第千七百五十九話
みんなで朝、運動をする習慣が根づいている。
そういう集団がいるとき、新たにやってきた旅人が集団の中で寝泊まりすることになった。
旅人は朝寝坊をする。一週間の滞在で、旅人は一日、二日、そしてとうとう三日目の朝になっても朝、起きてこない。
集団にとっては、朝は運動をする時間。
この場合、集団にとって朝、運動をすることが正義だとする。
なら、旅人は悪だろうか。
集団に反する悪であり、正義の側に移らねばならぬ存在だろうか。
それとも集団によって排除されるべきだろうか。
確認したい事項が、人によってあるかもしれない。
たとえば。
旅人が集団に迎えいれられたとき、集団の流儀に従うよう提案され、お互いに合意に至ったか。事前に集団は流儀について適切な説明をすべて行い、旅人が一切の誤解も抜けもなく理解していることがお互いに担保できたのか。
現世じゃ、このあたりは「郷に入っては郷に従うものでしょお!」と事前確認なんてろくすっぽせずにぷりぷりするか、集団から旅人に流儀にまつわる記述が一切漏れずになされた契約書が提示されているか。かなあ。もっとも書面は識字に問題がないこと、契約内容が煩雑ではないこと、平易で理解しやすい文面であること、誤解を招き問題を生じる内容になっていないことなどが求められる。すくなくとも、建前上は。このあたり、ざつぅな理解と共に集団が旅人を脅すようなケースが地味に多いと聞く。
企業でいえばお金は経理に、契約は法務に依頼して、適切な状態に整えたうえで契約先に書面で提示する。でなければ経理も法務も存在する必要性がなくなってしまう。社内のみならず社外にまつわる内容もきちんと精査し、取引の正常化に務めることで社の利益を保護する。
集団においても、そう。
あくまでも、建前上は、そう。
ただ集団において暴力の行使を当然とするか、相手にとって暴力であると気づかず知らず、あるいは知っていてなお意図的に行使することで、専門家の専門的な知識を毀損し、貶め、自分にとって楽であればよいとして旅人を攻撃することもある。
ざらにある。
そうした集団においての正義と、正義に従わぬ悪とはなんだろうか。
正義と悪。
新明解国語辞典だと?
正義は、
『道理にかなっていて、正しいこと』
悪は、
『悪いこと。よくないこと。悪事』
『好ましくないこと。弊害』
『悪いやつ』
となる。
念のため、新明解国語辞典による悪いとはなにか。
『その社会において、倫理的にしてはいけないことだとされている様子だ』
『道義や社会通念に反していて、対人関係などに好ましくない影響を及ぼす様子だ』
『好ましくない状況におかれている(結果を招くおそれがある)ととらえられる様子だ』
『標準より劣って(基準からはずれて)いる状態だ』
『正常な機能(状態)を失っている様子だ』
そして運用においてふたつめの「道義や社会通念に~」に関しては、
『自分のために負担をかけたことに対する同等以下の者への感謝の言葉として用いられることがある』
『「悪い悪い」の形で、多く男性が遠慮のない間柄の相手に、迷惑や負担をかけたことに対する謝罪(の気持を込めた感謝)の言葉として用いられることがある』
『「悪く思うな」などの形で、約束などが果たせなかった際に、それがやむを得ない事情によるものだと弁明するのに用いられることがある』
みっつめの「好ましくない状況におかれている~」に関しては、
『「悪いようにはしない」などの形で、自分の利益のために相手の負担になる(名誉にかかわる)ことを依頼する際に、必ずそれに見合った償いをする用意があるという気持を表わすのに用いることがある』
『「悪いことは言わないから」などの形で、相手が好ましい、また、特に問題はないと思っていることを否定するときに言う前置きの言葉として用いることがある』
そうだ。
さすがに用例が多い言葉はたくさんあるね! 説明が!
じゃあ、大辞林だと正義と悪はどうなっているのかな?
まず、正義は?
『正しい道義。人が従うべき正しい道理』
『他者や人々の権利を尊重することで、各人に権利義務・報奨・制裁などを政党に割り当てること。アリストテレスによると、名誉や財貨を各人の価値に比例して分配する配分的正義と、相互交渉において損害額と賠償額などを等しくする矯正的(整調的)正義とに分かれる。また、国家の内で実現されるべき正義には自然的正義と人為的正義とがあり、前者が自然法、後者が実定法につながる。国家権力の確立した社会では、実定法的正義は国家により定められるが、これは形式化・固定化されやすい。そこで、各人がその価値に応じた配分を受け、基本的人権を中心とした諸権利を保障されるべしという社会的正義の要求が、社会主義思想などによって掲げられることになる。公正。公平』
『正しい意味。正しい解釈。経書の注釈書の名に多用された』
ふたつめの文量のすごさ!
でも内容は至ってシンプルなのでは?
さてさて、それじゃあ悪は?
『わるいこと。否定すべき物事。道徳・法律などに背く行動や考え』
『演劇で、敵役。悪役』
『〔近世語〕悪口。悪態』
とある。
新明解国語辞典のケースに合わせて、悪いはどうなっているかというと?
まず「望ましくない状態を広くいう語」とあり、次に続く。
『好ましくない状態である』
『品質的に下級である。粗悪だ』
『美的に劣っている。醜い』
『能力的に劣っている。劣等だ』
『身分・家柄が低い。経済的に恵まれない』
『倫理・道徳に反する。道にはずれている』
『規範・標準に合わない。適格でない』
『友好的でない。むつまじくない』
『人格的に好ましくない』
『都合がよくない。具合がよくない』
『不利益になる。得でない』
『快くない。不快だ』
『調子がよくない。病気・故障だ』
『好ましくない結果に対して責任がある』
『迷惑がかかって気の毒である。申し訳ない』
いや、多いね!? めっちゃあるやん!
そりゃあ大辞林、分厚くなるなあ。分厚さでいうと広辞苑も分厚いんだよね。
持ってないんだけどさ。辞書は高くて分厚くて場所を取るので、なかなか手が出ない。くうっ。
ただ、辞書を複数あたって、並べて比較するのは楽しいね? けっこう違うとこあるよね。
なにせ、言葉はいきもの。
言葉が組み合わされて示される考えもまた、いきもの。
そこがとても、厄介。
たとえば主観的に扱えるケースは、どれほどあるだろう。
集団に属する人の数に、ぷらす旅人分だけ、主観は存在する。
その主観の数が漏れなく、多様な意味を持ち、使いようによって異なるひとつの言葉を素材に語り合う。
だれもがおなじ認識でいるだろうか。
集団において交渉とは、つまるところ、たまに訪れる旅人に滞在したくなる嘘を告げて引き留めることを指し示していたら、どうだろう。旅人にとっての交渉とは、相互の理解と承諾を得るために書面のやりとりをすることだとしたら?
集団は旅人が留まるように嘘をつき、旅人が望む交渉をする振りをする。
旅人にとっては交渉で決定した内容は正しく履行されるべきものだ。けれど、集団にとってはちがう。旅人を留めることに成功したら? あとは煮るなり焼くなり好きにするだろう。
集団が実質的には山賊であったなら、旅人は命を奪われ、身ぐるみを剥がされる。
集団がハンニバル・レクターみたいな人食いたちであったなら? やはり旅人は命を奪われ、そののちに食われるのだろう。
ともだちという単語を用いて友情を確認しあったはずが、ひとりが危険な状況に陥ったら他の集団が一瞬で離れていったり。
運命共同体ですからと酒を酌み交わした発注している大手が、不景気に人件費を削るべく受注している子会社に無理な低報酬か契約破棄をちらつかせて脅し、間接的に倒産に追いやったり。
この類いの話は、まあ、よくあること。
そういう社会なのだ、という大人たちが、ぶわーっといて、やまほど本を出し、テレビにでたり、ネットにでたりしていたとき、では、よくあることなら、それは正義なのだろうか。それとも悪なのだろうか。
それは主観的に判断するもの?
あるいは集団が判断するもの?
ならば仮に声の大きな集団がみんなして、集団にとって利益のあることを正義として、それを当たり前に語り続けていたらどうだろう。
私たちは、なにを基準に正義と悪について考えるのだろうか。
正義であればよくて、悪であればいけないのか。
それほど安易な話に単純化していいのだろうか。いけないとしたら、それはどのような内容を単純化したら、どのようにいけないのだろうか。いいのだとしたら、それは?
正しい道義に従うことが正義だとしたとき、その正しい道義を「おれが正しい!」と百人が百人、世紀末ひゃっはーなノリで言いだしたら?
そうは言っても、まるっきりちがう形で分かれることもないだろうから、ある程度のまとまりができるとして。好ましさは人によってちがうとしても、似通うことはあり得るとして。
じゃあ、正しさは枠組みによって定まっていくのかな? それは一面として、あり得そうだ。
所属する枠組みによって定まる、正しさ。
今回の例でいう集団の中には、自分たちのコミュニティの正しさに「ううん」と思う人もいるかもしれない。けれど、集団を離脱するほどでなければ? 暗黙のうちに、集団の枠組みに所属するうえで必要なだけ、集団における正しさに従うのではないか。それか、積極的に参加しないまでも、放置する。
みたいな話はねー!
よくポストアポカリプスもので使われがちだよね。
社会に存在するコミュニティにおけるマジョリティとマイノリティの話にリンクしやすい部分もあれば、モロじゃん! ってこともあるし。
マッドマックス怒りのデスロードだと、男系社会から逃れた花嫁たちとフュリオサ。対して、男系社会の維持・継続を望む者たち。
ウォーキングデッドなら?
リックたちと、彼らが出会ういろいろな集団。集団によって、マジでがちに正しさがぜんぜんちがう。言うなればルールが異なる。規範。あるいは、崩壊した世界の捉え方とかね。
敵対する集団の「ああこりゃ先ないわー」感、えぐい。
たとえば、終着駅。彼らは先ほど挙げた集団が人食いだったバージョンだ。救いは終着駅にあると線路沿いの看板にスプレーで描き、やってきた旅人たちを肉で迎えいれる。そうして油断したところを全員で銃で取り囲んで脅し、巨大貨物の中に閉じ込める。男たちは先に裸に剥いて、食肉加工場に連れ出して並べ、首を落とし、加工する。つまるところ、旅人たちがやってきたときに振る舞われる肉もまた、人のものである。
大昔、そういうことをしている村や集団がけっこうあったのかも。
だから昔の人生の教科書的な側面のあった宗教によっては、肉を食べることを禁忌としている向きもあったのかも。
ニーガンたちは、そういう残虐さじゃなかった。マッドマックスのやべえ奴らの殺人狂バージョンって感じだ。
それぞれに「秩序」の意味が異なっている。
同じ言葉を使っているのに、ちがう意味を想像している。
だから当然、すれ違う。相容れない。
枠組みとして、噛みあわないのなら?
ニーガンたちも終着駅の連中も「戦って殺すだけ」だった。ニーガンはシンプルだったよね。「強ければ生き残る」。でもって終着駅のみんなはうんざりしながらも、他に手段がないからと消極的に、けれど選択して、残虐な行為を続けていた。「これしかないんだ」と自分をごまかすための呪文を唱え続けてた。いずれにせよ、どちらもNOを突きつけられた。
リックたちはなんとか彼らを撃退したり、逃れたり、ときにやられてしまったりしてきた。
だからニーガンが味方になったの、ほんとよくもわるくもかなり刺激的。ずっと許せない視聴者さんもいそう。登場人物を惨たらしく殺したし、そのシーンがっつりあるし。
ところで大辞林に「悪に強きは善にも強し」ということわざが乗っている。
意味は「大きな悪事をできる者は、改心すれば大きな善事もできるものだ」そう。
理華ちゃんが魔法をかけて、お姉ちゃんが地獄で責め苦の一例を示し、私は名前をつけた。教授から、シャルへ。願うのはまさに「悪に強きは善にも強し」。
けれど履歴が消えるわけではない。
それは被害を受けた者にとってだけでなく、改心しようと試みる加害をした者にとっても枷になる。アディクション。やめたくてもやめられず、奴隷状態に陥る行為は、改心を試みる者の足を掴み、沼へと引きずり込もうとする。
そうした点でも「悪事は割に合わない」のだけど、他に手段がない環境は存在する。なので、そうならないようにする意味でも、社会保障は手厚いほどいい。留まる利点、救われるラインも、接続できる箇所も、多ければ多いほどいいし? いたちごっこのように、他に手段がない環境はゼロにはなり得ない。綱引きのようなもの。「割に合わない」ようにしない限り、増えてしまう。
それをする集団の言葉の意味は、その集団の視点からでないと観測できない。とてもむずかしいもの。映画やドラマみたいに、わかりやすーく何度も説明したり、教えてくれたりしたら? 楽ちん。
だけど現実はもうちょっとふわっとしてるし、雑然としてるし、わかりにくくて複雑。
ドラマの正義の役も、悪役も、明快に選択を提示してくれることが多い。エンタメ作品だと、とくにね。そのほうが見やすいし。
でも現実だと、決めきっているわけじゃあない、煮え切らない状態もけっこう多い。
ゼロイチでも白黒でもなく、あいまいなラインを漂うほうが自衛に繋がることもある。見栄えしない振る舞いから発せられる言葉はもっと、あいまいだ。
サイレントマジョリティ。その中で行き交う言葉は、どんないきものなのだろう。
いずれにせよ、けっこうなぞ。
すごく頑なな人もいれば、すごく雑な人もいる。その間にだけ中間があるわけじゃあないけど、中間層もたくさんいる。
理華ちゃんがよく定義から確認すると言っていて、あれかっこよくていいなーって思ってるんだけど、いざ私なりにいろいろと定義をどうにかしようとすると?
途端に困る。
たやすく行き詰まる。
子育てってなんだろ。私って、ママになったけど、じゃあどうすればいいんだろ。ひとつひとつの振る舞いを調べても、その言葉の意味ってなに? となる。子育ての方向性で揉めることもあれば、人生観がでてきたり、自分の育ってきた環境のポジショントークになったり、親にまつわる話になったりと、もうね。果てしない。
うんうんと悩んでいたら、頭になにかが降ってきた。
それはくすぐったく首裏に滑り落ちて、私の後頭部をはたく。
「さっさと寝たら? へたくそな子守歌をぶちかますよ」
ヒヨリの声だ。はっとしてふり返ると、ちいさな狸のぬいぐるみがドヤってた。
金色雲のうえで寝返りを打って、子狸ぬいぐるみになってるヒヨリを抱き上げる。
リアクションが乏しい。私が作りだした妄想か、はたまたヒヨリの願いでもキャッチしたのか。
いずれにせよ、多くは語らない。ただ、そろそろ休んだら? と提案してくれている。
「んー。ありがたいんだけどね。寝たいのはやまやまなんだけどさ」
まだ無理。
と、いうのもね?
こどもについていろいろと調べた時期に知ったことがあってさ。
知ってる? 中絶にまつわるハードル。
中絶しようとするとき、未婚なら相手の男性のサインはいらない――……というけれど、実のところトラブルを恐れてサインを求める病院も中にはあるという。
加えて、明確に、ある一定期間を過ぎたら中絶手術を受けることができなくなる。
それはつまり、どういうことか。
男が怖がって逃げたり、関わりたくなくて逃げたら? そして訪ねる病院のどこも「相手のサインがないと、うちじゃちょっと」と答えたら?
産むしかなくなる。
どれほど怖いだろう。どれほど恐ろしいだろう。
家族は自分を受け入れてくれるだろうか。学生だったら、学校は? 暮らしはどうなる。これからの人生は。
なのにだれもろくに性教育について、またそこで起きうる現実的な流れについて、教えてくれなかったら? とうとうその場になって、命の重さに狂いそうになる。
それまでいいなと思っていた相手と付きあっていて、妊娠したとして。相手が逃げたら? ひどい罵倒をしてくるかもしれない。父親は自分じゃない、あいつとやってるんじゃねえかとかね。そんな相手のこどもが、逃げて責任放棄した相手の一部が、身体の中で大きく育ち、自分を苦しめるとしたら。
そうはいっても、赤子を産んで放置したら死体遺棄となる。歴とした犯罪として、検挙され、罪を背負うのはだれ? 女性だけ。
これはおかしい。あまりにどうかしてる。だから未婚なら相手のサインは不要という話はあるけれど、それをどの病院も受け入れているかというと、ちがうこともある。あるいは、多くの病院が受け入れていないと吹聴し、自分のとこで高額でなら請け負うとしたら?
親が支払うのなら、手術は受けられる。けれど、それは果たしてどれほど信頼できるのか。
親が支払わないなら、自分で稼がなくては。
おまけに国際的に非人道的だ、懲罰的だと非難される掻爬術が日本の病院によっては、まだ、選択されているという。そのため脅されるかもしれない。二度とこどもが産めなくなるかもと。
そんな国で、どんな言葉がどれほどの意味を持つのだろう。
そんな集団の中で、言葉の組み合わせで示される考えが、どれほどの意味を持つのか。
そしてそれらは、どれだけの曖昧さを持ち、どれだけの人を苦しめるのだろう。
そうした前提さえあるなかで、こどもは産まれてくる。
だれもがみな、本当に、心から望まれて産まれてきたこども?
そういうことにしているだけという可能性はないの? ゼロっていうのは不自然すぎるけど。みんなで信じていることにする、こどものためのフィクションにしてない?
だとしたら、子育てについてどれほど真剣に、前向きに道を整備してきてんの?
あまりに妊娠、出産、子育てについて雑すぎない?
カナタは知らない。ラビ先輩たちも。カゲくんたちだって。男子の保健体育で、この手の話はしないそう。
なら、産んだあとの話は? 育児についても、ろくにない。
集団はいろいろあるみたい。
枠組みにとってのルールも、きっといろいろあるのだろう。
個別の家庭でもちがいはやまほどありそうだ。
なのにそこを刺激するような話を持ち出して、明らかにしたら?
寝た子を起こすことになる。
寝かせておけばいい。
いろいろ問題が生じる? 多方面に波及する?
まあまあ、なんとかやってきたじゃないか。いまのままでいいって。少子化は困るから、若い世代には努力してもらわないと。って?
はんっ!
おかげでこのところ、私はずっと参ってる。
率直にいって、定義から見直すとしても、手の着けようがない。
信頼できることがなんなのか、さっぱりわからない。
枠組みに所属すれば、じゃあ、いいのか。その枠組みの信頼性はどう調べるの?
すでにぷちたちが元気に暴れてるのに!
安心がいる。安定できればいい。安全な場所がほしい。手段も。知識も、技術も。
じゃあ、それはどこにあるの?
だれに聞けば?
ゼロからやるの、無人島や砂漠に放り出されて「生きて」と言われるようなものなんだけど。
とても安心できないんだけど。安定なんてほど遠くて、安全なんかどこにもないんだけど。
ヒヨリたちに頼れることはあるだろう。マドカたちにも。
お母さんとお父さんにもね。
いざとなったら産婦人科に行って相談する。他にも、地元の集まりとか、宝島のおいなりさんたちとか。
だけど、なにもかもが手探りになる。
それじゃあ結局のところ、手探り状態は変わらない。
整理すると、やっぱりきっちり、保留にしていた問題が顔をだす。
そして、だから無意識に、あるいは意識して考えてきた言葉が私の気持ちを示している。
ないって。
たぶん。
私が求める完璧な答えなんて。
聞けばそれで解決するような言葉なんて。
あってもどうせ疑うよ。
だからって探さないなんてわけにもいかないぞ?
ううん。むしろいまないからこそ、どうにかしてかなきゃってもんでしょ?
「ねーえ。寝ようよー」
「じゃあ早く眠れるように、一緒に考えてくれない?」
「明日の朝じゃあだめー?」
「だめなの。あなたたちには授業があるからね」
二頭身の狸のぬいぐるみが身体をよじってアピールしてくる。
とてもかわいいんだけど、だからって提案にうなずけるわけじゃない。
こどもは授かり物だというけれど。それは素敵な祝福だというけれど。
そんなエモさじゃ、世界で悲惨な目に遭うこどもたちは減らない。そんなエモさじゃ、袋小路に追いやられた女性の痛みも苦しみも増えるばかり。
そんなエモさでふたをしちゃあ、そんなかさぶたを押しつけていちゃあ、この先ちっとも変わらない。
そんな枠組みが見えてしまったら、さすがに放っておけないでしょ。
なのに、なにもかもが足りなくて、ろくに頭が回らないまま明日がきちゃうんだ。
さあて! こいつは参ったぞ!?
傷はさ。治すのほんとに大変なんだ。心に刺さった刀の傷は。
傷の痛みをごまかすためなら、私たちはほんとに多くのことをする。その中には無茶なことや、暴力さえ含まれる。依存したら身を崩すようなことさえも。
なのに、西暦二千年! まだ! 答えなし!
わお! えらいこっちゃで!
そうはいってもベストがなくて、それは目標として、ベターはあるんだろうけど。
そのベターが自分に合っているかどうかは別。だれかにベターはあっても、自分には見つけられないことだってざらにある。
えらいこっちゃで……。
そりゃあ、ジョークが必要だ。
そりゃあ、遊びも休みも肝心要だ。
旅の最中にいる。
ないベストを高い理想とともに抱き締めて、ちっともない現実に見つからないと嘆いていたら?
すぐに参っちゃうよ!
むりむり!
地道にコツコツだ。
できなくて当たり前、とはいわないよ?
できないから、やれるようになりたいんだぞ?
それはかなりたいへんなことだから。遊び、休み、安心できる場所を確保してやっていくぞ?
お姉ちゃんがハマってるサンドボックスのゲームでも、拠点の確保は大事というし!
いろいろめげることもあるだろうけどさ。
焦らずいくぞ? いつも張りつめるんじゃなく、脱力するときもちゃんと作るぞ?
うっし! これくらい決まればいいでしょー!
「終わった?」
「今夜はね」
ありがとね。子狸さんを抱き締めて、まぶたを伏せる。
私の中にないもの、たくさんありすぎて困る。
ないことに気づかされては、だれかやなにかにキレ散らかすことさえある。
あんまよくないって思っていてもね。なかなかなくせないんだ。やんなっちゃうね?
でもまあ、落ちついて考えると、相手の中にもないだけのこともある。
言葉はいきもの。よくよく観察すると、私がむっと感じるような言葉さえ、実はふたをして押しつけてきているように見えて、傷を隠すかさぶただったり、さっぱりわからないだけだったりする――……こともある!
そういうわけなので。
零点の私でできることを増やしていこう。
だれかに減点を押しつけられてる気がして。加点を集めるのがめっちゃたいへんで、私にはとてもじゃないけど無理な気がして。やっと集めた加点も、だれかのなにげない言動に、あっさり減点されて零点になっちゃう。
そんな一日、わりと多いけどさ。
零点の私で、楽に安心して、よしやるかぁ! とできることを増やしていこう。
ゆるり、ゆるりとね?
なぁに、だいじょぶ!
よしいけ、それいけと、ベストはなくても目指してがんばる人たちがいる。これまでにも、大勢。よく見て背中に学び、私も続こう。
刀が二本、やってきた。
それをふたりの傷に刺さる刃とみるよりもね?
私にだいじょうぶだと知らせる、祈りの形とみればさ。
こんなに頼もしいこともないじゃんね?
私の心に刺さる刀は、私の中に息づく減点。
どうするかは、私次第。
傷まない刀なら、そう思えるのだ。傷む刀は、まだまだそっとしておけばいい。
焦らずいくよ。
だから! 今夜はもう寝る!
黒いのが置いてった資料は明日! みんなと相談するのも、明日!
明日やろうはばかやろう? 上等だ! 好きにいえばいいさ!
私は寝るぞーっ! おやすみっ!
つづく!




