第千七百七十一話
痛みがあるとき、そこには被害がある。
被害は連鎖する。
被害。ハーム。
それを縮小、低減する。リダクション。
つなげて、ハームリダクション。被害低減。
問題があるとき。被害があるとき。痛みがあるとき。
まず、低減する。
さっき思い浮かべた、注文の多い繁盛店だと?
お店にくるお客さんの応対をし、注文を受け、料理を作り、提供する。
それぞれひとつひとつが、お客さんの不満なり、お店で働く人たちの負荷なりを低減する作業でもある。
お店には需要と供給が存在する。
お客さんの需要が満たされなくても、お店の供給が滞っても、どちらも負荷が増す。どちらかが過剰に増えているときには、要注意。それぞれ低減を目指す。
供給。サプライ。
需要。デマンド。
それぞれの低減。リダクション。
しかしサプライリダクションだけ、デマンドリダクションだけで、ハームリダクションに繋がるだろうか。当然、十分とはいえない。
もっとも負担の強いパターンの想定をするのであれば?
どちらも必要だし、このふたつだけでは足りないこともあるだろう。
元々はアディクションに対するアプローチの話なのかな? 薬物絡みのアディクションで解説されてる本があるんだ。アディクション・スタディーズという。
そこで現状と、これまでの日本や世界の方針、変更点、問題点を整理して説明されている。スティグマの話も多い。あと、日本はスティグマと密接な繋がりがある。ついでにいうと、先に述べた一九八四年も、PSYCHO-PASSも、スティグマを象徴化している。
しかしスティグマはハームリダクションに逆行する。むしろ被害を拡大・増幅させる。
それについての解説もある。
けれど、この時点で「ふむふむ、たしかに!」ってなる人はどれほどいるのかな。
ゼロとは思わないけど、多数派になるとも思わない。
ただねー。
勉強だめだからって自分にスティグマを刻んだ時点で、勉強を理解する目標へのハームは増える。スティグマは周囲が刻むことも多い。そしてそれらは概ね、被害を拡大・増幅させる。
なんてね。
専門書を読んで、単語をひろって、一般的な話に用いて理解した気になるなんて。
ネガティヴ・ケイパビリティとはほど遠いよなー。
シェイクスピアにもあったとする詩人がいたそうだ。
個性や自己を表現する詩人。それとは別に時代の勝者を歌う詩人。後者であれば特にそうだけど、自分の歌と出くわすのがたいへん。
それでいったらさ?
人を見せるんよなーって、たまに芸人さんがしみじみ言うけれど、そのとき語られる自分ってやつが、見つからない。歌でもそう。
答えを求める。あるいは出そうとする。
ずっと抱えているのはたいへんだ。問題は負荷。タスクは負担。抱えていたら、ストレスがかかる。増え続ける。はやく、解決しなきゃ。
焦れば焦るほど?
答えはこれだ。これが答えになってくれ! と、どんどん安易にすがりつく。
下ネタに走ったりして。ね?
実はその安易ささえ、面白くなっちゃうそう。
新喜劇に出ているすごい人だと? どんどん膨らませちゃったり、突き進んだりすることさえあるっていうよね?
やり尽くされているネタであればこそ、安易にだれもができちゃうことだからこそ、それをどうするか。先駆者たちも、実例も多い。
ペペロンチーノや炒飯、基本的なスープをおいしくする術は?
これ、かなりむずかしいぞ?
あまりに王道のオーソドックスなメニューで、自分を示すのは?
きびしーっ! とてもきびしい。
あまりにアレンジしすぎても、ねえ? もうそれ炒飯じゃなくね? となるのでは。
そうはいっても派生した料理もやまほどあるじゃない?
ペペロンチーノなら?
パスタでしょ? 塩コショウでしょ? トウガラシでしょ? あと、オリーブオイル!
以上! 終了!
ここに卵をといて入れたり?
アサリとか、イカの切り身とかを入れてもいい。トマトをカットして入れるのもおいしい。野菜を入れるのは大きな手。アスパラなんかもいいよねー! 旬の野菜っていうパターンもある。春キャベツとかさ? 好きだわあ。
作ったあとに生ハムなんていうのもいいよなー!
チーズをごりごりやってさ? 散らかすのもいい。
映像作品で、いかにもリッチーってやるとき、カラスミを散らしたりするのもあり。イクラが乗っかってたり、生鮭がのっかっていたりするのもあるよね。
思い出の食材をペペロンチーノにのせたら、じゃあ、だれもが「おー」ってなるかっていったら?
それはまた別の話。
ご飯のアレンジでもそう。
今晩ためそっかなーくらいならまだしも、千人規模のお客さんが入る舞台で、ご飯のアレンジの一本刀で挑むのは? あまりに無謀。
でも、その無謀も面白く、おいしくできちゃえたら?
そりゃあもう。芸でしょ。
その芸の技術は? 味は? 妙は?
見ずに答えだとして飛びついて、舞台に立つことを思ったら?
こわいこわいこわい!
だけど。ね?
じゃあそれをペペロンチーノやご飯でやれるのかなーって考えると? わからない。
カレーとか、おみそ汁だと? 浮かぶ。
もっとふわっとお題をあいまいにするほど、思いつく。
幅が広がるほどいい。できる余地が増えるほどいい。
最初はそう。
でも自分とか、舞台に映える自分の味って、一味で、限定されたもののように感じる。
むしろそうであるべきなんじゃね? まである。
そこで限定すると?
今度はスティグマが一味であるかのように考えられたりして。無意識にそう捉えたりして。
ますますハームリダクションから遠のく。
そこに気づいたからといって、次が見えるとも限らない。
そもそも軽減が思い浮かばない以前に、気が滅入ることもある。
「――……ニュースが物騒だね」
朝の連続テレビ小説の合間、ニュースが流れる。
そこで扱われるものは? 猟奇的な殺人事件の報道だ。
民放はそっちの話で持ちきりだった。特に昼間から夕方にかけてはね。
実を言うと、まさにこれが気鬱な理由のひとつといってもいい。
ぷちたちに見せたくないたぐいの話。いくらなんでも早すぎる。
報道はこのところ、加熱している。
それというのも、被害者とおぼしき遺体が連日、発見されているのだ。
元号が変わる前だって言うのに。そんな論調のワイドショーもあるくらいだ。不謹慎。
「お父さん」
「ごめん」
お母さんに呼ばれて、急いでお父さんがチャンネルを変える。
本命は連続テレビ小説。七時に見て、八時にもういちど見る。終わる頃になって、お父さんは出かける。それがルーティンになる。チャンネルの変え方も決まっている。
けど、それが大事なんじゃない。ついでにいえば、いまどきネットでまた見れるし。
こうして初めて実感する。
あれ?
朝にテレビ、意外と困るぞ?
困るんだけど、どうしたものかわからない。
事件はある。起きている。今日なくても、明日起きる。明日おきなくても、明後日。
それが当たり前。物心ついたときには、知る。
みたいにして。答えにしちゃう。
それで、はい終了!
報われない状況を当たり前にして、それで思考停止するの。
ハームリダクションからは、ほど遠い。むしろ、どんどん遠ざかることを是とする勢い。
それでもね?
恐ろしいことは起きる。
現に起きている。
特別な事件は象徴的にみてしまう。
けど、たとえば私の現状だけで、お母さんもお父さんも本当はけっこう焦ったり、こわかったりするのだと思うんだ。
他にもね? 家族が病気にかかったり、こどもが学校でうまくいっていなかったり。そもそも学校に通う前、幼くて夜泣きがひどいっていうだけで、私たちは焦ってしまう。
気が参ってしまう。それはつらくてしんどいから、答えを求める。
解決せずにはいられない。放ってもおけない。
答えの出ない事態に耐える力は? 求められない。気ばかり急いてしまう。早く解決しなきゃ。だってタスクは解決するものだから。そう、執着してしまう。
実際、解決を求めずにはいられない事態がある。
まさにいま、報道されている事件がそれだ。
ビッグバンセオリーで、ペニーがテキサスの実家でお兄ちゃんがハイになって警察のお世話になっているとラフに軽く話していたけどさ? なかなかね。
そういうケースだって解決を求めずにはいられないよね。その回ではペニーは軽く話していたけど、背景を思うと、当時は上から下への大騒ぎだったんじゃないかな。なんて、安易に妄想しちゃう。アディクションとして、ハームリダクションの対象として薬物はね。大きなもの。
いま起きている事件はどうか。
解決を求めずにはいられない。
生兵法だから、私が知ったことばをいきなりこれに当てはめようとするのが無理がある。しかも、雑。それっぽく説明はできるだろうけど、それには意味がない。
たとえば二者で問題が生じていたとき、マニュアルがあったら? 自分がマニュアル通りにできているかどうかを考え、評価し、問題がないと判断しようとする。自分は問題なかったかどうかをわかろうとする。相手の評価・判断も試みる。
ここでバランス云々を語ることはあるけど、それも意味ないなー。
工程化された手順に従い、それを当然のものとして捉え、そこから外れることができない。
それでうまく回らないときでさえ、そう。
なんなら、そのまま強迫観念に飲まれてしまう。
どうしたもんじゃろ。
自分に問いかけるけど、わからない。
ノノカたちが来てくれる前の私だったら? そりゃあもう! うろたえまくりの、びびりまくりだったんじゃないかな?
ないもんなあ。心構えとしても、知識としても。
ネガティヴ・ケイパビリティ。
ハームリダクション。
ただ、徐々に落ち着きを取り戻してきたいま、やっと「あれ? これじゃね?」という感触を得ているし?
いやいや! だから! 飛びつかないの! って話なんだってば。
答えがあればよしっていうんじゃあ、ね?
でっちあげさえ許容できちゃえる。答えを出せばよくなる。
それでどれほどの問題が起きてきたかを考えるとね?
だめだわ。それは。
発明を。問題と一緒にいられるように。発明を。
環境も。問題と一緒に付き合えるように。環境も。
なんかなー。
お付き合いできるように、プラスのケアを。
たとえば挙げたふたつ。ネガティヴ・ケイパビリティにしても、ハームリダクションにしても「じゃあこれが答えね! ハイ終了! お疲れさま!」ってことじゃない。どっちも、それだけで完璧、もう万能! 問題なし! って話じゃない。
それぞれに課題もある。
たとえば、まずは私。
ぜんぜん具体例を知らない。詩人の話も。彼らの詩集の内容も。
本は好き。そこに書いてある内容を読んだら、理解できた気さえする。
けどエッセイにせよ、実用書にせよ、読めば書いた人の理解度のすべてを理解できるはずもない。
本を書く。その段階までに、書いた人が体験してきたこと、考えてきたこと、学んだこと。それは本には記されない。当然だけどね?
なので読めば「よし!」とはいかない。だよね?
精読もできていない。積ん読のほうが多い!
読んだら読んだでさ? 繋がりを追うだけでも大変だ! 頭の中で繋がるのに、どれくらいかかるのかなー。わくわくしちゃうね?
どんな風につながっていくのだろう。
本が星なら、精読し、思い描くとき、何度も繰り返し触れては、星が繋がっていく。
どれだけすごい星座になるだろう。
天体望遠鏡で覗きたいの。星の大地を。ガスでいっぱいかも? 土星みたいなリングがあるかもしれないね?
どんな物語を描けるだろう。
もしもはじめて人が月に降り立ったときみたいに、私もその星の大地に降り立つくらいの体験ができたら、どうなるだろう?
果てしない道のりになるよなー。絶対にさ。
なので、単語を知りましたーとか、どれだけこれだと思える手段を見つけましたーとか、整理をつけてみましたーとか、いかにも答えになりそうだ。
でも、のんのん! 焦らずいこうよ。
自分をさっさと捨てたいみたいで、それこそ悲劇だよ?
なにせ、課題のふたつめ。次の問題は?
獲得した技術をどれだけ使えるだろう。あるいは、どれだけ「あ、いまじゃないぞ?」と自制できるだろう。その先を思い描けるかな? 進められるかな? あるいは止められるだろうか。とどまれるかな?
果てしないよ。
せっかく一九八四年の話をしたから例えるけどさ? ディストピア社会の法であり神であり決定権であり倫理であるビッグブラザーという存在がいる。
たとえば「ビッグブラザーいわく」をつけたら、途端に危うくなることさえ「あ、これいけるかも?」ってあっさり思っちゃうんだもの。
ビッグブラザーいわく、こうすればいい。
ビッグブラザーいわく、こういう知恵があるぞ?
ビッグブラザーいわく、奴らはでたらめで愚かだ。あいつらはダメなのだ。
強迫性。強迫観念。想起させ、縛りつけるための枷。
PSYCHO-PASSなら?
色相を濁らせてはだめ。クリアーでないと。シビュラが判定する。彼らが理解できない人を、思考できる生きた脳みそに加工して取り入れて。システムで捉える。彼らが想定しうる範囲で、好ましい評価を。
基準がほしいね。マニュアルがあるといいね。ルールがほしいぞ? どんどん増やしていこう。排除を。排斥を。すべてはシステムのため! すべてはビッグブラザーのために!
なんてな具合になっちゃうんだ。こわっ。
お父さまの言うとおりになさい! ママの言うことなんで聞けないの? 先輩がいってんだよぉ! 上司の命令だぞ!? などなど。
これが神さまになることもあれば、経典や教えになることもある。
もちろん、それらを唱える人の中の定義が特徴的である可能性もある。
けど、ここで課題のみっつめ。
本の話と一緒でさ。
定義を追いかけるのも、確認するのも、たいへんだ。
星を知り、学ぶのは、とても時間がかかること。
タスクは答えを出して解決せねばならない問題なのである! と焦るほど? 私たちはどんどん雑になっていく。時間を制限されたり、習熟していないことだったり、なんの発明も用いれないとき、ますます雑さに磨きがかかっていく。
矛盾というか。
皮肉というか。
答えをだすことに執着するほど、私たちは雑にならざるを得ない。
答えをだすのが当たり前だとするほど、無意識に囚われるほど、求める結果が出ないときに、どんどん答えを求めて、ますます執着し、ますます雑になってしまう。
鬼の首を取ったように、そんな話を居丈高に話したところで、なんの意味もないし。だからなにって話でしかなくて。
やっぱり、タスクとお付き合いすることになるわけで。
課題、その四。
さあ、どうする?
別にいま私が発見しました、なんてことじゃない。みーんな知ってるよ。私がちょこっと読んだ本の知識を雑に組み合わせて、ちょこっと知ったかぶっているだけで。
世の中には既に被害を和らげるためのあれやこれやがあるよ? それだけじゃ不十分だったり、もっと発明がほしかったり、もっと発展させたかったりする。
なにかになれば、それで達成できると信じて。けれど、なってみると「あ、あれ? 実はもっと欲しいのでは?」と気づく。続けていけば続けていくほどに。
仮にいまある形を答えにして、答えが出ているからもういいやで済ませると?
生まれなかったこと、達成できなかったことがやまほどある。そのひとつに組み込まれる。
今日の小数点第一位の負荷が、一日ぶん、関わった日数分、あるいは年月分、それまで達成できなかった人たちのぶんだけ加わる。
私の思いついたしょうもない下ネタギャグさえも。
ほんのちょびっとだけ、世に出ることなく消えたしょうもない下ネタギャグたちの中に加わる。末席に入れてもらうにしても、たぶん既にだれかがやったか、思いついたことに違いないだろうけどね!
人ひとりになにがどこまでできるものかよ、みたいな話もある。
巨大な流れは、その実、人の動きでできているのだとしたら?
けっきょく、みんなで動かさなきゃあ、届かない。
ひとりにできることは、まあ、ね。ないよなー。
自分が思うほど、ない。ぜんぜんない。
だけど、ぷちたちを見ていると不思議な感覚に襲われる。
なんかね?
できるできない、答えがあるない、そういうんじゃあないんだよね。
知りたい! 楽しい!
そんな感じ。
私に対しては?
ねえ見てみて!? とか。いいねー! とか。これなあに? とか。
そんな感じ。
怒ったり泣いたり、許せないってことも。いつだって、先を求めてる。
楽になることを望む。
ずっとずっと素直に。
居ることを望む。
答えが、とか。解決しなきゃ、とか。
そういうの、なくて。
まあ、だから、タスクに答えを。解決を! と。それを当たり前にしていることがやまほどある私には、わりと負荷がかかってるんだけど。それじゃあうまく溶け込めないぞって思っちゃうんだけど。
それってどうなのって話を、ずっとしてきたんじゃないのか。
それってまずいんじゃないのって話の、ある意味では結末を、私はいくつも目撃してきたんじゃないのか。
いま、その中でもとびきり悲惨なケースが報道されているんじゃあ、ないのか。
大昔。長屋で火事が起きたら、木造だけにすぐに火が回る。だから消火もするけど、先んじて火の通り道になる家屋を壊す。江戸時代の火消しの仕事が、そんな感じだったんだってね?
すごい派手。ド派手。めっちゃ派手。
でも、やっぱり困る。
住む家が壊されちゃうのは困る。
火を消すまでに間に合わなきゃあ、もっとひどいことになるから、壊すしかない。
それじゃあもちろん困るんだ。
それが答えで、永遠に立ち止まるようじゃあ困るんだ。
だから、消火の術が改善されたのすごくありがたい。
とても大事。
ぷちたちは当たり前に、先を見てる。
いつ、どこで、私を引っ張る手が増えたのかな。その手は私のものにちがいないのに。知らないし、気づいてないし、知ってるし、気づいてる。
ぷちたちの食事をみて、朝にアニメを再生する。
食後にのんびりする子たちからすこし離れて、遅れてご飯を。あったかい珈琲をちびちび飲みながら、スマホを出す。
調べると、当たり前に出てくる。
報道されている、おおきなおおきな事件。
そう。
足りない。
いまあることが意味なくなるわけでもない。
ただ。ただ。
足りない。
答えをださなきゃ。やっと答えにたどりついた。
もうおわりだ。やっと解放される。
そう思っても、どこかで気づく。最初から気づいていた問いに、ぐるぐる回って戻ってくる。
尻尾を噛むためにぐるぐる回るように。
動いていないようにさえ、感じる。
錯覚かどうかは別として、自分で思うよりも届いていない。
あるいは、答えだと思っていたものが自分で思っているより、足りないことに気づく。
いやいや。自分がものを知らないだけかもしれない。自分が足りないだけかもしれない。あるいは、世の中そこまでたいしたものじゃないかもしれない。他にもいろんなパターンがあり得るけどね。
そのぶんだけ、ぷちたちと同じだった頃から、自分の心は動いている。
どれだけ、どこまで、どちらのほうへ、動いていったのだろう。
自分の足跡をたどるだけでも不可能レベル。
だから画面にみる事件のキャッチコピーなんか見ると、頭痛がする。
問題ミルフィーユ。
タスク発生。解決しなきゃ、やばいやばい!
スライドしてみえる広告画像のグロテスクさも悲惨。きついきつい。
こんな問いにおなやみのあなた! 朗報です! こちらの答えをご用意!
なんていうのも?
もう、うんざり!
問いの先には問いがある。問いのピントがずれていることも、ざらにある。
万華鏡を、特定のパターンにしてくださいと言われて、くるくる回すくらい不毛な感じ。
そこに現実的な被害が生じているとなれば?
解決を。
なによりまずは、終わらせることを。
けれど、それはときに誤った手段を選択して、問題をさらに複雑でややこしくて、被害をさらに拡大させるものに増幅させているケースもある。というか、多い。
ハームリダクションでいえば? 薬物は、その依存者を排除・排斥し、強烈に罰して、アディクション状態に陥っていない人々からしたら一見すると問題がないような状態にしてしまう。済ませた気になって、実際には問題から目を逸らし、暴力に陥るだけになる。
国際的に、流通と依存に悩まされている多くの国で、この方針を過ちだったとして、懲罰的で排斥を目指す方針を改め、見直している。
あらゆるケースが想定されるなか、最もきびしい状況を想定し、そこでの被害を低減する方向性を目指す。
だとしたら、なにが考えられる?
奇しくも今回、報道されている事件の猟奇さは、いわゆる最悪を想起する。
心の動きを運動のエネルギーとして捉えるのなら、低減はブレーキだろうか。
カナタと箱根に行ったときに聞いたよ?
坂道がつづく、山の中にはさ。車のブレーキがきかなくなったときに備えて、避難所として上り坂を用意している場所があるんだよね。マニュアル車が多い時代には特に重宝したのかなあ。
スピードが出ていたら?
用意されている坂では減速に足りないかも。
なので、砂の山を盛っておいて、そこに突っ込んで止まるみたいな感じだったそう。
ドラマ版フラッシュで、超速ダッシュ能力に目覚めたバリーが、どれだけ走れるかを計測するべくスターラボのみんなと一緒に試したとき、バリーが止まる場所にたくさんのポリタンクを置いてなかったっけ。エネルギーの吸収用に。シーズン1を見たの、かなり昔だからよく覚えてないけどさ。
私たちの低減って、ほんとに微々たる減速。
なにかしらのアディクションも、素人が想像するに、長い年月をかけて育まれた依存行動のひとつだとしたら? 塵も積もれば山となる。一日も積み重ねれば、どえらい日数になっちゃう。
なのに減速しようとしたら?
そりゃあ、いきなりは止まれない。車と一緒。
ブレーキは負荷になる。車のブレーキは、パッドで擦って負荷をかけて減速してるんじゃなかったっけ。だから、車の場合は交換するよね。ブレーキパッド。
いきなり得るのも無理なら、いきなり止まるのも無理。
クリミナル・マインドで出てくる、生い立ちがしんどい犯人にチームのだれかが共感するも、犯行現場で逮捕しようとしているときって、トップスピードで走っているようなものじゃないかというような前提でさ? いますぐ助けられないことが、トリガーになる。
私がみたドラマの文脈だ。
素人の意見だよ?
これを答えとするのは? いかにも雑!
マークシートのテストに鉛筆ころがして答えにしちゃうくらいの雑さだ。
ただ、ネガティヴ・ケイパビリティにうなずく理由にはなる。なにより、答えがあるべきで、なければもうだめっていう自分の雑さに「ちょっと待って!?」とブレーキを踏む動機としてなら、十分だ。もっとしっかり学んでからじゃなきゃ、今後も大事故まちがいなし。
あ。これはこれで強迫観念じみてる?
でもね。
めいっぱい時間がかかる。
というか、時間がかかって育ったなにかを、すぱっと終わらせたことにするほうが雑。
事件でいえば、いまできるのは江戸の火消しか、それより悲惨な状態が精いっぱいかも。
済ませないし、よりよくしたいけど、いまできる全力を尽くすので精いっぱいな場面もある。
そして、それとは別に、ゆっくりタスクの先にある問いを探ることも大事。
ただ、それだけ。
タスクは解決されるべき。終わらせなきゃだめ。答えが絶対にある! ないならそれはもうだめ! なんていう雑な安易さを選んじゃいたくなるくらい?
心は臆病だ。
とても怖がりだ。
その怖さと付きあう力。
ネガティヴ・ケイパビリティ。
本質的な問いを探りつつ、それとは別に被害を低減・縮小していく。
ハームリダクション。
「んー」
不思議だ。
もう、私は事件に思いを馳せている。
理華ちゃんが関わっていそうなことを思い出した。
ぷちたちのことを考えても、心をぎゅっと締めつけて踏みつけて、張り裂けそうにするような衝動がずいぶん和らいでる。
もしや――……朝だからかな?
あり得る。
ま、いっか。
ノノカたち、特にヒヨリが私の負担の低減に意欲を燃やしてくれたおかげで、私の身の回りにあるいろんな圧が、ほんのすこし、弱まった。
そのほんのすこしが、めちゃめちゃありがたい。
なにがいいのか。尽きない不安の解消は。
答えを! 直ちに解決を! はよう! なんとかしろよぉ!
と、怖がる心が怯えて震える。
もちろん、答えや解決どころか、そもそも問いの本質がなにかさえ、さっぱりわからない。そんなことがいっぱいだ!
わからないのはつらい! 先の見えない道が延々と続いていて、この苦しみに終わりがないかのようだ!
だから、昼にはすっかり参っている可能性、大あり!
それでもね?
繰り返すんだ。
きっと、見つかるよ?
やがて、過ぎるもの。
だから、だいじょうぶ。
きっと、うまくいくよ。
怖がりな私にそう唱えてみるのだ。
なんでかってさ。
恐れは痛み。痛みは被害。被害は連鎖する。
怯える私の心が、そうささやいてくる。
だから、唱える。
そして、問いかける。
それって、ほんとかな?
空に光が瞬いて、それを星だと呼ぶよりも。
私はもっと深く知りたいぞ? 星の話は特にそう。
わかったと思えることが邪魔をして見えない向こう側を知りたいの。
きっとそれは果てしない彼方にある物語。
被害が生じていたら、楽しんでいる場合じゃないからね? 低減、大事。
低減がゴールじゃない。物語さえ、聞いて、読んで、それでゴールじゃない。
果てしないよねー。
立ち止まったところを「ここをゴールとするぅ!」としちゃうことも多い。
進みたくても先が見えないこともいっぱいあるもんなあ。だからこそのネガティヴ・ケイパビリティなんだろうけどさ。
どう? 長いぞぉ? できるぅ?
さくさくっと食べられるほうがお好み? わかる!
なにせ、それじゃ済まないことだらけだ。
だからこそのネガティヴ・ケイパビリティなんだろうけどさ。
どんだけ繰り返す気なのか!
いくらでも。
怖がりな心は、怖さを緩和するものの需要を抱えているだけじゃなく、恐れを供給しつづける。どちらも低減を。そうして、目の前のこと、自分自身と付きあっていく。
需要や供給に振り回されてしまい、問いが曇って別の形に歪んで、重なってしまう、そのときに。
怖がる心に、そっと唱える。
映画のように、胸に手を当てて唱えるんだ。
きっと、うまくいく。
落ちついて低減しつつ、考えよう。
さあ、どうする?
つづく!




