、生活や身体にいいとされる商品と契約したりする。

 意識高い系がハマる怪しいものーなんて笑っていたり、後ろ指を指している人たちがハマるような落とし穴ももちろんある。儲かる限り、いきものたちはエサを求めて徘徊する。

 けものたちから身を守り、耳を塞いで無関係でいたかったら、誘惑にはNO、強迫してくる概念はポイ捨てする?

 国産安全、対、安全かそうでないかは成分を調査して担保とる、ふぁいっ!

 よせよせ。炎上するだけだって。

 えぐめの話題を並べたんだから、もうやめとこ!?

 ただね?

 分別智は、ときに暴走しがちだ。

 あとは、あまりに当たり前にしていると、対応しきれなくてパニックになって、とにかく分別智としてなんでもいいから自分の助けが欲しいと縋ったものが悲惨なものでした、なんてこともあり得る。

 冷静で、余裕をもって過ごしているとき、縋った結果が悲劇への入り口でした的な判断をばかにすることはできても、だれの救いにもならないので、自分の救いにだってならない。そして救いになることがわかっていても、届かない現場は存在しつづける。

 人が担う段階が多いほど、増えるほど、負担が伴うほど、悲惨な選択の割合はね。残り続ける。なんなら増えるまである。

 そんなのは現代に限った話じゃない。

 そういう事態を回避する意味でも教養としての宗教は、地域によっては存在していた。中国や日本は哲学、論理を宗教と区別する枠組みはなかったっていうよね。

 十兵衞たち江戸時代に生きた武士や、もっと前の安土桃山時代の武将たちの教養には武道、禅、茶道、芸術などの中に宗教もあって。

 対して西洋は、宗教と哲学は別々に分けて考えていて。

 そもそも哲学っていう単語は、明治期に「philosophy」を思想家の西周が作り出した訳語っていうんでしょ? 続・哲学用語辞典から抜粋するとさ。

 その成り立ちも調べたら、楽しそう。

 でね?

 昔からずっとずっと、どうしたもんかなーっていう悩みがあってさ? いろんな人が開拓していった歴史を見て取ることができる。

 分けて別れて済むことならいい。済んだことにできるのなら、それでいい。そういう視点もあれば、実際済んでるかどうかは別だから要注意っていう視点もあればさ。済んでよしと言えるヤツはいいけど、追い出されたほうにとってはね!? ってケースもある。

 果てしない。

 明らかに分別智は、まだまだ未熟だ。あるいは接する私たちには限界がある。露骨に。

 だから「はい終わりー」って話じゃない。

 もちろんちがう。

 二項対立。二項に分別をつける。その手段に限界がある。じゃあ終わりってしてたら、なんにもならないことにまみれてるよ?

 たとえば。

 分け身として、男の私を作り出し、彼と私とで戦うのは? あるいは対話を重ね、合一を目指すのは? なんにもしないで、うんうん悩み考えているより、よっぽど行動してる。知行合一。頭だけじゃ、理論理屈だけじゃだめ。それはとてもよくわかる。

 じゃあ実際にやるかっていうと?

 およびごし!

 分別で「利はどこに!? 損は!?」と探しちゃう。

 合一として捉えるのなら、ひとつになってもいいのかどうか、その動機を探す。身構えちゃう。

 でも、探しちゃう段階でわからないこともあるよね。なにがよくて、なにがわるいのか。

 服なんかは特に謎。

 スタイリストさんと盛りあがるタマちゃんとキラリに挟まれて「春灯はなにがいい?」って聞かれたときの絶望感たるや!

 想像を絶するね……っ!

 プラダを着た悪魔という映画があってさ? ジャーナリスト志望の大学生が、何の因果か世界的ファッション雑誌の名物凄腕編集長の秘書に! ファッション誌勤務の人たちは、だれもがオシャレを愛する人々。ファッションの歴史も、いまの流行も、これまでの流行も全部ご存じ。とうぜん、お洒落な人しかいない、オシャレ空間だ。対して主人公の大学生はというと、そこまで関心はない。当然、浮く。浮きまくる。めちゃださうわあ、引くわあと距離を取られる。失笑されるならまだましまであるくらい、冷たい対応ばかりされる。

 ま。そうは言っても主人公を演じる女優さんがめちゃくちゃ美人だからさ。いや彼女は磨かなくても美しさがダダ漏れなんですけどぉ!? ってなるんだけど。

 じゃあこれでどうよっていう勢いを感じるのが、ドラマのアグリーベティ。歯列矯正をつけて、髪はぼさぼさ、眼鏡はおばあちゃんがかけてるようなフレーム。おまけに独特のセンス! スーパーでおばあちゃんがコーディネートしたかのような色彩。そんな彼女が、プラダを着た悪魔みたいな職場で働くのだから? やっぱり風当たりは強い。というか、強すぎる。

 映画は女優さんがどんどん、ファッション業界でモデルになったほうがいいって! って声高に叫びたくなるくらい美しさに磨きがかかっていく。けど、アグリーベティはちがう。ただ美しくなるだけじゃあない。ベティがたくましくなっていく。

 どちらの作品も、ファッションの歴史と、そこに情熱を抱いて生きてきた人への敬意を主人公に伝える場面がある。

 けど。

 みんながそこまで詳しくないのも事実。

 なので映画でもドラマでも、主人公に教えてくれる人は、必ずそこについても触れている。

 ただ、ね?

 そういう場かどうか考える余裕もないままに、タマちゃんとキラリとスタイリストさんという人たちに囲まれて「なにがいい?」だなんて!

 答えられないよ!

 私にはきついもの!

 知らないよ!? わからないよ!

 こちとら中学三年間、マントを羽織って付け歯つけて吸血鬼に扮して通った人間やぞ!? 舐めんなよぉ!

 なに目線だよ……っ!

 でも三人とは明らかにちがう。私はちがう。そっち側じゃない! ひとつになれない側だよ!?

 分別がつくと思うなよぉ!

 だからなに目線なんだよ……っ!

 ママが選んでくれたならぬ、タマちゃんが選んでくれた服のほうが多いんだからね!?

 どんな抵抗なんだよ……っ!

 言えば言うほど悲しくなっちゃうね。あーあ!

 でね? この場面での無分別智って、なにぃ!? わからないよ! 分別智って、なにぃ!? タマちゃんたちばりのファッションの知識? 急にはつかないよ!

 状態や状況によって変わる。分別智は特にそう。

 銃撃や暴力あたりまえの土地での暴力と、日曜日の渋谷センター街や原宿の暴力とじゃ意味合いが大きく異なる。分けて考えてみると、だけど暴力自体はどちらも同じ。けど私たちは前者と後者を分ける。スラムにおけるギャングにとっての当たり前と、買い物や遊びにのんきに集まる人たちの中で起きる非日常とで分ける。いくらでも分けられる。生まれて、親が暴力を振るう側か、振るわれる側か、あるいは両方であることが当たり前の環境で育ち、親を守るためにもうひとりの親を暴力で留めることさえあり得て、生きる術も、選択肢も、ギャングか死ぬか、安い労働か。そういう場合と、親が当たり前にいて、なるべく睦まじく過ごしてくれたらいいけどそれはむずかしいとして、ほどほどにやるのが当然で、みたいな場合と。いくらでも分けられる。男か女かでも。暴力を振るうときの程度も。いくらでも。

 分けて違うと言うことを是とするかどうかも、人による。

 構図を重ねてみる人もいれば、側まで完全に一致しない限り違うと言い続ける人もいる。

 スーパーの商品みたいだ。

 同じキュウリの棚でも、同じ場所で栽培されたキュウリが並んでいるとしても、形状もサイズもちがう。キャベツやレタス、カボチャにトマト。厳密にはみんなちがう形をしているけど、みんな同じ野菜ではある。

 お肉やお魚はもっと露骨にちがう。サイズ、肉質、鮮度。

 みな同じ魚だよね、という話をしているときに、いや種類がちがう、種類は同じだけどちがう個体だ、同じ個体でもウロコはぜんぶちがう、という具合に、分け方、捉え方は異なる。時と場合によって、分け方、捉え方はちがっていい。

 そして、ちがっていいから誤差はさらに広がる。

 厳密であれとすると、今度は人のちがいが負荷になる。

 厳密さを安易に雑に、あるいは容易に、あるいは日常の自分への負荷を減らす方向性で実現しようとすると支配的になる。

 支配的であることに対するフロムの意見には私も賛成で、それはとても危うく、求める成果を実現しようとするほど負荷ばかりが増していく過ちだ。

 一見すると成果が出ているように思えるときほど、実は危険に向かっている。

 あ。陰謀的な話じゃなく。

 暴力的に家庭の調和を実現する、酔いどれ父親。殴られつづける母親。見て泣くことしかできないこども。

 ものすっごいステレオタイプな例え話で申し訳ないんだけどね?

 このとき、父親の視点、感覚でとらえると、自分の不安をなだめる手段として依存してしまいかねない。暴力に。付きあわされる、とあえて表現するけど、母親とこどもにとってはあまりにつらい。けれど、父親はこの状況で変わらない。厳密であれとするほど父親は過敏になる。依存した手段が暴力なのだから、恐怖に敏感になるほど父親は暴力による。

 という、ステレオタイプな例え話。のみならず、実際に起きていることでもある。

 支配の手段は暴力だけじゃない。暴力にしたって、殴る蹴るだけじゃない。

 覆すのもまた、容易でない。みんなで破滅に向かっていく。

 ゆるやかに。日々、傷を増やしていく。

 集中して確認し、厳密に精度を求める仕事があるとき、それを担う人は、その労働に元気に、陽気に、あるいは集中して挑めるほどいい。じゅうぶん休めるほどいい。そのほうが、精度が増す。モチベーションは多額の報酬でまかなえるとして、でもそれじゃあ心身への負担は減りやしない。十分で、かつ質の高い休息と、自由な時間が必要だ。

 分別智で考えると、そうなる。

 知らないことがあるのなら、わからないことがあるのなら?

 聞いちゃえばいい。

 タマちゃんやキラリに教えてもらえばいい。わかんないぞ!? って、言っちゃったほうが何倍もマシ。

 でも、選択肢を分別をもって、なんていうのは限界しかない。

 限界しかないから、やめたいんだけど、その先がわからない。

 白旗。

 振っちゃう?

 わけわからないところから、改めて負荷を見つけ、こうしたらいいのではをみんなと探してみるんだ。

 ふわっとしている。何も言っていないのと同じだ。

 そりゃあそう。方針の話でしかないもの。

 ただね? 理不尽だ。いろんなことが、理不尽だ。我慢や受け流すことじゃ対応できない。また、我慢したり受け流して傷つく痛みがたまればたまるほど、どんどん許せないことが増えていく。

 それは心に障るよ。

 とても痛く触るよ?

 なのに我慢や受け流すことを分別という人たちさえいるよ?

 おまけに声高に叫んだり、怒ったりしてもままならないことがやまほどあるよ?

 理不尽だ。

 いろんなことが、理不尽だ。

 無力を学んでしまう。

 それを心に思い浮かべたとき、私はいいとは思えない。

 だから、許したいと思っている。

 無力な私を、世界の無力を、だれかが見過ごしてきた、対処できなかった無力を学んでしまう。理不尽は残る。むしろ増えていく。出くわすたびに怒り、許せなくなっていく。

 まるで生き地獄。

 そう呼ぶんじゃない?

 なにかをしても、なにかが変わることはない。むしろ受け入れられない自分が悪いのだ、なんて。そんなことが増えて、ほんとにいいのかな?

 じゃあ怒れと? 許せないと暴れろと?

 海の向こうじゃ、そのためにデモをしている人もいれば、なかには破壊工作をしている人たちさえいる。あんな風にしろって?

 まさか。

 アメリカのデモ行進を指して、おとなが若者に訴える。

 俺たちはこれしかやり方を知らず、こればかりをしている。だがどうだ、世界のなにがどう変わった? 相変わらず俺たちは貧しく、富める者はどんどん富み、地元じゃ黒人が歩くと警官が狙うままだ。しかし、これしかやり方を知らない。これ以外に訴える術がわからない。よく見ろ、そして見つけるんだ。俺たちのようになるな、と。

 たぶん、事実で。

 変えられる現場で大声で怒鳴りあうようなのや、暴力に訴え出るのは、たぶんそろそろ限界きてて。なのに、わからない。

 しかも今度は、支配的になってでも変える、その術はないかに疑問が向かっていて、それってけっきょく元の木阿弥。ミイラ取りがミイラになる。

 緊張は、ゆるめて。緩和して。

 理不尽は減らし、改め、人によって変化する負荷はどんどんなくしていく。

 夜を明るくしてみせたように。

 日本でスーパーやコンビニに商品がいっぱいあることをみんなが知っていて、行けば必ず商品があって買えるくらいに。どこでも蛇口をひねれば水が出て、それは飲めるくらいに。直接的に、ひとつに強力に依存するんじゃなく、広く浅くゆるくふわっとした依存がやまほどあるようなのがいい。商店街の良さもあれば、モールの良さもある。

 たったひとりのヒーロー孤軍奮闘より、みんなで旅していくのがいいなあ。

 決まりきった分別の顔をした理不尽はいらない。

 我慢したり、受け流したりする数だけ傷つき、その痛みへの同化を求めることさえある。

 それってけっこう、先がない。

 それでも理屈じゃなくなる。頭が働かなくなることさえある。

 自分で自分のことさえわからなくなる。

 圧迫だ。きっと、うまくいくでランチョーが言っていた。圧迫が増えると、頭がろくに働かなくて、うまく判断できなくなる。追いつめられて、ひどいことさえする。

 それはやだなあ。

 みんなが仲良くしなきゃいけないのも、みんなには罪があるっていうのも、個人的にはしんどいなあ。強迫だ。

 もうちょっとゆるくなりませんかね?

 だめだこりゃ! って、あっさり言えて、マシにできる方向性、ありませんかね?

 利益や数字だけよければ、あとはなにしてもいいってことにして強迫をせっせと量産するんじゃなくて。

 あれはだめ、これはだめと分別の顔をした理不尽を増やすんじゃなくて。

 あるいは「事前にこれをすればいいんですよ? さあ、そのためにこれをなさい。いまなら費用はこのくらい! なに、払えない? じゃあ苦しみなさい」なんていうのもいらなくてさ? 減らしたくてさ。


「それができなきゃ、私は私を許せないのかな」


 口に出して、自分に問いかけてみる。

 それもそれでつらい道だ。

 自分を責めながら生きていくことはできないよ?

 気持ちが参ってしまうもの。

 愛したいよ。

 忘れたくないのに忘れてしまうし、理不尽に参っているときほど許されない、許しちゃいけないような、とても大事な気持ちを何度も繰り返すね?

 それでも自分を愛したいよ。一緒に居たい人ほど愛したいよ。増やしていきたいんだよ。

 ただ、愛を。

 許しと共に、愛を。

 許せないことを遠ざけて、離れて、減らして、なくして。

 どうか、愛を。




 つづく!

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