第千七百十九話
バットマンのアサイラムって、知ってます?
彼女の問いかけに、俺は迷わず検索した。
アーカム・アサイラム。アメコミのバットマンシリーズに登場する架空の精神病院。
フィクションであろうと、自警団活動を行なうヒーローたちは大体、力を持つ一般市民だ。なので犯罪や暴力を止めることはあっても、そのために過剰な暴力を行なうことを忌避する。正当防衛の範囲で、相手を鎮圧する。行動不能に陥らせるか、縛り上げるか。
ところで暴力行為に及ぶ者、あるいは暴力に依存する者、なにかに強く依存するも叶わずとうとう暴力に訴え出る者たちが、ヒーローたちによって鎮圧され、囚われたら?
ときに罪を犯した精神病患者として収容される場合がある。
バットマンにおいて、このとき受け皿となるのがアーカム・アサイラム。
バットマンシリーズにおけるアイコニックなキャラのひとりであるハーレイ・クインは、元々はアーカム・アサイラムに勤める心理学者だったという。有名なキャラであるジョーカーを担当し、接しているうちに恋に落ちて……という展開もあるそうだ。
「フィクションにおける精神病院の例を出すならシャッター・アイランドでよくないか?」
「レオさまの映画ですね。たしかに歪さでは引けを取りませんが、違法な外科手術は行なわれておりません。これは非公式においてもです」
「ふむ」
悪名高き施術は行なわれていない、と。
遡れば、或いは。そう思いはしたが、過去の暴力とは決まって憂うつで対処しようのない話だ。深掘りするのはやめた。
「それに、いろんな見た目の患者さんがいる点では、アーカムのイメージのほうが近いかと」
「いろんな見た目ねえ」
いまは快調に東北自動車道を北上していた。
埼玉、群馬と通っていく。途中にあるサービスエリアにでも寄って、ひと息つきたくなってきた。煙草を吸いたがっていることはとうにバレているに違いないので、監視されるに違いない。
禁煙は一進一退。現状は維持している。
館林で下りて、群馬で買い物をしたら西へ。関越に入って、長野を目指すのだとか。
ずいぶんと回り道をする。買い物というのが、訪問客への差し入れなのだろうと当たりをつけていた。
どうでもいいけど、せっかく長野方面に行くというのなら、諏訪湖のサービスエリアで入浴できるといい。息抜きにちょうどいいから。
無理かなあ。無理かもなあ。
「今日は泊まりで行けるのか?」
「許可はもらっています」
「お! じゃあ温泉あり?」
「常識の範囲内で」
経費で落とせると迂闊に思うなよ、と釘を刺された気分。
いいじゃんな? 経費で入る温泉、経費で食べるご馳走。最高じゃないか?
税金なんですよ、と叱られる気がして言わないでおいた。
街中で揶揄される言葉の上位に入る、いやなセリフだ。
「じゃあ探しておくとして」
「もう予約してありますので。ご心配なさらずに」
ええ!? 泊まる気まんまんじゃないのぉ!? 柊ちゃあん!
なんて色めき立つけれど、彼女のテンションは低いままだ。
ひどい現場だった。気分を無理矢理変えるためにも明るく振る舞いたいし、それじゃあ間に合わないのも確かだ。
腕を組んで、代わり映えのしない景色を眺めながら思い返す。
何年か、あるいうは十何年か前に友人の勧めで何冊か、暇つぶしに読んだ本にあった。
怪物たちが患者の病院が。
ホラー映画の定番であり、サイコスリラー映画の定番でもある。
精神状況が肉体に影響を及ぼすというのは、あらゆる創作物で見かけるテーマだ。こう言っちゃあなんだが、フィクションにおいては、よくある話。なので、隔離世とやらも、獣憑きだの妖怪だのなんだのも、たまにニュースで耳にする厄介な暴行犯についても「ああ、あるんだなあ」くらいの感慨しかなかった。
だが、そうした人々の受け皿として機能する病院がある、という話までは聞いたことがない。
交番勤務の中に、ごくたまに見かけることがあるという。だが、獣憑きのように見た目に違いのある侍は往来の多い交番に派遣されることは滅多にないとも聞く。
マジョリティがマジョリティにとって住みやすくいるよう、安心していられるように、排除されてしまう人々――……。
怪物たちの病院も、そうだった。
あれはいったい、なんていうタイトルの小説だったか。
地下に押し込められた、なんでも食らうスライムの階。部屋に留まり、入る者をみな破壊し、食らう巨大な怪物の階。他にもいろいろあったなあ。
ただし人間性を描くより、人の欲望に着目し、脚色した病院はグロテスクだが、シンプルでもあった。そこには嘘がない。嘘を利用して人が行ない、隠す悪意がない。そういう点では、わかりやすいホラーだったような気がする。
「運転、変わらない?」
「交代はしません」
「……そっか」
運転するほうが気が紛れる。
そういう運転は好ましくないとも言うが、彼女は安全運転に徹している。
一番左の走行車線を八十キロから百キロ以内で走行中。
長距離移動のドライバーもいるであろう大きな高速道路では、追越車線を猛スピードで走る車も少なくない。百二十キロから百四十キロくらいで走行する車も見かける。そうした車を追い立てる車もいるのだから、世の中ってものは。
セダンタイプやミニバンタイプ。ご家庭で乗り回されるであろう車のほうが、多いように見えるが、一概には言えない。社名の書いてある車で追い越し車線を爆走する者もいる。深夜帯は顧客の要望でか、タクシーにも速度超過の傾向が見られる傾向がある。
そんな車もいる中、後方をまるで確認していないであろう車が八十キロや百キロで、走行車線が空いているにも関わらず、ずっと追い越し車線を走っていたら? ひやひやする場面もある。
個人的には、どっちもどっちだ。
速度超過も、車両通行帯違反も、どちらも違反行為。
むしろ車両通行帯違反を犯すドライバーが顕著に増えてきているほうが気になる。マスコミウケするのは速度超過のほうだろうが、車両通行帯違反は渋滞を誘発する印象が強い。まず車列が塞がり、ボトルネックができることが要因として考えられるのだ。
流れを留めるフタをするのは、追い越し車線の先頭で車両通行帯違反を犯しながら、後方を確認しないまま、車線を変更しないまま走る車だ。フタができて、減速していくと? その後方でどんどん車が詰まっていき、やがて途方に暮れるような渋滞ができる。
びゅんびゅん行かれても困るし、フタをされても困る。別々に考えものだ。
どちらに対しても注意喚起はなされているが、どっちが悪いのかという話にすり替わってしまいがちで、挙げ句の果てには感情的になりやすい。
正直、泣けてくる。
問題が起きたとき、それを特定の個人の性質として捉えられるときほど、末期的な状態はない。その解決に、特定の個人を祭り上げることもまた、やはり、末期的な状態であろうし。
行くも帰るもままならぬ人の、いまという限界を示す象徴のような気がしてならない。
ああ、いやだなあ。運転していないというのに。
渋谷でお世話になった年配の先輩に「気楽に、いつでも譲れるようになれりゃあ一人前よ。そうでなきゃあ、ガキだ。まだまだ、鼻を垂らしたガキな」と弄られたことを思い出した。
憂うつだ。
「侍隊が配備される、厳戒警備の山林の奥地にでも行くのかな」
気晴らしに冗談を言う。
冗談であってほしい。アーカム・アサイラムだなんて。
しかも向かう先が都内じゃなくて、わざわざ長野だろ? やだなあ。
軽井沢だったらいいんだけどな。風光明媚な避暑地。ちょうどこないだ、彼女とふたりで見たのだ。湯けむり殺人事件てきなやつを。半分寝てたけど。
「軽井沢ですよ。年中、温泉を楽しめて、冬にはウィンタースポーツも楽しめます。軽井沢警察署の侍隊がいつでも様子を見れる態勢を整えていますが、基本的には過ごしやすい場所です」
「――……もっと曰くある導入じゃなかったか?」
普通にリゾートじゃないか? それって。
「いまだに監護状態にあります。なので、せめて改善を、と。ヒルズ族の中で、病院経営もしている人がいるそうで。その人の出資とてこ入れで、だいぶマシになったそうです。それでも、監護が行なわれていることに変わりはないわけですよ」
マシになったからって解決したとは思うなよ、ということか。
「外出ができる人もいるにはいて。軽井沢といっても、もうほとんど外れですけどね。毎日散歩したりとか」
「なのに、帰れないのか」
「家族がいるとは限らず。いても受け入れるとは限らず。高齢者もいますし。教育をきちんと受けられた人ばかりじゃないですし」
「――……ああ」
そういう話になるのか。
「さっき言った出資者が他に行なっている事業で、就労支援や教育支援を行なっているそうです。高卒認定とか、放送大学での学士取得とか。かかる費用の負担を抑え、公的な支援を受けられる支援なんかも」
「至れり尽くせりまであるんじゃないか? それ」
「そこまでしても、なかなか進まないことってたくさんありますよ。病とか、治療とか、ケアとかって、そういうことでしょう?」
「……まあなあ」
「長期的に見て得られる利益は、短期的にみる損失に負けがちですし。出資者さんのてこ入れが失われた途端に挫折しそうな、危うい場所です」
まあ、たしかに。
奇特な人がいるもんだ、じゃあ済まないか。
現状、あまりにも出資しているだれかに依存している。
短期的に見て損失として無視できない費用もかかっているのだろう。
それだけに留まらないか。
世間一般じゃ、線引きがある。特に職業選択の自由についての線引きが。
年齢と経験。それが壁になる。
渋谷警察署時代に会った住む場所のない人の中に「住所がない。口座も持てない。就職先もない。そんな奴に差し伸べられる手が見つからない」と、俺を諭してくれた人がいた。実際、住居や連絡先がなきゃだめだの、口座がなきゃ家を貸せないだの。口座にせよ就職にせよ、先に戻って住居や連絡先が、となる。出口のない袋小路だ。
そこで出るのが生活保護。そして、住まいや生活の補助。
けれど、追いつめられた状態に陥ると、疾患を患っているケースも多くあると聞く。
最低限度の保障では、なかなかままならないのが、人の難しさなのだろう。
学ぶにしても、動くにしても、体力と気力がかかる。それを根こそぎ破壊されるような暴力が、人を貧困に追いやる。
それは今日行く先で過ごす人も一緒なのかもしれない。
失敗をしないこと。それこそが失敗なのだと、彼女とふたりで見たドラマで、あるおっさんが話していた。彼女とふたりで、しみじみうなずくセリフだった。
が、失敗をするにも体力と気力がいる。なにより、それをきちんと理解し、知っている環境が求められる。
ままならないものだ。
支えとなる繋がりがなければ立ち上がれないのもまた、人だもの。
そういう縁に恵まれず、追い出され、嫌われてきたら?
まずそこから、ケアを。
そうなると、ますます時間がかかりそうだ。
帰ってくるなと示された。その心理的な影響は、計り知れないものではないか。
たしかに、支援があればもうだいじょうぶだ、ということではない。
そういうことにはならない。
どこまでも、足りない。どこまでも。どこまでも。
だからといって、止まらない。止めない。止めてたまるか。そんな意地が、出資しているだれかにはあるのかもしれない。
「行儀良くしてくださいね。間違っても装備の矛先を向けないように」
「しません。誓って。そんなおっかない場所でもないんだろ?」
「だいたいは。ただ、荒ぶり怯える人も多いので。中には、その」
「……接し方次第で暴れることもある、と」
「そういうことです」
どうしたらいいのか、わからない。
ベストでない。ベターでさえない。けれど、これ以外に見つからない。
立沢はかなり接しやすい部類の少女だ。けれど、中にはほんのささやかな刺激を攻撃と認識し、暴力的になる未成年もいた。
怪我をしたとき、いやな思いをしたとき、反復しそうになる予兆を捉えて過敏に反応することがある。髭を剃るのにしくじって、唇を切ってしまったときや、なにかを食べていて頬の裏を噛んでしまったときなんかは、傷が癒えるまで敏感になる。
長期的に、精神的に、身体的に、傷を負ったり、負荷をかけられたら?
どんどん過敏になることが増える。
暴力性の高さは、場合によって、その人物が受けてきた暴力と、その期間の長さ、えぐさを思わせる。それが俺なりに渋谷に勤めていた時期に学んだことだった。
自分にとっての恥。
自分にとっての傷や痛み。
それらは場合によって「認めたくないなにか」を浮き彫りにする。
それは自分の根底を破壊する爆薬への導火線。
着火できない。すべきでない。
突貫工事で、歪であろうと柱をなんとか立てて、重ねて、やっと保っている自分が壊れてしまいかねない爆薬への導火線だ。
無視をする。考えない。
導火線を刺激するものすべてを否定する。考慮しない。
そうしたこともわりとよくある話だ。
なのだが、そうした導火線を進んで弄ろうとする人間がいる。
周囲だ。
助けよう、救ってやろう、という者ほど、導火線をいじくろうとする傾向が強い。
厄介なのは、そこに必然性を信じて疑わないことだ。相手の反応を無視する。相手にとって、どういうことか考えない。
むしろ、そうした振る舞いに、援助してやろうとする者の導火線が潜んでいるのではないかとさえ感じる。
自分が以前の職場で出会った少女たちもまた、くすぶった導火線を抱えた人々の最中にいることが多かった。そうした人々はこぞって、少女の導火線をどうにかしてやろうとする。
俺もまた、そうした人間のひとりだった。
それが如何にむごたらしい暴力であるかを思い知るような失敗を、何度もした。してしまった。
鼻筋を撫でる。
立沢くらいの少女からみたら、もはや立派なおじさんだ。
社会から見て若造でも。もう、おじさん。
なにがいやって、鼻のテカリがいまはいやだ。
「おとなしくしてるよ」
「そうしてください」
車が向かう。土産物を買い、病院へと向かう。
避暑地の外れにある病院。その実態にまつわる話を聞けば聞くほど、むしろ今日の事件にまつわる話など聞きたくなくなってきた。
そっとしておきたい。景気のいい話を持っていけたらいい。
仲良くなりにいくんじゃない。わかっちゃいるが、やるせない。
到着するまでのお楽しみだの、なんだのいっておきながら、いろいろ話してくれた彼女を横目に見る。
ただ、前だけを見ていた。
そりゃそうか。運転中だもの。
「運転、交代しない?」
「いやです。今日みたいなものを見たあなたって、ブレーキが乱暴になるから」
納得。今日の運転は無理そうだ。
なんとかして運転の機会を得るべく、交渉にかかるしかないぞ? これは。
◆
夜が近づいてくる中、ぷちたちと一緒にお宿に戻った。
晩ご飯を食べて爆睡。ノノカに百人一首の札を加工してもらって、現世のおうちに帰る。
スーツは返した。今日の使用を辿って、いろいろと分析してくれるそうだ。ぷちたちのスーツなんかは、刀鍛冶のみんながわくわくしているほどだった。
今日も今日とて、夜にカナタと話す時間は長く取れず。他のみんなとも、そう。
夜のリビングで、ノノカが作ってくれた札を並べる。
ぷちたちはみんな、私のお部屋で爆睡中。
やっぱり、日中の運動は大事だ。みんな楽しく、めいっぱい動いていたからさ? みんなのすやすやぶりときたら! 見ていて気持ちがいいくらいだ。
おかげで夜は集中できる。
ただし、私も私で一緒になってがんばったぶん、わりとねむたい。
「ふあああああ――……」
あふう、と欠伸をかみ殺して、札を眺めた。
いわゆる百人一首のお札。絵札がどれも、生々しく動いている。
たとえばね?
ちはやぶる、神代も聞かず竜田川。からくれないに水くくるとは。
在原業平の一首の絵札では、まさに竜田川に溢れんばかりの紅葉が流れる情景が映し出されていた。手元に用意したお母さんの本の解説によれば、これは屏風歌というもので、屏風に描く絵である屏風絵を主題に詠んだものだという。
流れる紅葉の隙間に煌めく川の水面が覗く。とても風流な絵だ。
動いちゃってるけど。
ほんとに流れちゃってるけど。
ま、まあ、よしとしよう。
竜田川をスマホで検索する。
整備された土手に並ぶ紅葉の樹。紅色に染まっている。その葉が落ちて、川を流れたら?
なるほど、綺麗だろうなあ。
歌川広重の浮世絵木版画にもあるそうだし? 和歌の歌枕としても人気の場所だったみたい。
だ、け、ど。在原業平の時代の竜田川と、現代の竜田川は別みたいだぞ? なんじゃそりゃ!
写真で見る限りだと、そう深くはなさそうだ。
いまだとコイやヘラブナなんかが人気あるお魚なのだとか。
ちなみに川魚、とくにばくばく食べる子なんかだと、泥をよく食べてるそうで、食べるときには泥を抜く工程が入るという。けどこれ、実はそうでもないみたい。
内臓を傷つけずに処理することが大事なんだとか。
ただ、やっぱり下水処理場の近くとか、水質の管理を全然してないようなとことかで釣るのは、あんまりなーって話でもあるみたい?
このあたりは、わからん! なぞ!
お父さんも基本的に釣りに行くときは海が多いし、わからないみたい。お母さんはおばあちゃんちのそばの川がけっこう大事にされてて、おいしくいただいていたみたいだから、参考にならず。
ううん。
わからん!
なので話を戻そう。
鯉がいるだけじゃなく、ほかにもちびっちゃい魚がいる。そこには昆虫もいるだろうし、魚や昆虫を狙う鳥も集まりそうだ。
秋はどんな情景になるだろう。
それを考えてみたとき、私が自然について、ぜんぜん知らないことに気づく。
夏はセミ。じゃあ、秋はひぐらし? ほんとにい?
トンボはどうかな。夏のような、秋のような。
稲穂が綺麗に一面にぶわっと広がる場所で飛ぶトンボ、みたいなイメージはある。
じゃあ稲刈りの季節って、いつだ?
地域や品種、そもそも植えた時期によるけど、だいたい九月から十月。早いところは八月も。
そうした自然の知識は、和歌にもしっかりと息づいている。
きっと歌を詠んだ人たちのほうが、積極的に世界の自然の息吹を眺めていたんじゃないかな?
なんてね。
いまでもきちんと眺めている人たち、いっぱいいるね。日曜日夜に見る番組に出てくる、新宿とか、横浜とかの企画に登場する先生たち、詳しいもんなあ。
お父さんも釣りで目の当たりにした自然やお魚のこと、よく話してくれるし?
岡島くんなんか、季節の食材について、せっせと足を運んでは、よく見てるという。
こうしてみるとね?
ぷちたちを通じて、もっともっと、世界の息吹に触れてみたら? と、持ちかけられているような気持ちにさえなってくるんだ。
恋を歌う和歌でも、そう。自分の心を、もっとよく触れてみてもいいんじゃない? 好きな人の心を想うのも素敵だ。洒落。ときに洒脱。ときに大荒れで、それもまた、いとをかし。
「ちょっと、なあにい?」
キッチンから出てきたお母さんが、そのままテーブルに歩みよって、リモコンを手に取る。
テレビがついた。
『――……じつ未明、東京都池袋にあるマンションで、女性と男性の遺体が見つかったとの通報があり、警察が駆けつけたところ』
夜のニュースの時間だった。
若い夫婦が殺された疑いがあるとして、捜査が行なわれるという報道だった。
「……ううん?」
お母さんが難しい顔をして、腕を組んでテレビを睨む。
マンションの遠景、警察の鑑識とおぼしき人たちの集まり。
物々しい雰囲気を映した解説が済んで、次のニュースへ。
それも過ぎて、すこし明るい内容になって。気づくと、野球やサッカーなどのスポーツのコーナーや、お天気のコーナーに。
毎日の流れ。ルーチン。その中に、悲惨な事件の知らせさえ含まれている。入らないニュースだってある。でさ。
「あれえ?」
「どしたの?」
お母さんがチャンネルをちょいちょい変えて、ニュースを渡っていく。
だけど、納得がいかないのか、しきりに首を捻っている。
「んー。仲間内から連絡があって。久しぶりの隔離世稼業をすることになるかとね、思ったんだけど」
「……どゆこと?」
「なんでもないみたい。んーっ」
伸びをして、そそくさと「お風呂はいっちゃうわ」とスリッパの足音を立てて離れていった。
なんじゃそりゃ。
テレビがつけっぱなし。どうせなら、深夜のおばかに笑える番組がいいので、チャンネルを変える。
ひどいニュースは絶えることがない。
お父さんが好きなバンドの歌の歌詞を思い出した。
新世紀のラブソングっていう歌。
悲惨なニュースでキャスター神妙、だけど明日へ。みんながみんな、そんな風にニュースにならない。どこかで紛争が起きていて、だれかが無惨な殺され方をしたり、あまりにひどい目に遭っても、ずっとずっと毎日が続いていく。世界はそのまま進んでく。
そんな歌じゃなかったっけ。あれって。
たまったもんじゃない。たまったもんじゃないけど、そんなもんだ。
それが無性にきついときがある。
今夜みたいなニュースは、特に。
自分とカナタを重ねることさえしなくなる。慣れてしまって。
いいのかな。
慣れて。
よくなくて、耐えきれなくなって、やがて泣くときがきて。
それを恵みの雨と呼ぶ。そんな歌だった。
変えるきっかけ、気づくラインの最初。あるいはほんとにもう、最後の最後の一線なのかな。
涙は。
短歌にあるかな。
涙の和歌。
すぐには思い浮かばなくて、私はカナタに通話を飛ばした。
答えは得られなかったよ?
だけど、声を聞けたからさ。
すごく穏やかな気持ちで、ぷちたちと一緒に眠ることができたんだ。
つづく!




