第千七百五十七話
刀を手に敵と戦う。
漫画やアニメじゃ映えそうだ。
近代戦じゃ銃器、兵器が戦場の花。
近未来モノなら、それらのアイテムはもっとフィクションっぽくロマンチックに加工されて、すごいアクションに発展する。負けじとカーアクション映画でも、トラックの荷台でごつい車やヘリにラリアットをかましたりする時代だ。
花は物理に限らない。
サスペンスなら探偵役と犯人役の知能が絡み合って躍る。
冒険モノなら、不思議な場所、奇妙な生物、身の毛もよだつ危険と、華々しい回避劇が肝心。
けれど。
ああ、けれど自分の探索をしようというとき、不安定さも暴力性も不要だ。
それらはどちらも旅の邪魔になる。
戦争映画で戦場再現で名を馳せたプライベートライアンの上陸作戦シーンで、怪我をした兵士は恐慌状態に陥ってばかりだった。訓練で仲間の腸が飛び出て、友人の頭半分がなくなってゆっくり歩いて倒れたり、両足が吹き飛んで母を呼びながら絶叫する上司を目の当たりにすることはない。
アメリカンスナイパーで描かれた主人公が戦地に魂を置き去りにして、戦うことに一種、奴隷的でさえあったのは? 奥さんからたびたびアラートをあげられながら、日常に回帰することもできず、なにかの解決を求めて戦地を思い続けていた時間は。
それぞれの恐怖も、消化できず取り残される自己の喪失も、癒やすというのなら?
穏やかな場所で、安らぎの中で、脅かされることなど一切なく己を探索せねばならない。
刀であろうと銃であろうと兵器にせよ、なんにせよ、暴力が渦巻く環境下では不可能だ。むしろ癒やすべき対象が増え続ける。過剰さは心を蝕み抜く。
ようやく回帰して、自己を探索しながら自他ともに癒やす活動に勤しむ伝説のスナイパーは、回帰できず苦しみの中で喘ぐ男に殺されたという。
戦地ならば?
格好の的になるのがオチだ。
話はそれに留まらない。
家族もまた傷つく。波及する。広がっていく。連鎖していく。
それは今日、明日、だれかがだれかにちょっとだけ暴力的になる種になる。かも、しれない。
乖離している。
戦いは日常とあまりに乖離している。
逆に言えば戦いを利用して、そこから利益を得たい者ほど日常を戦いの場に変えていく。盲目的に従う兵士が増えるほうが、やりやすい。
スパルタ。かの国では戦いに向かないとみた赤子を、谷底に落とす。殺すのだ。
いまの日本で真似をしたら、どうなるだろう。少子化が叫ばれるこの時代に、その背景にまだまだちっとも足りないフォロー制度も、そもそも格差問題が深刻化している現状もあれど、それでもこどもを産むぞというところまでいった人たちの赤ん坊を見て、しきたりに従い、不適切とみなしたらガス室に送る。
ナチスドイツ時代の凶悪な戦争犯罪に名を連ねそうな凶行だ。
では、それはやめよう。赤子を殺すのはまずい。こどもを殺すのもそう。
生かしておこう。だが都合のいいように教育できたほうがよいし、大人になったらはたらき続けてもらいたいし、余計な知恵をつけられては困るからはたらき続けなくてはならないようにしよう。社員はなるべく雇用を減らしたいし、人件費は真っ先に減らせればいいし、彼らの仕事の評価など給与を減らす方便として利用できるだけでいい。生涯面倒を見なければならない雇用など、企業にとっては毒である。企業に甘えるなど、勘弁してくれ。
考えるな。学ぶな。ただ言うとおりに働け。それがいやなら自分の責任でなんとかしろ。
そのために、執着する要素を印象づけよう。
刀を取れ。
銃を持て。
敵がいる。貧することは悪だ。敵だ。
そばでだれかが無惨な姿になるかもしれない。捨て置け。目の前の仕事をこなせ。諸君らに脳は必要ない。指示に従う能力だけあればよい。
これはこれで、ディストピアもので映えるサイコな思想になりそうだ。
執着。固執。恐れ。怪我。失敗。
そうしたものに囚われる構図に陥り、不安定な状態になると?
私たちはとてもじゃないけれど、自分というものを探索することができない。
ない袖は振れぬ。それはお金に留まらない。時間も。心の元気も。肉体的な元気も一緒。
勾配を作り、強く水を流して、サーフィンの体験をすることができるプールがある。
不慣れな人は?
ボードに乗ることもできずに避難場所へと押し流されて終わり。
サーフィンの難しさはまず、波に乗ること、ボードに立つことだというけれど、体験できるプールは海と違って距離に制限があって、しかも長いとは言いがたい。人工的に作りだされた波は得意な人、習熟している人にとっては、海よりも波乗りを心地よく体験できる絶好のアトラクションだろうけど、不慣れな人にとっては、むしろむずかしいまであるのでは?
でさ。
ボードに乗っている間だけ、自分を探索して癒やす準備ができますって言われたら、どう?
いやいや。
こちとら満身創痍やぞ? となりません?
肉体的にか、精神的にか、あるいは両方とも傷つき、今日いちにちをなんとか生きるので精いっぱいなときに、できない運動をしなきゃダメって言われたら?
まず無理だ。
高熱が出ているときに言われたら、そもそも布団から起き上がれなくて「寝かせて」と言うし。ボードに乗れた時間だけ適切な治療を受けられますなんて、あまりにもディストピア丸出しなこと言われたら惨すぎる。
だからメイズ・ランナーとか、ハンガー・ゲームとかで、プレイヤーの治療が極めて限定的なものに設定されている描写があるのかなーと思うのだけど。地獄ってわかるもの。
心に刺さる刀も、言ってしまえば、見つけ出して、適切に抜き取り、治療するのなら?
安定した状況下でなければならない。
銃弾や砲弾が飛び交い、怒号が響き渡る場所で数時間もかかる手術はしない。
乗ったらぐらぐら揺れて落ちそうになる果ての見えない橋を渡りながら、落ちたら刺さる針山を見おろしながら、ずっと自問自答するなんてむり。
巨大なバーを持って、絶景なんだけどバランスを崩したら落下して即死間違いなしの綱渡りをしながら人生をふり返るなんてことも、しない。電流鉄骨渡りだっけ。カイジの。ああいうの、なし。もちろん、なし。
極限状態に陥らなきゃ奮起できないやつがいるから、俺は弱いと見る相手には躊躇なく暴力を振るう! なんて人がいたら、わりと本気で「どうかしてる!」となるし。そういうのは、あの、フィクションの中の話なんやで? と言うわけで。
それでよしとしてたら、便利な発明品はいらなかったし、不遇な状況に陥ったときのライフラインもいらなかったし、病気について研究することもなければ、怪我について学ぶ必要もない。
なーんにもなくていい。
生きることに奮起する。ただ、それだけになる。
極限状態に陥らなきゃ奮起できないヤツはだめ。くず。
それをよしとしたら?
エスカレートする先に待つのは、つまり世の中の負荷は人に帰結する問題でしかなく、だめな状況は、だれかのせいにして、放置する。そんな環境。
あらゆるアイディアも、労力も、知識も技術も発明も、すべて個人に帰結する。
ものすっごい退化だよね。
原始時代に回帰してみれば、それが妄言だってわかるのかも?
結局のところ、共同体として依存しあいながら、問題に取り組んでいくのが発明で。その先に負荷が生じて、事件になったり、悲惨な闘争になったり、あるいは飢餓に見舞われたり、疫病に見舞われたりしては、そのつど「こうしては」と挑んできた流れを歴史に見るとして。
だから極限状態になる前にみんなで止めたり手を引くし、それには意味があるのだし? それを語れない環境が増えていることって、教育の手が届いてないことを示している気がするし。
極論を言うよ?
めっちゃ極論なんだけどさ。
自己が傷ついたら、安心して過ごせる環境がなきゃ癒やせない。
雨が降ったら傘を差すくらい、自然なもの。
熱が出たら休むじゃない? 風邪をひいてもそう。
転んで怪我をしたら? 私なら、傷口をようく水道水で洗ってから、湿潤シートを貼るかなー。用法によると、消毒剤やクリームと一緒に使わないそうだね? 商品によるだろうし、傷口によるだろうから、使う前にちゃんと説明を確認して、よく読んで、注意点を把握する。商品を使うのが目的じゃなくて、怪我を治すのが目的だもの。なので場合によってはお医者さんに行くかも。
そう。
目的は癒やすこと。
履歴として、マイナスは消えない。なくならない。
けど、現状で達成できる復帰の最高地点を目指す。そのために必要なプラスを得る。
でもたぶん、この癒やすという目的がどうでもよかったり、見えてなかったりすると? その後の対応はどんどん明後日の方向にずれていく。
クリミナル・マインドだと「どうでもいい」とされたり「手が回らない」とされたり「くず!」とされたりした人が苦しみ抜いた挙げ句に悲惨な殺人事件を起こす。それは日常に追いつめられ、癒やされることがついになかった結末として起きたこと。
ただのひとりもろくに優しさを向けず、あたたかく接することがない結果として起きる悲劇なんか、むしろありふれたこと。
帰還した軍人が苛まれるケースもまた多い。あまりにも多い。アメリカでは身近な問いのひとつなのだろう。だからか、NCISという軍絡みの事件を扱うチームのドラマは人気を博しているのかもしれない。
どうにか癒やしたいけれど、だれも答えをしらない。わからない。
だからだれにも癒やせない。そう、思えてしまう。
だから伝説の男に家族を見てくれと頼み、アメリカンスナイパーの結末では悲劇で幕を閉じるのかもしれない。救われることのなかった男が、英雄を撃つのだ。
日常の負荷、孤独、つらさ、苦しさ。
痛みは一定の行いで和らげたり、麻痺させたりできるとする。
それが場合によってはアディクションになるとして。
軽度なものから重度なものまであるとして。すべてがぜんぶ、なくすべきっていう論調のものではないとして。
行動は、なんになるだろう。
楽しくお酒を呑んで、ぱーっとやる人もいる。トシさんや、トシさん行きつけのお店に集まる気の良い人たちがそう。そういう人たちが集まる場所を営む店長さんもね。
過ぎて、酩酊して我を失い暴言、暴力を振るうほど常習化する場合もある。
エドガー・アラン・ポー曰く。
『わたしが時にどうしようもないほど酒に溺れてしまうのは、けっしてそれに快楽を感じるからではない。わたしは快楽を追求するあまりに人生と名声と理性を危うくしてきたのではない。まるで拷問のような記憶から……耐えがたい孤独感や、何やら不可思議な運命が差し迫っているという恐怖心から、なんとかして逃げようと必死になって酒に溺れてきたのだ』
だそうだよ?
リサ・M・ナジュヴィッツ著、トラウマとアディクションからの回復によるとね。
やめたくても、やめられないこと。
それを説明するだけの知識を、私はもたない。素人の妄想なら並べられるけど。それってたぶん「奮起!」と鼻息あらく言う人と向いている方向性がちがうだけで、やっていることには大差ないもの。
その極限の状態を、増やす行いが暴力だ。
戦いの起きる場の日常には、土台に暴力が鎮座する。
それは波だ。
それもとびきり強い波。
乗るのは非常に困難だ。そのうえにせっせと住居をこしらえ、居場所をこしらえたところで、波の機嫌次第でたやすく崩壊する。
戦いっていうのは、暴力っていうやつは、そういうものだ。
たとえば育児においても、ネグレクトや育児放棄だって含まれる。
そう捉えると今度はアディクションは意外と身近な行いのように感じられるし? 手段として考える。あくまでも自分の痛みを和らげる手段として。もちろん、それが加害行為や、止めるべきで法に記述されるに至るような行為はアウトとしてね?
ガス抜きだと捉える。
すると今度は、だれの中にもガスが燻っている可能性を見る。
爆発する可能性のある人々が暮らす社会を見る。
ううん! これってなんだか、攻殻機動隊あたりで九課に捕まるチンピラっぽいね! それともPSYCHO-PASSの潜在犯? それか、シーズンごとのラスボスとか? ううん。せいぜい小悪党どまりな気もするけれど!
日常が変わるわけではない。
だからガスは溜まる。
それは個人の対応能力を常に超えているものとして捉える。
すると、どうなる?
ガス抜きの手段はガスを逃がしきることができず、どんどんエスカレートしていく。
この場合、重度なアディクションを捉えると? 過剰な暴力や、重度の薬物や酒類への依存へと発展していく。聞くに堪えないハラスメント発言。あるいは殺傷行為。それか、徹底的な放棄とか? 数え上げたらきりがない。
そして、やはり、日常は変わらない。
ガスはたまり続ける。
犯罪に発展した場合、それは延々と止まらない。止まることがない。すでに火がついた。焼き尽くすまで、止まることはない。
免罪符はない。ただ、だれも癒やさず、ある日とうとう火がついてしまった。それだけの、よくある、途方に暮れるほどありふれた、日常の一幕。
今日。あるいはいつかの明日に、自分が巻き込まれるかもしれない、日常の一幕。
だから、繰り返す。
何度でも、だからと並べて、繰り返す。
自己が傷ついたら、安心して過ごせる環境がなきゃ癒やせない。
なので、気づく。
意外と地獄は身近にある。
しかもだれもがそれぞれに別々の地獄を見ている。共有すればどうにかなるって話でもない。自分の地獄でだれかの地獄を叩くことさえある。刀として、振りかざす。戦いに身を置いて。
捉えようによっては、どこもかしこも戦場だ。
なにを獲物にして戦うかのちがいしかない、そんな地獄ならきっと、よほど身近にある。
だから、なんだ。
よくあることだ。なんとか折り合いをつけて生きていくだけだ。
そういう考え方もあり。
今日を笑うためにできることをする。
雨が降ったら、傘を差すように。
そうして地獄を遠ざけ、ガスを抜き、だれかと笑って過ごして、ガスの発生源をひとつ取り除いて明日に向かっていく人たちだって、たくさんいる。
繰り返す。
理屈も、事実も、ときに癒やしになるし、ならないこともある。
ほんとのところは、だれもわかってない。
どの答えが自分にどれだけ大丈夫にしてくれる治療薬なのかーなんて。
インディ・ジョーンズもネイトも。あるいはジェームズ・ボンドやイーサン・ハントも、ジェイソン・ボーンやエグジーも。まさにアクションの真っ最中、命の危機に接しているときには、余計な考えごとはしない。集中する。切りかえる。なぜか。できないことを承知しているからだ。身を守るために必要なとき、彼らは卓越した能力を用いて身を守る場所で計画を練る。
アタッチメントと心理療法。ジェレミー・ホームズ著の序文に、こうある。
『本書の書名は、アタッチメント理論が私たちの学問分野にもたらした、単純でありながら深遠な考えのひとつを反映している。すなわち、不安定さと探索は相容れない、ということである。これはあるパラドックスを導く。そのパラドックスを解きほぐすことが心理療法という仕事の中心となるのだが、安全感が優勢にならないと、ケアを求める人――すなわち「患者」や「クライエント」――は自分自身、自らの人生状況、自身の気持ちの探索を始めることができないのだ。とあるクライエントは、フロイト(Freud 1912)の「基本規則」――「あなたのこころに浮かぶものは、どれほど無関係に思えても、恥ずかしく感じても、失礼に思えても、なんでも言うようにしてください」――を告げたところ、「それができるんだったら、そもそもここに来る必要はありません」と返してきた。治療課題はふたつある。すなわち、不安定さ、およびその起源と結果を探索すること、そして、人が安心のなかで探索できるような空間を提供することである』
長くなっちゃったから抜粋するね?
『すなわち、不安定さと探索は相容れない、ということである』
個人のケアをするための指標として、クライエント、患者についての、
『自分自身、自らの人生状況、自身の気持ち』
にまつわる話は聞けない。なぜか。
『治療課題はふたつある』
『すなわち、不安定さ、およびその起源と結果を探索すること、そして、人が安心のなかで探索できるような空間を提供することである』
これが達成できない限り、無理だ。
なぜならば。
『安全感が優勢にならないと、ケアを求める人――すなわち「患者」や「クライエント」――は自分自身、自らの人生状況、自身の気持ちの探索を始めることができない』
からだ。
『フロイト(Freud 1912)の「基本規則」――「あなたのこころに浮かぶものは、どれほど無関係に思えても、恥ずかしく感じても、失礼に思えても、なんでも言うようにしてください」』
これって実はハードルの高い行為だ。
だれもがいつでもどんなときでも、必要に応じてできることじゃない。
学校でいじめられていることを親に言えないとき。親がケンカして離婚するかもしれないとき。親がケンカしたときに暴力を振るうとき。酔っ払った親が自身を強くなじったり、自分をバッシングしてくるとき。
言えない。感じること、思うこと全部を言えない。
ろくに勉強でついていけないとき。仕事でやらかしちゃったとき。「はいみんな、ともだちとペアになってー」って言われた瞬間。ともだちや好きな人にえげつないことを言われたとき。
他にもやまほどある。
いつでもどこでも、だれでも、だれに対しても、必要に応じてできるわけじゃない。
だから、いまの文に対して、こう続く。
『「それができるんだったら、そもそもここに来る必要はありません」と返してきた』
これは重度のアディクションに及んでしまっているときさえ。ううん、むしろ、こういうときほどできないかも。
実のところ、答えがわかるわからないどころじゃない。
どうしていいのかわからない。
そんな中、気持ちがすこしでも安らぐ気がするから、アディクションは「やめたくてもやめられない」のだろうし?
相談先があると限らないのだろう。
戦うほうが映える。刀を手にして。そのほうがずっと単純。そうできないもどかしさを解決できる部分もある。そこに共感できたり、応援せずにはいられない要素があったらいい。
いっそ、そこに依存できたらいい。
そうしてアメスナでは何度だって戦地に戻ったのだろう。そこを魂の住処にしてしまったのだろう。主人公はその危うさにようやく終盤になって気づいて、家に帰ることを決めた。
ずっと続く。死ぬまで続く。
だからずっとは戦えない。運だってやがて尽きる。それは今日かもしれない。来年かもしれない。戦地を逃れることができたと思っても、故郷で尽きるときがくるかもしれない。
戦うほどに、脅かされる。勝っても。ううん、むしろ勝つほど脅かされるのだ。
遠ざかる安心。見失う自己。
そんな日常が、死ぬまで続くのだ。
とてもじゃないが、無理だ。
私には、無理だ。
「はあ」
金色雲のうえにうつ伏せに寝そべって、ふわふわ漂いながら果てのない水平線を見る。
それじゃだめだと私は思ってる。
刀を持って、振るって。それで達成できることがどれほどあるって思ってる。
実際、ろくなことにならなかったじゃないかって?
ううん。
ちがう。
私を追いつめ傷つけることは、刀じゃ解決できない。
私の心、だれかの心に突き刺さった刀の対処は、刀を振るって傷つけあうことじゃあ解決できるはずがない。安心から遠ざかることは、すべからく目標に反している。
すると今度は、刀の意味合いが変わってくる。
私たちが得る御霊の刀の意味が、変わってくる。
もしかすると、私たちが現世で得る刀は、彼らの魂に突き刺さった痛みなのかもしれない。
つらいなあ。
私が握り、戦いで振るう刀は、戦地で対峙する相手にとっては命を奪うもの。傷つける象徴に他ならない。私はタマちゃんや十兵衞の魂を、そんな風に扱いたいのだろうか。
それって、ふたりへの暴力に他ならないんじゃないか。
ちがう。
影打ちから真打ちになる意味は。
私たちが互いに繋がりできることは。その目標は?
「それがわかるんだったら、そもそも既にやってるよ」
空が金色に輝かなければおかしいと妄想した人が、完璧主義で、しかもトニー・スタークみたいな技術力と財力を持っていたら? どうなるだろう。
二度の大戦でドイツを煽動した男の妄想はどんなものだった? ヒトラーだけじゃなく、アメリカの名だたる企業や大統領も、日本でも支持する層をだして世界を席巻したトンデモ論の優生学と、それを実行するべく動き出した者たちは、なにをした?
支配と不安。こうでなければという目標と、完璧主義の組み合わせ。自己批判や恐怖との付きあい方。
なぜ、希望とちがうとき、私たちは責めたてずにいられないのだろう。
なぜ、責めたてずにいられない状況から逃れるために、せねばならない衝動を強めるのだろう。
アディクション。
これは必要なことだと麻痺させて、人は恐らくどこまでも恐るべきことをするだろう。
歴史に学ぶのなら、そうなる側面があるのだろう。人には。
だから、もちろん、私にだってあるのだ。だれにだって、あるものだ。
色即是空。空即是色。
色これすなわち空なり。空これすなわち色なり。
そこが大事? 有名だけど。そこが肝?
のんのん。私の読んだ本だと分別智を否定しても、最後に必ず残る「我おもう。故に我あり」な私は否定しきれない。なにかを考える私がいて、世界がある。必ず、分かれる。分けられる。さあさあ、そこで私を否定するぞ。世界と溶けあう勢いで。
すると今度はわけわからん領域が待ち構えている。私と世界が溶けあう、分別智なく見る意識が待ち受けてる。それは私でも世界でもなく、どちらもが溶けあうもの。
なんじゃそりゃ!
さっぱりわからない!
ただ、のーんびり、ふらふらっと、らふに過ごしているときって、いちいち分けて考えない。
あまいリンゴもあれば、酸っぱいリンゴもある。いまどきは探せば、どの品種の、どういう見た目のリンゴが甘いか、酸っぱいかの知識にアクセスできる。
だけど、ちびっちゃいころ、ぽけーっと眺める世界にあるリンゴは、風景の一部だ。ただあるという意識さえないかもしれない。
こどもが見る世界と、分別智を増やした人の見る世界は、同じものだし、ちがうもの。
ピカソがこどものように描く研鑽は、もしかすると? そこにも、なにかしらあるのかもしれないね?
じゃあ、もし分別智として苦しみが増えたとき、私たちはどうするのだろう。
増えたとしても、それがわかるとは限らない。
自分を苛み苦しめるとして、だれかに話せるようなら病院になんか行かないって! って人もたくさんいるかもしれないね? 本で紹介されている内容みたいにさ。
すると、どうだろう。
わかること、できること、知ることじゃなく。
わからないこと、できないこと、知らないこととの付きあい方が、むしろ暴力によりすぎてない?
そんな問いが無茶苦茶に思える理由が、だけどある。
即座に持論の腰を折ってしまってなんだけどさ。
それでも心に刺さったままの刀を抜いて傷を癒やすというのなら、それには安全で安心できて安定している環境が必要なのだと思わずにはいられないんだ。
なんてままならない世界なんだ。
そんな絶望レンズを厚くしても、あんまり意味ないんだよね。
目標を見つけるにしても、まずは安心できる状況を確保してから。
私にいま必要なのは?
安心できる状況から。
なのにそう分別をつけると今度は安心を揺らがされるたびに憎むようになるかもしれず。
そうして、いまもどこかでこどもに怒鳴る親がいるのかもしれず。
静かにしてって大声を出しかけては、途方に暮れる。
安心を確保するために、なにを、どうする?
わからないくらい参っちゃう。
それじゃあますますひどくなりかねず、日常が変わらなきゃ可能性は増すばかりだから、意地でも言うのだ。
だから、そこから考えて、変えていかないとねって。
つづく!




