第千七百五十六話
黒い彼女は立ち去り、アマテラスさまたちが訪れるでもなく、女神が用意したかつての自分の似姿が動き回るでもなく、静寂に包まれた空間で、浮かべた雲に胡座を掻く。
金色雲でふわふわと漂いながら、上空へ。
ぷんと漂う匂いが遠のく高さまで。
そこでのんびりと考える。
できないこと、だめなこと、失敗したこと、恥ずべきこと。
それらをナイフに変えて自分に突き立てる。
だれかによって感じたものごとでも同様に。
すると、私たちはどれだけの刃に貫かれて生きているのだろう。そして、どれだけのナイフを浴びながら生きなければならないのだろう。
なんてね。真面目に語ると、なんかこう、やばさが際立つよね。
でもね? このところ、ぷちたちと過ごしていて、なにがつらいってさ。
ナイフに気づくの。自分が自分に刺したものひとつでも心が張り裂けそうになるほど痛くてつらい。だれかに刺されたと感じるものもそうだし?
だれかに刺してしまったと感じるものもまた、つらい。
ぷちたちだけじゃない。中学時代のキラリに対して。結ちゃんや、みんなに対して。他にもきりがない。
なんなら身近だ。とても身近なことなのだけど、じゃあ当たり前でいいのだろうか。
もちろんNO。断じてNO。
厭世的に斜に構えて、それっぽく理屈をつけようと、痛いもんは痛いのだ。
痛みはあらゆる悪影響を広げる。
だから答えは常にNO。
当たり前じゃないし、ゼロを目指すし、治療の仕方も学びたい。きりがないぞ? NOに向けてやれることは、それこそ星の数ほどありそうだぞ?
たぶんだけど、そこでの考え方だの姿勢だのは普遍的な話題なので、紀元前から人々を悩ませてたっぽいぞ?
だから宗教と哲学の両軸で、ブッダは「みんな悟りブームに乗っかって、えらいことばっかしてるけど、ちがうぞ? 執着しんどいぞ?」と訴えたのでは? ソクラテスやプラトン、アリストテレスやマルクス、カントにニーチェ。いろいろな人たちの言葉が残っているのでは?
そのあたりの価値観も踏まえて、なのに未だに私たちは気づけばナイフでざくざくやっちゃうぞ? まだまだ解決には果てしない時間がかかりそうだぞ? 千年単位で変遷しながら、なのに未だに足踏み中だぞ? いまはどれくらいの段階で、次の千年に向けていまできることってなんなのかなんて考えると、さっぱりわからないぞ?
わからないけどもぉ!
どうじゃろ?
そのナイフは必要なの?
責めるじゃん。できないと。しくじると。恥を掻くと。
ああもうだめだー! 最低! いなくなっちゃえばいいのに! くらいの勢いで。
過ぎてとうとう自己否定ばかりで、ある日ふらふらとホームから飛び込む人さえいる世の中で。
それくらいの勢いでさ?
責めるじゃん。できないと。しくじると。恥を掻くと。
面目が潰れるのがいやだし、プライドを傷つけられるのもいやだし。
そうなる前にふたをする。
それが痛いか、損になると知っていて、かさぶたをこさえる。
ここで発想をいったん切りかえる。
かさぶたは、なんにも傷ついていないところにはできなくない? 転んだりぶつけたり切り傷つくっちゃって、治療中にできるものじゃない?
すると、かさぶた製造機状態で、いろんなことにふたをしている人がいたとき、その人はもしかすると現在進行形で傷ついているかもしれない。
怪我をしていても、大変な状況でも意図的に悪いことする人もいるけれど。弱味につけ込む人さえいるけれど。
それ以外に手段を知らない人さえいるかもしれない。
事情をたどってみれば、そもそもは「ナイフが刺さった、さあどうする?」のところからずれている気がするし? 自分で刺してしまうのなら、そうしないための手段の話も大事だし? だれかが刺してくることもあるから、その場合にはどうするかっていう話もある。根本的に、みんなでナイフはやめましょうって話に持っていきたいのはもちろん、当たり前に大事。
でも、もうね。間に合わなくて、なんならナイフ上等、当たり前、どうにかしろよ、知らないよって言ってる人も、痛みに泣いている人も、みんなナイフに刺されまくってハリネズミみたいになってるかも。
それくらいさ?
責めるじゃん。できないと。しくじると。恥を掻くと。
それのなにがつらいってさ?
ナイフに刺される。そうとわかっているのに、それをやめられないことがあるじゃない?
食べものでいえばさ。
みじめで泣けるほどまずくて、なんなら身体に悪いとわかっている食べものがあるの。食べたらお腹を壊すし、いままさに壊れているのにもかかわらず、お腹はすくし、だから、その食べものを食べるしかないの。
そういうつらさから離れられない。やめられない。
手放すことができない。
フラットは遠く険しい道の先にあるみたいだ。これじゃあ息苦しくて穏やかに眠れない。
率直に言うとね?
ナイフなんかいらない。
走る競技に挑んでいるのに足を挫いたら? 残りの距離を走らないと帰れないし、だれも助けに来てくれない僻地の道のど真ん中にいたら? いきなりサバイバルスタート。歩くのもままならないのに、人がいる場所まで残り二十キロとかだったら? サバイバルにしたって限界がある。
練習時点でもそう。足首の痛みをごまかしながら走ってみせても、無事に練習している子たちと並んでとうとう試合が始まるときに待ち受ける悲惨な状況が目に見えるだけ。よりひどくなることはあっても、いまよりマシになることはない。
足を挫いたら? きちんと治すの。
雨が降ったら傘を差すように。雨宿りをするように。
ナイフなんかいらない。
なぜって、刺さったら怪我するし、怪我したら治療するし、治療する間は安静にして栄養とったり薬を服用したりするよね。日頃の活動は無理だよね。
それを自分に? わざわざ増やす?
まさか!
って、なるじゃん?
なるんだけど、習慣からか、慣れちゃって当たり前になっちゃっているからか、やめられない。私は私を責めずにいられない。
それは実はだれかを責めることに繋がる。
逆もまた然り。
だれかを責めることは、自分を責めることに繋がる。
痛いとさー? 荒れちゃうじゃん。心が。肉体的に傷ついているときだって、荒れちゃうじゃん。ね。
だれかにしてほしいこと、ジャッジしたり評価したりして白黒つけて「こうだから!」ってぶつけることは、自分が求めることだったり、自分がいやだったりするケースがめちゃめちゃ多い。だったら自分でやんなぁ! って話でもなく。そういう話にすることもできるんだけど、そういうんじゃあなくってさ。
トラブルがある。
それを解決する。
このとき、実はナイフはいらない。むしろあったら治療できる状況を整え、ひっこぬいて、せっせと治療するし、痛みは和らげてゼロにするか限界まで近づけるし、治療後の痛みは和らげるし、消耗した体力が戻るよう休めるようにするし、その場合に必要な環境や手段はたくさんあるだろうから準備をするし、尽きないように維持するし。
もー!
やること増えちゃうじゃん。
しかもどれも大事じゃん? よくできるほどマシになるけど、でもマイナスがゼロになるわけじゃないじゃん。傷というマイナスのぶんだけ、治療というプラスを注ぐけど、ゼロに戻るかどうかは別だし、マイナスが消えるんじゃなくて、マイナスとプラスの数字の履歴が増えていくだけなんだよね。
だめな恋愛の結末に。あるいは人間関係のトラブルにさ?
傷つけた側が謝ろうとする。それに「謝ったからってさ!」と、先手を打つのは、なにをされてもマイナスという履歴は残り続けるから。履歴に残るのは、それだけじゃないから。
マドカたちが気を配っている。私と教授の関係性に。それは、理華ちゃんが関与して、シャルになって、だけど教授の頃にしたことのすべてが履歴としてあって、その加害の対象には私も含まれていて、それだって履歴は延々と残るから。
そんな気はなかったと加害者が、直接あって話したい、そうあるべきみたいな論陣を張って謝ろうとするけれど。ちがうよ、ずれてるよって思う理由は、履歴がそもそもナイフになるから。
顔を合わせる時点で、履歴が呼び起こされてナイフで刺される。衝動、心の領域で傷つく。頭でも。三本の軸足が破壊される。それはもう、暴力といって差し支えない行い。
だから分ける。
仮に加害者にナイフがあって、それが加害行為に繋がっていたとして。そのナイフの対処に被害者を関わらせるという発想が海の向こう側でないのは? 加害があると訴えた人をさらに傷つけることのないよう、守る意味も強いよね。
フラッシュバックを防ぐ。壁を手段として用いる。断じて、会わせない。
それはそれとして加害者の心に、衝動に刺さるナイフの対処と治療をするのはなぜか。だって、そうしなければ再犯のリスクが残り続ける。それはだれのためにもならない。加害者さえ含めて、みんなを苦しめ傷つけることにしかならない。そこに被害者を関わらせるなんて、あり得ないっていうだけの話に過ぎない。別々に考えるっていうだけの話ね。
クリミナル・マインドで語られる精神医学や心理学の話題、それがどこまで監修されて、どの程度の査読に晒されている情報を元にしているのかを私は調べたことがないけれど。チームのメンバーたちがドラマの中で、犯人の置かれた環境を調べ、犯行を調査し、次の犯行を食い止め、逮捕する流れの中で触れる、犯人たちの心身に刺さるナイフは悲惨なものが多い。
チームですることは、犯罪の捜査。犯人の逮捕。そこまで。
病院の医療従事者がすることは、病院の内側でできること。そこまで。
それじゃあ、届かない領域は?
途方に暮れてしまうほど、医療ドラマでも、犯罪ドラマでも、致命的な人たちに触れる。
そりゃあ、まあ、だって、ドラマだし。事件がなきゃ、ね?
なので特異性に触れながら、社会でケアする手が届かないか、意図的に放置されたか、見逃されたか、見過ごされてきた人々の実情に、心がだんだん摩耗する人というエピソードも欠かせない王道、あるいはお約束といっていいもの。どの作品にも、まあまあいる。
アメリカは元軍人さんっていうケースがある。もしかしたら、韓国ドラマにもあるのかも?
当たり前として振りかざされるナイフも多い。
基準を設けて評価するというだけでナイフになる。
問題の解決よりも、そこに基準を設定して、個人を判定することを優先する。
それだと常にナイフが自分を傷つける余地を作ることになる。
問題の解決よりも、個人を評価する。
繰り返すけど、ナイフがあると? それで刺すことを組み込むと?
当然だけど、傷ついたら消耗する。治すのも大変。治せるとは限らない。さらにひとりでできるわけない。
おまけに問題を解決しようとするとき、ナイフを使うことを当然にしてしまう。
いちいちケンカ腰。なにかとマウントとりたがる。隙を見つけたら必ず噛みつく。そうと気づかずに。当たり前にナイフを振りかざす。
たとえば言い方ひとつで滲み出る。それが当たり前になればなるほど、問題解決に向けた問題点の指摘さえもが人格否定に繋がっているような気がするくらい、殺伐とした余裕のない状況になっていく。すると今度は指摘の皮をかぶって自分を証明するために自説を展開し始めるかもしれない。問題の解決ではなく、自己の安全を優先するようになる。
そりゃあ、でも、そうだよね。
いうなれば戦国時代の合戦みたいにさ? みんなして刀や槍や弓を手に、目につくだれかを殺せ、さもなくば死ぬみたいな状況でしょ?
問題がどんどんずれていっちゃう。傷ついただれかがかさぶたの山の中から、必死に刀を振るうことさえあるだろう。心で血を流しながら。
そんな刀は下ろせばいい。
問題の解決に挑むとき、あなたの痛みも下ろしていい。
だいじょうぶ。
いらないんだよ。
だから荒れちゃうときには休んで。刀を下ろせるようになるまで、しっかり癒やしておいで。
そう訴えたかったのだと気づくし、そんな私だから聖歌ちゃんが理華ちゃんに言った「だから抱き締めようと思う」という言葉に強く惹かれたのだ。
けれど、それのなんとむずかしいことか。
河出文庫の史上最強の哲学入門、東洋の哲人たちという本で般若心経の解説をしてる。
それによるとさ? 最後はね? ゆけよゆけ、飛び込め、やっちゃえいっちゃえ! これまでの世界から、あっちの世界へいっちゃえ! ってなノリで唱える意味のない呪文になってるんだって?
さすがに全部は引用しないけど、中学生時代の私に、この本の著者さんの日本語訳をこそっと教えたら、だいぶ響いたんじゃないかなー。
いかにも、それっぽく決めポーズを取りながら唱えられそうな呪文になってるの。
最後の、ギャーテーギャーテーハーラーギャーテーってとこ。あそこの訳がさ?
『往けよ、往けよ、彼岸へと往けよ、彼岸へと完全に行き着く者よ、それが悟りだ、幸あれ!』
ってなってんの。
なんかさ? 吸血鬼と神父さまがごっつい銃で血なまぐさいバトルをする漫画みたいなさ? あるいは何部もある、波紋とかスタンドとか出てくる漫画みたいなさ? ああいう作品のモノローグで語れそうなノリじゃない?
たぶんねー。敵の軍勢に突っ込んでいくの。少数の主人公たちが。笑顔で。武器を手にして。
そんなノリ。
著者さんじゃない私だけに、意味を取り違えている可能性は大いにあるし?
般若心経も、その意味の解説は人によってけっこう異なるイメージあるし?
たとえば仏教にしても、いろんな宗派があるだろうし。
厳密にこれー! っていう話じゃないんだけど!
かくあるべし。これはこういうものだ。
そうしたこだわり、執着、認識、すべて下ろして。
そういう段階を、この本の訳や解説を読んでいると感じる。
加えていえば、宗矩さんの書物でも。
ちなみに今回あげたのは東洋の哲人たちでさ? もちろん西洋の人たちの本もあるよ? 同じ出版社、同じ著者さんので。それによれば宗教分布による違いもあるみたいだ。
でね? その影響は心理学や療法まわりの本にも見て取れる。
素人の私には、どの人のどういう根拠、どんな主張がトンデモに陥っちゃっているのか読み取れない。そういう危険性を前提におきつつ、それでもあえて続けるとね?
セルフ・コンパッションという本を、クリスティン・ネフさんが書いている。コンパッションとは思いやりや慈悲を示す単語だそう。自分に向けた思いやりや慈悲が大事だという捉え方をすると、途端に「いやいや。甘やかすだけでしょ」ってなる人もいれば「当然でしょ」ってなる人もいるだろうし「おいおい、青澄春灯。またしても、やべえこと言いだしたな?」となる人もいるかも。
さしあたり私が脳内で自分にツッコミを入れるなら、この三つかな。
これもやっぱり読み進めている最中の一冊なんだけどね?
私には問題にいちいち自分かだれかに向ける刀を下ろすための、見つけ方、なだめ方の本のように思える。そういう意味での慈悲や思いやりは、むしろ大事な手段にさえ思える。
だって、邪魔じゃん。いちいち刀を掲げないと問題を論じれないなんて、ナンセンスにも程がある。うっとうしくてたまったものじゃない。
おまけに実害もある。心身に傷つき、その影響が残るという実害が。
そう考えると甘やかすだけじゃんっていうのは、指摘としては雑にも程があるかなー。
そんな生やさしい話じゃないぞ?
わりと深淵を覗き込むような話だぞ?
自分の価値観に触れることにもなるし。これまでよしとして、だれか、不特定多数に刺してたナイフに自覚的になることにもなるだろうし?
それが空気みたいに当たり前にあるべきものとしたら、そこから違う世界へいっちゃいなーっていう捉え方をすると、般若心経を学んだ昔の人たちの中には「はああ。いきづらっ」となっていた人もいたのかも? なんてね。
千年単位じゃ人の考えの根っこって、それほど変わらないのかな?
それって果てしねえなあ。
中学時代の物理の先生が、人の一生は一瞬の瞬きって笑ってた。その姿がいかにもマッドな感じに見えて、ずっと覚えてるんだけどさ?
歴史や、ながぁく残ったものに触れて、その解釈に触れるだけで「はえええ」って口をぽかんと開けちゃうね。
なのに今日もまた、当たり前なことにしてだれかの心を貫く刃がある。その手に握る刀を振り上げることを、息を吸うように必然だとしてしまう。
そんなのはもうやめたい。
なのに、あまりに当たり前すぎて、なにがどれほどひどいのかもわからず、傷つけないようにおっかなびっくりと接する。わりとちょいちょい、自分の心に刺さる刃に気づく。喉に刺さった魚の小骨程度のものもあれば、真芯を捉えて貫通しちゃってるものもある。
田舎で外で遊んでいるときに刺さった棘くらいなら、まあ、抜いてもだいじょうぶ。だけど、戦争映画で兵士にえげつない刺さり方をした破片は? いきなり抜けない。抜いたら出血するし、その際のショックで人はたやすく死んでしまうという。ショックをなんとかやり過ごせたとしても、流血するのだから、出血を止めなきゃいけないし、輸血だって必要だ。それだけじゃない。止血が縫合でも、切開でも、いずれにせよ道具がいる。清潔な環境だって。
肉体と違って心は見えず。ならいいんじゃないかって雑にしちゃあいけない。もちろん、いけないのだ。
そのとき、こうあるべき、これはこうでなくてはならぬと考えると?
またしても私は治療をしようとしながら、同時に刀を振るってしまう。
怪我も病気も、病院に行って治療してもらうじゃない? ひとりでやらないじゃない。できないし。勉強してないし。訓練してないし。道具も持ってないし。ないない尽くしだし!
それと一緒。心もそう。
それだけじゃないよね。
いままさにぷちたちと過ごしている。
現在進行形でやっていることさえ、同じ。
ワンオペ育児は不可能、無理、ありえん、限界、しんどいどころの騒ぎじゃねえ、という意見がどんどん活気づいてきた。でもって露わになる、いやいや共働きで既に詰むとか、親が乗り気かどうかはさておき疲れまくるとしたとて、仮に協力してくれたとしても限界しかないとか。
そういう前提を踏まえて。
私とぷちたちとでも、同じ。無理。ありえん。限界。しんどいどころの騒ぎじゃねえ。
ナイフってか、刀ばかりが刺さっている。
いったん下ろせと言っても、自分に求めても、既にやまほど刺されているからどうすりゃいいのかわからない。わりとね? ちょっと動くだけでどくどく血が流れていく。心の元気が失われて、へばっていく。
そういう生臭さもあるのかもしれない。私の御珠の臭さには。
そこには傷がある。
傷の痛みをまぎらわせるなにかもあるだろう。
トニーはスーツ作り。私は金色を使ってなにかをしなきゃと焦ること。
他にもあるよね。お薬。飲酒。喫煙。飲食。運動。趣味。恋愛。セックス。買い物、浪費。賭け事。仕事。暴力。自傷。他にも美容絡み、整形、ダイエットなどなど。
やめられないこと。
奴隷のような状態。
有害であるにも関わらず、その行為をつづけていることをアディクションと言うそうだ。
周囲とトラブルばかり起こしてしまう。だめだとわかっているのにやめられない。浮気や不倫もそう。借金まみれになっているのに止められないギャンブルもね。身体を壊すばかりなのに食べ続けたり、嘔吐したり内臓がぼろぼろになっていくばかりなのにダイエットしたり、身体が悲鳴をあげて人間関係のトラブルにもなっているのに運動したりとか。家庭でトラブルが頻発しているときに仕事ばかり延々としたりとか。
度合いは軽いものから重いものまで、さまざま。
より悲惨なことになるのを食い止めるケースもある。アディクションに依存することで、自殺を免れる、みたいに。トラウマがあるとき、アディクションを正当化するとは限らないとか、そのあたりも含めて「トラウマとアディクションからの回復」という本に記載されている。
これは専門的な領域か、前提としてどれだけ知識が必要なのかが見えない。だから、いまの私にはまだ読み取れない本かなー。
いずれにせよ餅は餅屋。気になることがあったら、お医者さんに相談を。ぴんとこなかったら、セカンドオピニオンを。ちゃんとした医療機関へ行くのは大前提として、ね?
たとえば鮮明にわかる指標があるわけじゃない。
それか、自分にいつでも調べる手段があるわけじゃない。
たとえばトニーは克服したとして、アイアンマン3のあとにもいろんなスーツを出しているし、作っているだろうけど、彼のスーツ作りとスーツ依存症の境目ってどこにあるの? はっきりとした線引きは?
なきゃあ、じゃあ、トニーは二度とスーツを作るべきではない?
地球を狙うサノスたちは待ったなしだから、トニーは無茶を押して作るべき?
これはいずれもトニーの心を狙う刀の話。
じゃあさ。
ブレイキング・バッドに出てくる、主人公の相棒になるジェシーは? 彼は麻薬の中毒症。後半のシーズンで、治療をする。そこで苦戦するシーンもある。その後、彼は断る。やらない。頑なに。映像を傍から見ると、ああ、やめたらもうぱちっと行動で切りかえるもので、それは意思でどうにかなるものなのかなーって思っちゃったりする。
けど、話はもっと厄介で、たいへんだと聞く。
なぜか。
やめられないこと。それはなぜ、やめられないのか。
傷の痛みを和らげる側面があるからじゃないか。
しかし、それだけでもないのが人のむずかしさに行き着くのではないか。
わからね~!
素人の私にはさっぱりだよ!
なにをどう学べばわかるのかな?
なぞ。
なぞなまま、足掻いて本を読んでいる。
そうしてやっと思いつく。
刀を下ろせずにいるのも、それでなにかを斬り、刺すのも、やめられないことじゃないかって。
口で言うほど、たやすくないぞ? どうやら。
刀を下ろすのは、とても難しいことかもしれないぞ?
かさぶたを押しつけちゃうのは、そこに傷や痛みがあるからで、恐れや不安があるからかもしれないし。
問題は重たく、常に刀が待ち構えている。
持っているのは私か、私が関わる世界か、そこで生きるだれかか。
区別、分別智、能動態と受動態、白と黒、ゼロとイチ。
無分別智。中動態。
もっと曖昧で、どろどろ溶けあうなかに眠る刀はなにか。それはどれだけの痛みを生み出すものなのか。そうして膿んだ結果が、くさくなった御珠じゃないのか。
わからない。
その言葉も不思議だ。
まるでわかることのようだ。
正解があるみたい。正しさがどこかにあるみたい。
なのに「わからない」私は「だめ」で「失敗」している「恥ずかしい」やつなのかも。
それらは刀となって、私の心を切り裂き、貫き、血肉を求め、私の命を散らしていく。
既にぷちたちの心にも、刀は刺さっている。
私が放っておいてしまった、その態度によって。時間によって。無関心が、みんなの心を傷つけた。それを嘆く私は自分の心に刺さる刀を握り、暴れては心を傷つけ、さらにみんなと過ごすのに必要なあらゆる血肉を散らして傷つけるのだ。
悪循環。
どうか、その刀を下ろして。
一本ずつ抜いていこう。傷口を癒やして、元気になっていこうよ。
そう願うのに、これがどうにも難しい。
ぐっすり眠りたいのに、眠りの中でいまはもう起きるのが怖い。
朝が来たら私の心を傷つける刀たちが暴れるのだ。痛みに私は喘ぎ、血を流し、激することしかできないのだ。
わかっているの。
刀を抜いて、下ろして。傷を癒やして。元気になって。
それしかする暇がないのに、それさえできずにいるの。
そのままならない、どうにもできずにいる状態こそ、やめられずにいるの。
ならば、私はいったいなんの奴隷なんだろう。
痛み? 悲しみ? ままならなさ?
わからないよ。
つづく!




