第千七百七十四話
第二章の頭を読み終えて、なにをするとはなしに縁側で寝返りを打つ。
応援に三年生の有志隊が駆けつけた。事情を聞いたカナタはイチゴたちが遊んでくれているぷちの様子を見にいってくれた。刀について学び隊、コンテナの中身を仕分け隊。大まかにこのみっつの大隊に分かれたうえで、さらに細かく隊を分ける。
でも、ひとまず私は関係なしに休む。
なんならちょいちょいだれかが来て、軽くあいさつしたり、世間話を手短にして、またねのお約束を繰り返す。まるで寺社仏閣でお参りされるがごとく。あるいはお見舞いされる人がごとく。
フロイトと、フロム。
フロムはフロイトに対して批判的。
父性社会の影響を色濃く受け継ぐフロイトの理論は、彼の生きた時代なら目新しくても、五十年も過ぎれば五十年前の古い考えになる! というくらい。
その理屈でいえば、フロムの意見もやっぱりそう。
時が流れ、変容すること。その影響を受けざるを得ない。
フロイトは愛と性欲、リビドー、衝動性。そして、男と女の価値観。
フロムは? 男女の性差、同性愛、その点でまだまだ性別に固執しているようにみえる。どちらか一方だけという二元論としてでなく、ただ傾向としての話だと言及もしてるけどね? 同性愛は男女合一に向けて愛することに失敗を、みたいな文脈にみえて、読み込みぜんぜん足りないのは承知のうえで「え、炎上しそう!」と思ったりして。
あと、赤ちゃんの授乳は母乳じゃなきゃだめ派の人々の根底にありそうな記述もみえた。
ついでにいえば、家庭のありようと、家庭における役割と性別を強固に結びつけている偏りも。
だからなんだろうなー。
アタッチメント絡みの書籍では、母親と生別・血縁を強固に押し出し、当たり前のものとして前提にせずに、養育者としていたのは。
フロイトはまだぜんぜん読めてないけど、フロムの「愛するということ」における記述を見ているかぎりだと、環境的素因にまつわる影響が人にとってどれほど大地になりえるかという視点に物足りなさを感じる。
でもフロムは率直に主張していて、可視化されているから助かる。魂に性別はない。この主張の広まりによって性の二極性が消えつつあること。二極性にもとづいた恋愛が消えつつあることについて言及しているのだから。
平等ではなく、同一になってしまった。
こう記しているところに、平等と同一を用いた概念を見て取る。
ただ、それにしても宗教観、教育、養育環境とは別で、性別を絶対視といかないまでも、強固なものとして、人格形成や役割に結びつけているところがあってさ?
それが時折、ノイズのように感じる部分がある。
他のいきものでは同性間における性行為が行なわれるケースもあるし、雌雄同体のいきものはどうなるんだっていう気がするし?
なんだろな。精子と卵子が関わる繁殖という特徴があることと、性器や繁殖にまつわる臓器として性差がふたつに分けて見えることを基軸に、男女という概念を神格化しているような気さえする。聖書によればイブはアダムの肋骨一本から作り出されて、だから女性は男性にうんぬんかんぬんみたいな話も含め。ありがたがりすぎ。
だけど、ねえ?
そういうものだとして作りあげてきた文化、文明でしたって言ってしまえばそれまででさ?
そこに重きを置くことさえ、なんならアディクションめいてる。
養育環境と、養育者の愛着によって受ける影響で、人は人格形成は大きく左右される。であれば、そこで求められ、押しつけられる役割ないし思想の影響だって受ける。
そこに性差という概念を産み落とし、育むなにかがあるだけじゃね? と考える。
それとは別に、臓器に着目すると、男と女の違いは明白で。
性器を軸に愛を語る部分は、なんというか。
正直、消化不良。
いっちゃえばフロムも男性だからなー。
引っかかるっちゃあ、引っかかる。
アドラーも、翻訳で自分とミスマッチだからか、そのあたりの感覚のちがいがストレスになって邪魔をして、なかなか読み進められない。
逆に言えば、いまって転換期の最中なのかもしれないね?
それって、なんだろ。
価値観かくあるべしとする多数派に抵抗するレジスタンスじみてる。
そこまで過激じゃないにせよ、そんな状態に陥っちゃっていたりさ?
あるいは群雄割拠になってる分野がやまほどあるとして。
日本は調和が大好き。
出る杭は打たれる? ううん。出てきた杭をみんなで打つ。そんな抑圧を感じる。
人によるけどねー。
それが是か非かって雑に判定できるはずもないんだけどさー?
そのせいで滞っていたり、このままでいいの! このままがいいの! とモグラ叩きになってたり、そういうのもうめんどいから黙っとけになったりしてる部分、数え上げたら立派なディストピアになってません? っていうのが、最近感じちゃうこと。
作品として売れるように脚色なんかだれもしてないからさ。
地味だけど。
でも、別にまあ、構造や方向性、指向性を変えたら、日本だけの話でもなし。
解像度を下げれば? よくある話かも。
これに関してはフロムも著書で指摘している。
さっき平等と同一について語ったから、そこから引用して確かめていこう。
『現代の資本主義社会では、平等の意味は変わってきている』
『今日、平等といえば、それはロボットの、すなわち個性を失った人間の平等である』
『現代では平等は「一体」ではなく「同一」を意味する』
『それは、同じ仕事をし、同じ趣味をもち、同じ新聞を読み、同じ感情や同じ考えをもつといった、さまざまなちがいを切り捨てた同一性である』
んー。いろいろ言いたいことがあるけど、続き!
『この点からすると、男女平等のような、ふつうわれわれの進歩の象徴として賞賛されていることがらも、多少は懐疑の目をもって見る必要がある』
『もちろん私は男女平等に反対ではない』
『私の言いたいのは、平等志向の肯定的な側面にばかり目を奪われてはいけないということだ』
『平等志向も、差異をなくそうとする風潮のあらわれである』
『残念ながら、男女平等が広がったために、男女が平等なのは男女にちがいがないからだ、という思いこみが生まれた』
このあたりが特に時代を感じる部分。
先に述べた魂に性別はないくだりが入り、中略して。
『現代社会は、この没個性的な平等こそが理想であると説く』
『粒のそろった原子のような人間が必要だからだ』
『そのほうが、数多く集めても摩擦なしに円滑に働かせることができる』
ううん。このあたり、尖ってる。
『全員が同じ命令にしたがっているにもかかわらず、誰もが、自分は自分の欲求にしたがっているのだと思いこんでいる』
『現代の大量生産が商品の標準化を必要としているように、現代社会の仕組みは人間の標準化を必要としている』
『そしてその標準化が「平等」と呼ばれているのだ』
なんだってさ。フロムによればね。
『集団への同調による一体感は、強烈でも激烈でもなく、おだやかで惰性的だ』
『したがって当然ながら、孤立からくる不安を癒すには不十分だ』
『現代の西洋社会に見られるアルコール依存症、薬物依存症、セックス依存症、自殺などは、集団への同調がかならずしもうまくいっていないことのあらわれといえる』
『しかも、この解決法はおもに精神にとって効果的で、肉体にはあまり効果的でないので、この点でも祝祭的興奮状態に比べると不十分である』
祝祭的興奮状態については後述するね?
『だが集団への同調にも、ひとつだけ利点がある』
『断続的でなく、長続きするということである』
『三歳か四歳のころに同調の仕方を教えられると、その後けっして集団との接触を失うことはない』
そんなことはない。
『生涯最後の社会的出来事である葬儀ですら、厳格に慣習にしたがって執りおこなわれる』
ふんふん。
『孤立から生じる不安をやわらげる方法としての集団への同調に加えて、現代生活のもうひとつ別の要素を考察しなければならない』
『それは、仕事も娯楽も型どおりのものになっているという点である』
『現代人はみな「九時五時人間」であり、社会全体の労働力の、つまり事務員や管理職からなる集団勢力の、一要素になっている』
『自発的に行動することはほとんどなく、仕事の内容はあらかじめ決められている』
逆に逸脱した状況に置かれると、途端にストレスフルになる、と。
『この点に関しては、ピラミッドの上のほうにいる者も下のほうにいる者もほとんどちがいはない』
前任者や、所属する階層の他の者にならうという形で。たしかに、ほとんどちがいはないことのほうが割合的に多そうだ。あくまでも、勝手なイメージ。実際に統計を取って、綿密に調べたわけじゃない。私の偏見ね?
『全員が、組織全体の構造によってあらかじめ決められた仕事を、決められたペース、決められたやり方で、こなしていく』
『おまけに、快活さ、寛容、信頼性、野心、誰とでも衝突せずにうまくやっていく能力など、感情面ですらあらかじめ決められている』
個性にせよ、コミュニティにせよ、あるいは性向にせよ、一定の指向性をもった枠付けがなされている。キャラクターとして。ロールプレイとして。
『仕事ほど極端ではないが、娯楽もまた同じように型どおりのものになっている』
『読むべき本はブッククラブによって選ばれ、観るべき映画は映画会社や映画館経営者や彼らが出資した広告コピーによって選ばれる』
まあすくなくとも受け手側が「あなたの作品を映画にしたいので、使わせてください。ちゃんとお金を支払いますので」と提案し、企画して、映画館側と折衝して上映を取りつけ、公開できる作品を制作し、上映するなんていう話は聞いたことがないなあ。ゼロではないかもしれないけど、滅多にないよね。
クリエイターがクラウドファンディングで、というところまでだよね。だいたいは。
『休暇の過ごし方も画一的だ』
『日曜日にはドライブに出かける、テレビを見る、ゲームをする、パーティを催す、など』
基本的にだれかが同じことをしているような枠からはみ出ることはない、と。
『誕生から死まで、日曜から土曜まで、朝から晩まで、すべての活動が型にはめられ、あらかじめ決められている』
多様性というのなら、百人が百通りのまるで異なることをして、しっちゃかめっちゃかで成立するような社会になるんじゃね? なんていうのは、さすがに飛躍しすぎの誇張しすぎかな!
『このように型にはまった活動の網にとらわれた人間は、以下のことを忘れてしまう――自分が人間であること、唯一無二の個人であること、たった一度だけ生きるチャンスを与えられたこと、希望もあれば失望もあり、悲しみや恐れ、愛への憧れや、無と孤立の恐怖もあること』
なんかもー。ディストピアの話?
ところでフロムは一九百年三月生まれの、八十年三月に亡くなった人。
前にディストピアの例にした一九八四年を書いたオーウェルはというと、一九○三年六月に生まれて、五十年の一月に亡くなった。
監視管理社会。全体主義的。
時代なのかなー。
三十九年九月から、四十五年五月、八月でドイツと日本の降伏によって終わる第二次世界大戦。ヨーロッパで起きたこと。アメリカの当時の大統領や大財閥さえ指示した優生学。
キング牧師が生まれたのは二十九年一月で、六十八年四月に銃撃を受けて殺されてしまった。
いま私が読んでいる「愛するということ」をフロムが書いたのは、五十九年。
激動の時代だ。
お父さんとお母さんや美希さんたちの世代あたりが固定電話からポケベル、携帯電話、スマホや、どでかパソコンの進化を体験した。
そういう変化にさらされている時代。
ついでにちなみにフロイトが一八五六年五月生まれの一九三六年九月に亡くなり、アドラーは一八七○年二月生まれの一九三七年五月に亡くなっている。ユングは一八七五年から一九六一年の人。心理学といえば、この三人ってイメージだ。
彼らの時代から、もちろん時が流れている。変遷している。
じゃあ、どこまで進み、どこでなにに足踏みし、なにから後退しているのか。
さっぱり!
わからん!
フロムは後年、仏教や禅を知ったというけれど。そもそも私がどちらもろくに知らないんだから、困っちゃうね!
さて、そろそろ話を戻すとして。
資本主義における商業的な娯楽や、生活商品の提供。その影響はいかほどか。
また近代化に伴い人口が増えるにつれて変化する労働と、その影響は。
このあたり、気になるところ。
ただし文脈は、これらがいかにもディストピアに傾いているか、というものじゃない。その筋でいくとして、これまでのそれぞれの地域、それぞれの環境がどの程度のものか調査・分析し、読み解いて一緒に記述しなければ評価したとは言えるはずもなし。
もしもこの筋でいけば、私のいまに対するディストピア感も妄想に過ぎないことになるし? 実際になんの調査もしてないで、習得的な行動も取らずにいうなんて、それこそ雑。なので控えつつ撤回するとしてもさ?
五十八十問題とか、引きこもりの長期化とか。バリアフリーの実現と課題とか。社会に根強い差別とか? あるいは一定の方向性に乗れなくなると、途端に人生がきびしくなる構図がいろんなところに見受けられることとか。
そのあたりは、型作りの不備や、そもそも型にある限界、その他、型にまつわるあらゆる問題の氷山の一角なのかなあと思いはする。商業的に利益になるとき、はじめて目を向けられるとして、利益にならないのだから放置されるのだとしたら悲惨だ。ではどこがやる? 国がやらねばどこがやる。みんなの利益、みんなの権利のための活動だから、そういう話なのだと思うのだけどね。
型の通りにと求めて訴えるとき、そこに正しさが生まれる気もするね?
それがどれほどのものかという評価はいったんさておきさ。
同一化を求める。
ときに無茶に思えるくらい。
そう捉えて「はいそれ同一化ーっ!」なんていうのは? もちろんなしだ。
ただ、時代柄、読み取れることがもしも仮にあるとするのなら?
強烈な同一化と、それを果たせぬ相手に対する激烈な排除の行なわれた第二次大戦期に、いったいなにを学ぶのかという視点を持つのなら? フロムの論じることって切実なものだと感じる。
マニュアルとして決まっていることはね?
わかりやすい。考えなくていい。
だれかがやっていて、それを真似したら集団と同一でいられる。安心できる。叱られることも排除されることもない。
みんながやっているから。
仮にそういうときにバッシングされたら? なんでみんなやってるのに、自分だけ! なんて言っちゃうんだ。ありがち!
芸人さんのコントだと? スピード違反をしたドライバーさんと、取り締まった交通機動隊の警官さんが揉めるときに聞くよね。前の車とか、いま通った車のほうが出てるじゃーんとか。
そのあたりを起点にして、理屈を構成することもあるくらい、よくあること。
あとはー、そうだなあ。
アディクションの話に触れているけれど、基点となるできごとないし文脈や、その過程において生じる負荷は、一時的な行為で精神的に解決が達成できるような性質のものなのかな?
これには強く疑問符。たんに語る基準がちがっているだけかも。アディクションまわりの話はフロムがこの本を書いたあと、現在進行形で研究されている分野かな? 土台になってんのかな? 大学で勉強したらわかるのかな。
アディクション・スタディーズによれば一九八○年代なかばにカンツィアンらによって提唱された「自己治療仮説(self-medication theory)」にみるとしたら? フロムが参考にして「愛するということ」の最新バージョンを書き直すことはできないよね。
負の強化。苦痛の緩和のためにアディクションに陥るのでは?
もしも仮に意識的に効率化することもあるとしたら、アディクションにおける行為は過剰になり、負の影響がますます強化されてしまう。それは過剰な購買かもしれないし、過剰な飲酒かもしれない。自傷行為なども含まれる。そのあたりを鑑みて、フロムの言葉を見直すと?
集団への同調がかならずしもうまくいっていないことのあらわれといえる、というのなら。集団への同調一本槍は、明らかに失策じゃない? エラーケースを具体的に洗い出して、集団への同調に向かうようにケアしきれてようやく維持できるんじゃない?
そういう点ではディストピアものって、いずれも不足による不和を暴力的に解決しようとしているところに、社会的な未熟をどうしても見いだしてしまうのだけど。
しょうがないっちゃあ、しょうがない。
知には限りがある。時代がいつであろうとも、人が知り得ることには限りがある。学問のすべてを最先端のレベルで習熟し、研究し、革新的な結果を出していきつづけるには、すでに細分化され、拡大され、増えすぎてるみたいな指摘もあるんじゃなかった?
学びは限りなく、人の一生には限りがある。
そういう意味でも、人は依存している。
そして?
没個性的で、原子のように扱いやすく働かせやすい標準化を目指すと?
多様性を見落とし、差異をなかったこととして、むしろ後退的に人を見ることに繋がりはしないか? という疑問を呈しているのだとしたら、フロムの意見には「たしかにぃ!?」とうなずくところだ。
同一。
みんな、ひとつになればいい。
これって、なんだっけ。エヴァだっけ。あるいはライブアライブの近未来編とか? エヴァに影響を受けた作品群でもありそう。エヴァの前にだって、探せばもちろんあるのだろう。
順位? つけなくていい。みんな一緒にゴールだい!
男の子は黒か青! 女の子は赤かピンク!
いい大学に進学、いいとこに就職。大人はしっかり働く。仕事は楽しくやりがいを!
二十代には結婚。結婚したら早くに出産。子育てで将来有望にするために英才教育!
時代ごとに、いろんなノリがあったそう。
それぞれの世代によって、どんなのがあるのかな? ずっと昔になったら、どうなるのかな?
世代だけじゃない。
集団によっても変わる。所属するコミュニティによって変化する。
もっと小さな単位でも起こりえる。
標準化。同一化。
これはこうあるべき。これはこうするべき。
同じように対応しやすくする。スナック的に変えていく。
画一的であればあるほど、わかりやすくて、扱いやすい。負荷の低減を。
一見すると、そんなの当たり前で、むしろ大事なことのように思えるけれど、そこで求められる調和はいったいだれの、なんの役に立つものか。
なんなら、それらはむしろアディクションに変化していってはいないか。
ところでさ?
愛の話に、なぜこんな社会風刺な話題がくるの?
もちろん理由がある。
それじゃあ、祝祭的興奮状態について話そうか。
祝祭だって! カーニバル? お祭りで興奮するってこと?
ただ文字面がいかつくて、なんだかベルセルクに出てきた断罪の塔のそばで行なわれていたサバトを連想するぞ?
けど、そう遠くない。
次は触れあいと合一の話に向かっていくとしよう。
つづく!




