第千七百五十八話
たまに夢を見る。
大好きなぬいぐるみがくる。へびを連れて。さみしいときには必ず。素敵なことがあった日にも、必ず。どちらも大事で大好きな人が持っている。
それはどちらも私をよく知っている。
とてもよく理解している。
だから私はその人と、何度も何度も夜を過ごした。
その日の夢なら、よく見る。
たまに見る夢は、その人が私の前からいなくなるときのこと。
当時はよく理解していなかった。
検査と、現われた印の意味も。
夜に目を覚ます。
ノノカもコトネもだれもがみんな、眠りについている。
布団から動くと気づく子がいる。水を飲んでくると断って、廊下に出る。
胸に手を当てた。早鐘を打っている。
あの日から、すべてが変わった。病院。警察。父の飲酒。一時期できた親戚筋との距離。別の親戚筋の干渉の強化。自宅から通っていたのが、全寮制への変更に。だけど、あまりに多くのことがありすぎた。それだけじゃない。激動すぎて。
私は確かに失った。
とても多くを失った。
キッチンじゃなく、脱衣所へと向かう。
水を流す。両手ですくう。顔に当てたら目が覚めてしまう。
まどろみに両手で集めたぬるい水だけでも冷めてしまいそうなのに。
すぐさま化かす。水で作る、私の霊子体。
左手で持って、右手で栓を閉めた。
作りあげた人形を見た。
私の霊子体にはヒビだらけ。穴も空いている。
ふたつの穴。失った命の数だけ開く穴。そう、思っていた。
青澄春灯の霊子体にも穴が空いたという。尻尾に、ひとつずつ。巨大な穴が。ノノカに見せてもらった。けれど式神の数とは合わない。彼女は高等部にいながら入院したことがある。一度や二度じゃない。けれど、彼女が自分と同じとは思えない。日にちからしても。この家での暮らしぶりを見ても。
すると、どうだろう。この穴はなにを示すのだろう。
足音が近づいてきて、人形をただの水に戻した。流してしまう。
「んんん……ヒヨリ、だいじょうぶ?」
コトネが寝ぼけ眼を擦りながら歩いてきた。
「シャワー?」
「ううん。ちょっと。目やにが気になって」
「そお?」
眠そうな声だ。布団の中にいてくれればいいのに。
心配性の彼女に、心からわき出るまま彼女に礼を告げて布団に導く。
それからキッチンへ。事前に教えてくれたグラスを手にして、水を注ぐ。
とても綺麗なシンクだった。
家事にとうとう慣れることのなかった父の扱うシンクは水垢が目立った。切った野菜のくずや流した油やスープの汚れがたまに目立つ。よくて週に一度、長くて月に一度の頻度でしか洗わない。だから虫が湧くことがある。ナメクジのときも。
仕事が忙しいから大変。そのうえひとりで子育ては無理だ。不可能だった。
こどもはばかなことをするもの。
いいや、ちがうね。
知らないもの、できないものは、できるもの、知っているものからみて、失敗を犯すもの。
それが、真実だ。
できるもの、知っているものの中でも、導くことができるものがそばにいたら、回避できることがある。
そういう点で生まれは格差を生じさせる。
グラスに水をためて、中身を飲み干す。
ひんやりとした心地よさが身体の端々に広がっていくようだ。
グラスを手早く洗ってからシンクに置いて、ソファへ。
恵みのある家。すくなくとも私ひとりになるまえの満月家に比べたら。
それでも、なんでもカバーできるわけでもないし、なんでもできるわけではない。
人にはできること、できないことがある。向き不向きもある。お金があれば正しく頼れる窓口にアクセスできるとは限らない。
そう。恵みがあれば、それが幸せを約束する切符になるわけではない。
電車はたやすく脱線する。
現実の電車は、だからしつこく点検をする。規則を作り、運行に規定を設け、その遵守のもと運行している。そうした地道な手段と、それに勤しむ人々の日常が、電車の安全を支えている。
だから、支えのない電車は、支えある電車に比べて脱線しやすいかもしれない。
恵みはすべての進路に向かう線路の安全を保証しない。
果実は味わう者に活力を与える。
それがすべてだ。
なので正確に述べるなら、うちよりも、じゃあない。
父は見つけられなかった。あるいは見失った。だれも父の果実を探し出すことはできなかった。父は死んで、私は遊びという果実を手に入れた。コトネたち仲間と過ごすことで得られる果実も。
傷も、痛みも、失ったものも、そのままそのものを得ることで穴埋めをしようとする。
けれど、絶対に達成できるとは限らない。
父は生き返らない。葬式に母は来ない。私はひとり。こども時代に血の繋がる親と暮らす時間は、もう、二度と、戻ってこない。絶対に、達成できない。
それでも今日がある。明日へと続いていく。
一日を、三百六十五回。それを死ぬまで続けていく。
そのためにも活力がいる。
果実は今日の活力を与える。けれど、万能ではない。
だから果実は穴埋めに転用できない。そのため優先順位を落とされるか、見落とされてしまうことがある。そもそも必要だと知られていないことさえある。
しかし果実が失われるということは、今日の活力、明日への備えが失われることに繋がる。徐々に、失われ続けていく。減りゆく果実だけが問題なのではない。活力があればできるであろう行動が取れなくなっていく。そこが問題だ。
けれど手元に果実のない人に果実を育てることはできない。
果実を知らない人も。知っていて、気づいていてなお、育てない人にもだ。
なんてことはない。
植物を育てるように。掃除をするように。ご飯を作るように。ゆるりと眠るように。
そういう行動の積み重ねがいる。
言葉を選ぶように。接するときに優しさを選ぶように。悩みも失敗も恥も打ち明け語れるように。
そういう言動の積み重ねがいる。
ただ、それだけの話。
それが円滑にできるよう、多種多様になっていくといい。伝わっていなければ、利用したいと思えるものでなければ、意味がない。ならば、広まり、だれでも使えるようになれば。
それだけでも足りず。届かず。
いまもどこかに果実を求める人がいる。飢えても意識的に育て食べることを知らず、腹が空いたと暴れる人さえいる。
活力があればできることがすごいことになる? まさか。それは別の話だ。ただし活力がなければできないことは減る。そういう話だ。
その活力が、
「――……」
いまの私には、ない!
というより、物心ついてから今日までずっとない。
だから遊ぶ。ノノカたちと過ごす。
どうにかなるのだとわかっていたら話せる。
けど、ない!
ないから話しようがない。
せいぜい今日いちにち、明日いちにちやり過ごすくらいの果実を確保するので精いっぱい。
余裕が!
ない!
ああ足りない、失った、奪われた。
どれでもいいし、他のものでもいいけど、成就することなくできた穴の補填は、なんだろうな。
私のいまの結論でいうと?
できない。
不可能。
無理。
そもそも前提として、その補填しなきゃと焦る、獲得できなかったものが自分の外にあるとして。それに対する感情は自分の内側にある。
外にあるものを獲得し、自分の思うようになることでしか、自分の内側にある気持ちが満たせないとした場合、これはもうね。
悲惨なことになるよね。
たとえば茜原が、茜原に好意を寄せたものだけの言動をする私を求めたら?
そんな私はごめんだし、そんなことする気はさらさらないので、茜原の内側にある気持ちは永遠に満たされない。
というよりも、他者の言動が自分に好意を寄せたものだけになるよう求める時点で、そもそも明後日の方向に向きすぎている。
ないって。そんなの。あり得ないって。
実現不可能な目標を掲げ、周囲に実現不可能なものを求めて、得られず、延々と自分が満たせなかったら? そりゃあ、もう。果実うんぬんどころじゃないだろう。
いきなり実現不可能な目標に辿りつくわけでもない。対象を絞って、同じ目標に執着したり、固執して、目を離せなくなっているケースのほうが多いかもしれない。
いずれにせよ、わりとある話。
自分に干渉してくる相手がいたとき、自分の思うように振る舞ってくれたらと願う。
その点では茜原が私にしたように、私もまた茜原に同じような願望を抱いた。
お互いそれは失敗に終わった。
厄介なトラブルになる前に距離を置きたいとして、距離を置けばもうそれで安心という保証もない。それゆえに人間関係は厄介だ。大昔から、人の悩みの上位に居座るもの。人間関係。
恋愛関係においても、夫婦においても、親子においても起きる。問題はなくならない。
神話に見て取れる。百年、千年単位で話が残り続けるほどの物語に、既にあるもの。
解決はされないまま、今日に至る。
歴史は繰り返し、明快な手法はいろいろ残され、しかしどれが自分か相手か両方に合うともわからずに、どこかでは事件に発展し、どこかでは暴力を振るう前かあとになって別れ、そしてどこかではなんとかいまをやり過ごす道をお互いに選び、そしてまたどこかでは安穏と過ごす。そういうところも含めて、歴史は繰り返し、明快な手法はいろいろと残され、増え続けていく。
情報。
肝心なもののように思えるけれど、そうでもない。
発信する側、受信する側。二者が存在する。発信にも受信にも、結局は人が関わる。そして人はさまざまだ。噛みあっても、信用せずにうなずきあっても、あるいは信用がそこにあったとしても、やりとりされる情報がどれほど信用に足るものなのかどうかは、実のところ関係ない。
会話も伝聞も、記事も。もろもろ、人のやることだから。
どちらの立場になるのだとしても、自分の都合のいいように捉えてしまう。自分の立場、自分ではない立場、その双方に対して。
たとえば信頼できるかどうかと語りながらも、実際のところは「自分がどれほど手間を省いて楽ができるかどうか」について語っていることも多い。
意外とそんなものだ。
なので、適当に。気楽に。もうちょっと、肩の力を抜いていい。
思い悩むとき、目標に向かって作戦を練るのならいい。
けれど出血している傷口をぐりぐりと押したり擦りつけたりして、抉り、さらに傷つけるように探るような思い悩み方をしているのなら、やめたほうがいい。
果実を食べ、安らぎの中でたっぷり休むのがいい。
たとえば居る手段や、生きる手段だと思っていたものが心を苛むようになったら?
いっそ手放してしまえばいい。
魔女のキキに絵描きのウルスラが語ったのは、そういうことじゃないか。
夢も希望も愛さえも。こどものころに見る画面の内側で素晴らしいと語られるものさえも、ときには自分をひどく追いつめ苦しめるものになる。
果実を食べる行為だったはずが、気づくと毒になっている。
なにが毒なのか探りたくて食べる、なんてずれている。
フグの毒について知りたくて、フグを食べたら? ただ、死ぬ。
食べるとおかしな振る舞いを見せるキノコについて知りたくて、キノコを食べたら? おかしくなるだけ。
やめる。調べるにしたって、安らぎがそこにないのなら離れて作戦を練ったほうがいい。
食べられる人たちにその方法を聞く。フグなら毒がある部分があって、食べるには適切な調理を行なってよし! と認める免許を取得する必要があることを学び、自分で調理したいのなら免許の勉強をすればいい。キノコなら、そうだなあ。図鑑をあたるとか、農大にいそうな学者さんに尋ねにいくとか、あるいはいっそキノコの成分分析をするとか?
やりようがある。
すぐにわかるほど「なんだ、こんなの簡単だ」と思えるような、あっけない手法でどうにかなることもあるだろう。
キキがデッキブラシにまたがって「飛べ」と命じたシーン。
ノノカたちと話したとき「デッキブラシでどうにかなるなら、ホウキじゃなくてデッキブラシで試したら解決してたのか」で揉めた。少年のピンチがあるのが、どれほど意味があるのかどうかについて雑に話しあった。
もちろん答えはわからない。
けれど、やっぱり「意外と楽勝なんじゃないか」という意見は出た。
イチゴは反論してたな。自転車がある日、楽に乗れるようになるくらいのことだって。それはあまりに感覚的な主張すぎて、この話をした当時はだれもぴんとこなかった。主張したイチゴでさえ、よく説明できなかった。
じゃあ、それってどういうことなのかを知ろうとした。それがいまのイチゴの土台になった。だからイチゴはあらゆることに挑戦する。そして「試してみたい」という気持ちを見つけると、離れていたことに戻って挑戦する。フィールドを広げすぎていて、中学時代は追いついていなかった。いま吹部で楽器と格闘しているのは、いままでやったことないフィールドすぎて習熟が追いついていないから。別に追いつかせる必要もない。
実のところ、果実としておいしくいただくというのが、イチゴにとっても、私たちにとっても大事な目標なのだ。生半可じゃない、やるときはガチ、やらないとき、やりたくないときは全力でだらける。そんな日常の持続型エンジョイ。それが狙い。
どんなにいいなと思った食べものも、飽きたら食べるのが苦痛になる。
そればっかり食べちゃうときもあるけれど、それだと飽きたらもう二度と見たくなくなるときさえある。それってなんだかもったいない。
変化は楽しい。
日常は長く続く。
定番の良さは変化があってこそ、より刺激的においしくなるもの。
安心も安全も安定も、けれどいま自分がどういう段階にいるのか、それはいきものとして決まった水準があるのかどうかもわからない。
雨が降ったら傘を差す。
けど、それだけじゃなんだから、雨音が楽しく聞こえる傘を差して飛び跳ねたり、雨合羽を羽織って長靴を履いて陽気に歩くのもいい。
豪雨じゃなければ。ね。
いまの雨がどれほど危ういのかわからなければ、遊んだときに被る危うさがどんなものかもわからない。
これくらいならだいじょうぶと自分に嘘をついても、身体は熱を出す。心は失敗に参る。キキは寝込んだ。いろいろと失った、ような気がした。彼女は再び飛べるようになったけれど、すべてについて説明がなされているわけじゃない。
説明があればわかるのか。
そういうものでもないよね。
お医者さんぎらいが「こいつの言うことは製薬会社の陰謀によるものだ!」と疑ってかかったら? どんな名医の言葉も、お医者さんぎらいには届かないだろう。ここでいうお医者さんぎらいという説明があれば、その人がなぜお医者さんをきらうのかわかるかって? それもわかるはずがない。
知っていかなきゃね。調べてみなきゃね。記録があればいいね。だけど、その記録をだれがどのように作り、どういう具合に管理していたかも知っていかなきゃね。調べてみなきゃね。
お医者さんぎらいは怖いだろうし、お医者さんぎらいに威嚇されるお医者さんも怖いだろうし、お医者さんぎらいの周囲で暮らす人も怖ければ、病院でお医者さんぎらいに接する人も怖いだろう。
だれもがみんな怖がっている。そんな状態なのに「知っていかなきゃね。調べてみなきゃね」と押しつけても「怖いからいやだ」となる。実際、怖いのに無理をして、自分をごまかしてやったことに、どれだけ信頼できる高い精度が得られるのか。無理だ。
知るのも。調べるのも。道を探るのも。受信も発信も。
いずれもみな、怖がっている状態の人にはできない。無理なんだ。
関係者ほどむずかしいことって、ある。
青澄春灯と式神たちでいえば?
もちろん当事者の彼女たち。それだけじゃない。春灯が滞在している青澄家のお父さんとお母さんのふたりも。
あるいはいろんなできごとをド派手に乗り越えてきた春灯の仲間たちも。仕事で春灯に関わる人たちだって。
だれもがみな怖いだろう。怖いときに「知っていかなきゃ。調べてみなきゃ」は無理。
それができる人がいたら、それはすごいことのように思えるけど、でも、怖さは「知ること、調べること」を簡単に揺さぶる。雨に濡れながら、風に吹かれながら、屋外で火をおこすようなもの。どうしたって影響を受ける。
怒られるから人は嘘をつく。雨が降るから傘を差すように。ひどい暴力が自分を襲うから、人は自分を守るために必要なことをする。
そういう環境もざらにある。そんな環境とは無縁だと訴えるために非難するという振る舞いを見せる人さえいる。
なので、私にはわからない。わかるはずがない。
今日の果実を集め、それをいかにおいしく食べてエネルギー補給するかで精いっぱい。
失ったものを手に入れられそうなとき、私は縋るだろうか。
答えはわからず、榛名ホノカへの疑念も、衝動も、宙ぶらりんなまま。
それはたやすく私という土台そのものを破壊し尽くす力を持っている。
彼女に私の存在、私の内部の安全のすべてを依存し、なにも相談せずいきなり「助けろ」と訴えたところで、失敗する可能性のほうがたかく、彼女が実の母である確証もないまま。
この不安定さを無視して、彼女に私の心にある穴にはまれとねだったところで。
うまくいってもいかなくても、無視したことはいずれ表面化する。
取り返しのつかない事態になる。
父は死んだ。
それまでも、私はずっと失ってきた。
怖い。身が竦むほど、夜に無性に怖くなるときがある。夢を見た日は特にそう。
そして怖さは人の思考を奪う。力を奪う。果実から味を奪う。とことん奪い、力に訴えかけさせようとする。怖さは人をどこまでもそそのかし、視野を狭める。
それは、そう。
豪雨の最中、煙のように飛沫が舞うようなときには、視界が狭くなる。ろくに前が見えなくなる。おまけに豪雨の最中じゃ、ろくに過ごせない。そこに居るのがひどく大変になる。
たとえば。
もう、この世にいない。ひとりとして。
絶対に、私のこと、なにがあろうと好きでい続けてくれる人は。もう、いない。
そう思うだけで、消えてしまいそうになる。
私の中で、そういうときほど叫ぶ声がある。
だから。
終わりだと思えてしまいそうな、いまだから。
ハッピーエンドを望む。
ううん、ちがう。
私はずっともっとわがままだから。
エンドだけじゃ足りない。終わりよければすべてよしなんていやだ。
ずーっと! ハッピーがいい。
トラブルの類いは刺激に変えていく。
そのためにも安全だと安心できて、実際に安全で、安定してる場所がいる。旅に出るためには休憩する場所がなきゃ。そとに出て遊ぶには、帰ることのできるうちがなきゃ。
閉じこもり、外に出たくなくなるくらい傷つく前に。休み続ける日常になってしまうほど、反動や揺り返しがきつくなるような日常を過ごすことのないように。
ずーっと! ハッピーがいい。
お父さんが死んでしまう前に気づけたらよかったのに。
なにかを失う前に、気づけたらよかったのに。
いつだって、あとになって気づく。
だから、人は繋がる。共に生きる。
きっと、なにかを止められるかもしれないと、そう信じて。
そのせいで善意の迷惑な押しつけさえも発生するんだから! ほんと、いきものは常に万能じゃなく、常に完璧じゃないね。
未熟で完成されていないからこそ、発展の余地がある。刺激の余地がある。
楽しく満喫できる日常とセットじゃなきゃ! 気持ちよく安らげて眠れる休憩場所が毎日ずっとちゃんとなきゃ!
忘れてしまうほど大切なことがやまほどあって、それをよりよく探究する知らせになるから。
探究するには? ああ。堂々巡り。それでも続ける。休憩場所、楽しい日常が大事。
その距離感は、人それぞれで全然ちがう。どう過ごしてきたか、どう思っているか。全然ちがう。
こんな理想の家、家族がいて、それでも苦しむ。
いきものってほんと、ままならない。
だから比べない。
それは目標に向かうための手段。探究の仕方のひとつに過ぎない。
私の心に空いた穴を、傷を、痛めつけるためにするなんて、意味がない。
わかっているのに、ああ。つらい。
怖くて、たまらない。
今日出会った彼女に気持ちが寄せられる部分はある。
けれど同時に心の中で張り裂けそうな思いで怒鳴る私がいるのも事実。
それは、でも、彼女も、この家も、本当のところは関係ない。
私の中にいる、私の傷を恐れる私の恐怖の呼び声だ。
怖いよね。
だめだったもんね。
私には、得られなかった。
その過去はずっと、変わらないままだ。
それはまるで、この先も永遠に不可能だと私の人生を押し込める型枠のようだ。
窮屈さが痛い。苦しい。なのにそれが相応しいように思えるくらい、私の穴は惨めで、みすぼらしくて、終わりそのもののような気がしてしまう。
そんなことない。
だいじょうぶだ。心の恐れる声はいくらでも私をへこませるために、すべてを利用する。
だったら言ってやれ。
だから、言ってやるんだ。
なに、そんなことで諦めるの? なんだ。じゃああなたの知ってる日常、たいしたことないね!
世界はこんなに広いのに!
あなたも私も、知らないことだらけなのに!
痛いのもつらいのも、もういやだよね。だけどね? 私には諦められないの。広い世界、知らないことのなにか、どこかに、いまの日常をほんのすこしだけ、明るくするものがあるかもしれない。手に取ったものは間違いかもしれないし? そういう経験を刺激に、いつか巡り会えるかもしれない。
だけどね?
それには、挑む価値がある。
そうして生きる一日一日、その繰り返しが、恐れるあなたと生きて得た勝ちになって、価値に繋がっていくの。私があなたにだいじょうぶだと繋げた一日になるの。
ぜったい、価値がある。
ううん。
それを私は勝ちにする。そうして価値だとし続ける。
そりゃあ恐ろしいことだらけで、怖さの奴隷になりやすい。
だからこそ、決意を自由の扉を開く鍵に変えて、生きるのだ。
心がぐんと意気になるでしょ?
そこで、ようやく見えた。これからの方針。
春灯と式神たちと一緒に居るうえで、目指すなら? 怖さへの対処。安心できること。
心がぐんと意気になること!
これだな。
「よし」
寝る前に、もう一口お水を飲んでいこ。
あと、トイレに寄っていこう。なんかもよおしてきた。
夜はいろいろと漏れやすい。
そこが便利だけど、ときに厄介。
なのでとっとと出すもの出して、寝転がる。
今日もおつかれさま。
どうせ夢を見るのなら、いずれ夢見がよくなりますように。
そう思える今日という一日に出会えた恵みの縁に感謝を。
あと、もしも春灯が夢の中でも迷っていたら、私が出ていって「さっさと寝たら? へたくそな子守歌をぶちかますよ」と訴えて押し切れますように。
なんとなく? ほら。
夢の中でさえ、彼女って悩んでそうな気がするから。
つづく!




