第千七百二十一話
真っ先にお店に行くのかと思いきや寄り道をした。
ぷちたちが遊べるおもちゃが売っているお店だ。
お札合わせやかるた、百人一首の競技用のお札なんかが売っている。碁石もあるのが素敵だ。花札に、ボードやカードのゲームも。二階に足を運べばギャラリーだってある。
とても綺麗なお店で、ぷちたちが「これなあにー?」って盛んに聞いてくるものの、遊び馴染みのないものも結構あって「なんだろうねー?」と首を傾げちゃう。
見てわかるもの、手に取ってわかるものは説明をする? それよりも、どうやって遊ぶんだろうねーと問いを投げてみる。みんなであれこれ案を出し合っている間に、お母さんの用事が済んだみたいだ。呼ばれてみんなで行くと、
「よっ」
美希さんが神保町に漂うレトロに負けじとカジュアルな白地に朝顔の刺繍の入った小紋姿で立っていた。帯が深い青。お尻からふわっふわの尻尾が出ている。獣耳も出ていた。
「麗子、あんたも尻尾を出したら? たまにはさ」
「穴の開いた服じゃないから無理。それより春灯もみんなも、行くよー」
お母さんの号令で歩きだす。
美希さんが歩くたびに、からんころんと音が鳴る。
和服にシューズ、個人的には全然いいんじゃない? って考えだけど、美希さんは下駄を履いていた。黒くて艶のある木の下駄だ。耳に音が心地いいけれど、歩くの痛くないのかな? と思って見たら、歩くたんびににゅっと足が沈み込んでいた。
あれ!? 木製の下駄かと思いきや、ふにふにぷにぷに生地を搭載しているだと!?
よくよく見たら、足と下駄の隙間が見える瞬間にちらりと、ふかふかの白い布地が見えた。
おいおい。そんな下駄、あるぅ!? 私も欲しい!
キラリに教えてもらった知識だけど、靴に中敷きを入れちゃいけないって決まりはない。中敷き、超便利。噂によると、自衛隊、とりわけ陸軍でめっちゃ歩く人たち御用達の中敷きがあるみたいだ。歩荷さんとか、山歩きガチ勢にも愛用されている中敷きがあるというし? それとは別に営業職とか、店員さんとかで、立ちっぱ、歩きまくり当然って人にも中敷きの愛用者は多いという。お医者さんでも、看護師さんでも、使っている人がいるんだって。
もしかしたら、陸上競技、とりわけ長距離を歩いたり走ったりする人も使っているかも? それか、中敷きいらないくらい、超らくちんシューズを使っているのかも?
そういう楽ちんさを下駄にも。ありだ。とてもありなのでは!
靴裏にあるクッションも大きな役割を果たす。そのあたり、下駄はわりとダイレクトアタック前提だよね。ただ、歩くときの音がねー! いいんだよねー!
ぷちたちが「おおおお」と興味津々で美希さんの下駄を見ている。これは絶対、いつかおねだりされるパターン!
足音。歩いたときの感覚と、踏み心地。快適さも大事な要素なんだけど、それだけじゃあないよね。あとはさ? 足音を楽しむっていう遊びもある。
遊びが発展したのが、踊りなのかな? どうだろ。祈祷と神事の一種でもあるもの。
歴史までは存じ上げないものの、タップダンスなんかは踏んだときの音が肝心要じゃなかった?
かっこいいんだよねー! タップ!
エンタメ絡みじゃアメリカびいきの私だけど、ハリウッド俳優が年に一度の映画祭で開会式のスピーチを担当するとき、エンタメ業界の舌の肥えたクリエイターたちの前で一芸を披露してなかったっけ。その中には、タップをお披露目していた人もいた気がする。
静寂の中、ダンサーのタップシューズの音がリズムを刻む。
あれはたしか、つま先の靴底部分に金属がつけられているんだったかな? かかともだったかな?
ステップの踏み方が、音を立てるためのものになっててさ?
不思議。
ビッグバンセオリーのペニーはテキサスから出てきた女優志望の綺麗な子。恋愛経験も人生経験も豊富。だけど、層が分厚い。成り上がれば一攫千金が夢じゃないハリウッド。ララランドの女性も女優を夢見てコーヒーショップのウェイトレス。いちばん最初のスパイダーマンのメリー・ジェーンも女優志望じゃなかった?
はちゃめちゃに志望者が多い。エージェント企業があって、そこで目に留まるかどうかもある。目に留まっても、その先に行けるかどうかは別。なにせ「たくさんの人を見れば見るほど、明確に違うか、明らかに「こいつなら売れる」と思えるものがない限り、それほど差がわからない」もの。
ブロードウェイ、ミュージカル。ダンサー、シンガー。コメディアンも、とにかく手練ればかりのテクニシャン揃い。
上手という線で勝負しても、そこは舌の肥えた人たちが相手。これまでに見た人たちと比べて「ううん」となりがち。いざ自分が選ぶ側だと、どう? だいたい綺麗な子、かっこいい子は多すぎて見飽きるくらい。日本の大手企業の面接会場と違って、服装と髪型が自由だとしても、見る数が増えれば増えるほど、頭はそこまで処理しきれないから、だんだん似たように見えてくる。あるいは類型化して、情報を整理し始めちゃう。
そういう仕分けから入る段階でもう、認識の度合いとして下がりがち。
なので、苦戦する。
その苦戦は延々と続く。
ペニーがオーディション会場に行って、ブロンドに染めた子、整形してる子、顔見知りの噂話をする子たちに囲まれてうんざりしてなかったっけ。そこから一歩ぬけだすために、製作の人と寝たりして。上の階に引っ越してきた綺麗なお姉さんが、主人公のシェルドンとレナードの部屋まで聞こえてくるくらい激しいアノ声をだしてた。
芸があるのは当たり前。
人生にいろんなストーリーがあるのも当たり前。
で? あなたの味は? あれこれ試食させられて、もうなにがなんだかわからない舌にわかるような、鮮明ななにかはある? みたいなのを求められるのかもしれない。
えぐいよなー。
えぐいよ。
野球だと、高校野球で大活躍をしたチームの中で、さらにめっちゃ活躍した人がスカウトされている印象がある。じゃあ、そうじゃないけど、こどもの頃からずっと野球に打ち込んできた子たちはどうなるのかな?
ドラァグクイーンのひとりのドキュメンタリー番組かなにかで、ダンススクールに通う子たちの大会の模様を追いかけていたような。ああいう場面における「大会に出ていいよ」「あなたはまだ」の基準って、なんだろう。
示されない。
示されたら示されたで、とても重い呪いになりやすい。
おばあちゃんちに集う親戚の中で、おじさんたちが野球中継を見ることがある。そういうとき、有名なふたりの選手を比べる。技術と貫禄の人に対して、技術は何歩か引くものの華やかで盛り上げ上手で見せ上手の人。このふたりが時代を築いたーみたいなの。どっちがいい、どっちがいや、みたいな話さえしてた。ふたりとも監督をやってたんだって。
プロ野球、ぜんぜん知らないから、さっぱりわからないんだけどさ。
こども心に、投げる球が速いのなんだの言われても、ぴんとこない。速度だけ、コースだけ、どちらを取っても、たくさんの選手を並べてみたときに、素人で興味のない私にわかる味って、特にない。せいぜい、みんなが「あいつはすごい、玉が早い」とか「あいつが出たら絶対ホームラン!」とか言うときくらい。だけど、それも、味なの? さっぱりだ。
高校に入って、クラスの男子の話を聞いていると、どうやらフォームが重要らしいとか、打たれたときに大きく飛んじゃいやすい玉があるらしいとか、そういう味わい方を、ほんのわずかに知った。けど、やっぱりいまでも野球中継はぴんとこない。マスコットのほうがよっぽど面白く見れちゃう。それはそれで、どうなんだか!
試食をするとき、お水をちょいちょい飲んで、口に残る後味を流すじゃない?
かといって、だよ?
激辛料理を食べてひいひい言ってるときの後味は、長く残る。印象としても、そう。
匂いも大事。お鼻がおばかになっちゃうような、強烈なものを食べたら? しばらく気持ちに留まる。
味わうのって、実はハードルが高くない?
私たちは自分が思うほど、はっきりわかってないんじゃない?
口にいれて、露骨に「あ! 腐ってるやつ!」となったら? 吐きだす。納豆が好きな人は気にしないけど、食べられない人は「むり!」ってなる。発酵食品を例にすると、線引きがよくわからないのがイメージしやすそう。もやしもんで紹介されていた、ホンオフェとか。シュールストレミングとかね。
昆虫食なんかも、そうかも。
食べられるとわかっている人、好きな人と比べて、そうでない人にとっての印象の強さはえぐい。
慣れた味って、実はとても強い。
これは慣れた味だとわかってからの、入力される情報量の少なさと言ったら?
たぶん、えぐいんじゃないかな。
見た目にそれほど慣れたものとちがいがなく、食べて「ん!?」と、思わず身体が反応する要素がなかったら? それが具体的にどう違うのかを味わうことができなくても、味わっていると錯覚したままに食べれちゃうのもまた、人間だよなーって思うわけ。
おいしかったとして「あー。うん。おいしい」で終わる。
おじさんたちが見る野球中継を見て、みんなおんなじおじさんに見えちゃう私みたいに、よくわからないのだ。
そこらへんを突いて演出しているのが、ドラマシリーズ「ハンニバル」の調理シーン。
いかにもおいしそうに、けれどトーンは明らかにホラーを連想させる色調に合わせてなされる調理。お肉というか、臓物がたくさん出てくる。それを「彼? 昔、美貌と技術でトップにいたフィギュアスケート選手さ」と言われても「だよね!」ってなっちゃいそうな、イケオジ役者さんが包丁で切る。
心臓、肝臓。腎臓もあったかな?
腸の中身を綺麗に洗浄して、薄く長く引き延ばして、ソーセージのお肉を詰める皮に加工するシーンもあった。
ハンニバル・レクター教授といえば? 人を喰らう怪物殺人鬼だ。
彼の栄華を誇る時代を象徴する、大豪邸での料理シーンはひたすらに優雅。だからこそ、際立つ猟奇さ。
シーズン1で彼が出くわした殺人鬼の中に、殺した相手の人体を加工して楽器にする楽器店の男がいた。人間の腸を伸ばして、バイオリンの弦にしたり。喉を切り裂いて骨と、口から突っ込んだ板を利用してチェロにしたり。
そういうドラマなので、ショッキングどころじゃないんだけどさ。
なにより印象的なのは、繰り返すけど、調理シーンだ。
加えていえば、ハンニバルと仲良くなる主人公や警察メンバーを迎えての、食事シーン。
食べちゃうんだよ。
おいしいって言って。
一日だけじゃない。
一度だけじゃないんだ。
何回か、食事の席が設けられる。
そのたびに振る舞われる。シェフが技巧を尽くして作るような、手の凝った料理が。
大体において、おいしいおいしいと食べられていく。残さず、綺麗に平らげられる。
もしも、その場面を明るい色調、楽しげな音楽、警察とか殺人とか一切かかわらない文脈で構成して流したら? だれもハンニバルのワンシーンだなんて気づかないかも。なんなら「おいしそう、食べてみたい」って思うかも?
プロの遊びで、そういう映像を作ってみたら、どうなるかなあ。
楽しい検証の遊びになるんじゃないかな?
だからどうだという話でもないんだけどさ。
案外、だれもがわかるものじゃないよね。
加えていえば、面接だの、選ぶだのって立場になってる人たちみんな、よくわかるかっていったら? それもまた別の話だ。
これに対する反証はもちろんある。
私は、わさびとからし、唐辛子の辛さの違いがわかる。これは同意する人もけっこう多いと思う。山椒のしびれと、激辛唐辛子でひりひりするのとでは別だっていうのもわかる。これも一緒だ。
そういうとき、出てきた料理を食べて、それがどういう辛さや痺れを与えてくるのか、個人的に「わかるでしょー、さすがに」となる。
それはたとえば、牛肉、豚肉、鶏肉の違いがわかるようなもの。
青魚と白身魚の刺身の違いのようなもの。
塩加減や火加減の差がわかる、みたいなもの。
プリズンブレイクと、プリズンスクールだって、もちろん見てわかるじゃない? 前者はシリアスな実写ドラマで、笑いよりもむしろハラハラドキドキの脱出劇と、知能犯にもほどがある弟の冴えと、監獄で出会う厄介な奴のうっとうしさとかキャラの味変とかが楽しい。後者はえっちな場面もあるし、おばかが笑えて最高な漫画で、監獄が学校になって、学校ならではの監獄感を味わえて痛快! そこ、別じゃん。間違えないじゃん?
細かすぎるものまね選手権にでてきそうな、ものまね芸人さんの野球選手の投球フォームやバッティングフォーム、ボックスに入るときのスイッチを入れる儀式な動作の真似とか。好きな人なら「あー! 似てるわー!」と、見てすぐわかるだろうし。
わかるって感覚は、かなり強い。
たとえばパフェが出て、口に入れたクリームが甘いとわかるのって、当然すぎる。だからその先なんて考えない。せいぜいクリームが滑らかかーとか、温度がどんなもんかーとか、ふわふわ加減はどうかーとか、そのくらいまで。まず、甘さについて疑問を持たない。
それくらい、わかるっていうのは、印象として、強すぎるくらいのものだ。
だから錯覚もまた強い。
人間の錯覚の可能性と、バグったときの認識の甘さや抜ける度合いのやばさをわかりやすく示してくれるのがだまし絵やトリックアートの類い。でも、これだけだと「いやあれ、視覚の話だし」と一蹴されそう。その先を考えずに済ませる力が、人によってはかなり強烈に働きそう。
味わうほど、自分の認識を強める。
そうなればさ?
わかりそうなものだ。
だから認識は変えず、変わらず、またその必要性さえ見いだせなくなるんじゃない?
じゃあもう、そこに問いはない?
そうなると、レクター教授のおいしい手料理を食べても気づかない側になる。
たぶん、食べたことがないと、味わったことがないと、気づけない。そういう人がもしもいたとして、もしやと疑って味を確かめない限り、わからないだろう。
人は己が思うほど十分な認識を獲得した生物ではない。それを示す猟奇さなんだ。
あのドラマの、あの料理は。
きっとね?
十枚のヒラメを並べて、刺身一切れを切り、十切れを並べて食べたときにさ? その情報を知らせず明かさずに「何枚のヒラメでしょうか!」とお題を出したら、わかるかなー。わからないんじゃないかなー。
ごまかしようもあるよね。ということは出題側として、相手の味わう力の弱さと、錯覚という文脈を利用できるということでもあるよ?
仮に二冊の同じ本の、何刷りかが違うものを一度だけ、それぞれ読んでもらったとき。新たに加筆修正されたところに、人はいったいどれだけ気づけるのかな?
私は正直、ヒラメも本も、当てられそうにないや。
たとえばね?
しょっぱさが、お塩によるものか、お醤油によるものか、お味噌によるものか。なにで分ける? 香りかな? 色味かな? 見た目? じゃあ全部がスープで、同じ色にされていたらどうする? いやそれでも、わかるでしょって思う?
じゃあ、たくさんの種類のお塩なら? いろんなお醤油なら? お味噌だったら、どうかな。白味噌百種の味くらべ!
なんだか格付けチャレンジみたいになってきた! それか、ソムリエみたいな、味を判別するプロの領域?
だとしたら、前者はまだしも、後者は一度で必ずすぐにわかるのかな?
わかるものは、なんでわかるのかな? わからないものは、なんでわからないのかな?
それぞれの個性としての味が際立っているかどうか、なのかな。
同じ領域で競っているふたつのちがいを把握していないと、似通っているものはわかりそうにないな。
それって、たくさんの個性がわかるくらい、味わっていないと難しそうだな?
それって、前提として、たくさん付きあってきていないと、わかりそうにないな?
知っていても、付きあってきていても、わかるのはとても大変そうだな?
そこで個性を求めて、あるいは自分を育てたくて、あれこれするのも人なのかも?
ペニーは演技教室に通っていた。まあ、それだけだとありふれていそうだ。分母がおっきなハリウッドの市場だと、ダンスができるとか、歌がうまいとかじゃあ、むずかしそう。グレイテストショーマンの主演を演じた人なんか、ブロードウェイのスターだもんね。えぐい!
かと思えば、かなり昔の話ではあるけれど、殺しのライセンスである007のスパイ映画の初主演は、炭鉱夫をリアルでやってた人なんだという。
彼に似合いのスーツを仕立て、話し方からなにから教え込み、上流階級の社会に連れ回してダンスから遊びからやりきって、撮影に臨んだそう。その彼はいまじゃシニアで、名優の中でもかなりの有名人。
いまのエピソードを聞くまで、私はリッチな層の出身だと思っていた。それくらい、上品でダンディーなおじさまなんだよね。正確にはおじいさまか! いやほんと、かっけえの。
けっこう、いい加減なんだ。
味わうのって、手段なんだよね。
なんだけど、結論を出すまでの試行回数と速度に対して、読み取る個性の輪郭と解像度って、必ずしも一致しない。そこには錯覚の余地がある。
なので「足に履くものはこうじゃなきゃだめ!」と固持する人もいれば「長時間あるいても、立ちっぱでも、蒸れないし疲れないし、痛くならないのがいいでしょ」って軽く変える人もいる。
結論は点。どこに打つかは、そのときどきによって変わる。おまけに文脈もある。だから本当は固持するかどうかも、手段として活用すればいいし、活用するしないどころじゃない場面も、精神状況もあり得る。
江戸時代に行ったなら「せっかくだし」と当時の下駄を履きたがるかも。足が痛くなったら「やっぱだめ! 履くなら楽ちん最強なんだわ」と、美希さんの履いてる下駄に化かすかも。だれもみていないところで「現世の靴がやっぱ最高なんだわ」とスニーカーに化かすかも?
切りかえるという手段を好ましく思っていたり、気軽に選べるのなら変えられる。けど、切りかえる発想がなかったら、そもそも変えない。しんどさに、ずうっとイライラしてるかも。
靴ひとつとっても、こんなだよ?
もーねー。
生きるの、いろいろやること多すぎません?
そんなこと、いちいち考えないじゃない? だってさ?
「ねえねえ、あの靴、なあに?」
「あれ、履いてみたい!」
「出目金マシンが地面についたとき、あの音だしたい!」
素直に言っちゃうの。ぷちたちは。
たぶん、そうして変えられる気軽さが、安心であり、安全の形のひとつなんだろうね?
あるいは、脅かされないこと。痛くないこと。つらくないこと。このあたりかな。
「ようし! じゃあ、ひとりずつね?」
みんなの注文に応えるべく立ち止まったら、ちょうど横に古書店があってさ?
日焼けをした背表紙の本が、綺麗に陳列されていた。
古びた表紙に傷は見当たらず。本も修理再生できるんだよね。
世界の名だたる絵画も、あるいは個人的に大事な絵画にしても、修繕が行なわれている場所があるという。大事に大事に、治療し、ケアされる場所で、長く穏やかな時を過ごす。
それもまた、安全基地に欲しい大事な大事な役割なんだろうなあ。
なんとなく、寝て起きて、やなことあったり、楽しいことしたりして、できてる気がするだけで、錯覚してるところもある。
こつこつ作っていく。
ようく味わっている。
たとえば神保町は本という魚を味わう人たちの聖地なのかな?
私にはわからない世界だ。それが、とてもくすぐったくて気持ちいい。
みんなの要望を手早く叶えて、せっせとふたりについていく。
なるべく痛くないように化かしたつもりでも、鼻緒で歩く感覚が慣れないんだよね。もたつく子もいるけど、そこはさ? お母さんと美希さんに「ゆっくりめに行くから、離れたら連絡するねー」と呼びかける。話し込んでいたふたりが「ああ」と気づいて、一緒に合わせてくれる。
荒ぶることもまた、できる。
いまという時間の味わい方も、味はこうだと決めるまでのタイミングも、それぞれに。
ふたりは、下駄に四苦八苦したり、楽しんだり、転んじゃいそうになったりするみんなに丁寧に接している。私も見ているばかりじゃいられない。
ぷちたちがいま、初体験を味わっている。
それを楽しむ味わい方を、私は自分が思うよりもずっと知らずにいる。
なかなか先に進まないね?
それもまた、味だ。ときに苦く、ときにもどかしく。
そういう味を、どう料理する?
長い時を過ごす古書の香りは独特ながら、なんだか「まあ、そう先を急ぐこともないよ」と私に教えてくれるみたい。お父さんとお母さん、ふたりの本棚の匂いに似ていたんだ。
私は本棚、ちゃんとお世話してないや。
お世話するのが料理で、味わえることがあるのなら?
いまも、そう。
時というお料理のマスターになる。
それもまた、ある意味じゃ自分の育て方になるのかもしれないね?
ぷちたちと一緒に読める絵本を探してみようかな。
お母さんの用事が済んでから。私が化かすんじゃなく、ぷちたちの履ける下駄を探してみるのもいい。
ミコさんの言うとおり、休んで正解だった。
こういう時間が必要だ。
時を過ごす街で、お世話をされる古びた魚たちの中で、私はそう痛感したのだった。
つづく!




