第千七百七十五話
もしも、ふたりで同時に押さなきゃいけないスイッチがあるとする。
きちんと押せなかったら? ううん。戦争になるとか、ウイルスが拡散されるとか、そういう破滅を招く結果になる。
なので、ふたりでせーので同時に押さなきゃいけない。
おまけにさ?
その現場は世界中にライブ配信されてるわけ。
でね?
スイッチは、押すふたりの股間についてんの。
そしてふたりは男女なわけ。
スイッチはもちろん押さなきゃいけない。世界中が圧をかけてる状況下。固唾を飲んで見守るし、各国首脳の命令で派遣されてるいろんな特殊部隊のエージェントたちが「おせええ!」とか「やめろおお!」とか言って、ぷち代理戦争状態に陥ってんの。
そんな中でよ?
だけどもだっけどーも?
ライブ配信されてて、大勢が見守っているわけ。
押してしかるべし。
押さないなんて、あり得ない。
そんな状況下でよ?
でも、相手の股間にスイッチがついていて、自分の股間にタッチじゃ解除されないわけ。
ハードル高いじゃん。まあ、代償を考えると押す以外ないとして。それはそれとして、ハードル高いじゃん。
押したあとの生活のしやすさ、あるいはしにくさ的に、どうかな。
C級に手が届かないレベルの映画にさえならない気がすると思うんだけど。それでもあえて、映画にするなら? ふたりは絶対に付きあうか、元恋人かなんかなの。男はすっごいアホで、冴えなくて、地元を出たことなくて、うだつのあがらない生活してんの。で、女性はしっかりやってて、けっこういい仕事もしてるんだけど、なんかこう、プライベートで問題を抱えてる。
映画なら、まあ、そんな感じだとして。
たまにあるじゃない? ハリウッドの脱力系、あほ、プラス世界を救う、かつアクション! みたいなやつ。あんなラインの映画だとして。
あ。いまさらでなんだけど、のっけから下ネタだけどさ?
映画じゃないから、全世界に生中継されたタッチ後に生活するときの「あ。あの人あれだ」っていう目は、どんな感じになるのかな。
アベンジャーズなら「トニーだ!」とか「キャプテンアメリカだ!」とかってなるところを「あーの、だれだっけ、さっきの人」「ほら、股間に触って世界を救った」「ああ!」ってなるのかな。
いたたまれない……いたたまれないよっ!
それでも世界を救っただけマシかも。
そんな風にはならないとして、なんてことない仕事とか、勉強とかをしていくとして。生活していく過程で、いろいろやらかしたり、うまくいったり、しくじったりしたとして。
そこでの負荷はどうすんの?
大昔の人々はどうしてたの?
お祭りだ。
豪勢なものを食べる。儀式を行なう。非日常の刺激を取り入れる。
それは興奮する葉っぱを噛むことかもしれない。独特の香りのする液体を飲むことかもしれないし? 古代オリンピックのようにお酒と牛肉を食べて、血が飛び散る戦いを観戦することかもしれない。神を人の身におろして占うことかもしれなければ、捧げ物をして神に祈ることかもしれない。
ベルセルクにおける断罪の塔で行なわれたサバトは?
人の肉と少ない食糧を煮込んだ鍋を食らい、薬物と酒で酩酊状態に陥り、乱交することだった。男も女も関わりなく、神の大きなイチモツに口づけて、ただただ交わるのだ。そこでは姦通の罪は許され、結婚の有無も取り払い、肌を重ね合う。
現実にそうした風習が過去にどれほどあり、それを示すエビデンスとして確かなものがどれほどあるのかは知らない。知らないよ?
日本だとお祭りは未婚の人たちの出会いの場かつ性交の場だったーとか、実は既婚者もいたーとか、いやいやそもそも地域によっては夜這いの風習があったーとか。
海外でもさ? 似たような伝聞もあったんじゃないかなー。
真偽はいずれもさておきね。
漫画で描かれた淫らな夜。司祭だの、巫女だの、あるいは権力者だのが「今夜は無礼講」として、日頃は禁忌とされる行いが許される。そんな、特別な夜。その夜のことは、特別に許されるから、その後に持ち出さないこととする、みたいな。そんな夜。
乱交だの性交だのだけでなく。
特別感を演出して興奮できれば?
それはたとえば豪勢な食事とか、強いお酒とか、薬物とか。そこまでいかずとも、普段は目にすることのない儀式や、儀式的演出が行なわれたら? それを引き金に盛りあがっちゃう。
なんなら、楽しんでストレスが解消される。
これまでえげつない例を並べたけど、もっと現代で一般的なものでもいい。
たとえば?
花火大会。推しのライブ。音楽のフェス。近所のお祭り。こんなのでもいい。
旅行だってそうだし、習い事教室だってそう。美術館とか、動物園や水族館とか、そういうところに足を運ぶのだってそう。
普段はいかない特別なお店に、特別な人と行くのもいいね? そこまでハードルをあげなくても、馴染みのお店に行くのだっていい。
一年に一度のクリスマス。バレンタインにホワイトデー。お正月や、七夕。
他にも京都を特集している番組にみる、季節による一日の過ごし方にあるならわしなんかもそう。
必ずしも他者との触れあい、交わりを前提とせず、他のいきものや、他の環境の空気を味わい、楽しむことでもいい。
エーリッヒ・フロムの「愛するということ」では祝祭的興奮状態の話において、セックスを取り上げている。スキンシップが、互いにそれをそのときに了承し、互いへの配慮のもとに行なわれるとき、心地よい安心感を与えるとする。
男の射精、女は受け入れること、それによって互いに相手に与えるみたいな文脈で、お互いに与えることで満たされるとしている。なぁんか、このあたりは据わりが悪いというか、昔の本だなーとしみじみ思う部分。
触覚があることを前提としてしまうけれど、人の赤ん坊は生まれてから長い間、だれかに触れてもらいながら成長していく。その過程で、好ましい接触ないし、好ましい存在との接触を欲する手段を獲得し、それによって安心を得る部分があるのかなーって思うのだ。
つらいとき、悲しいときに思わずハグを。映画だと使い古されたベタな演出に思えるし、つらいとき、悲しいとき必ずしも、だれが相手でもいいから触れてほしいとか、ハグしてほしいわけでも断じてない。
ただ、親しくて、安心できる相手につい、ということはある気がするし? 参っていたら、そこの判断力が鈍りがちな気もするし。だからこそ、そこでの不埒さは暴力として、全力で留めて、献身的に互いに触れあうほうがいいのではないかという気がする。幼いながらに親族のお葬式に出たときに、そんな感覚を抱いた。ちびっこの頃ね。
けど、ほら。
なんだろ。思春期になって、それなりに性欲も出てきてさ? 知識も得ると、こう。ね?
連想する。どっちなのかわからなかったり、そういう瞬間なの!? と戸惑ったりする。
入学当初、ギンが部屋に来たときは大いにあわてたものでした。なつかしっ!
それがどのようにして危ういことなのか。
避妊について知識がなかったり、心が参って弱っているときにそういう流れになって拒めなかったり、備えがそもそもなかったりしたら? なにが起こりえるかは想像に難くない。
漫画のサバトも、だから、たとえば「今夜は欲に溺れよう。それが許される日だ」なんてホストが声高に許可を叫んでもさ。避妊せずにすれば妊娠する。そんなケースもあるだろうし?
もし仮に現実に、過去、そういう祭りをしている地域があって、仮に既婚者が乱交に加わっていたら? なにが起きるか。当時の価値観次第じゃ、血なまぐさい争いや諍いが絶えなかったのでは? みんなを招くからそういう争いになるとして、一部の有力者だけを集めるとか、いろんなバリエーションが存在する可能性もゼロじゃないけど。
そういうのはさ?
薄い本に任せるとして。
そのあたりの区別と、落ちつくうえでのスキンシップは、どちらも習得するたぐいじゃない?
知識がいる。実践も。
あ。薄い本的な話題を茶化すようにしたいんじゃなくて真面目な話ね。
セックスとか、性的なニュアンスなしの、心の負荷を軽減するうえでのスキンシップの話。
ふれあい動物コーナーとか、イルカと触れあうセラピーとか。世界中の人とハグして旅する人とか。居るのはつらいよで語られる、とっさのハグとか。そういう話ね? 介護老人ホームに犬を、という流れもあるけれど、それも近しいところがあるような気がしてる。
まあ。
ぜんぶ。
しろうとの妄想なんですけども。
触れあうことから、いきなりセックスに飛躍するんじゃなくてさ?
赤ん坊を抱き締める養育者さんとか、こども同士が仲良くなって手を繋ぐのとか、そういう段階があるじゃない?
ついでにいうと「おーかわいー!」とはしゃいでついつい「触っていいですか」ってなる、あれはけっこう怖いよね。言われて求められる側にしてみると。相手が、どういう人で、どういう風に触れるのか、どちらもちっともわからない。むしろ相手がどんなかさっぱりわからない。通りすがりなら。
じゃあ知り合いが相手なら問題ないかっていうと?
それはそれでやっぱり怖い。センシティブ。
距離感の話だ。
触れる。ともだち相手でも、触れるのって結構ハードルの高い行為だ。どんなに仲良くなっても触れられるのはいやという人もいる。生理的に無理とかね。
そういう段階だって、あるわけで。
赤ん坊だからとか、ペットだからとか、仲良くなったからとかが免罪符になるわけない。
ともだちだから、恋人だから、結婚したから、パートナーだから? それもちがう。だめだ。
ここがねー。
バグってる人、整理してない人、する必要を知らない人、いろいろいる。
どんなにさみしくても、つらくても、それが免罪符になるわけでもない。
互いの了解を。合意形成を。
一方的なのはだめ。
問いかけて、対話をして、お互いにやろうとなったら、そこではじめてどうぞって話。
そのわりに矛盾しているというか、バグりがちな気がする。
祝祭的興奮状態ないし、昔にさかのぼるほどいまより身近だったかもしれない接触は、心理的に落ちつくとして。だからこそアディクションになり得るのだとして。
日頃はむしろ、そのハードルは高い。とてもとても、高い。
なんで?
安心できる手段で、効果が高くて、とどまれるならそれでいいんじゃない?
できない。
下半身で考えちゃう人が相手だと、まー無理。
ハグだけでいい、あまあましてるだけでいい。そういうときに「やったー! オッケーのサインだーっ!」と相手がその気になったら? なんかもう。ちがうんだけど。そういう流れになるのでは。
待て、と。ちがうぞ、と。
そういうの、届けられるかっていうと? むずかしい。
なので。
できない。そういうこと?
んー。それか、私が極端にいってるだけで、スキンシップ自体はしてるのかな。
ぷちたちはしょっちゅうしてくる。朝の寝起きは相当すごい。みんなひっついてるもの。
私は私でトモやキラリやマドカたちと手を繋いだりくっつくくらいは結構ある。うちに帰ればお母さんにひっつくことも、まあたまにある。カナタが相手なら、もっと近い。
それぞれに、それぞれなりのスキンシップ。
正誤でチェックするのを控えるなら、一時期かなり激しかったのが麗ちゃんで、聖歌ちゃんもかなり危ういところがあって。ふたりともいまじゃだいぶ落ちついていながらも、スキンシップは多いほう。ともだちや好きな人を相手に触れる形で、愛着として繋がっている場面をよく見かける。
大人を見ていると、とたんにけっこうハードルがあがる。
トシさんはばしばし叩いたり、拳を合わせたり、いろいろスキンシップを取るほうだ。ナチュさんはそういうの、あんまりしない。高城さんとカックンさんもそうかなー。
トシさん行きつけの居酒屋のマスターは全然。お姉さんは同性が相手ならわりと密。男性には一切なし。お店に集まる男性陣、みんないい年こいたおじさんたちなので、たまにおじさんたちで風俗の話をしてる。で、奮発したのに元気が出なくて、お姉さんとくっついて話してたら、それはそれで充実したなんて言って、みんなに「ないわー。行ったら最低でも一回はがんばれよ、もったいな!」と集中砲火を受けてた。
ほんとやめてほしい。
ほんとやめてほしいんだけど、でも、状況によってはそれくらいスキンシップってハードルの高いものなのかも。
コンビニのバイトをしている好ましいなーって思えるだれかに、お釣りを渡されるときに手をきゅっと包まれたら心がきゅんとして「あ。好き」ってなる、みたいな呟き。それに対する評価はさておき、横において。
触れるって、けっこう繊細で、刺激のあるもの。
フロムは触れることをセックスと結びつけつつ、それが愛のない状態への恐怖を緩和させる一時的な手段として肯定的な面があると語っている。
くどくど繰り返すと、触れることとセックスは切りわけて考えるとして。双方の合意が大事で、待ったがかかったら絶対に中断するとして。
幼い頃の触れる刺激を切実に求める孤独さ、孤立って、なんだろう。
言いにくいことのような気はする。
私はここにいるよ。愛して。どうか、触れて。触れさせて。それを許して。許させて。
切実なメッセージは、生々しさがあるから? それとも自分という重さ、相手という重さがそのまま繋がるような気がして、怖いから?
怖さなのだとしたら、二重になるね?
孤独や孤立の怖さと重なるんだから。
なんだかなあ。
出る杭の話をしたじゃない?
知ること。実践すること。習得すること。それらはまるで、にょきにょきっと伸びるように成長するようだ。杭が、出ていく。にょきにょきと。
けど私は疑問だ。
知れば知るほど、知らない世界に気づいていく。知らない領域が広がっていく。実践もそう。習得すればするほど、していないこと、足りなさに出会っていく。
まるで、ね?
学ぶことは、深い深い底なしの水の中へと潜っていくかのよう。
試す回数は、潜った回数。習得したことは、水の広さ、深さ。
だけど領域まるごと潜ったわけじゃないから、過去に潜った地点AとBの間を埋めることにはならない。むしろ、そこは潜ってみなければわからない。A地点の深さaとB地点の深さaを泳ぐのと、水面間を泳ぐのとだと、やっぱりちがうしさ?
そういう果てしなさを思うとね?
絶対的価値観も、絶対的に共有できる知識も、どちらも肯定しがたいなあ。
同一化、標準化を求めるのは人の生理に逆行している部分もあるんじゃないかなあ。ぜんぶがぜんぶ、だめっていうんじゃなく。便利さはあるとしても、安易に思考停止すると危うい面が具体的にあるんじゃないかな?
それぞれ個々人にとっての価値基準があって、基準が生じるまでに前提や文脈が存在していて、それらは容易には共有できない。また、話してみたところで、話者の抱える状態など情報量が増すほど共有の困難さが増す。共有しなければ同じ視点で同じ用法で言葉を扱えず、対話に困難が伴うとしたら、じゃあ、どういう風にコミュニケーションを図り、どういう風に負荷を軽減し、必要に応じて臨機応変に自身をケアできるのかな。
わからん!
ロールズの格差論や正義論に待ったをかけるエヴァ・フェダー・キテイの「愛の労働あるいは依存とケアの正義論」の内容をふり返ると、ね?
価値基準、価値観、知識。
それって社会の影響、環境要因の影響をモロに受ける。
マルクスにみる共産主義。旧ソ連の結末。バブル崩壊。その後の日本が、どんなだったか。平成が終わる、ここでの評価は? すくなくともどんどん厳しくなるばかりの現状では、よくて不可じゃない? 不可という二文字で済まないくらいの被害と、今後に渡って出続けるであろう影響を思うと、とても二文字で語れないじゃない?
フロムの時代はマルクスの言葉が強かった時代みたい。マルクスというと、あれだよね。労働者は搾取されてて、雇用主は過去の王や貴族たちのように労働者を搾取している! あかんでぇ! 万国の労働者よ、団結せよ! みたいなの。
剰余労働が発生していて、富裕層から剰余労働を取り立てないと搾取されつづける! だっけ。
でも実はありとあらゆるものに剰余価値が発生しまくっている。
なにせ、ビジネスは儲けのためにやる。民間“は”儲けてなんぼ。だから商品には剰余価値があって、流通することで私たちは剰余価値に必ず接触する。売買するとき関わる。そこに富裕層も貧困層も関係ない。強いて言えば貧困層にとっては剰余価値のぶんだけ負担が増えそう。税金と一緒なのでは?
ファクトフルネスにも記述があるけれど、国の経済成長や全体の所得の成長よりも、金持ちがより金持ちになる速度が明らかに早い。
それは、そう。
ピケティさんが調べて明らかにしている事実。
貧困層が一万ドルを稼ぐよりも、ビリオネアが投資で一万ドルを稼ぐほうが遥かに容易だ。崩落やガス漏れで死ぬ危険のある鉱山に潜って宝石を採取して安価で買い取られて日銭を稼いでいる人よりも、宝石が加工され、流通経路に乗り、売買する企業のもとへいく、その企業の高給取りが投資で稼ぐほうが、楽だ。もっとえげつない格差の例だって、やまほどあるだろう。
資本家優位の経済だ。
回り回ってやっぱりマルクスの言葉って事実なのでは? と思ってしまうほどに。
法人税や所得税は富裕層のうえへと向かうほど、がんがんあげて、そのぶんを貧困層に再分配する。企業は社員にがんがんお金を使い、稼ぎすぎた人たちには待ったをかけろ。だって、資本家優位の仕組みなんだもの! とね。
わーお。
哲学や心理学の話をしているつもりが、気がついたら経済学に片足が!
ほんと果てしないわあ。人生という海は。
ピケティさんの「21世紀の資本」という本は要チェックリストに入れるとして!
そういう仕組みさえ肯定しかねないリベラリズムや、正義論、格差論はあまりに人間を見ていない。資本家優位の経済を見ている。また、経済の成長、ひいては資本家優位へと向かっていく未来を見ている。
だからね?
ちょっと待ったァ! と制止する。
第二次大戦に向かっていくうえで、世界を席巻した優生論。共産主義を掲げる旧ソ連で起きた悲劇の数々。のみならず席巻した優生論から生じた人権を攻撃する行いの数々。
二度と繰り返さず、過ちに学ぶとして。
なにができるのか。
富裕層も貧困層も関わりなく生じる、愛の労働。あるいは学び、あるいは知識、あるいは習得。技術。転じて、愛とはなにか。
プラトンのエロス。世界に生まれる前に見たイデア、永遠不変の実在。生まれるときに忘れるイデアへの純粋なる憧れを指す。ギリシア語における、純愛。
アリストテレスはフィリア。友愛を語る。共同体の維持には友愛が大切であり、正義の有無にかかわらず友愛が必要だと訴える。お互いに幸せになることを望む愛。
そしてキリストによる無償の愛。つまり、アガペーの登場だ。禁じられた行いがあるとしても、困っている者がいたら声をかけ、血を流す者がいたら看病し、苦しみ孤立する者がいたら隣に行って穏やかに安らげるときまで話す。神が人に与えたもう、損得勘定のない、愛。
他にもねー。
たぶん、いろいろな定義があるんだろうね?
物語はシェイクスピアへと帰結する、みたいに語る人がいて、そういう人たちにとっての愛もあれば、それとは別にシェイクスピア本人に確認しようのない彼の愛があってさ。
フロムの「愛するということ」においてももちろん語られている。
愛と性として、フロイトは性を十分に理解していないとし、性についても語っている。
前に高橋先生に教わった「学問の自由と人間の理性に基づく真理の探究と知の創造を」みたいなのでいくと? 先人の教えに触れたとき「なんで? どうして?」と疑問を見つけ、そこから自分の真理を探し求める旅に出る。
海へと潜るんだ。
フロムがフロイトに「ん?」となるように、私もまたフロムやフロイトに「ん?」となって、海へといくらでも潜るとして。
フロムの記述を引用していこう。ちょっとだけ回り道になるけどね?
『(略)成熟した愛は、自分の全体性と個性を保ったままでの結合である』
『愛は、人間のなかにある能動的な力である』
『人を他の人びとから隔てている壁をぶち破る力であり、人と人とを結びつける力である』
『愛によって、人は孤独感・孤立感を克服するが、依然として自分自身のままであり、自分の全体性を失わない』
『愛においては、ふたりがひとりになり、しかもふたりでありつづけるというパラドックスが起きる』
ぱらどーっくす!
ここで活動の話がでてくる。
愛とは活動だとしたとき、活動の定義とはなんなのか。ひどく曖昧だ。
写真アプリで流行りを確実におさえたり、呟きアプリでバズったネタに必ず反応したり。テレビだとわかりやすくない? 流行ったものは必ずやってる、みたいなの。おじさんたちが気にしてる。ダイエットもそう。いまきてる食べものなんかもそう。
『これらの活動すべてに共通しているのは、達成すべき目標が自分の外側にあるという点である』
『そこには活動の動機は含まれていない』
『たとえば、強い不安と孤独感にさいなまれて休みなく仕事に駆り立てられる人もいれば、野心や金銭欲から仕事に没頭する人もいる』
『どちらの人も情熱の奴隷になっており、彼の活動は、能動的に見えてじつは「受動的」である』
『自分の意志ではなく、駆り立てられているのだから』
強迫性の話に近いかも。
仕事に結びつけているあたりに時代を感じるようであり、それは現代でも共通しているようであり、複雑。
『いっぽう、静かに椅子にすわって、自分自身に耳を傾け、世界との一体感を味わうこと以外なんの目的ももたずに、ひたすら物思いにふけっている人は、外見的には何もしていないので、「受動的」と言われる』
ムの修行してそう。
『だが実際は、精神を集中した瞑想は、きわめて高度な活動である』
禅かな?
『内面的な自由と自立がなければ実現できない、魂の活動である』
フロムが東洋に触れて禅にハマる下地かな?
『以上をまとめると、活動の、現代における意味のひとつは、自分の外にある目的のためにエネルギーを注ぐことであり、もうひとつの意味は、外界の変化にかかわりなく、自分に本来そなわっている力を用いるということである』
すこし飛躍というか、これまでの話とここでのまとめの間に段階がありそうじゃない?
『後者の意味における活動について、もっとも明快に述べたのはスピノザ〔一七世紀オランダの哲学者〕である』
『彼は感情を、能動的な感情と受動的な感情、「行動」と「情熱」とに分ける』
『能動的感情を行使するとき、人は自由であり、自分の感情の主人であるが、受動的な感情を行使するときには、人は駆り立てられ、自分では気づいていない動機の僕である』
強迫性のしもべ。
ふたをしてたまるガスの発生源。
あるいは満たされず、認められず、認識さえしていない可能性さえある、自分の素直な欲求。満たされず、認めてしまうと痛みに心が張り裂けそうになるような、なにか。その、しもべ。
『かくしてスピノザは、徳と力とは同じひとつのものであるという結論に達する』
いきなり徳と力!? スピノザのエチカからの引用みたいだ。
『羨望、嫉妬、野心、貪欲などは情熱である』
『それにたいして、愛は行動であり、人間的な力の実践であって、自由でなければ実践できず、その実践を強制することは絶対にできない』
おー。強めの表現だ。絶対にできない、だもの。
『愛は能動的な活動であり、受動的な感情ではない』
『そのなかに「落ちる」ものではなく、「みずから踏みこむ」ものである』
『愛の能動的な性格を、わかりやすい言い方で表現すれば、愛は何よりも与えることであり、もらうことではない、と言うことができよう』
とうとう辿りついた。
愛は与えること。もらうことじゃない。
愛されるよりも、愛したい。
『与えるとはどういうことか』
『この疑問にたいする答えは単純そうに思われるが、じつはとても曖昧で複雑である』
『いちばん広く浸透している誤解は、与えるとは、何かを「あきらめる」こと、剥ぎとられること、犠牲にすること、という思いこみである』
わお!
これらを誤解としたなら?
そりゃあなるほど。たしかにいちばん広く浸透しているにちがいない。
『性格が、受けとり、利用し、貯めこむといった段階から抜け出していない人は、与えるという行為をそんなふうに受け止めている』
これまた強い表現だ。
『商人的な性格の人は喜んで与える』
『ただしそれは見返りがあるときだけだ』
よくドラマや映画で聞くやつぅ!
『彼にとって、与えても見返りがないというのは騙されるということである』
うんうん。よく見るヤツやん!
『基本的に非生産的な性格の人は、与えることは貧しくなることだと感じている』
『そのため、このタイプの人はたいてい与えることをいやがる』
これもよく見るね?
『いっぽう、与えることは犠牲を払うことだから美徳である、と考えている人もいる』
いるいる!
『そうした人たちに言わせると、与えることは苦痛だからこそ与えなければならない』
『彼らによれば、犠牲を甘んじて受け入れる行為にこそ、与えることの美徳がある』
『彼らにとって、もらうより与えるほうがよいという規範は、喜びを味わうよりも剥奪に耐えるほうがよいという意味なのだ』
ドラマや映画のえっぐい暴力を振るう人たちや、カルトな集団の人たちに見るタイプだね?
『生産的な性格の人にとっては、与えることはまったくちがった意味をもつ』
フロムにとっての本命かな?
『彼らにとって、与えることは、自分のもてる力のもっとも高度な表現である』
中略! いかに高度かの説明はいったん省くね?
このあと、男女のセックスに話が向かっていくんだけど、そこもカット。
『物質の世界では、与えるということはその人が裕福だということである』
『たくさんもっている人が豊かなのではなく、たくさん与える人が豊かなのだ』
『ひたすら貯めこみ、何かひとつでも失うことを恐れている人は、どんなにたくさんの物を所有していようと、心理学的にいえば、貧しい人である』
『気前よく与えることのできる人が、豊かな人なのだ』
ここから貧富の話に向かっていく。実例を並べていくんだけど、それも省略。
『しかし、与えるという行為のもっとも重要な部分は、物質の世界にではなく、ひときわ人間的な領域にある』
人間的な領域とは?
『では、ここでは人は他人に、物質ではなく何を与えるのか』
『それは自分自身、自分のいちばん大切なもの、自分の生命だ』
『これは別に、他人のために自分の生命を犠牲にするという意味ではない』
なので「ここは俺に任せて先へいけ」はなしで。
『そうではなく、自分のなかに息づいているものを与えるということである』
『自分の喜び、興味、理解、知識、ユーモア、悲しみなど、自分のなかに息づいているものすべてを与えるのだ』
ギフトであって、ウォントではないと?
『このように人は自分の生命を与えることで他人を豊かにし、自身を活気づけることで他人を活気づける』
『もらうために与えるのではない』
『与えること自体がこのうえない喜びなのだ』
『だが、与えることによって、かならず他人のなかに何かが生まれ、その生まれたものは自分に跳ね返ってくる』
ちょいと因果応報じみてる。因果は悪いものだけに限らず。
『ほんとうの意味で与えれば、かならず何かを受けとることになる』
『与えることは、他人をも与える者にする』
『たがいに相手のなかに芽生えさせたものから得る喜びを分かちあうのだ』
『与える行為のなかで何かが生まれ、与えた者も与えられた者も、たがいのために生まれた生命に感謝する』
『とくに愛に限っていえば、こういうことになる――』
いわく。
『愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない』
おー。
ここでフロムはマルクスの言葉を引用する。
私はさらにその一部を引用するね?
『もし人を愛しても、その人の心に愛が生まれなかったとしたら、つまり自分の愛が愛を生まないようなものだったら、また、愛する者としての生の表出によっても、愛される人間になれなかったとしたら、その愛は無力であり不幸である』
マルクスの経済学・哲学草稿の中の一文だそう。
そしてフロムはこう語る。
『しかし、与えることがすなわち与えられることだというのは、別に愛に限った話ではない』
『教師は生徒に教えられ、俳優は観客から刺激され、精神分析医は患者によって癒される』
『ただしそれは、たがいに相手をたんなる対象として扱うのではなく、純粋かつ生産的にかかわりあったときにしか起きない』
ここでさらに愛について具体的にフロムは述べていくんだけど、いったん中断。
引用した内容はどれもすべて、フロムの著書を訳者さんが翻訳したことばの種。
私の土から芽吹いたものじゃない。
なので、ひとまず種をまいてしまいたい。
それに海に潜りたくて仕方ない。
愛のケア、あるいは労働においては、愛はまず一方的だ。相互性をもつという前提で語られがちだけど、キテイの言葉を思い出して、いったん留まる。
まず、生まれてしばらくは一方的だ。そしてやがて病むか老いるか、あるいはその両方か、もしくは怪我をするかして、再び一方的に戻る。
なので、フロムの言葉はとてもなじみやすいけれど、それでも待ったをかける。
と同時に、自分に問いかけもする。
私は自分を与えられるだろうか。犠牲にするのでも、あるいは代償を求めるのでもなく。
アガペーにせよ、エロスにせよ、与えることに繋げられる気がする。フィリアは条件からしてむずかしいかなー。相互性を前提としすぎてしまう気がして。あるいは、意識的に相互性を切り離すのがかなりむずかしそうに思えるから、ハードルが高い。
アガペーなら? エロスなら。
どうだろうかと妄想することなら、できそうだ。
ぷちたちを相手にするとき、どうだろう。
できてねーっ!
カナタを相手にしたら? キラリやマドカたちなら?
やっぱり、できてねーっ!
最初にだした下ネタな例でいくと? 与えるー! って言いながら、相手の股間のスイッチにタッチする勢い? 相手のタッチを受け入れる勢い?
それはまた別。
ちがうでしょ。
そう思って留まるだけの理性は残ってる。
だいじょぶ。
安易に結びつけず、済ませずに咀嚼してみようよ。
もしも私がアメリカ生まれのアメリカ育ちだったら、わりと思考停止気味に「アガペーでは!」ってダイブしてそうだ。
でもなー。
それはやっぱり、安易だ。雑だよ? どうどうどう。
社会とか経済とか、価値とかの話も絡みそうじゃない?
そうなると愛について習得を目指すとき、いまの私じゃ足りないよね。いろいろと。
ノンちゃんが教えてくれたように、愛以外についていろいろ触れて習得したほうが、見えてくる景色が違ってくるから、それからでも遅くない。
シュウさんは、カナタに。
カナタはシュウさんに。愛を与えるどころじゃなかった。
教授も。アダムもそう。ふたりの生活環境は悲惨なものだった。
愛のケア、そして愛の労働。
うちにはある程度あったとして、それでも私は私の中の渇望を認知できず、いろんなことを中学時代にした。というか、やらかしまくった。
なにかがほしいんだ。
そのなにかが見えない。見つけられなきゃ困る。
けど、そんな強迫性に促されて得る手段じゃ、たぶん足りない。
矛盾していて、こんがらがってる。
なにかと楽になった状態で、ゆるやかーなところから習得する、そんな手順はないものかなあ。
いますぐ欲しいぞ? そういうのが。
ないんだけどさ。
むしろ「こうしなさい」って言われるほうがおっかないまであるけどさ?
フロムの言葉さえ鵜呑みにはしないけどさ。
相互性を前提としているように見えるから。一方的な段階での想定に欠ける気がするからさ?
咀嚼してるんだけど。
わからんなあ。
あとはねー?
与えるという言葉の曖昧さかな。
加えて相互性ではなく一方的に思えるニュアンスが消化不良。
痛みを与え、これが私の愛なのだ! みたいに陶酔したり、思考停止してるケースがあるもの。自分は痛くない、よって、みたいな錯誤に対応しきれない。ツッコミを入れたけど、実際に起こりえる。共感性の欠如、強迫性による認識のずれで、これを是としたら? もちろんアウト。
相互性のある関わりにせよ、一方的である関わりにせよ、語れる厳密さみたいなレベルに落とし込めないかな?
いまの私じゃまだまだ足りないものが多すぎて無理かな?
フロムの記述に抜けてみえる前提に、共感性や、相互の合意があるとか?
わっかんないなー。
キテイのニュアンスだと、どうだった?
赤子や病人、老人のケアと介護は、それを担う人の一方的なものみたいに感じた。
けど彼らは求める。それがなにかを読み取り、対応する。
ぷちたちが私にくれるものを一身に受けとめ、見守るのがいいのかな。
こんがらがってきた!
わかんないよ。もー!
いまのところ、一番腹落ちしたのはね?
『愛とは愛を生む力であり、愛せなければ愛を生むことはできない』
これだ。
けど、これはこれで私を苛む強迫性になりそうで。
これが達成できる距離感と、探究できる余裕のある環境の構築および維持が大事ってこと?
わー! なにぃ!?
たすけてーっ!
まださっきのおばかな例で悩むほうがいいよ?
押すね! 私なら押すね! 相手はカナタさん一択で、迷わず押すね!
そういうことばかりじゃないから、ややこしくてたまんないね!
つづく!




