第百七十五話
ソウイチさんが煎れてくれた珈琲を飲んで一息ついたリビングで、私は再び立ち上がりました。
黒の聖書、第二章を手にして。隣にはカナタが並んで立っている。翻訳するために。
「緋迎カナタ厳選、二本目です。どうぞよろしくお願いします」
もうどうにでもなれ、と思いながらかつての日記を見ました。
どうにでもなれないな。どうにかなっちゃうな。
でも話す必要があるというか、逃げ場がない感じなので深呼吸してから読みあげます。
「前世の記憶が蘇る――……鎮まれ! 私の右目!」「思い出すと頭痛がするけど、ある日のことです」
「天使長はある天使に魂の黒を見たようだ」「目立つ女子が一人の女の子を仲間はずれにしていた」
「天使は空から堕ちようとしていた」「はぶられた子、とてもつらそうだった」
……ああ。これかあ。
日記に書かれた昔話は、けれどかつての私のリアルでしかない。
当時の思い出や喜び、悲しみ、痛みがぶり返してくる。
「白き清浄なる世界で、漆黒は広がる……逸るな!」「トイレで陰口いってました。落ち着け」
「ああ、白黒の果てに思いし人……共に生を授かりし悪魔との絆は、隠されし運命……暴かれし歴史により、戦は始まった。おお! 神よ!」「好きな人がいるけど、女子は幼なじみだって隠してた。はぶってやるぜこんちくしょー」
「故に堕天と共に得た右目の封印を解くことにした」「私は立ち上がった!」
「黙示録の時は来た。堕天を防がねばならない。この身は苦痛に満ちているのだから……封印を解くときが来たようだ……くく、震えるぜ」「武者震いがしますが、誰かが責められるのは私もつらいので、頑張って準備します」
これは別の意味で……違うな。素直な意味でいたいからあんまり気が進まないんだけどなあ。
そっと隣を見たら、カナタが励ますような視線を送ってくるから気持ちを切り替える。
「狼の宴……我は吠えた!」「ホームルームで私は言いました」
「嗚呼! この世は穢れに満ちている!」
あ、あれ? 翻訳なしなの?
どきどきしつつ、続ける。
「こ、この中で私以外に一人、はぶられようとしてる! 許すまじ! はぶられるのは私だけでいいはず!」
嘘みたいでしょ? これ……本当に言ったんだぜ……。
「気になる男子にライバルがいるなんて別におかしなことじゃない! 言いにくいことだってあるよ! 私の今のこれがまさに言いにくい状態そのものだよ! 既にぼっちだし!」
こういうところだけ素直に文を書いちゃう私って……と思いつつ。
「小学生みたいなはぶりかたしてんじゃねえええ! みっともねえぞ、このやろおおお!」
叫んだ私。静まりかえる教室。あっけに取られたクラスメイトたち。
居たたまれなくなってダッシュで逃げる私。
すべて過去に起きた現実のできごとです。
「う、失うものなどないこの身ならば、たとえ業火にまみえようと……構わぬ!」「ぼっちになった今の私ならなんだってできる!」
「……ゆ、故に! その黒はすべて我のものだ! 白き清浄なる世界だってそうだ!」「トイレがあるから大丈夫だもん」
「狼に呼び出され……我は責め苦を浴びた」「先生に呼び出されました」
「お前……ロックだぜ! クラスはめちゃくちゃだけど、俺はお前みたいな奴いいと思う!」
先生も先生だよね。叱るんじゃないなら、せめて止めてくれてもいいのに。
「狼はその牙を我に差し出した」「犬歯が伸びて見えるものをくれました」
ほんと、正直どうかと思うよ。余計に私こじらせたもん。
「その後、天使は天使長に白く染め上げられた……ふっ。それでいいのだ」「仲直りしたみたいです」
「堕天した我に感謝を告げた天使に差し伸べられた手を、我は拒んだ」「ありがとう、友達になろうといった彼女の誘いを断りました」
なんで!? って顔をするコバトちゃんに苦い顔です。
「白き清浄なる世界で、天使長は黒を吐いた。堕天した者こそ最も憎むべき者だと……くく。この程度の運命、乗り越えられぬ我ではないわ!」
精一杯の強がりなんだよね、これ。
「トイレで聞いた陰口の中には、私の友達になる奴なんて最低だ、と。そういうものもあった。私の友達になってはいけない。せっかく仲直りをしたのに」
「なんで? それで、じゃあ……お姉ちゃん、つらいばかりじゃないの?」
カナタの訳にコバトちゃんの顔が悔しそうだった。でもね、この話には……私がぼっちで、友達いなくて。けれど受け入れられる着地点には、一つの真実がある。
「堕天の苦しみを思い、涙した天使は我に告げた。血の契約を交わそう。この時より、同志であると。求めし時、共に戦う敗れぬ誓いを立てたのだ」
「助けてくれた私の力になりたいという彼女は、友達がだめなら……いつでも力になる同志になると言ってくれた」
コバトちゃんの目が輝く。
「我は一人……孤独の堕天使。けれど、その魂はもはや……一つにあらず」
「私はひとりぼっちで……けれど、もう……つらくない」
締めくくったカナタの言葉にコバトちゃんが手を叩く。
拍手喝采です。すごいすごい、と大盛り上がり。
「中学生、か。そうか……」
さっきは笑ってくれたらいい内容だったけど、今回のは違う。
カナタがなんで選んだのかもよくわからない。
ただ、そうだなあ。日記のノリでこれを呟いた時、結構反応あったんだよね。もちろん世間の人が想像するようなとびきりすごい反応じゃない。
ささやかなイイねがついた程度です。でも、この時のすべてが切っ掛けで、私の中学生活の方向性は決まった。
ホームルームで大声ではぶってんじゃねえ、という女子がどうなるかは……ね。
「君は、では……ずっと一人だったのか?」
「先生みたいに、いいなって思ってくれた人が話しかけてくれるようになりました。女の子の幼なじみの男の子とかは特に熱血漢のスポーツマンだったので、気に掛けてくれるようになって。でも、まあ。順風満帆ではなかったです」
中学生だもん。いろいろあるよね。
「今回のような出来事が起きた時、私は同じように行動してたので、めちゃめちゃ叩かれたし、めちゃめちゃ気に入られたし……二分化してました。当然だと思ってます」
「好きになる人がいれば、嫌いになる人がいる。それもまた当然のことだ。きみは本当に一人だったのかな?」
「それは……」
物は言い様って感じかもしれないけど。
「迷惑かけたくなくてぼっちだったし。友達は結局一人もできなかった、です」
「違う。友達という呼び方にしなかった、作ったのは……同志であり仲間だった。そういうことじゃないか?」
シュウさんが話す間にみんなの視線が私に集まってくる。
「ずっと疑問だった。日記はなかなかに個性的で、最初のは特にいいジャブだったけど……本来の君は、すごく良い子だ。誰かのために戦える強い子だ」
方法はさておいて、と言われてしまうけど。
「カナタから聞く士道誠心の君からは……私の目から見た君からは、友達がいない過去が見えないんだ」
なるほど。
「確かに君の中学時代は壮絶だったのかもしれない。大変だったのかもしれない。その記録をつけた日記が四十八冊だったかな? くらいある……だからこそ伝わってくる」
シュウさんの目が私を捉えて離さない。
「君は強く、折れない。その兆しを確かに感じた。今回の日記をカナタが選ぶ理由もまた……わかったよ」
「ハルさん」
ソウイチさんが引き継ぐように私の名を呼ぶの。
「教えて欲しい。あなたが堕天と表現し、戦い続けてきた。あらがおうとした。許せないと表現した。そのために行動できた原動力はなんですか?」
「それは……」
「右目に宿ると信じた力ですか?」
ないとは言えない。何か世界を変えるだけの力が自分にもきっとある、あってくれなきゃつらすぎて折れそうだと思ったことなんて一度や二度じゃない。
でも、それじゃない。
「さみしいのはいやで。誰かが……誰かを寂しがらせるのも、いやだからです」
息を吐く。
「わかってます。今の私は、ホームルームで叫んで簡単に事件が解決するほど世界が単純じゃないってことくらい……わかってます」
当時の私はなんとかしなきゃって思いで頭がいっぱいだったけど。
たまたま運がよくてうまくいっただけで、そんな偶然がずっと続くわけもないって今ではわかっているけれど。
「それでも……いやだったんです」
俯く。美談に潜む、私の欲望。痛み。その真実は、一つ。
「誰も救えない私なんて、そんなの……もう、存在価値なくて」
存在証明のため。
誰かのために行動している胸の奥底で叫ぶ、私のための欲望。そのためになら、自分がどうなろうとも構わないなんて思っているわけじゃない。
そもそも、考えてない。自分のことなんて。
誰かを救いたい。それができて初めて生きていていいって自分に言い聞かせられる。
そんな危うく脆い自己を支える柱の種が、当時の私には確かに埋まっていた。
今、その種がどうなっているかは……わからないけど。
「今日はここまでにしましょう。今夜説明するべきことは、どうやらなさそうだ」
立ち上がるソウイチさんは、けれど私を見つめて一つだけ言うの。
「それは否定されるべきものではない。シンプルに考えてみていいと……私は思いますよ」
おやすみなさい、と言って立ち去るソウイチさんに私は顔を上げられなかった。
きっと見抜かれている。私がいま気づいた、自分の欲望とか……種の形。
シュウさんがコバトちゃんを抱えていく。
あとに残ったのはカナタだけ。私の身体をそっと抱いて囁くの。
「愛してる。だから……いてくれなきゃ困る」
それが存在価値じゃあだめか? と言ってくれる恋人の身体に抱きついた。
しがみつかずにいられなかった。
過去の私と向き合う時間を持つことで、自然と今が浮かび上がってくる。
「……私、成長してないのかなあ。だめなままなのかなあ」
「だめなんかじゃない。強さも、弱さも……素直に前に伸びていっていると俺は思う」
額に口づけを感じた。
「ツバキも……俺も好きなんだ。誰かのために戦えるお前が」
強いて言えば。そう言ってカナタは私の腰を抱きよせるの。
「お前は一人じゃない。お前が一人を感じるなら、それ以上にもっとずっと強く俺を感じさせてみせる」
もう一度額に、次に頬に……耳元に触れる唇の甘さに息を吐く。
震えていた。
「間違えることもある。生きている限り、これからも……でも、前へ進もう。今までのように、これからも」
重なるこれからに見上げた。
カナタの顔がにじんで見えない。
そばにあるカナタの身体が近すぎて、泣いていることに気づかなかったんだ。
「俺たちは契約したんだ。共に戦うと。だから……お前はもう、ひとりぼっちじゃない」
カナタ、と呼んだ唇をふさがれた。
ふさいでくれてよかった。何を言うかわからなくて。
背中を強く掴んだ。力加減なんて……とてもできなかったの。
つづく。




