第千七百四十五話
ともだち。恋人。夫婦。パートナー。
親子。兄弟。姉妹。
家族。
一対一の関係性もあれば、集団の関係性もある。
ただ、関係に名前をつけて、トロフィーやゴールテープ変わりにしても、毎日がつづく。
深い関係、特別な称号のように感じても、ゴールテープを切ったところで、トロフィーを獲得したところで、いくらでも簡単に失われる。なかったことになったり、獲得する前より悲惨なことにさえなりかねない。
ただ、トロフィーやゴールテープみたいに捉えると、なったあとがたいへん。
ともだちになるのに、恋人になるのに、がんばりすぎると長続きしない。
それを維持できるのかっていう話があるから。
恋人、夫婦やパートナー、家族。どんどん日常での接点が深まる関係に発展していくほど、維持するのが厄介なことが足かせとして重さを増していく。
楽になるわけじゃない。ずっと続く毎日のほうがよほど大事。
ずっとはがんばれない。
相手にとって当たり前のラインが自分にとってすごくがんばっているラインだと? そのギャップは軽く人を追いつめ、殺してしまうほどの力を持つ。
お父さんは怪物に勝てなかった。お父さんと別れたお母さんもそうだ。
怪物が生まれて育つのが目に見えたから、茜原との間にある溝を跳び越える気になれなかった。
一目惚れの条件って、なんだろう。
ぴんとくるか、こないか? どちらでも、一緒に居るのが楽な相手かどうかはわからない。いまが楽でも、いつかつらくなったときに一緒に居たいかどうかはわからない。
ともだち同士でも、こういうときは離れておきたい相手っていうのはいる。やたらひどいことを言うときとかね。
居酒屋にバイトで駆り出されて聞く「うわあ」発言もある。一気飲みコールは、うちのお店だとなるべく早めにやんわりとお断りをしている。当店では一気飲みはご遠慮いただいておりますので、と。厄介な類いの酔っ払いや、一気飲みで飲ませたい理由が明確にある集団には、響かない。それでトラブルが起きても困るし、だれの得にもならないし、もしも犯罪被害にアルコールを利用したい奴がコールしていたら? 防ぐことができないどころか、手段として使われてしまうし、だれかのいやな記憶の一部になってしまう。だから、ヒヨリの勤める系列店だと最初のオーダー時におことわりをしている。
それでも、聞こえちゃうことがあるから大変。
急性の中毒症。潰れて嘔吐の連発。酩酊したまま、強姦したい奴に連れ去られる。など、など。稀に薬物を混ぜ込もうとする輩もいるので、そういうところにも気を配る。物理的に目が行き届かないこともあるので、女性客がひとりで席を立ったと気づいたら、なるべく顔を出して「ドリンク、いかがですか」と一声かけたりして。たいへん。
他のお店じゃそこまでしなかったり。繰り返すけど、そこまで物理的に気が回らなかったりして。なのでトイレに、剥がしにくいし落書きしにくいようにして、注意書きを、それと気づかないよう穏当な表現にしたものを貼ってみたりする。
笑顔で大きな声で接客。雰囲気を作るし、ごねる人にも強く出ずに受け流す。それじゃうまくいかないこともしょっちゅうあって、店長や先輩に助けてもらう。
お店に客としていくとき、店員への扱いは下げていい。お客さまだし。お金を払っているし。それが店員の給料になっているし。いわば雇い主だし。こちらはゴールしてトロフィーを持つお客さまで、相手は客の要望に応えるために走り続けなければならない、ゴールしていなくてトロフィーも持っていない労働者なのだから。
そんな思考回路になっている人が、いる。悲しいけど、いる。
でも、そんなことをしていい相手はいない。ひとりもいない。それを大事な目標として忘れずに目指して、今日もお店は稼働しているにちがいない。
厄介な客の言いなりにならなきゃならないとしたら、お店なんて続けていけない。やりたくもなくなる。
永遠も理想も、願う人の中にだけ、存在する。
同じ夢を見ている人たちとで集まったところで、それがその人ないし、その人たちの外に存在することにはならない。
人と人とが集まって、ともだちになって、それぞれに情を抱いても、それは具体的な形として存在するものじゃない。ないから、形にしようとする。形として残そうとする。
なら、相手はこういう存在だという希望は? そこに夢見る永遠は?
茜原は私に、茜原の理想を求めている。
それを心地よく感じる人もいるのかもしれない。
私はちがう。満月日和は、ちがう。
おまけに茜原は茜原のなにかを、茜原の理想の私に求めている。
理想に理想が重なって、ますます茜原がどんな人なのか、わからない。見えてこない。おまけに重なる理想は茜原本人が抱え込めないレベルで重たいもの。
既に自分の重さで手いっぱいな私には、引き受けられない。いまこの関係性で、茜原の重さに手を当てたら、茜原はもっともっとと、ニナ先生の地獄のおかわり妖怪マラソンのように重さを足してくるだろうから。
自分の問題を解決してからじゃないと、だれかと居るのはむずかしくなる。
不可能だとは思わない。相性次第なのかもしれない。重さがあっても、いっしょに歩める人もいるのかもしれない。
ただ、ヒヨリには無理だ。茜原とは、無理だ。
だからといって、なにもかもシャットアウトしたいほどじゃない。
ともだちとしてなら。
けどこれはヒヨリの理想であって、茜原にとってはつらいだけだろう。
そもそも、常になにかしら無理をしたり、がんばったりして、私に気に入られようとしながら付きあってきた彼には負担が強くて、そばにいたくなるなるんじゃないか。
だとしても、去るなら追わない。追うべきでもない。彼への追い打ちにしかならないし、私にとってもきつくなるだけだし。
名前をつけて、トロフィーの獲得や特別なゴールを目指す。そうして競技に挑むも、どうやら達成は無理そうだと気づいたとき、あとになにが残るだろう。
競技への情熱は。継続せずにはいられないほど、酸素のようなものか。それとも、ただトロフィーやゴールが欲しくて、適当に持ってきただけで、他の手段で達成できるならそれでいいくらいで、もはやどうでもいいものか。
コトネに告白した男子たちは漏れなく、もはやどうでもいい形に落ちついていた。それを狙ってコトネは大暴れをしたんじゃないかとさえ思えるくらい、彼女は男子たちの心を粉砕して回った。
学生寮の大浴場で聞く愚痴や噂話の中には恋愛の体験談もけっこうあり、その中に今回のテーマにあった話をしている人たちがいたけれど、別れてもともだちあり派もいれば、振ってもともだちあり派もいる。どちらもなし派もいる。結局のところ、相手によるという身も蓋もない意見もある。振った相手は、付きあっていないのなら引きずるとまた告白してくるか、粘着してくる。付きあったのなら、引きずるとたまに連絡をしてくる。発信している内容に刺激されて、荒ぶることもあるし? そうでないとして、やらしいこと込みで触れたくて連絡してくることもあるとか。
行為もだから、関係と似てる。
ゴールテープ。トロフィー。あるいは、ひと肌という毛布や寝床。触れあい。セックス。
やさしい言葉。ハグ。肯定。許されていると感じられる空気、環境。
もろもろ、欲しくて求める。
タイミング次第かもしれない。日常で、相手の呼びかけを受けたときのさみしさとか、物足りなさとか、相手への感情の処理次第かも。
お互いに日常が続いている中での一幕。ゴールテープなら、そこに至るまでの時間も、その時間に備えるための時間も、切ったあとの振る舞いという意味での時間も、やまほどかかる。トロフィーでも一緒。
日常次第。その日常でどうか、読めてるなら? さみしさと相談して、手痛い出費と変わらないと判断したら、選ばない。
寮の浴場でなしだと話していた子たちの判断で、決まってなしだとされる結論として、結局のところ一緒に居る時間の積み重ねに相手がちゃんと取り組めるかどうかに掛かっている。
愚痴や噂話になるほど、自分のことを棚上げして話しがちだから、そこはご愛敬。
そう。
棚上げしてる。
ヒヨリは棚上げしてる。茜原もしてる。
棚上げしてる同士だと、自覚している人と自覚していない人の組み合わせはだいぶきつい。
なのに茜原は自分の台本ばかり見ているところが、見ていて心がぐっと重たくなる部分。
下ろせばいいのに。
ままならないんだ。
だから遊ぶ。ヒヨリは遊ぶ。けど、遊びたくないときに連れ出されるのはつらい。
父が好きな歌の一節に、こうある。
永遠を願うなら、一度だけ抱き締めて、その手から離せばいい。
これ、すごく染みて好きだ。
そばにいると時が流れて変化していく。永遠を求め欲するときほど変化に耐えられない。だから、離れたほうがいい。あなたの永遠を守りたいのなら、離れて自分の心の中にある永遠を眺めていたほうがいい。傷つかず、傷つけない。そういう方向に持っていきやすいから。
同窓会に行かないで。記憶の相手だけを見ていて。
故郷に戻ってこないで。名前で検索しないで。
ふたりで歩いた場所を、いつかマップで探さないで。
ただただ、思い出にある永遠を眺めていて。
綺麗なまま涙で湿度を保つ永遠と、色褪せていく自分と一緒に生きて。
もしも永遠を願うのなら。
永遠のままにしようと掴まず、力を入れず、ただ離して。離れて。遠くへいって。
二度とふり返らないで。近づいてはだめ。
変えようとしないで。
あなたの思う永遠のまま、そっと心の中に閉じ込めておけばいい。
それでやっと、あなたの永遠が叶うから。
それより目の前の人を大事だと想うのなら、永遠から手を離して。もっと、よく、見て。
きっと届かない。
茜原に対して痛感したときの疲れた気持ちは、居酒屋で店員を見下す人の対応をしているときの疲労感に似ている。だから余計にだめだった。
遊べるのに。一緒に笑えるのに。埋められない距離はだれにでもある。
彼が孤独じゃなくなろうと私を求めて、より孤独を感じ、私にもさみしさを強く感じさせるように、お母さんを思うほど私もまたさみしさに喘ぐ。
写真は残っていない。画像もない。
榛名ホノカのSNSのページを見つけて、せっせと履歴を遡った。けど、いまアクセスできるSNSに登録する、その前のサービスに、お父さんと付きあっていた頃の時代が該当しそうで。そのサービスがなにか見つけられない。
発信を好むタイプだ。父や彼女の世代にとっては、かなり盛んなほう。最近の更新頻度も頻繁で、ますますもどかしさが増す。
父のページで他界の報告をして、父の友人たちの書き込みやリアクションはあった。彼女の反応も、実はあった。あったのだ。けれど、それだけ。リアクションひとつで、終わり。おとなや意識高い人が多いSNSだからと敬遠していたけれど、父に誘われた頃にはじめておけばよかった。後悔しても遅い。
噴き出る感情は処理しきれず、私の中で渦を巻く。ヘビのように心を自由に這い回り、ささやいてくる。そんなヘビは尾を掴んで、ぶんぶんぶん! と振り回して、ぽいっとほうり投げるか「よそへおいき」と下ろしてしまったほうがいい。
わかっていることと、できることは同じじゃない。
不幸や不足のトロフィーとして、榛名ホノカを据え置くと?
あぶない!
簡単に気が狂いそうになる。
これまで我慢してきたことが、やまほどあるんだと気づく。
なんとかなるかも。なんとかできるのでは? そう思えるほど、取り扱えない気持ちが大きくなっていく。
それで言わずにはいられなかった。
茜原に伝えながら、私はなんとか訴えた。
さよなら。
茜原が歌った曲で何度も繰り返されたワード。英語だったけど。
さよなら。
私のもどかしさ、願い、さみしさ、それを塗りつぶせそうな理想に。
これまで思い描いた台本と、ひとりしばいの空しさ、それをなかったことにしてくれそうな夢と希望に。
さようなら。
わかるよ。ほんとは。相手に合わせて、楽に手軽に味わえそうな楽しさとか、気持ちよさとか選んでも、別に笑い話にできる経験になったり、大泣きして人の深みにできる恋愛になったりするかもしれない。これは私のわがままで切り出したさよならだって。
それでも言うの。
さようなら。
だって、そうはならなかった。
つらくて悲しい瞬間も、叶ってほしくてたまらなくて気持ちがおかしくなりそうなさみしさも、だれかの幸せに照らされて映し出される自分の不幸せも、やまほどあった。
それはもう、あったことだ。
永遠も理想も、そのとおりにならなかった。
お母さんは物心ついたときにはとっくにいなかったし、お父さんはひとりだったし、とうとう死んでしまったし、捉えようによってはもう私は天涯孤独の身だし。
理想の台本なんて、読んでもわからない。実感が湧かない。それってぜんぜんぴんとこないもの。
家族ってなんてあたたかくてやさしい居場所なんだろうって、ともだちの家に行って実感したり。家族でのトラブルの、それもかなり深刻な悩みを聞いたり知ったりしては、ああちがうんだって思い知ったりして。ますますぴんとこなくなる。
母というものをすごいもののように扱ったところで、そう見られたひとりがどれほどつらいか塗りつぶすくらいの効果しかない。それって、ひどい。
お父さんがくれたやさしさとか愛情とかが足りないことにはならないし。私にはむしろ、ぴんとくるもの。塗りつぶすことをしてしまったと嘆くお父さんの後悔に、私は触れられない。触れてはいけないような、触れたら私そのものが壊れてしまうような怖さがあって。
それでも、日常はつづく。
一日が、ずうっとずうっと続いていく。
その一日をどう過ごすのかのほうが、よっぽど肝心で、たいせつで。じゃなきゃ、ゴールもトロフィーもない。エモさは日常を曖昧に溶かしてしまう。とろとろにして、なんか飲めちゃう飲み物みたいに口当たりをよくしてしまう。
だけど、ちがう。
茜原は蕩けたものを求めていて、だけど私はたとえば毎日、ご飯をどうしていくか。毎日、どう遊んでいくか。どう休んでいくか。それをどう快適にしていくか。つらいときに備えて、どうしていくか。そっちのほうに意識を奪われている。
じゃなきゃ、心が千切れてなくって、怒ったり泣いたりして、それに疲れてなにもすることができなくなってしまうに違いないから。
痛いの。すでに。
それはだれかにどうにかしてもらうようなものじゃないの。
だけど、手を貸してくれたり、肩を貸してくれたりする人がほしくて。
そういう人が借金取りや詐欺師みたいに、私の人生に支払いを求める類いなら?
ぜったいに無理。
なのに、これって突きつめると一緒に居る、ただそれだけをしあえる人と出会いたいってことにならない?
それって、すごくむずかしいね。
なにかしたいとき、一緒にする。けど、それって恋人だからとか、ともだちだからとか、そういうんじゃなくて。ただ、いつでもまず、ただ一緒に居ることができて。どちらかがなにかしたいなーっていうとき、ただ一緒にやれるのって。
それって、どういうことなのかな。
その答えは、どうやって導きだせばいいのかな。
楽にしてるとき、一緒に居る。
ただそれだけだ、なんてとてもいえない。
永遠は心の中にしかいられない。
人が作った発明品。
変わりゆくときと、あなたと、わたしと、みんなと。
ほかにもやまほどあることと、いろいろ込みで、居ることができるかどうか。
それってちっとも具体的じゃない。
難問だ。
私がうなずけば、受け入れれば、それでなにもかもが解決するような問題に頑固になっているようじゃあ、申し訳ないけど付き合えない。
それはそっくりそのまま、自分に向けてもぶつけられる。
だから遊ぶ。
それに休む。
おまけにみんなで青澄さんちにお邪魔して、演奏もしちゃおうという。
みんなで音楽の時間。
遊び、休み、満喫することができる。音楽が好きな理由のひとつ。
身体は疲れるけど。
疲れたら、夜に寝るのが気持ちよくなる。
もちろん、ほどほどの疲れが大事。
遊びも過ぎると、翌日うごけないレベルで疲れる。
一年最後の課外実習で、どこかもわからない離島を走り回ったときにはかなり疲れた。筋肉痛がひどくて泣きそうだった。
シャワーやお風呂で思わず「あー」と声が出るレベルがいい。
いまも、声が出ている。
「あああああああ」
「ヒヨリ、うなりすぎ」
ノノカにつっこまれるけど、しょうがない。
宝島の宿で入るお風呂は、どれも温泉を引いているそうで、とても気持ちがいいのだ。
うなるうなる。温泉の硫黄の匂いもするけれど、まあよし。
足の指をぎゅっと曲げて、伸ばして。腕もぐんと伸ばして、伸身。
肩を回したり、肘を後ろに伸ばして胸を張ったり。
身体中の筋をこれでもかと刺激する。
それから足裏を指でぐにぐにと押す。指も、隙間も忘れずに。手も指圧。
「それ、しょっちゅうやってるけど、のぼせない?」
「しょっちゅうノノカに質問されてるけど、のぼせない」
すまし顔で答える。
温泉だからか、それとも宿のさじ加減なのか、湯船の温度は高めだ。
イチゴが顔を上気させながら粘っているが、ミユウは湯船のそばで大の字になって、コトネとアヤネにタオルで扇がれている。のぼせたのだ。無茶して私に付きあったせいで。
ノノカは浴槽に腰掛けて、膝下だけ湯船に浸けている。それが一番賢い気がする。
私は温泉、わりと長風呂いけるほう。休憩を挟むし、水分補給もするし? サウナも大好き。脱衣所でのんびり過ごすのもいい。
ミユウが動けるようになるまで、身体をほぐしたい。
今夜は玉藻の前を見つけられるだろうか。
それとも、昨夜のように今夜も振り回されるのだろうか。
それならそれでいいかな。
たとえば求めるなら求めるにしても、軽めにすればいいのに。
重たいことを求めると、相手も引いちゃう。
それは自分に対してもそう。
軽めを積み重ねればいい。毎日一を足せば、一年で三百六十五になる。一日で三百六十五をどうにかしようとすると、とてもじゃないけど間に合わない。追いつかない。
そういう意味でも、日常にシフトすればいいのに。
頭でわかっても、それができないから、たいへんだ。
「んーっ」
もう一度、ぐっと伸びをする。
湯船から出て、タイルの上でうずくまり、お尻を上げるようにして伸びる。
これもけっこう気持ちがいい。最近、こういうストレッチを紹介する動画をよく見てる。
もっとお金に余裕ができたら、ヨガスクールに通いたい。それがいまある野望のひとつ。
お尻を下ろして、身体を起こす。
さてと。
今夜もあそぶか。
つづく!




