第千七百三十五話
果てしねえ。ああ。なんて果てしねえんだろ。
そんなト書きを書きたくなっちゃうくらいに、果てしねえ。
そう感じるのは、同じ場所にいて、共に過ごしながら、まったくちがうように世界を見てるから。
生きるってやつは、果てしねえ。
私とトウヤでも、ちがう。
ぷちたちも、そう。
ところで環境ってやつは不思議で、へんてこで、これまたやっぱり果てしねえ。
果てしねえんだけど、ぷちたちが寝て、お母さんも今夜は早くに寝て、お父さんとのんびりお菓子をつまみながらだべって、ひとつの例を見た。
硫黄島からの手紙。そして、父親たちの星条旗。
同じ監督、同年に公開された映画。第二次大戦で、日米の硫黄島での戦闘にまつわる事実に注目したもの。
日本軍を描いた硫黄島からの手紙でいえば軍部での諍い、根性論と体育会系の悪い部分のすべてを凝縮したような自決論。選択の不自由さ。強権と暴力が人々にもたらす効果。加えて敗戦濃厚で、どんどん自軍が自殺していって兵力も勢いよく削がれている状態での防戦の惨さ。戦争は空しい。それだけに留まらない、さらなる空しさ。人を殺す、ただそれだけのための環境で、いきものがどのような影響を受けるのか。そうした一面。
米軍を描いた父親たちの星条旗だと? 日本からみれば物資においても資金面においても物量においても技術面においても巨人そのもの、という見方“も”あるけれど、実際のところは戦時国債の発行と販売のための一大キャンペーン。また、そのためのメディア活用と、虚構。加えてPTSD。日本軍サイドが強面の表情筋つねにMAX状態で、体育会系の最低最悪暴力野郎になっちゃう人たちがいる中で、みんなが強迫的に苛まれているのなら? 日本軍に比べて物資に、医療に、もろもろ余裕がある米軍ではどうか。当時の米国でも優生論は支持されていたし、であれば人種を用いての差別もあり、ネイティブアメリカンの軍人はどうだったか、とか。ね。米軍も米軍で、いろいろとトラブルを抱えていた。旗を掲げる。安全圏で待っていたお偉いさんが、硫黄島の制圧がある程度おちついてきたら「俺いくから」といってくる、だったっけ。あと、日本はド貧乏だったのに対してアメリカの生活はもうちょい余裕と貧乏までの幅があって、戦時国債かってねキャンペーンで回る土地の人々と戦地のあまりの乖離さはえげつないもの。
それでいったら、日本でも戦後の軍人さんへの態度は惨いものだったっていうよね。
感情のはけ口。
あるいは、そのための手段。
特定されるとき、しやすい。それが答え、それが正しさなのだと思えば思うほど。
けれどどうかと悩むと?
葛藤し始めると?
それでもなにかせずにはいられなくて。
居ることが、できなくなって。
自分をだます手段を求めることさえある。
父親たちの星条旗だと、アルコール依存症になる人が出る。硫黄島からの手紙だと、いわゆる最悪な体育会系パターンの行動に依存する人もいる。自決、自刃。それはある意味で、依存の行動のひとつのような気さえする。
その先にいけない。こわい。考えられない。
それだけじゃない。
そうあるべきだ。それがあるべき姿、正しさだ。そうしなければならないことだ。
そういう依存の仕方をして?
条件に対して、決められた結論に至り、それを言動に出す。
このときの誘因の引力は、猛烈。
なので、環境はとても大事だし、とても恐ろしいものだ。
現代だと天災が生じない限り、天候に左右される仕事をしていない限り、なかなか実感しにくいけれど、昔はまず環境といえば自然だった。
環境は自然だけじゃない。家庭も学校も働くところも、スーパーでもコンビニでも飲食店でも、どこにでも環境はある。もちろん自然だって、相変わらず重要なもの。
あまりに重要なものだし? 人の数だけ見え方が変わる。
父親たちの星条旗だと、国に戻って星条旗を硫黄島に掲げた兵士として広告塔に選ばれた人たちみんなが同じようにものを見て、同じように感じ、同じように考え、同じように優遇されたかって? まさか!
硫黄島からの手紙だと、上官にいびられたり、無茶な命令を出されたり、振り回されたり、そもそも赤紙でむりやり望んでもないのに徴兵されたりして、話があっていた主人公と仲間のひとりは、けれど硫黄島が攻撃されると手榴弾を用いて集団自殺するよう上官に迫られる。その人の脳内では「死ぬ。みんな死んでから、俺も死ぬ。死なない奴は俺が殺す」となっちゃってるのが目に見えてるくらいの、極まり状態。なもんで、仲間はピンを抜いた手榴弾をヘルメットにこつんとぶつけて、抱え込み、死んだ。怯んでいた主人公は、狂気の勢いに上官が自殺して、やっと逃れられた。上官が真っ先に死んでいたら、仲間は留まったかも。みんないやだけど、それぞれに思うところもあるんだけど、拒めない。
拒めば殺される。なにをされるかわかったものじゃない。そうして人は人を殺す。暴力を振るう。振るわずとも促す。あるいは黙認する。見てみない振りをする。それもまた、同じく暴力。
利益を得られるのなら? ときには後ろめたさを塗りつぶすために肯定するかもしれない。後ろめたさがなく、諸手を挙げるかもしれない。それがどれほど愚かしいことだとしても。するべきことではないとしても。
第二次大戦でドイツに侵攻された国は、ユダヤ人を迅速に引き渡したという。アメリカに占領されたアフガニスタンで、支援として流れてきた資金を受けとるだけ受けとり、実務に活用することなく懐をあたためるだけ、という人もいるという。
不利益を背にして、利益のために暴力を選ぶ。暴力の種類は殴る蹴る以外にも存在していて、その中には見て見ぬ振りも含まれる。
だから、見たら、止める。
それは、だけど、とても危険な誘いだ。二項対立に陥りやすくなるし、思考停止にだって陥りやすくなる。人の数だけ手段に対する感じ方、考え方、難易度に差があるのなら? 理想として述べるだけでは普及しないだろう。
洗濯物をカゴに集めて川に洗濯しにいかなきゃいけない、電気も洗濯機もない時代に、この場ですべてが済めばいいのにというくらい、むずかしい。移動できなくなると? 川が増水したら? もうそれだけで、できない。気が進まない人みんなのハードルは高いだろうし、日頃やっている人たちも内心じゃ面倒くさくてたまらなく思っているかもしれない。
ほしい。
ハードルが下がること、なんでも。
洗い物がたまらないですむこと、なんでも。
なんでもっていうところが、恐ろしいし、人の果てしねえところだ。
ときに暴力さえ選択される。
暴力を選択したくなくて、別のなにかに過剰に依存してしまうかもしれない。
それくらいままならない。
ままならなささえ、人の数だけあるから、果てしねえ。
なので。
利益でも不利益でもない、当たり前のものとして設定する。そういう物事が生じる。
居るだけ。いきるだけ。
それだけでとても大事なことなのだとして、当たり前のものとして、設定する。
歴史に学び、集合知として獲得したもの。
それさえ、わりと容易に脅かされてしまうのだ。
だからこそ現在進行形でね? 傷つける行いも、それを見過ごす行いも、不利益のあるものだとするし?
大事さ、当たり前さとはちがうプラス、ないし普遍的にみんなが居るのが楽になる、生きるのが楽になることに対してこそ、利益を注ぐものとして設定する。
そうでなければ、どうなるの?
研究? 必要ない。宇宙? いかなくていい。環境破壊? しったこっちゃない。お金かせげればいっすわ。数字が命なんすわ! かせげないやつ? その見込みがないこと? そんなのどうでもいっすわ! と、なっていく。みんながみんなといかずとも、そういう人が出てくる。そういう人の中には、どぎついことをし始める人もいるだろう。
すると、技術開発、環境維持、学問、探究される真理、そこから生じる知識と技術? いらね。金にならねーし。自分の利益にならねっす。と、そういう流れにどんどんなっていったら? 困っちゃうでしょ。
なんていうのは、口先でいえるんだけどさ。
「それでなにかが変わるのかって話、ない?」
お父さんに尋ねると、お酒じゃなくてブドウジュースをちびちび飲みながら、お父さんは天井を見上げた。
「春灯は具体的にどうするのかって聞きたいんだよね?」
「うん。結局みんな、いまに必死だし、がんばってるし、がんばらなきゃいけない感でまくってるし、そんなの遊んだり休んだりしなきゃ続けられるわけないし」
たとえば、さ。
居るのはつらいのよの話をしたけど。デイケアセンターの日常を描いた本でさ? デイケアで日常は循環する。先に進むのでも、後ろに下がるのでもなく、なにもしない、居ることをするために集まる場所だという。
居るのに無理をすると? がんばっちゃうと、どうなるの?
そういう場所には居られないから、無理だ。
離れちゃう。
我慢しちゃう。
だって、負荷がかかるから。
やり過ごす術がなきゃ、だましだましじゃ限界がある。
なので。
集まる人たちみんな、がんばらないで、居ることができるように集まる。
じゃあ、そこで職員さんたちががんばってないのかっていうと、ここで疑問符。
みんなでいるとき起きるケンカとか、荒れちゃうときとかに、どうするのか心得ている人がいる。バランサーとして緩衝材にさっとなれる人がいる。集まる人たちも、自然とする部分があるとして、職員さんたちが率先して意識的に、技術とか知識とか経験とかを用いて、なることがある。
それは、どういうことになるんだろう。
がんばっているのか。がんばらないように、がんばるのか。
自分はがんばるけど、集まる人たちが居ることにがんばらないよう、休めるように振る舞うのか。
なんかもう、わやくちゃだ。
もう一度よみなおしても、思考が一歩すすめたらいいくらいかもしれない。
自問するのなら?
問いは、こうだ。
居るのは、どう?
そこから派生して、ブレイングトーミングのように浮かべるのなら?
居るためにしなきゃいけないことは? 居るためにがんばらなきゃいけないことは?
そこからさらに伸ばすのなら?
そう思い込まなきゃいけない理由は?
「がんばらなきゃいい、と言っても。むずかしいじゃん。現実的には」
「そうして無理をするのもよくないぞ、となるんだよね?」
「――……そうなの。袋小路なの」
お父さんが買ってきたさつまいものスナックをかじりながら、眉間に皺を寄せる。
実際にはさ? それでも無理をしなきゃいけなかったり。それが続けられないぞとなって、無理をしないで手を抜くようになったり。あるいは目先の利益で「ああもうこれでいいや」となったりする。
先送りの先送り。
問題があると気づかせないで。そういう勘所が敏感になる。
問題があるかもと示唆されるだけで、むかっと怒る人もいるじゃない? そういう人の理由のひとつには、問題があると気づいたらもう動けなくなっちゃうくらい限界になってるケースもありそうでさ。
やばさ、果てしねえ。
極まってるわあ。
あるいはさ?
問題なかったと思えたら? それが実はそんなこと全然ないのに、そういうことにできそうだったら、どう?
あえて深掘りしないんじゃない?
寝た子を起こすようなことはしないの。
これまたやっぱり、先送り。
わりと大勢が心の中で問題があると気づきながらも、何年も、何十年も先送りが放置されてさ? 変えられる立場になれたとしても、老後のことを考えると波風たてたくなくて「寝た子を起こすようなことすんな!」と塞いでしまう。問題があると気づかせるな。知らせるな。黙っとけ。そう、なる。
結局やっぱり、先送り。
やばさ、果てしねえ。
わりと致命的な構造面でのエラーが発生していません?
ゆるくゆるくループするの。
先送りループ。果てしねえ円環。皮肉なことに、それさえ居るための円環。
だけどぐるぐる回っていて、そこから振り落とされたり、許せねえけど変えられねえから離れたり、追い出されたりする人も出てくるの。
その集団は人数が大きな規模もあれば、ちっちゃな規模もある。
たとえば、私とぷちたち。
家族でも、起こりえるもの。
先送りループ。
価値があると思ったり、ないものだと思ったりするのに、それが具体的にいまを変えるほどのなにかになることはないまま。
延々とぐるぐるする。
そう思いきや、進んでる人がいる。転んでも立ち上がる人がいる。胸を張って声高に叫んでいたら、つまずいて袋だたきにされてる人もいる。劣等感に背中を押されたり、頭を押しつけられたりしては、しんどいいまをぐるぐる回る。
そこから抜け出したくて、別のことをはじめたり、大丈夫な領域を確保する。
それはきっと、いつか年老いたとき、いまをやりすごす動機にもなる。
いくつになっても、ぐるぐるぐるぐる。
果てしねえ先送りループ。
息が詰まるようなぐるぐる。
そういうものさと自分をなだめて、負荷に耐えて。がんばって。がんばることがすごいんだ。がんばってきた私はすごいんだ。うまくいかなかったこともあったし、傷ついたこともあったけど、がんばったもの。それでいいじゃないのよ、と。
ずっと、先送りのループが続くの。
足りないの。わかってる。
留まるとつらくなる。
わかっているのに、どうにもできなくて泣けてくる。
泣く子を起こすな? すでに泣いてるよ。子も、自分も。
心に穴が空いてるの。
先送りできないの。もう。わかっているのに、わからないの。
止め方を知らないの。どうすんの?
耐えられる範囲でがんばらずに済むようになっていくの?
だとしたら、それってあまりに悲惨じゃない? 格差は広がるばかりだもの。ファクトフルネスに記述されていたことだけど、数字は同じでも、貧しているか、そうでないかで、得る難易度には大きく差が生じる。それが格差による影響のひとつ。
富だけじゃない。
成長する環境も。学びも。
お父さんとお母さんがぷちの親になるのと、私がママでいるのとだと、ぷちたちの過ごす環境には差が生じる。そこはもう、ごまかしようがなく。私にはうちのような場所を用意できない。維持するのもそう。未来はさておき、いまはまだ無理。未来にできるようにするには、毎日やってくことがたくさんある。それは、がんばらなきゃ獲得できないことのような気がする。
だけど、なにかをするときにね?
がんばる、だとだめなんだ。
居るのがつらいのと一緒で、やるのがつらくなる。
つらいことをやりながらだと、そこから抜け出すのも、他のことをやるのも、ひどく難しくなる。
なぜかって、負荷がかかると人は意欲が落ちるでしょ?
手段として選択した負荷じゃないものにさらされていたら? たまってきたら、人は病むでしょ。行動にも体調にも出るでしょ? できないんだよ。現実的な問題として、他のことなんて。
それじゃますますつらくなる。
でしょ?
そうすると、今度はいつかやることとして先送りするものが増える。
それもやっぱり先送りループ。
やりたいことの先送りループ。いまを変えられなくて先送りループ。
そう考えたら、先送りループにだって、いろんな種類がありそうだね?
悩ましいのさ。
いろんな先送りループ状態のことが、いっぱいたまってきてて。
「いま当たり前なことは、なかなか気づけない。だから、いま当たり前にあるよいこともまた、気づきにくい。百人一首に選ばれた三条院さまの一首、わかるかな」
お父さんの問いかけに、腕を組む。
ノノカにもらった札を見返すことが増えたおかげで、すぐに出てきた。
「心にもあらで憂き世に長らえば、恋しかるべき夜半の月かな……だっけ」
「じゃあ、三条天皇がどんな一生を過ごし、どんなときに詠んだ一首かわかるかな」
「――……あああ」
背景まではまだ押さえてないよ!
「彼は身体が弱かったそうだ。なにかと不遇や悲運に見舞われた。退位を考えていた彼はね? 眼病を患っていたそうだよ。視力が落ちていたんじゃないかなあ」
「憂き世に長らえば……心にもあらで。なのに、しかも月の歌で?」
「秋の歌だそうだ。秋月。仮にそれが美しくても、雲に隠れそうな月だとしても、恋しかるべき月――……その美しさは、どんなものだろう。僕たちが月を見あげるとき、彼のみた美しさを見つけられるだろうか」
「ううんんん」
喉元で唸る。
当たり前に浮かぶ夜の月も、見る人がちがえば? 美しさもまた。
今夜も見あげれば見える。
月と限定しなければ、星さえ美しい。
星にするなら昭和の往年の歌にだってあるし? 中二病でも恋がしたいで六花ちゃんの声優さんがカバーしてたし。歌手にも愛されてる曲だよね? 見あげてごらん、夜の星を。
月は特に身近で、だから星とは別枠で扱われてる気もする。
物語の題材にもなっている。月に帰るお姫さまもいれば、セーラー服美少女戦士もいる。
月の模様になにを重ねるかは、いろいろあるじゃない? 国によっても違いがあるっていうよね。
なら、さ。
願わず生きる憂き世に、失われていく輝きの中で見た月って、なんだろう。
その美しさって、なんだろう。
そこになにを重ねたのかな。
そちらに注目するのかな。それとも普遍的な月の光を語るのかな。
あるいは、あるのに気づけないとするのかな。
お父さんは、そういう筋で話しているのかな。
「よく、わからないよ」
「お父さんもだ」
「ええ!?」
「だけど、この歌に惹かれてから、夜に月を探すことが増えた。それは興味が湧いたからだ」
「それって実はグロテスクな話じゃない?」
「ムカデ人間は横において話そう。二作目でフィクション設定されてるし」
いやその二作目で一作目を劇中フィクションとしたものの、真似したくなった人が模倣してるんですけどもね!
模倣犯。頭の痛い問題であり、危険に繋がる類いの先送りループのひとつ。
「単純化すると、確かにグロテスクな面も内包するから危険だね。興味が湧いて、行動に移すまでの間にチェックが必要だ」
なんでやる前に考えなかったの! という指摘はさ?
結果に対して予想できなかったのか、という意味があるじゃない?
他にもさ。
興味と行動までの間の不用心さとか、無関心さとか、偏見とかに向けられる。
「そこで、考えるカラス方式だね」
「興味が湧いたら、やる。じゃあなくて、興味が湧いたら観察し、仮説を立て、実験をし、考察する?」
「そう。じゃあ、それで十分かな? もう終わりかな?」
「ううん。個人的には興味が湧いたら観察するか、仮説を立てるときに勉強をしたいかな。興味が湧いたともだちと一緒にやれるのならなおいいし、同じ意見の集団よりも、ちがう意見の集団の意見も知っておきたい」
「準備をするし、調査をするということかな?」
「うん。あとね? ひとりのことに留めないの。ひとつの視点しかないの、けっこう怖いし。行き詰まりやすいじゃない?」
「つまり、いろんな視点で捉えたいと」
お父さんの返しにうなずく。
偏った知識かどうかって、ひとつのコミュニティの中だとわからないことが多い。
多様な視点を忌憚なく語れる場所って思えるときのほうが危うい。
知らないこと、わからないことを率直に語れる場所がほしいのであって、知っている、それはちがうという話しかない場所は、けっこう怖い。
人は知らないことをなくせない。なくせるものじゃあない。
なにせ、ほら。
果てしねえ! し。
先送りループ状態のこと、やまほどあるし?
解決できていない問いも。経験値にできていない失敗も。そもそも失敗なんかないことにされてるものも。そりゃあ、あるのだし?
知らないことをなくせないよ。なくせるものじゃない。
だから、それを認められるか。語れるか。いかに挑んでいられるか。
そこがはっきりしていて、全力かどうかがわからない限りは、おっかない。
知ってることには価値があるよ?
だけど、それよりもっと、知らないことがある、ということを知っていることに価値があるんじゃないかな。
そうでないと語られていることを信用していいのかどうかが怪しくて怖い。知らないことがある、ということを認めたりさ? さあ、どうするって話し合えないと、危うい先送りループ状態のことがやまほど眠っていそうで恐ろしい。
楽しいとき、こわいとき、めんどうなとき、負荷がかかるとき。視野狭窄に陥る条件ってやまほどあるから。
「だとすると、春灯はぷちたちみんなと、それをする準備ができたってことにならない?」
「――……おお」
お父さんの問いにふり返ってみて、思わず唸る。
言われてみれば、たしかにそうだ。
ぷちたちと話し合い、進めている。もちろん興味ならある。
いやでも。
「これまでのことは、さ」
お詫びとか。謝るのとか。取り返すとか。
「みんなが春灯に願うこと、求めていること。そりゃあ、それぞれに違いはあるだろうけど、もっと一緒にいたいってことだと感じた。お父さんにも、春灯の悩むこれまでのこと、どうしたらいいのかはわからないけれど」
グラスを置いて、お父さんは私をまっすぐ見つめてくる。
基本的に目を合わせる人だ。うちのお父さんは。
「できることがあるとしたら、いまと、これからのことだけ。歴史に名前を残そうとみんなが決めたすごい人も、ひどいことを止めるまではできても、これまでをなくすことはできないし、選ばなかったろう」
選べなかったろうし、選ばなかった。
過ちをなかったことにするのではない。
そこから学び、どうするか。
激しい手段でも。
がんばらなきゃいけないことにするのでも、なく。
みんなが、そんなことにならないようにする。
それだけで、もうすごいこと。
もちろん、そこで思考停止しよう、わーいって話じゃない。
そうじゃないけど。
「その前提を踏まえて、さあ、どうする?」
なくしたくなる。
なかったことにしたくなる。
マイナスにプラスをぶつけて、ゼロにするの?
ううん、ちがう。プラスにしたくなるの。
自分の中にプラス要素がなかったら? 周囲からせっせと持ってきて、盛りつける。
それって基本的にがんばらなきゃいけない。無理をしなきゃいけないし、負荷がかかることだ。当たり前とさえ思える。
だけどさ。
それって、ほんとにぃ? って話もある。
せずにはいられない。興味があるから、放っておけない。だからやるという術がある。
見えていない、見えにくい心の中のプラスとか、気づいていないけど生みやすいプラスとかを見つけて、それを育てる術もある。
「僕らは傷を引き受けることができない。代わりに痛みを受けることもできない。そのせいで気づかず暴力的になることをなくせない。自分の中で完結することって、ない。自分と同じ声の中で完結することもまた、ない」
それがどういうことかもわからない。
だけど、わからないからこそ学び、考えずにはいられない。
興味があるから。なくせないから。放っておけない。
わかろうとせずには、いられない。
だから、そのために堅実に学び、興味の先、知らないほうへと進んでいく。
先送りループ状態の、外へ。
わかることを壁にしない。
できないことを壁にしない。
知らないことを壁にしない。
だけど壁にしなくても、いまの余裕のなさは消えない。
大変さも。これまでのことも。なくならない。
なので願いも、こうしたほうがいいんじゃないかも、なくさない。
だめな自分も。
だめだった自分も。
どっちもなくさず、手を繋いで進んでいく。
疲れたら休めるように。
お腹いっぱい食べるし、めいっぱい遊ぶし。パンも花も、どちらも大事にしながら進む。
中道をいく。
がんばるんでも、がんばらないのでもなく。
ただ居るだけの状態を、よくしていく。
自分の居るに紐づけることを減らしていかないと、まず居るだけでがんばらなきゃいけなくって、それじゃやまほど必要なことがありすぎて、負荷が増えるばかりで、身も心ももたねえや。
なにせ、ほら。
いきものいきるの、果てしねえもの。
果てしねえ先送りループまみれで、それでも生きるし、居るのだもの。
目指すなら?
居るのがいいのよ。そもそも、居るのよ。
いまはまず、その境地から。
なんていうと、仰々しいなあ!
「それってもしかして、ユーリとユリオの話?」
「あるいはヴィクトルとかヤコフとかの話かもしれないね! 集中するし、練習するし、みんなとちがいながら挑むし、一緒にいられる距離感で挑むし」
「お父さん――……ムカデ人間に繋がりかねない興味の話より、最初からそっちの筋で話したかったよね」
「ま、まあまあ!」
お父さんの顔が引きつってる。
お母さんがいたら、ツッコミが入ったし、ふたりして気づけたと思うんだけどなあ。
だめだ! 私たちふたりだと!
ああでも、やっと腑に落ちたことがある。
ユーリはずっと葛藤したり、迷ったり、悩んだり、苦しんだりしながらスケート人生を過ごしていたように見えた。けど、彼に転機が訪れた。
憧れのヴィクトルがコーチになりにやってきた!
自己否定やモチベ否定の先に、自己もモチベもない。
ひとりで抱えるには大きすぎる夢じゃなきゃ、たどり着けない場所があるって、最終話でユーリがモノローグにて語る。
僕らは愛と呼ぶ。氷のうえのすべてをって。
たぶん、肯定もそうだ。
だから悲劇も起きる。暴力が巨大に膨れあがったり、そこでの先送りループが増えたりすることさえ増える。
無関心も。関心も。自己否定も。
どこを向くの?
どんな夢を抱くの?
どんな先を見つめたいの?
見つからない、わからない、否定しかない。
そんなときでも消えない、大切すぎて忘れちゃう夢は?
あまりに当たり前すぎて、夜に輝く星ほどささやかで、見失ってしまう夢は?
近づかずにはいられない、抱えきれないほどおっきくて、遠のくほど見えなくなっちゃう夢は? 雲に覆われるだけで消えてしまう、だけど見えないだけでたしかにあるはずの夢は?
ユーリにとっては氷のうえにある。
私にとっては、どうかな。
ぷちたちそれぞれにとっては、どうなのかな?
それにさ。
おうちにあってほしい夢は、なんだろう?
果てしねえ、ぶあつい雲に覆われて、知らなくて、気づかなくて、失ってしまう環境はざらにある。自分自身で雲を増やしてしまうことさえあって、自分じゃどうにもできなくて、だれかや自然を相手に風よ吹けと求めることさえある。
そうじゃなくってさ。
そういうんじゃあ、なくってさ。
「なんのピロシキ精神だ」
「お。いいねえ、ピロシキ」
いやあの、お父さん?
ご飯の話はしてないんだけど。一話のタイトルなんだけど?
「そういえばお腹すいてきたな」
「チップス食べてるじゃん」
「あのアニメのご飯はどれもおいしそうだったよ? 夜食をとるなら、いい時間だし」
「う……たしかに」
思わずうなずいてから、すこしの間を置いて。
「「 カツ丼だよね 」」
親子してハモっちゃった。
ユウリのカツ丼! たべたいなあ!
いや、ちがう。
そうじゃない!
けど食べたい!
夜ってお腹すきません!?
食べたい流れに任せて食べると、わりとすぐにお肉になる。
だから食べたいように食べることをだめーってする意見はある。
あるけどやっぱり、それっていいなーって思うことも多い。
したいことだけで、うまく回るように整える。
そうできたら、楽だなー。
なにが足りないのかな?
尻尾世界の、あの蓮池も、おおきな尻尾ハウスの中に広がる空間も。
したいことだけで綺麗になっちゃうくらいの過ごし方と、そこにいる私って、どんなだろ? つらさがあったら、たどりつけない。あるべき力は興味とモチベ。
したいことを積み重ねることしかできないぞ?
自分の中に答えがないことで悩み、対話に四苦八苦するなら? わかる!
けど、自分の中にあるかもしれない答えを探そうともしないのは?
ちょおっとずれてる。
愛ってなんぞ状態でもいいの。
カツ丼からでいいのよ?
「作るか。真夜中だし、カロリーオフ気味豆腐カツ丼にして」
「お、いいねえ。じゃあお父さんは味噌汁用意しようかな」
「ぬか漬けだす?」
「欠かせないでしょー」
ふたりしてキッチンにいそいそと向かう。
わからない。
さあ、どうする?
へこんじゃう。
さあ、どうする?
私はそろそろ飽きてきた。
ぷちたちが「まだ!?」って私をあの手この手で急かしてくる。
なにせずっと待たせてきちゃったから。
勉強をはじめてる。観察もしてる。実験の手前にいる。
動こう。もっと学ぶし、もっとやってみよう。
なんのピロシキだ!
食べるのカツ丼だけど! 鶏肉でもないけど!
いいの! 豆腐カツ丼からでも!
つづく!




