第千七百十五話
眉間を指でほぐす。
首相官邸での閣議は難航していた。
予定調和、調整の取れた話が提示され、そのまま決定し続けていく。
政権交代を一度は許すも無事に奪還。長期政権となるが、いずれ起きる交代も視野に入る段階。
元号が変わる。五輪も目指す。復興も。
加えて来たる七月。天候次第では対応の協議が必要不可欠となる。
報道されるトピックスは多い。
アメリカの政権による混乱に、天皇陛下の退位。北のミサイル問題、中国の海洋侵出著しく、韓国政権の情勢も気になるところ。共謀罪の成立。年末に想定している衆院選の行方に、学校法人の国有地格安売却にまつわる数多くの疑惑。米国のエルサレムへの領事館設置、テロ組織の存在。海外災害地への自衛隊の派遣など、など。
朝鮮半島情勢は余談を許さず、米政権の強硬さが目立つ動きによる多数の余波もまた断じて無視できないもの。
話を済ませて、次へ。そして、次へ。そのまた、次へ。
役割を並べてみせると、どうなるか。
内閣、つまりは各省庁の大臣たちの長として、閣議を行い、国の方針を決める。
政府与党の長として、選出された。日本の長として、讃えるべきを讃える。
任期は本来、ない。衆議院議員の任期は四年。任期満了をもって、退任する。だが選挙の後、再び選ばれたのなら、再び総理大臣として職務に全うすることとなる。一方、政党総裁の任期とリンクしている。自分の属する民自党総裁の任期は、一期三年、連続三期の九年までである。これは民自党の党則によって規定されており、これを変更するなら党内の派閥を統制しなければならない。
一枚岩などでは断じてない。存在する派閥を統制し、掌握することで長期政権の実現を。そんな夢を見た時期もかつてはあったのだが、気持ち的には「めんどくさー」と白けている。
面倒な手段を省き、人心を掌握する術を得る手立てがあると紹介されたのは、いつのことだったか。参拝も、訪問も含め、その一切合切の面倒を省く。新聞、テレビの泣き所を掴み、行きすぎない程度のいわば後退的な統制。なにかをし、なにかを強いる政府ではなく、なにかをせず、なにかをさせる政府へ。
オカルトと斜めに見ていた隔離世を見た。海自に新たな装備を獲得させるに至った。魔術師と名乗る男を通じて、胡散臭い薬を利用して、派閥の厄介なご老人たちを操るまでに至った。政財界に蔓延させることが叶えば――……などと野心を抱く者もいるにはいたが、彼らもまた薬を飲ませてしまえば、それで終わりだ。
みな、働いている。欲も願いもありながら。
自分が職務を通じて接するメンバーにまでは、薬を飲ませていない。
自分もまた、そうだ。
飲んでいないし、働いている。
だが、空虚だ。
自宅のテレビで見る米大統領の舌鋒を見ていると、恨めしささえ感じる。なにかをひどく敵視し、己の求める掌握にまい進する。
そこへくると自分はどうだ。血縁に華がある。ほどよく言うことを聞き、ほどよく言うことを流す。なぜか不和をなだめることができた。老人たちを相手にしたら。これ以外に職もあるまいと受け入れ、気がついたら自分もまた老人たちの仲間入り。
ゴルフは趣味じゃない。英語や外国語の練習は十分にできず、海外への移動は常に憂うつを伴う。酒も煙草も。
もし喜劇のように持ち込むのなら、いっそ疑惑について国会で否定するときのように「記憶にございません」と宣言してみるか?
まさか。
自分の好きな映画監督なら、きっと素敵な映画を作ってくれるにちがいない。だが監督、脚本、主演が自分ではだめだ。世間に叩かれるのがオチだ。目に見えている。
若い世代には通じないが、自分はテレビが好きだ。映画も。
けれど職業選択の自由はなかった。
父の元に生まれたこどもの中で、最も才覚があると勝手に決めつけられた時点で失われた。
自分が選んで成るのではなく、成れ、やれと求められ続けるもの。
そして同時に成るな、やめろと願われ続けるもの。
限界を感じている。
それでも気軽にやめられないのが、この仕事だ。
肯定するものも、否定するものも、だれも自分を見ないもの。それもまた、この仕事だ。
いっそ、ゴジラでも出てくれればいいのに。
器じゃないと腹の底に淀みをため込む者たちの討論が区切りを迎えるまで、もうしばし。
隔離世。ああいう場所があるのなら、いっそ明白に敵を作り出せないか。
必死であると同時に、白々しい。
現場はここになく、なのに現場よりも緊迫を求める人々がいて、そう見せる必要性がある瞬間もまた存在していて、気を抜く輩が被災地などに赴くと間抜けを露呈する。
するべきことをしている者がいるとして、それが政治的な思惑によるものか、はたまた観客が主演に願い求めるような職務を全うするための思惑によるものか、異なる。表面的に一致している内は看過できても、実を伴わない前者のまま対応していては、さびついていく。
映画に見る組織と自分たちの組織に、どれほど乖離があるだろう。
やっぱり怪獣が必要だ。
人でも組織でも国家でもなく、怪獣が。
人と比較できる敵がいてくれたら? この限界に挑む気力も沸くのだが。
魔術師は逃げた。裏切った。一度はその気になったはずが、だめだ。日本国民としての尊厳が足りない。海外で投資に精を出すような胡散臭い男では、やはり足りない。
吸血鬼とやらも、学生たちも、真面目で真っ当すぎる。あまりに普通に過ごしすぎている。
東京湾の一件はよかった。
ああいった事態が立て続けに起きてしまえば?
もうすこし、世の中が面白くなると思わないか?
必死さが生まれる。必要なことが明白になる。やってやろうという気持ちの持っていく先も変わる。世界には、戦が必要だ。人の動きには、衝動を喚起する起爆剤が常に必要だ。
でなければ、だれる。
持つ者が独占を狙い、動ける者が貪欲に求め、そうでない者が追い出されて、そうした不満はどこへ? ああ、いやだ。だれてだれて、どうなる?
あいつがわるい。こいつがわるい。あいつらに問題がある、こいつらはどうなんだ。
いくつになっても言い方を変え、角度を変え、影響範囲を変えながら、延々とそういう話の繰り返し。
やだなあ。だれにも言えないけど。
掌握できる範囲が広がるほどに反発もまた増えていき、求められるものも増えていって、退屈さが増していく。で? だから? なに? どうなるの? 変わらないでしょ。なにかがすこしばかり長引く程度で。どんな集まりも、どんな瞬間も。
自分に会えて喜ぶ子がいるか? そういう時代じゃないでしょうよ。
次期総理を虎視眈々と狙い、実際に周囲も意識している官房長官の横顔を黙ったまま一瞥する。彼は人づてに魔術師を紹介してきた。薬についての手配も、官僚たちに対する人事の案も、メディア対策も、ぬかりなく。どんな大望を思い描いていることか。
成ったら多分、日々に忙殺されて頭が追いつかない毎日が訪れるのだろう。だが、そうではない。なにせ年齢のハードルからして、大望は育つ。執着が増す。背景次第で、より強固になる。
名前が残ろうと。
で?
なんて、口が裂けても言えない。
いずれ退くまで全うするか。はたまた、拡大を狙い、さらに手を打ち続けるか。その場合、なにをどう目指すか。
怪獣は問題あるよなあ。
人が死んじゃうもの。
そういう時代に名をあげて残したところで、なあ?
いやだもの。
「――……」
「――……」
「――……」
おじさんだらけの会議。
民自党。国内最大派閥と見せかけて、なにかと曰くあり。
霞ヶ関の伏魔殿。女性議員は飾り。男の話に彼女たちは発言してはならず、邪魔は許されず。
名ばかりの総裁。バランス感を最優先にすると、我を通す形では動けるはずもなく。そうした性質の環境でもない。
それゆえに乖離していく。どこまでも、どこまでも。
集団によって運営されるとき、受け入れられる変化は歓迎されるもののみ。それはときに自分であり、ときに別のだれかであり、集団における仕組みの維持である。特定の個が集団に強い影響力を持つのは困る。あくまでも特定の集団が、というところが要。
なので自分に彼らが変えられるかという話になる。自分の属する派閥だけで大臣たちを選ばない。それはそれで、政治が先に出るから本末転倒な人事と言わざるを得ない。が、そうした形で続けてきたのだ。自分がちがうことをしたとして、好ましい着地点には辿りつかない。つけるはずもない。
そんなことを考えながら、中年の顔ぶれを見渡していて気づいた。
あ。財務大臣、鼻毛が出てる。話すたびにふよふよとそよいでいる。優雅にゆらゆらと。
みんないい年こいたおじさんたちなので、人によっては体型や顔色に健康事情がにじむ。血圧が高いとか、酒の飲み過ぎで肝臓が悪いとか。ぎらついている人間の中には愛妾を囲っていたりとか。そうじゃなくて、単なるゴルフばかとか。おぼっちゃん育ちだらけ。
そんな中で、鼻毛がそよそよ。
気になる。
引っこ抜きたいくらいに気になる。気になって気になって仕方ない。
「んんっ」
咳払いをしながら、鼻の下を指先で撫でる。
空しい足掻きが届くはずもなく、彼はより一層、鼻息を荒くして語る。
おかげで鼻毛がそよぐのだから、たまったものではない!
自分はだいじょうぶ。問題ない。ここ十年、いや何十年か、まともに会話できていない妻に指摘してもらっているからではない。話してもらえないのに、顔を見てもらえるはずもない。なら、年齢をろくに思い出せず、好きなものや趣味さえ知らない息子ならどうか。これももちろん、あり得ない。ただ、業務上、なにかと世話をしてくれる人が複数人いるから、彼らの指摘が入るので、だいじょうぶなだけ。
隔離世を知って、妖怪たちや神々がいて、それらが自分の知るような振る舞いをする性質のものではないと知って尚、憧れる。別人になれたり、こども心に夢見た作品の主人公のようになれたりしないか。
無理かな。できたら楽しそうだ。
人の毒気という沼から抜けだして、ちがう人生を歩めたら――……なんて。
年が年だけに、人生をふり返って憂うつに浸っているのか。
いやいや。
居丈高な男の鼻毛がそよぐ。吹きだすのを堪えるので必死だ。
テーマは重要。切り出すタイミングもある。トピックスが多すぎて、すべての把握は困難どころではない。有望で有能な者たちがついていて、初めて回ることも多い。多すぎる。それでも足りない。そのために特化して組み込まれているわけでもない。
停滞。
だから魔術師と語れたときに、盛りあがった。
悪役はいるよ。結局のところ、文明の進化に対して、人はむしろ息切れしてきている。休み方も、走り方も学び直す意味でも、悪役はいる。
それは怪獣のような、圧倒的な個か。それか、途方に暮れてしまうほど膨大な集団がいい。
明らかに人と異なる集団が望ましい。
なんて、一度も書いてみたことのない筋書きを妄想してみせたところで意味はない。
「さて」
諦めて口を開く。
分刻みでスケジュールが詰まっている。
自分に与えられた役割が求められているからか。それとも、みなが消化するために自分がいるのか。学生時代の悩みを中年期になっても消すことができないまま、旗を振る。
立場を求め、それによって得られるなにかを求める程度じゃ、もはや足りない。
どうせ願うのなら、大きな変革を。
しかし変革をなし得るようにはできていない。
また、態勢とはそうあるべきだと思えるから厄介だ。
時代錯誤が顔を覗かせる場面が時折、噴き出てはバッシングを食らう。
正すべきだと声があがる。現在の米国や、政権発足にあたり深刻なトラブルを抱えた途上国ほど活発ではなく、静かに。互いに陰湿に、ゆるやかに推移していく。
かくして、重大なトピックスの内容だけが変わる毎日を消化していく。
必要だとして行なわれることも、種としてみれば、複数の種から陰謀論めいたフィクションを描けるだろうが、現状ではそこまでの悪党もまた、ここにはいない。強いて言えば、職と環境にまつわる政治闘争に留まる。それは理想を夢見る者たちにとっては悲劇だろうが、現実だ。
いっそ、怪獣でもいてくれればいいのに。
老いた人たち。過去に縋る者たち。権力、称号、栄光。
それらを斜に構えて、意気昂揚と「国を変える」と息巻く者も、当選すれば途端に周囲の人間を「国民のみなさま」と呼び変える。
怪獣でなければ、あるいはせめて、こども時代に見た古めかしいアニメの愉快な悪党たちがいてくれたら。
ショッカーでもドロンジョ一味でも、なんでもいい。
妖怪のせい、みたいなのが何年か前に流行ったろう? だったらこう、世を乱す妖怪たちが出てきてもいいのでは?
それか、宇宙人でもいいな。
共通の敵を利用し、自分たちの利益を得るのだ。
みんなで幸せになるべく、みんなとはちがう敵を利用する。
この場にいる者さえ、それを自国で共に住むだれかを選ぶことがある。
そういうんじゃあ、ないよ。
だめだ。
そういうんじゃあさあ。
いい死に方ができないでしょうが。
なのに残念ながら、現行でできること、すべきこと、すべきでないことにはなにかと制限がかかる。うまくいかない。
ちょおっと悪いことをすると、なぜだかそれは漏れて明るみに出るものだ。
なので、そこを振りきって活動する連中は出てこないのか。
もちろん欧州でテロリズムに訴えている連中のような奴らのような、現実に暴力に訴えでる輩はいけない。
そうではない。そうではなく、もっとこう――……。
「総理。次のご予定が」
「ああ、うん」
呼びかけられて、席を立つ。
それからゴルフ狂いで日焼けした男を顎で示し、耳打ちをしておく。
「彼、鼻毛でてるよ」
「え」
「ほら。鼻毛だよ。鼻に生える毛。それがびよんと出てる」
「――……は、ああ! はい。そっと伝えておきます」
「鼻毛切り用のハサミじゃないと、彼、切れないから。秘書にお願いして、早めに渡してあげて」
「は。ただちに」
やれやれ。
ウィザードには期待していたのに。
せめて、鼻毛をびよんと伸ばす魔法くらいは教えてほしかったな。
あとは何年くらい昔かにテレビのコントで見た、素直な総理みたいに言っても済んじゃう魔法とか。
たとえばいま、ひとつ言ってみたいことがあるな?
東京湾の一件では逃しちゃったからね。
国民のみなさん、怪獣が出ていますが、ご安心ください! って。言ってみたかったな! 孫に自慢できると思うんだよなあ! 息子が会わせてくれるとは思えないけど!
「総理?」
「はい、はい」
いかにも妻と不倫していそうな二枚目に急かされて、しぶしぶ歩きだす。
横綱に「感動した」って言いたいし、五輪まで粘って特等席で拍手したい。
サミットで首脳陣と写真を撮りたいし、あまねく国賓と握手したい。
それがいまや、どうだ。
あいつ? 悪いよねーと雑に済まされる象徴になっている。猛烈に好かれている層も、きらっている層も、どちらからも距離を置きたい。ほどほどでいいのだけど、そういう立場ではない。承知してはいるのだが、うれしくはないよなあ。やることなすことあれこれ言われちゃうんだもの。
前にそれとなく愚痴ったら「こいつまじか」ってイケメンに引かれた。
おじさん、ショック。
そんなのだれにも言えずに、仕事を続けるしかない。
真っ白でなれる立場でもなし。真っ黒でいられる立場でもなし。
自分がなれなくてもいい。ヒーローがいて、応援する立場に収まれたら? いろいろやりようが出てくるのだろうけど、いまの自分ではせいぜい嫌われ役の憎まれ役がいいところ。
おじさん、やだなあ。
◆
テレビに新聞。ネットの報道中継。
いずれにせよ、国の絡むテーマで彼の姿を見ない日は、まあない。
「リンタロウ。逆側むいて」
「テレビみてるんだよう。もうちょっと」
「まったく」
自宅にて、愛しい彼女の膝枕でテレビを眺める。
耳かきをしてもらいながら。うん。ぜいたく!
「総理も官房長官も、いまいちな顔してない?」
「そりゃあ、だって、おじさんだもの」
「おじさんでも二枚目の役者はいるだろ?」
「政治家で出世するおじさんは、くたびれてるか、ぎらついてる中年でしょ?」
顔を近づけて、耳かきのへらの部分で穴の中を撫でてくる。
こそばゆくてたまらない。彼女の膝の柔らかさと、そのぬくもりもまた実にヨシ。
「官房長官なんか、なる人だいたいニヤケ面がいやらしい人が多いし。きらい。むり」
「さすがに偏見じゃない?」
「興味ないし偏見でけっこう。おじさんの話、まだ続ける?」
耳の穴の入り口付近をかりかりとくすぐりながら、呆れた声をだしてくる。
たまらない! もっとやって! と思うのだけど、そろそろ無理そうだ。
「チャンネル変えていいよ」
「ニュースなんかよく見れるよね、リンタロウは。最低でもチャンネルは民放でしょ」
それもよくわからないけど。
反対を向いてと強請られて、彼女の下腹部に顔の正面を向けた。
その間に彼女がチャンネルを変える。すこし無音の間ができて、遅れて聞き慣れたイントロが聞こえた。ネットの配信サービスに切りかえて、好きな番組を見るというのだ。
民放ですらないと突っ込むのは野暮かもしれない。
英語音声の字幕なしで、海外ドラマの続きを見る。黒輪廻にいた彼女は海外暮らしのほうが長い。日本のドラマもバラエティも、そもそも知らないのだ。もったいない。
まあ、いいや。
「いやあ。クライアントの顔を久しぶりに確認しようとね」
「だれか教えてくれる気になった?」
「総理だって言ったじゃん」
「また冗談いって。やめてよ」
冗談じゃないんだけど、笑われる。
緋迎シュウを相手にも仕掛けてみたけど、やっぱり軽く流された。
いかにもすぎると言われた。現職の総理はなにかと問題を起こしている。
そのわりに新聞各社の行なう調査じゃ、支持率はそこまで下がらない。
それに対して、そもそも世論調査の仕方と、その対象に問題があるのではという意見があがる。
さておき問題は他にもぼこぼこと出てくる。
日本の歴代総理の中でも在職期間が延びているがゆえの影響か。
いずれにせよ、求められていない。
話したかぎりじゃ、愉快でゆるさもあって、同時に怖さもある人物だったけど。
そこまで語れるくらい相手にしてもらえることが、まずない。彼女にさえ、流される。
「もういい。それより手を切ったんじゃなかった?」
「切ったよ。仲介者が胡散臭いから」
こちらは、こわいこわい人だ。総理と繋げてきたパイプ役は、出会うまでに段階をいくつも踏んだ。けど、青年誌のおっかない悪党みたいなタイプでなし。おじさん同士で連帯して回せる手がおっかない程度。
それならまだ吸血鬼たちのほうが、恐ろしい。自分には、だが。
現世の揉めごとに巻き込まれるのはごめんだ。
名前をつけられずにいた焦燥感も、別次元というわけのわからない要素と共に失われた。
警察の窓口として、緋迎シュウとも話がついた。
我が世の春が来た!
そのために手も回してある。おかげでいま、愛しい彼女の膝枕で、彼女のお腹に顔を近づけて、耳かきをしてもらえている。
もうこれ、勝ちでいいでしょ。
実際、焦燥感のケリがついて、マドカたちと過ごせるよう日々を構築できるようになる前の記憶は曖昧で、おぼろげだ。
悪役になるなんて、いまさらその気になれない。
仕事をして、さらに富を増やし、愛しい彼女とたっぷりいちゃつき、久しぶりの青春を満喫するのに飽きたら? こどもを作って、家族になって、クルーザーで世界を一周するか、自家用の飛行機で世界を旅するくらいがいい。
それか、マドカから聞いたことを踏まえて、新しい商売でもするとか?
「だったらいっそ、魔術師界のトニー・スタークを目指してみるほうが楽しそうだな?」
「黄金の鷲、怪盗スーツとバイク。触発されたわけだ?」
「マドカに好かれたいし。稼ぎになりそうじゃない? エネルギー業界に殴り込み」
「認可が下りるとは思えないけど」
「そこはうまくやるさ」
国内だと住良木が足踏みしている状態だ。
踏みこむなら、いまだろう。幸い、ノウハウならある。
もっとも綺麗に“洗浄”しないと始められないことも多いけど。そういうことも得意だ。
ふたりの青年も未だに病院で起きていないというし?
直接は無理だが、そろそろ起こしてあげないとかわいそうかな。彼らの犯した罪をさらにセットでお披露目する形で解放してあげよう。
清算していかないと。
兵器産業と女遊びで派手にやらかしつづけるも、スーツの獲得にまつわるできごとを契機にした彼に倣って。
他にもやりたいことがある。
シオリと和解して、彼女のゲーム会社に出資するのもよさそうだ。なにせ先行投資で求められる金額が増大し続けている昨今だから。自分の若い頃といえば、ゲームはビジュアルよりプレイ感やシステム重視だったのに、いまじゃビジュアルが伴わなきゃがっかりするというのだから、変わってしまうものだなあ。
そこまで考えて、ふと思い出す。
「僕の愛しいペッパーポッツ。キミの師匠はどこでなにをしてるのかな?」
「元教授を引き連れて、西に遠征に行っている。星蘭高校で厄介事が起きているからって」
「なるほど」
呼び方は軽く無視と。
「いいね。西は。敵がいて」
元クライアントなら、何度もうなずくことだろう。
マドカから伝え聞くに、青澄春灯は対象を見失ってきている。
社会なんてものを相手にしたら? 革命家になるか、夢想家になるか、挫折して引きこもりになるのがせいぜいだろう。
折り合いをつけて、職務の範囲内でできることをする。
結局のところ、大勢が落ちつくところが着地点になる。
いやがるだろうなあ? わかるよ。
思春期に同じ過程を経たからなんて彼女に言ったら、いやな顔をするんだろうなあ。
笑える。
下積みすればいいのにね? 今日も東京では事件が起きているというのに。
「敵といえば緋迎シュウから、連絡が来てなかった?」
冷たく細い指先で耳朶を撫でて、穴の先を眺める彼女が問いかけてくる。
なるべくせずに済ませたい話題だった。
「だるま販売人と、芸術家気取りの犯罪者の情報提供について来ていたね」
「だるま販売人に、犯罪者? なあに、どういうこと?」
「んー」
どちらも報道に詳細が流れていない。
士道誠心の高校生たちはまだ知らない。
知らせるわけにもいくまい。十八才未満には刺激が強すぎる。
それゆえに研究員の彼に行なわれた事情聴取の内訳も、彼らが知る機会はない。
かも。しれない。
ひとり、浮かんでしまう。
聞きつけて活動しそうな学生が、ただひとりだけ。
マドカでも、青澄春灯でもなく、ふたりの後輩にひとり、可能性のある子がいる。
だとしても。
「噂しか知らないから、なんともいえないな。それに気分が悪くなる話さ。それより、耳かき。ね?」
「リンタロウが終わったら、私だからね?」
「もちろんですとも!」
できることはない。緋迎シュウたちも動いているのだ。
過去にいろいろやらかした男が関わることもないだろう。
巻き込まれない限りは。
そして、そんなことにはなるまい!
◆
曰くのある話というのは、人気がある。
学校の七不思議。都市伝説。陰謀論。
事象に対して解釈を与えるという、視点の遊びだ。
それはときに偏見の持ち方となり、遊びが生活に取って代わることさえあるほど魅力的。
有能な者が悪辣たる目的を持って権力を振りかざすという陰謀論も、実態を暴いてみると?
妄想とは打って変わって、能力なき者たちが始末をつけるついでに利益を得ていた仕組みに、とうとう破綻が生じ、解決能力を超えて歪さが明るみに出ただけ、なんてこともある。
そうした実例を知るほど、経験則として、ある偏見が強化される。
映画やドラマほど、計算された状態って、現実には滅多にない。考えすぎだ。
事実は小説よりも奇なり。虚構よりも実際に起きることのほうが、計算が及ばず、人智によって制御されているわけではないがゆえに、ときにすごく不思議である。
それが人気のある七不思議や都市伝説、陰謀論に真実みをもたせることもあるし? いっそ的を射ることもある。
そうして、ときに人が偏見に求める欲は過剰さを増す。
立沢理華は宝島ではなく、現世にいた。
瑠衣たちに声をかけるでなく。
フォローしているグループから、ある情報がもたらされた。それだけなら、予定を優先する。
行動した理由は、とある人物から「一度、顔を見せて」と誘われたから。
昔なじみの女性だ。ある事件で知りあった人。
ちょうど最近、妊娠を理由に結婚して、すべてが理想的とはいかないまでも新生活に移ったばかり。彼女の住む場所へと来た。
池袋と新宿の間にあるマンションだ。江戸川区近くのマンションを選び、夏の花火大会を間近に見たいと言っていた彼女の頭が、彼女の首から先にない。
切り取られていた。
そもそもからして、異様だった。
扉はわずかに開いていた。
開けてすぐに、赤ん坊が這っていた。
ひとりじゃない。
玄関にひとり。あがってひとり。一歩すすんで、またひとり。
みな、動かない。青白い肌をして、呼吸をしない。作り物かと期待したけれど、違った。かつて生きていたであろう死した赤ん坊たちから、ひどい匂いがする。
廊下を辿って、突き当たりの扉を開けたのだ。呼吸を忘れるような光景が広がっていた。
どれほど立ちつくしていたか知れない。
「――……」
嘔吐するのが正常な反応であると、意識して考えた。
けれどマヒしていた。ハンカチで口元を覆いながら、不謹慎だと承知しながらも進む。
部屋中に赤ん坊の骸が並べられていた。
おびただしい数の赤子の亡骸たちは、ただ一点を見ていた。
衣服を剥ぎ取られて、椅子に座った頭のない女の亡骸に。
左右に開かれていた足の付け根を見ていたのだ。
亡骸となった彼女の両手は掲げられていて、そこに彼女の頭がおかれていた。
頭はけれど、女の背にある壁へと向けられている。
男がいた。椅子の後ろに柱が立てられて、両手のひらを釘で打ちつけられている。
赤ん坊たちを踏まず、蹴らないように気をつけながら回り込んで確かめてみる。
男の陰茎を、女が咥えていた。それだけではない。
女の前に立つ男の頭蓋がなくなっていた。
脳がない。代わりに、数えきれない、肉の玉が積み上げられている。
『理華、直ちに出よう。留まるべきではない。そうだろう?』
外に出て。ああ。外に逃げて、通報を。
わかっているのに、それでも観察を続ける。
男を吊るす柱のそばにキャンバスが置かれていた。
褐色の塗料で描かれていた。この部屋と、まったく同じ光景が。
触れるわけにはいかない。これは証拠品となる。
これ以上、現場を荒らすべきではない。わかっている。なのに喉元にせり上がってくる気持ち悪さを必死になだめながら、近づき、目で見て確かめずにいられない。
キャンバスに署名が記されていた。
『理華』
指輪が訴えてくる。
けれど、私の目は署名に吸い寄せられたまま、動かせなかった。
アルファベットのAに、プラス記号がふたつ。
腐臭漂う部屋を作りだした者の痕跡に違いなかった。
つづく!




