第千七百七十三話
シロくんやマドカの提案で、ひとまず何人かで整理をすることになった。
それぞれの刀を形にしてみる段階なら、ノンちゃんたち刀鍛冶チームとファリンちゃんが舵を取れば進められるそうだ。私のそれと比べてみるとか、私がやってみるとか、いろいろ考えていたけれど、そこは方針転換。
金色空中回廊を進んで、ぬいぐるみの境界を越える。
中に広がる、いつか天国で過ごした宿を再現した空間は、すっかり綺麗になっていた。
小屋から屋敷と洋館に向かう通路に、おおきなビニール袋に押し込まれたゴミの山がでんでんでん、とできあがっている。燃やすなりなんなり、あとでやるとして。
水回りだなんだの掃除をトモが引き続きやってくれているという。整理整頓とか、そもそも設備の充実とか、やらなきゃいけないことはきりがないけれど、ひとまず先日きたときに感じた淀んだ空気はずいぶんマシになっていた。
洋館にあるかと思いきや、マドカとシロくんが私やレオくん、姫宮さんたちを連れていくのは屋敷のほう。
畳の広がる大広間に、おおきなボックスが所狭しと詰め込まれている。
中にはファイリングされた書類たち。それだけかと思いきや、こぶし大の石像や木像、宝石類なんかが詰め込まれた箱もあるし、本がやまほど入っている箱もある。ぷんと漂う古い本の香りが強い。
「春灯への課題図書集や、彼女が彼女の世界で必要ない秘宝、およびその生成方法だって。目録だけで分厚いし、別室や庭にまだまだ山のようにある。っていうか、庭に巨大なコンテナが詰まれてる」
「とりあえずめぼしいものを出してみた。黒輪廻が関わった危険な組織とか、特徴的な霊力の持ち主なんかもまとめてある。彼女たちがまとめた霊力にまつわるレポートもあって、僕としてはそちらが本命だ」
「まあ。本命っていっても、チェックの進捗は一割に満たないからね。なんともいえないけど」
疲れたマドカのため息を聞きながらも、私は内心、どきどきしていた。
タイムスリップして取りに行こうか、なんて話してさえいた。大戦で失われた知識さえ記した書物も、ここにはあるかもしれない。
黒い私は途方もない時間を過ごした。ミコさんよりも、長く果てしない時を。大勢と出会いながら、いつか自分の世界に戻って、仲間たちを救う術を探していた。
彼女の集めた知識と宝物たち。
分け与えられた、叡智の結集。
「おおお」
にわかに興奮するけれど、自分に言い聞かせる。
どれほど素晴らしいデータベースであろうと、知識であろうと、彼女は私に鍵を求めた。
仮に私の中に鍵がいまだにあるとして。
あるいは世の中にアクセスできる知識があるとして。
それは、結局のところ、経験して、結びつかない限りは芽吹かない種のようなものだ。
種ばかり集めても。種ばかり与えられても。
きちんと育ててみないとわからず。育て方次第で具合も変わるだろうし?
育てるイコール経験するで、その経験は一意に決まり、一意に出るわけではない。
わーお。
言うなれば、タスクの山だ。
「おおお……」
そして、こうもいえる。教材の山だ!
「先輩たちにも手伝ってもらったほうがよろしいかと」
「そうだね。多いなあ。結城くんも山吹さんも、仲間さんにも、そろそろ休んでもらいたいし。こちらは長期戦でいこう。こういうのが好きな仲間に手伝ってもらうほうがよさそうだ」
姫宮さんの提案にうなずいて、レオくんがスマホを取り出す。
すぐさま通話をかけた。生徒会長、と呼びかけているから、小楠ちゃん先輩に呼びかけているのだろう。三年生と合流かな!?
それにしても、だよ?
シロくんとマドカがコンテナから持ち出してみたであろうボックスたちを眺める。
数えきれない量がある。教団と競っていた組織の倉庫の提供みたいなもの。それだけの数があるから、目録があって、目録とボックスを関連づけるシールが側面に貼りつけてある。もう一枚、簡単にボックスの内訳を示す記述がしたためられていた。
マドカの言うように、本が入っているボックスには「課題図書」とある。
わーお。
学校か!?
どんな本があるのかと思ったら、お母さんが教えてくれた本と同じタイトルの、古びた装丁の本が目立つ。初版本の山かな?
長い時を過ごしてきた黒い私だけに、ついに現代に残らなかった希少本なんかもあったりして。神保町のおじさんが喜ぶような人生を記した書なんかもあるかもしれない。
適当に背表紙のタイトルをチェックしていたら、気になる本があった。
そっと手に取る。
日焼けしていて黄ばんでみえるものの、恐らく最初は白かったであろう表紙に日本で書いてある。愛するということ。エーリッヒ・フロムさんの本。日本語で訳されている。
「お。勉強熱心か?」
マドカに肘でつつかれて「そんなとこ?」と返しながらも、頭の中は本でいっぱいになっていた。
え。なに。直球すぎない? タイトルが!
◆
疲れてる人は休むのがお仕事です、とばかりに私はみんなの輪の中にいながらも、プレイヤーじゃなかった。体育の授業で休んでいるような気分だ。
それならそれでいいや。
屋敷の縁側、みんなの邪魔にならない場所に寝転がって、本を読む。
フロムは他の本で名前を見たことがある。
第二次大戦期にドイツから逃れたユダヤ系の人。
このところ私は心理学や精神医学の本を読んでいるけど、フロムといえば精神分析と哲学の人じゃなかったっけ? そしてフロイトについて本を出している人でもあったような。
はじめにくる文がド直球だ。
『愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう』
だってさ!
すご。
え?
愛することが技術なの?
まずそこに驚く。
『この本は読者にこう訴える――人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない』
お。なんだぁ? ケンカ腰かぁ? なんていうのは、やめなさいってば。
それに、なんだか納得しちゃうもの。たしかにその通りだなあって。
パラケルススの言葉の引用もある。
引用の引用って、なにがなんだかって感じだけど、あえてしてみよう。
『何も知らない者は何も愛せない。何もできない者は何も理解できない。何も理解できない者は生きている価値がない。だが、理解できる者は愛し、気づき、見る。(中略)ある物に、より多くの知がそなわっていれば、それだけ愛は大きくなる。(中略)すべての果実はイチゴと同じ時期に実ると思いこんでいる者は、ブドウについて何ひとつ知らないのである』
かなり過激だ。
生の価値まで踏みこんで語ることは、現代では危ういこと、ないし禁忌ではないかとさえ感じる。
価値観の変化によるものなのかな? 彼は十五、六世紀の人だ。十五世紀の終わりが近い年に生まれているから、ほぼほぼ十六世紀の人かも?
文脈もわからず、原文でもないから、ニュアンスもわからないのが困りもの。
ところでスイス生まれの人ときたら、言語はドイツ語? フランス語? それともイタリア語? あるいはロマンシュ語? っていうかロマンシュ語ってなに? どんなの? あるいはラテン語なのかな? 言語、私はちっともわからないぞ?
言語によって、単語にちがいがある。ニュアンスも変わるという。
教育環境としての宗教的な影響もあるだろうし。
むむっ。ますますむずかしい!
「んー」
四章構成。
一章から順に章題を述べると「愛は技術か」、「愛の理論」、「愛と現代西洋社会におけるその崩壊」、「愛の習練」だ。二章はさらに小さな章立てがなされており「愛、それは人間の実存の問題にたいする答え」、「親子の愛」、「愛の対象」とし、対象についてはさらに細かく「友愛」、「母性愛」、「恋愛」、「自己愛」、「神への愛」とある。
神さまが入るあたりに文化圏のちがいを感じるなあ。三章にしても現代西洋社会だし。西と東で隔たってるのかなー。
一章の題からしてすごい。愛は技術か。
本屋さんの本棚で見かけて、それだけ見たら「お、おう」と本棚に戻しちゃいそうだ。
だけど本文を読んでみると、愛の問題について穏やかに話が展開されていく。
愛について学ぶべきものは、あるかいなか。ないという思い込みは、どのような理由があって支えられているのか。
斜め読み気味だったけど、ある文に目が留まった。
『愛について学ぶべきものは何もない、という思いこみを生む第三の誤りは、恋に「落ちる」という最初の体験と、愛している、あるいはもっとうまく表現すれば、愛する人とともに生きるという持続的な状態とを、混同していることである』
そのまま読み進めて、出会う。
『(略)たがいに夢中になった状態、頭に血がのぼった状態を、愛の強さの証拠だと思いこむ。だが、じつはそれは、それまでふたりがどれほど孤独であったかを示しているにすぎないかもしれない』
い、痛いとこを刺すね!?
めちゃめちゃ覚えがある。
読み進める間の文章にて、恋に落ちたところから、そのときめきが共に過ごすうちに変化し、神秘性や目新しさがなくなっていくにつれて、どんどん「おやおや? なんかちがくね?」と変わっていくことを記している。このあたりも、すごーくよくわかるし? 記事でも、愚痴でも、よーく聞く話題だ。
『愛の失敗を克服する適切な方法はひとつしかない。失敗の原因を調べ、そこからすすんで愛の意味を学ぶことである』
『そのための第一歩は、生きることが技術であるのと同じく、愛は技術であると知ることである。どうすれば人を愛せるようになるかを学びたければ、他の技術、たとえば音楽、絵画、大工仕事、医学、工学などの技術を学ぶときと同じ道をたどらなくてはならない』
わーお。
『どんな技術を習得する際にも踏まなければならない段階とはどんなものだろうか』
『技術を習得する過程は、便宜的に二つの部分に分けることができる。ひとつは理論に精通すること。いまひとつはその習練に励むことである』
『もし医学を修得したければ、まず人体やさまざまな病気についての多くの事実を学ばなければならない』
『しかし、そうした理論的知識をすべて身につけたとしても、それだけで医学を身につけたことにはならない』
『実際の体験をたくさん積んで、理論的知識の集積と実践の結果がひとつに融合し、自分なりの直感が得られるようになったときにはじめて、医学を習得したといえる』
『この直感こそが、あらゆる技術の習得の本質である』
うんうん。それはそう!
『しかし、理論学習と習練の他に、どんな技術を身につける際にも必要な第三の要素がある』
『それは、その技術を習得することが自分にとって究極の関心事でなければならない、ということである』
『この世にその技術よりも大切なものはない、と確信しなくてはならない』
『このことは音楽にも、医学にも、大工仕事にも、愛にもあてはまる』
『そして、おそらくここに、現代社会に生きる人びとは、あきらかに失敗を重ねているにもかかわらず、どうして愛するという技術を学ぼうとしないのか、という疑問にたいする答えがある』
流れが変わってきたね?
『現代人は心の奥底から愛を求めているくせに、愛よりも重要なことは他にたくさんあると考えているのだ』
『成功、名誉、富、権力、これらの目標を達成する術を学ぶためにほとんどすべてのエネルギーが費やされてしまうために、愛の技術を学ぶエネルギーが残っていないのだ』
生きるうえで、居るために、生活するために、これらの目標とやらを目指さないと食いっぱぐれる! という圧はあるかも? そういう意味では、視点を変えると現代って十分ディストピア、なんちゃって。
『人びとはこんなふうに考えている――金や名誉を得る方法だけが習得に値する』
『愛は心にしか利益を与えてくれず、現代的な意味での利益はもたらしてくれない』
『われわれはこんな贅沢品にエネルギーを注ぐことはできない、と』
『はたしてそうだろうか』
そう問いかけつつも、いったん保留にして、著者は愛の理論について述べていく。
第二章に移るんだ。
なので、いったん飛ばした部分も含めて、第一章の内容について思いを馳せる。
技術の習得にまつわる話。
理論学習だけじゃだめよ? という指摘は、まさしくと何度もうなずく。
私がどんなに本を読みかじって、話をばばっと並べたところで、そこには実践が伴わない。私の体験と結びつけているだけで、実践とは異なる。
ぽんぽんぺいんの経験と、医学書のお腹の痛みの記述を結びつけて「これはこういう病にちがいねー!」と言いだしたら? 待て待て待て! ってなるじゃん。試験でぜったい失点するじゃん。そうして明らかにだめやぞ? と待ったをかけるじゃん?
理論学習的なスナックつぶやきやスナック動画は日に日に数を増やしているけど、実践が見えないものしかないし、実践の担保がみえるなにかも一切ないし? 仮にだされても「いやいや、適当に書いてるだけでしょ」ってなる。
論客とか、なんでもしってそうな人とか? そういう人たちも、一緒。
彼らは技術の習得をしていない。
いうなれば、専門家じゃない。
だから歯牙にもかけないんだけど。
習得をしていないのに、人気が高まる。
不安にふたをしてくれる。マウントするための材料をくれる。いまのままでいいのだという肯定感スナックをくれる。
実践にまつわる理解がないのか。習得にまつわる信頼性を得られていないのか。
わっかんないけど。
なんでか、無責任なポジションからの発言のほうが歓迎されがちなの、わりと多い気がしちゃう。勘違いであればいいし、それに越したことはないんだけど、ついつい心で身構えてしまう。
そのわりに!
自分もなんでか、理論学習の内側で、ざつぅで、ごくごくわずかなフレーズだけ知っていたら、それを並べて済ませてしまう。
だれかの話はさておき、私たぶん、けっこう危うい。
無意識に雑に「これってこうでしょ」って言っちゃってる気がする。
ネガティヴ・ケイパビリティに似てる、あるいはそのもの。
解決にまっしぐら、じゃなくて?
耐える。どうどう。落ちついて? 自分をなだめる。
技術の習得においても、そうだ。
そこでの安易さは危うい。
自分をなだめつつ、文章をもう一度くりかえし読む。
著者の記述をまるごとそのまま鵜呑みにして済ませるのでもなく、種にして、まく。
どういう育ち方になるかはわからないけど、読んで作物収穫と勘違いしないように、種をイメージする。それはどのようないきものに芽吹いていくのか、ゆっくりと時間をかけて育てていく。そのつもりで、読んで「おっ」と思ったことから「んん?」とよくわからないことまで、種にしてまいていく。
疑問の余地がないと思えることほど、即収穫! はい終了! 解決ぅ~! って、しちゃうからね。急がず種にしておこう。
フロムは現代社会や、富や名誉に対する忌避感があったのかな? 彼の生きた時代をベースに考えると、いまよりもうすこしだけなにかが見える気がする。
究極の関心事でなければならないという記述に戻る。第三の要素だ。これはスナック感覚で済ませたいときほど、満たされない要素といえるかも。あるいは矛盾した終わらせ方をしやすい要素かな。こらえ性なく、終わらせたことにしてしまうのか。究極の関心事とは、いったいどのような状態を指すのか。
彼によれば?
『この世にその技術よりも大切なものはない、と確信しなくてはならない』
『このことは音楽にも、医学にも、大工仕事にも、愛にもあてはまる』
どんな技術においても「これはこの世でとびきり大切なものだ」という確信がなくてはならないもの。
たとえば工芸品でも、民芸品でも、料理でもそう。
資本社会で、ビジネス上おおきな数字にならないからと鼻で笑う大手と、彼らにぐぬぬとなりながらも打倒するやり手の主人公なんて構図のドラマ、お父さんはけっこう好きだ。町工場に入るわけあり凄腕とか。あるいはさびれた料理店にくる三つ星シェフレベルの料理人とか?
よくある。
私もそういう筋の話は好き。
でも、まあ、それはさておきさ?
実際、ビジネスの物差しを横において、この技術はとても大事だと情熱をもって活動している人が、あらゆる分野にいる。
なんなら私たちも隔離世に対して、そういう心構えで活動し続けている。
究極の関心事。この世にとても大事だと確信し、習練に励んでいる。
その流れで、愛を技術として捉える。
著者の指摘にドキッとした。何度もだ。
たしかに私は技術として捉えてこなかった。
引用した内容を再度、確認しよう。
『しかし、そうした理論的知識をすべて身につけたとしても、それだけで医学を身につけたことにはならない』
『実際の体験をたくさん積んで、理論的知識の集積と実践の結果がひとつに融合し、自分なりの直感が得られるようになったときにはじめて、医学を習得したといえる』
『この直感こそが、あらゆる技術の習得の本質である』
直感。
愛にまつわる、直感。
正直ちっとも自信がない。
ぷちたちを相手にすると、ますますうなだれてしまう。
なにせ、自分自身を相手にしても、直感などないのだから。
『(略)にもかかわらず、「愛について学ばなければならないことがある」と考えている人はほとんどいない』
『この奇妙な思いこみは、いくつかの前提に立っている。それらの前提が、個別に、あるいはいくつか組みあわさって、その思いこみを支えているのだ』
みっつめについては、さきほど引用したよね?
じゃあ、ひとつめは。
『第一に、たいていの人は愛の問題を、愛するという問題、つまり愛する能力の問題としてではなく、愛されるという問題として捉えている』
『つまり、人びとにとって重要なのは、どうすれば愛されるか、どうすれば愛される人間になれるか、ということだ』
『この目的を達成するために、人びとが用いる方法はいくつかある』
『おもに男性が用いる方法は、社会的に成功し、自分の地位で許されるかぎりの富と権力を手中におさめることだ』
『いっぽう、主として女性が用いる手段は、外見を磨いて自分を魅力的にすることだ』
『また、男女が共通して用いる、自分を魅力的にする方法は、好感をもたれるような態度を身につけ、気のきいた会話を心がけ、他人の役に立ち、それでいて謙虚で、押しつけがましくないようにする、ということだ』
『愛される人間になるための方法の多くは、社会的に成功し、「多くの友人を得て、人びとに影響をおよぼす」人間になるための方法と同じだ』
『実際、現代社会のほとんどの人が考えている「愛される」というのは、人気があることと、セックスアピールがあるということを合わせたようなものだ』
痛烈ぅ!
『(略)第二の前提は、愛の問題とはすなわち対象の問題であって能力の問題ではない、という思いこみである』
『人びとは考えている――愛することは簡単だが、愛するにふさわしい相手、あるいはその人に愛されたいと思えるような相手を見つけるのはむずかしい、と』
ここで著者は結婚は気づけば家や社会によって決められる社会から、結婚に結びつく自由恋愛を是とする社会に移り変わっていったことが背景として影響を与えているとしている。
『(略)ほとんどの人が「恋愛」、すなわち結婚に結びつくような個人的体験としての愛を追い求めている』
『この自由な愛という新しい概念によって、能力よりも対象の重要性のほうがはるかに大きくなったにちがいない』
『この要因と密接に関連して、現代社会の特徴を示す傾向がもうひとつある』
『私たちの生きている社会は、購買欲と、たがいに好都合な交換という考え方のうえに立っている』
ここまでも過激だけど、ここからも過激。
『男にとっての魅力的な女性、女にとっての魅力的な男性は、自分にとっての「お目当ての商品」なのだ。ふつう「魅力的」という言葉は、人間の市場で人気があり、みんなが欲しがるような特質を「パッケージにした」ものを意味している』
婚活業界の話です?
『どういう人が魅力的とされるかは、肉体面でも精神面でも、その時代の流行に左右される』
具体例が述べられるけど、それはさておき。
『いずれにせよ、ふつう恋愛対象は、自分と交換することが可能な範囲の「商品」に限られる』
いよいよもって、婚活業界の話です?
『だから私は「お買い得品」を探す』
『相手は、社会的価値という観点からみて魅力的でなければならないし、同時にその相手が、私の長所や可能性を、表にあらわれた部分も隠された部分もひっくるめて見極めたうえで、私を欲しがってくれなければならない』
『このようにふたりの人間は、自分の交換価値の上限を考慮したうえで、市場で手に入る最良の商品を見つけたと思ったときに、恋に落ちる』
あるいはマッチングする、とか?
『この取引ではしばしば、不動産を購入するときと同じように、将来性が重要な役割を演じる』
『何もかもが商品化され、物質的成功がとくに価値をもつような社会では、人間の愛情関係が、商品や労働市場を支配しているのと同じ交換パターンにしたがっていたとしても、驚くにはあたらない』
ここで第三の誤りに続くんだけどね。
なんか。あれだね?
いや、そういう人たち、そういう環境しかないわけじゃないよ? 極端! って言いたいし。
でもって、こういうノリで終始まとめてある婚活業界の記事を読んだこともあるよ?
もしや、フロムの本を読んでるとか?
ついでにいうと、婚活業界で働く人の愚痴でも「商品価値の範囲内で!」ってノリ、みるよね。また、そうした業界に対する記事における「人間は商品か」みたいな疑念も、フロムの皮肉げに感じる指摘と組み合わせて読むと、なかなか苦い味がするよ?
相手はどんな人がいいかっていうトークでも出がちだ。いつどこでだれと話そうと必ずそういうノリになるかっていったら?
ならん!
さすがにそれは極端!
だけど、でも、こういうノリでしか捉えたくない人もいるのも事実。
それは第一の誤りとして記述されている、愛する能力にも繋がっていくことかもしれない。
愛されメイクはよく見かけても、愛するメイクはどう?
ネットのミームに「こんな自分はだれにも愛されないんや」みたいなのがあるけど、いやあの。そもそも愛したい人は? 愛そうとしたことは? ってなるわけで。ふわっとしたツッコミに対して「愛してるよ? けど、相手は自分なんかどうでもいいわけ。愛されないわけ」と、愛する能力じゃなくて、愛されないことを問題として語る。愛され力こそが問題だっていう認識がくる。
お母さんの好きな歌に「愛されるよりも愛したい」っていうのがあって。
受動的で満たされないって叫んでつらい自分でいるんじゃなくてさ? そういう世界だって嘆いているよりもさ。能動的に向かってきたい。中動態の自分になって、能動を探していたい。そんな感じの歌なのかも?
改めてふり返る。
『この本は読者にこう訴える――人を愛そうとしても、自分の人格全体を発達させ、それが生産的な方向に向かうように全力で努力しないかぎり、けっしてうまくいかない』
そのために、技術の習得を。
そういうことなのかな。
実践については触れていない。ただ、気になる内容ではある。
社会の風潮に対する批判的な記述はさておき、刺さる部分がある。
中動態として。あるいは能動的に、愛の技術を習得できるのだとしたら?
私という土台を支える柱であり、栄養になりそう。だれかに渡せる柱となり、栄養となりそう。
技術の習得としての視点も、ちょうどいま欲しいものだった。
黒い私の課題図書、いいじゃん。
素敵な種のあつまりじゃん?
つづく!




