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その刀を下ろして、帯刀男子さま!  作者: 月見七春
第九十九章 おはように撃たれて眠れ!
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第千七百七十六話

 



 合一。

 新明解国語辞典によると「普通、対立すると考えられる二つのものが、何かを契機として融合し一体化すること」。

 大辞林なら「一つになること。一体となること。また、一つにすること」だ。

 たとえば、知行合一。あ、ちぎょうごういつって読むんだけどさ?

 王陽明いわく、知識だけではなく、知識を基にして行動を起こし、伴うことが肝要であるとし、真の知識は行動を伴うという。いわゆる朱子学に対する陽明学だ。学問と論理的であることを重要視する朱子学に対して、いやいやそれを活かさずしてなんとする、行動するぞと動くのが陽明学。

 学ばなければ、誤ったことをする。学ばなければ!

 いやいや、学ぶ学ぶといって、なにもせぬのでは問題が起きる! これをどうする!? 学び、実践して得られる知識もあるはずではないか! そもそも行動しない者の知識とはなんだ! どれほど信用できるというのか! ならば自分たちが行動して、結果を示してしんぜようぞ! おーっ!

 と、揉めた過去もありそうだ。

 厄介。

 信条という柱は、急流に架ける橋にもなれば、裁断して人を殴る棒にもなる。

 やっかい!

 合一もそう。

 フロムは合一について述べている。先に「愛するということ」より引用した記述の後に、まとめの文章に至る。

 けど、なんだろな。

 人権とは発明であり、歴史に学んで築き上げていくものだとしたとき、前提として掲げられる内容は「すべての人は平等である」として。

 あるいは人権教育啓発推進センターから引用する「人権は、人種や民族、性別を超えて、誰にでも認められる基本的な権利であり、私たちが幸せに生きるためのものです」ないし、法務省から引用する「「すべての人々が生命と自由を確保し、それぞれの幸福を追求する権利」あるいは「人間が人間らしく生きる権利で、生まれながらに持っている権利」であって、だれにとっても大切なもの、日常の思いやりの心によって守られなければならないものです」であるとして。

 無意識に排除されるもの、ないし極限的な状況に向かっていくときに排除されてしまうものの存在が、現在にもある。

 野暮ったい話?

 まあまあ。そう言わずに。

 一方的に愛のケアあるいは労働を必要とする存在に対して考慮するとき、大事なんだ。

 愛することを技術としたとき、それは同時に人への課題となる。あるいは、そのような印象を受ける人が出てくる。

 どんな状態の人でもつけられる明かりは、まだない。けれど声を発すると照明がつくまでなら、ある。圧迫すればスイッチのオンオフができるところまではきてる。

 技術がどれほど人に結びついているかによって、その実効性、達成率は変化する。

 自動車で移動中にパンクした。スペアタイヤがない。この状態で、パンクしたタイヤの対処をして、その車に乗って百キロ先の目的地にたどりつける人は、どれほどいるか。そのとき、挑戦者に求められる技術はなにか。

 仮にパンクしたタイヤを修理する技術だとしたとき、達成するために必要な知識と技術はどれほどあるのか。

 そこから発展させて、ではどのような技術を提供すれば、どのような挑戦者が含まれていようとも、達成率を百パーセントにできるのか。

 パンクしても走れるタイヤか。一輪くらいならカバーできる車か。

 挑戦者が増えるとき、技術の習得と達成において困難が予想されるのは、人の技術か、人に提供される技術か。どちらだろう?

 どっちかなー。

 私が難しいと思うのは提供される技術、ではなく! 人の技術だと思うんだ。

 大勢に同じことを同じようにやってもらうほうが、よっぽどむずかしい。それさえ、長く続ければ効率化されていきそうだけど。でも、なんだろな。

 太古の昔にあったであろう、まず火種をみつけます、からの? 燃えるものに火をつけます、止まりだったら?

 まず火種が見つからねえよ! っていう状況に陥って、生じる問題が増えるんじゃない?

 火種の見つけ方という技術が必要そう。

 わー。

 たいへん。

 キテイの文章を思い返しながら、考える。

 技術というのなら、人から環境へ、仕組みへ、なるべく移行できないかな?

 それを目指しつつ読んでる。

 というのもね?

 フロムはどんな愛にも共通する基本的要素として、配慮、責任、尊重、知を挙げている。ここに愛の能動性が表われているとしてる。たしかに配慮も、責任をもつのも、尊重するのも、知ろうとするのも、ぜんぶ能動的な行いだ。

 配慮を通じて「愛とは、愛する者の生命と成長を積極的に気にかけることである」としている。

 責任においては「完全に自発的な行為である」として「「責任がある」ということは、他人の要求に応じられる、応じる用意がある、という意味である」としている。

 尊重では、それが欠けていると「責任は、容易に支配や所有へと堕落してしまう」としている。恐怖や畏怖とはちがうぞ、と。フロムによれば「尊重とは、その語源(respicere=見る)からもわかるように、人間のありのままの姿を見て、その人が唯一無二の存在であることを知る能力である」という。まだ続くよ? そして「尊重とは、他人がその人らしく成長発展していくように気づかうことである」とし、さらに「したがって尊重には、人を利用するという意味はまったくない」としている。

 相手を支配し、所有したいと求め、己の思うとおりの振る舞いを求めたり、変えようと試みたりすることではない。相手の変化を前提とするとき、それは愛ではなく支配なのではないか。なんてね。

 最後に、知。フロムいわく「人を尊重するには、その人のことをまず知る必要がある」という。「その人に関する知によって導かれなければ、配慮も責任もあてずっぽうに終わってしまう」というのだ。わかる。出会ったばかりの頃のやらかしは、お互いに「え、えへへ」と愛想笑いしつつ、まあこういうこともあるよねと流す。流せないやらかしをしたら、取り返せない。なので、よく知る前の出会ったばかりの頃ほど、デリケートな問題は話さないし触れない。それはデリカシーのない行いだとして、忌避するまである。

 めぐりめぐってみんなが忌避するものだから、大勢の態度が苦痛になっちゃうことさえあって、ほんとままならない。

 話を戻すね。

 フロムはこう語る。「いっぽう知も、気づかいが動機でなければ、むなしい」と。なぜか。「他人に関する知にはたくさんの層がある。愛の一側面としての知は、表面的なものではなく、核心にまで届くものである」というのだ。

 どえらいやばさのストーカーキャラがドラマや映画で凶器を振りかざして言うよね。自分はぜんぶ知ってるぞって。こわいこわい。

 フロムは「自分自身にたいする関心を超越して、相手の立場にたってその人を見ることができたときにはじめて、その人を知ることができる」としている。相手の感情の機微に気づくようになる。怯えて予想するのでも、身構えておくのでもなく。あるいは一方的にこう思っているはずだと決めつけるのでもなくね。

 加えてもうひとつ、知りたい欲としてフロムは記述をつづける。なかには「孤独の牢獄を抜け出して他人と融合したいという基本的欲求は、もうひとつのすぐれて人間的な欲求、すなわち「人間の秘密」を知りたいという欲求と密接にかかわっている」としている。

 アメリカのドラマや映画はこうした哲学や心理学を丁寧に踏まえたものが多いと思って見ると、たとえば恋愛もので浮気性の人がベッドの上で嘘はつけないというし、ダークナイトでバットマンをこれでもかと揺さぶりまくるジョーカーが人の秘密を知ることに夢中になっているようにも見える。

 けどねー。わかんないよね。

 フロムもこう述べる。「私たち自身の、あるいは誰か他人の、存在の内奥へと深く踏み入れば踏み入るほど、理解というゴールは遠ざかっていく」と。それでも「「その人」そのものであるような、人間のいちばん奥にある芯に、到達したいという欲求を捨てることができない」と。

 そしてサディズムについて、ばらばらにして破壊する残酷さに向かって語っていくんだ。

 アダムが私に見せた暴力性を重ねる内容だけど、しんどいので割愛。

 フロムはもうひとつ、秘密を知るための手段として愛を挙げる。

 結合と融合。能動的に相手のなかへと入っていくこと。知ること。


『ただし、ふつうの意味で「知る」わけではない。つまり考えて知るわけではなく、命あるものを知るための唯一の方法、すなわち結合の体験によって知るのだ』

『サディズムも、秘密を知りたいという願望が動機になっているが、何も知ることはできない。相手の手足をばらばらに引きちぎったとしても、それはただの破壊でしかない』

『愛こそが他の存在を知る唯一の方法である』

『結合という行為において、知りたいという欲求がみたされる』

『愛の行為において、つまり自分を与え、相手の内部へと入っていく行為において、私は自分を、いや相手と自分の両方を、そして人間を、発見する』


 男性的なセックスの話です?


『自分を、そして他人を知りたいという渇望は、「汝自身を知れ」というデルフォイの神託に表現されている』


 自分にも愛を。

 それを種にして育む方向性でいいような。

 けどフロムは止まらない。


『これこそがすべての心理学の根本的な動機である』

『しかしこの欲求は、人のすべてを知りたい、人間のいちばん奥にある秘密を知りたいという欲求であるから、ふつうの知、すなわち思考だけによる知ではけっしてみたされない』

『自分自身についていまよりも千倍多く知ったとしても、奥底まで到達することはなく、自分も他人も依然として謎のままだろう』


 千本刀を理解できたとしても、結局は、謎のまま。


『完全に知るための唯一の方法は、愛の行為である』


 だれかにめちゃめちゃ恋してる時期に書きませんでした?


『この行為は思考を、そして言葉を、超越する』


 読んでて恥ずかしくなってくるんですけど!


『愛の行為とは、結合の体験へと思い切って飛びこむことである』


 ずっとセックスの話じゃん!


『ただし、愛の行為によって人間を完全に知るためには、まず思考によって知る、つまり心理学的に知ることが必要だ』

『幻想、すなわち自分が相手に関して抱いている非合理に歪んだイメージを修正し、相手の現実の姿を見るためには、相手を、そして自分を、客観的に知る必要がある』

『客観的に知ったときにはじめて、愛の行為を通じて、その人の究極の本質を知ることができる』


 ここから合一の話に向かっていく。

 西洋における学問と、宗教。神さまが相手だと、知るよりも感じることへと向かっていく。教会の礼拝がそれかな? 合一体験をする。神さまとひとつになるっていう、映画やドラマで神父さまが出てくると、わりと高頻度で聞くあれだ。ウォーキングデッドの神父さまも、ドラマ版デアデビルの神父さまも言ってなかったっけ。

 ただし限界はあるよね。心理学もそうだとして、フロムは「心理学の究極の帰結は愛である」としている。

 陰陽思想における男女の陰陽。聖書におけるイヴがアダムの肋骨から作られた記述。このあたりを結びつけての、男女の合一に話を向けていく。

 それは一旦置いておくとしても、肉体的な合一体験としてセックスを話題に挙げているみたいだ。こどもを作る。精子と卵子の結合。そのあたりの話も含めているから、生々しさがやばい。

 働きかけと需要という二極性の合一。その話も出てくる。愛と性にまつわる話も。そこから流れて、フロイトへの批判的な記述へと向かい、自身の立場を明らかにしているっぽい。

 すごく鮮明な属性同士の結合ないし合一としてフロムは述べている。

 私はむしろ、もっと曖昧で、段階としてゆるやかな結合はあり得ると思う。

 結合、合一、融合。

 それはべつにセックスに限った話じゃなくてさ? スキンシップに限った話でもなくて。

 ライブで歌う私と、熱っぽく楽しんでくれてた会場の人たちとの間にも、なにかがあった。

 ものを運ぶタツくんと、目録を確認して隣をいくユリカちゃんがふたりして私を見て、笑顔で会釈をしてくれたとき、それにお辞儀で返す私との、三人の間に流れるふんわりとしたなにかも、ゆるくてふわっとした愛のある融合なのでは?

 じゃなきゃ、だって、愛の技術はセックスです! ってなっちゃうじゃん。

 究極的にそっちに向かっていっちゃうじゃんね?

 いやいやいや。

 ないないない!

 極端か!

 そんなこたあないでしょ!

 私が勝手に誤解しているだけでは?

 そろそろ止めるとして、配慮、責任、尊重、知の四つの要素については考えてみたいね? あと、四つを並べた途端に四つのことしか考えなくなるのも窮屈で、視野が狭くなるだけだから、要注意。

 合一。

 けれど知るのでは、届かない。至れない。

 考えるんじゃない。感じるんだ。ブルース・リー?

 学び、行なう。知行合一。

 けど、それを信条にして固執するのもね。囚われたら、いつしか柱はだれかを攻撃する棒になっていることだろう。こわいけど、あり得る。

 そういう点で行為としてセックスをおいたら、やまほどの問題が起きそうだ。既に問題を起こしているだれかが自己弁護に使うことさえあり得そう。

 相手を尊重し、っていうところも自分に都合よく解釈してしまえる。そういう状況を防ぐには、あまりにぜい弱だ。すくなくとも、いまの私が思い描けることでは、七十億を越える人には到底とどかない。至れない。

 人の技術としたら? 起こりえる問題に手が届かないことが増える。

 そうして過剰さが増したら? 地球に隕石を落とすくらい過剰な人が出てくる。まあ、それはアニメの話なんですけども。現実世界のどこかでいまも起きてるテロの話をしたいかっていったら、正直ことばが出てこなくなる。

 なので。

 なにか、ないか。

 人ではなくて。人の責任から切り離して利用できる、なにかが。ないか。

 紛争地で国境線をこえてライブに向かった、そんなライブがあったという。かつて。

 音楽は強い。万能でも完璧でもないし、唯一無二でもないけど、それは他のどれでも一緒でさ。そこまで過剰に求めないとして。

 娯楽と、歓喜。求める人の行動力、願い。それは強い衝動になり得るけど。音楽だけじゃ、だめで。じゃあ、なにか。

 対象を地球に広げた風呂敷を、どんどん一気に畳んで、ぷちたちと私とで思い描いてみたらどう?

 思いつかないぜ!

 参ったね!

 監視管理社会というディストピアには愛がない。ないまま極限までそぎ落として、荒野に檻を作って、そこから愛のアップデートを目指すのが、PSYCHO-PASSシリーズなのかな? シビュラシステムの問題を知るも解決を直ちに目指すのではなく、彼らと対話しながら、変容をゆるやかに求める常守さんたち。あ、これもアニメの話なんですけども。

 環境や手段としてディストピアの監視と管理のシステムを思いついちゃうの、明らかに私まいってるよなあ。やばい。危険人物になりかけてるまである。

 そんな風になるのはごめんだとして。ぷちたち相手にそんなんしたら一週間で身動きとれなくなるくらい、心がくたびれちゃうよ。お互いに。そしてぷちたちは元気さで抗い、私に怒りまくるのだ。それくらい傷つけたいかって? ないない。だから、絶対にごめんだ。

 けどなー。

 なんだろ。

 ハグとか。話を聞くのとか、見守るのとか。目が合ったときに笑いあうとか。おっきな声をみんなでだしてはしゃいだり。そういうささやかでゆるやかな合一の積み重ね?

 んー。

 仲良くしたい同士なら、それでいい。そうじゃないときのゆるふわ合一は、なにがあるのかな?

 そんくらいから始めても、まだ性急なくらい、技術として未熟なのかもしれないね?

 ハグにしても、お話するにしても、ちぐはぐになることあるじゃんね?

 えっちまで含めたら、そりゃあもう! 勘違いややらかしの嵐じゃん。

 ないないない、それはやめとこ!? っていうしくじりも、あるじゃん。

 相手と一切、対話もないまま必殺技をくりだすこともあるっていうじゃん? カナタもやってたよ。具体的には言及しないけど。私もいっぱいやったし! お互いさまだし? ベッドの上でのことは秘匿特権によって守られるんだよ? じゃなきゃね。安心できない。安全かつ安心でなきゃ。

 別にそれはベッドの上に限った話じゃない。

 ただ、作り出すのも、保証するのも、守り抜くのも大変。

 やっとたどりついたベッドの上の秘匿。秘密と謎への距離感。

 それゆえに裏切りは許せない? あるいは、それくらい緊張感のある日常を是とすると?

 なんだか、それって生きにくいぞ?

 極端な例でもあるぞ?

 けど、その極端さの沼地にはまることもあり得るのが人生ぞ?

 んー。

 人が担うことがひとつ増えるだけで、人によって生じる誤差の範囲が増える。おまけに沼地にハマったときほど、その誤差によって起きたことを人に求めて、支配的に抑圧することもざらにある。

 この手の話は「考えたところでよー」となるから「あーやめやめ! うさんくさ!」となりがち、済ませがち。けど調べてみると、西と東の区別なく、至るところで悩みの種になっていて、いろんな知識に繋がっていっている。無分別智や妙好人みたいに。

 説明すると長くなるけど、ざっくりいうと自由とはみずからによると書くじゃない? 罪を犯すことから逃れるべく、これをするべき! ではなく、善人も悪人も成仏できるので、救われるためにいいことをするんじゃなくて、救われてるからいいことしとこってノリでさ。あ、これいいことだわって感じる知恵みたいなものもあるよねって話。無理も、無茶も、救われるために固執っていうのも、なし! あ、こりゃいいことだ、やっとくべ~くらいのノリ。

 そのあたりは西と東にみる人生観のちがいかも?

 人は罪を背負って生まれてくる、だからいいことをしなければならない! なのか。

 みんな救われて仏や阿弥陀になるから、自らに由るとして、いいことしとこっかー、なのか。

 東とざっくり言うけど、もちろん地域による。こまかぁい話は今回は割愛。

 好きな人の多い三国志みたいに、動乱激動の時代に揉まれて変化する価値観もあったろうし? 揉まれて変化という意味なら、フロムで考えた第二次大戦前後の激動っぷりも同じ。

 ドラマ版のデアデビルなんか強迫と恐れ、怒りと葛藤の連続。教会に行って告白しても楽になることはない。彼の罪は許されない。原罪からの救済は? 求めても、手が届かない。だって彼自身が彼を許せないのだから。そりゃあ、許されるときは来ない。彼が自分を許せるようになるまで、道は遠のく。

 大仰な話のようで、ネガティヴ・ケイパビリティで考えると?

 まあまあそんな話はさておき、ひとまず仕事をして、みんなと楽しんで、生きていこうぜって愉快な親友が彼に何度も訴えるし、彼はそうして生きている。いろんな問題が、そりゃあ数えきれないほどあるけれど、いきなり答えを出そうとせず、解決を直ちに目指すのでもなく、自分の個性も全体性も歪めない範囲で、愛せる限りを愛して生きてる。

 なんなら、日常系アニメくらいのノリで、親友の彼は過ごしてる。

 主人公は放っておけないから、動く。そうせずにはいられないから、動く。それが彼だからともいえるけど、でも、彼はしょっちゅう個性を見失い、全体性はぐらぐらに揺さぶられまくりながら、苦しみもがいている。そんな状態でトラブルに向かって突き進んでいくから、ちょいちょい過剰な結果になる。

 率直にいえば日常系アニメくらいのノリがいい。

 だけどデアデビルの主人公みたいに、ぐらんぐらんに揺れる波の上で必死にもがいている場面が続いている。

 いまは?

 穏やかだ。みんながいて、私がいて。

 ぷちたちはイチゴたちがお世話してくれているけど、あの子たちと楽しく過ごせてはいるのだ。ずっと。

 個性や全体性が損なわれることなく、損ねることもない。そういう関わりないし、距離感。

 何も知らず街中で通りすぎる人とは? 一切かかわらず、通りすぎるだけ。お互いに妙な干渉はせず。それが当たり前。だからたまに、酔っ払ってうぇーいってなってる人がいたり、一緒に歩いて「あの」と勧誘してくる人がいたりすると「あーもう」ってなる。心を和ませてくれないよ。むしろおっかないよ?

 じゃあ、ぷちたちとだったら?

 カナタとだったら。キラリとだったら?

 中学時代のキラリとなら、私もキラリもふたりでお互いに波を立たせていた。ふたりが近づくほど、お互いに自分が揺さぶられていた。発端は私。細かくいえば複雑だから省くとして。大まかには私。

 カナタとなら、お互いにふーって気が抜ける。安心できる。お互いにとって安全な居場所。細かくいうと、またごちゃごちゃするから省くとして。だいたいそんな感じ。

 ぷちたちとだと? あの子たちはまだ、距離感を探っている。理由はシンプル。あの子たちといるとき、私が私を揺さぶるのだ。私が私を許していいかわからないし、許しちゃいけない気がするし、許されたいし、許されちゃいけない気もして。ごちゃついてるでしょ? で、落ちつかない。そんな私だから、ぷちたちは戸惑ったり警戒したり、怒ったりさみしがったり、それでも甘えたかったりする。

 そうだ。

 ぷちたちといると、私は途端にデアデビルの主人公みたいになる。

 そわそわする。日常系アニメくらいのノリになりたくても「許し」の取り扱いがさっぱりわからなくて。

 それは取扱注意の繊細なもの。場合によっちゃ原罪として、生まれたときから罪があるなんて勢いになっちゃうものなのでは?

 だからこそ、かな。

 まあまあ。善人も悪人も救われるよ? どんな人でも成仏できるよ。なんなら苦しみ悩むぶんだけ悪人は早めに成仏するまで、ある! 善人になることもない。むしろ善人だ、なんて思うのも、それを目指すのも、こわいこわい! 人は自分のまま、自分の心によって生きていくといいよ。だいじょうぶ。心配しなくていい。そんじゃま、いっちょ気楽にいいことしとこうぜーって。

 そういう考えがでてくるの。

 成仏イコール早死にだったらこわって感じだけど!

 いい人になろう、こういう人にならなきゃだめだ! っていう強迫観念はいろんなことを歪にする。あなたのままでいいよ、という。

 世界を分ける。分別して、知る。いいことと悪いことに分けて、いいことに向かう。なぜなら、悪いことは罪だから。別れるべきだ。そういう分別は、人が行なう。景色を見て、大地と山と空とに分ける。海と川を分ける。でも、人が行なう分別智は、どれほどのものだろう?

 私たちが分けて考えていることは、人の限界を前提としたとき、どこまであってんのぉ? わからん! まず分ける前の、すべては一、一はすべてという禅問答みたいな状態からいかない?

 無分別智。

 そもそも私たちの分け方は目的に対して、どこまで手段として活用できてるかもわからない。

 なのに、なにを許すの許さないのと恐れて、ますますしくじりつづけるのか。

 そんなに肩を怒らせて、ぷちたちと接してどうするのか。

 意味ないじゃん。それは。

 それゆえに許しから始まるまである。

 日本的霊性という考え方。あるいは、お経に読む意味。

 案外、日常系アニメや四コマ漫画のゆるふわさえ、そういうとこあるのかも。

 おー。

 愛するということから罪の概念を差し引いたら、どうなるのかな?

 純粋にさ? あ、これいいんじゃねってお互いに楽しめるような、そういうゆるくふんわりとした技術って、なんかないかな?

 それなら、すでにあるんじゃない?

 一緒にご飯を食べたり、遊びにいったり、なにかを見たり、話したり。

 気持ちが参って気づけてなかっただけで、ぷちたちと一緒にやってることがたくさんあるよ?

 私が私を許せないぶんだけ、そういうことが見えなくなる。気づけなくなる。

 許せないことを見つけるのが上手にはなるかもしれない。

 ただ、許せないことに気づけるよう敏感になるほど、他の感覚が鈍くなる。

 もったいねー! それはかなり、もったいねー!

 現実のキラリを見えなくして、私の求めるキラリとのギャップばかり求めてさ? キラリと楽しく遊びたい私の気持ちは一瞬で見えなくなる。

 カナタとシュウさんもそうだった。マドカだって。トモだって。ノンちゃんだって、ギンだって。これまで出会ったつらさに共通して見えることだ。

 行雲流水。

 ゆるりといこう。

 ちがう形を、みんな標準化させるような合一は不可能だ。ちがうままなのに、みんな同じっていうのはね。無理しかない。ちがうまま、愛を不可能にするような距離感に縮めず、求めず、窮屈にさせないまま、居るのがつらくないまま。これらを達成するとして、便利になる発明が今後もやまほどほしい。火をおこせなきゃ夜が危険な時代から、だれでも気軽に明かりをともせる時代を目指す。

 罪と罰の限界。強迫。怒り。肯定したら限界へ突き進むことになる。じゃあ否定したら? それでも感情は残る。そのケアは。

 教授であったシャルに向けての私は、抑えきれず。ケアは途方に暮れる。

 千本刀もそう。けれど、罪の刺激を強めるほどに、私は痛みに囚われる。その感情のケアはほんとうに難儀だ。

 たとえば答えを迅速拙速に求め、解決を求めるのなら? 無分別智の話で「だから気にするな」と言いがち。

 でも、それはいかにも雑だ。

 感情も、苦しみも、痛みも消えない。なくならない。過去もね。

 もしかすると被害を受けたとき、ネガティヴ・ケイパビリティを、というのもきつい刺激になりそうだ。

 なので、自分に問いかける。

 私は、私を、許せるだろうか。

 わからない。

 ほんとのこと言うと、許せないことばかりしてる。ずっと。

 キラリに対しても。小学生のとき、さっさと根を上げなかったことも。トウヤが生まれたばかりの頃の嫉妬も。お母さんにあれだけ言われてたのに、気を抜いていた夜のことも。教授と対峙して、なにもできずにいたことも。アダムを助けられなかったことも。仕事のあれやこれや。

 タマちゃん、十兵衞。御珠。

 ぷちたち。

 至らなさで傷つけてきた人、縁、やまほどあるから。

 私は私の未熟に、腹を立てている。

 許せないと思う。

 それでも、許したいと思ってる。

 ずっと、そう思っている。




 つづく!

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