第千七百七話
世の中、なかなか激しい。
思考停止気味で、負荷は止まることを知らずに押し寄せ続けていて、打てる手もなくじり貧に陥っているのに抑圧は増すばかりだと?
易しい手段を選ぶ。というより、他に選びようがなくなる。
だから、そういうときほど狙われる。
余裕があるなら防げるとして、なら、余裕がなかったら? ひとくくりに見て取れる属性を見つけたら? 狙う人がいる。オレオレ詐欺なんかも、そのひとつじゃない?
優しい顔をして、優しい態度で近づいてくる。おびき寄せるべく共感を示し、自分はよき理解者なのだと示す。信頼を勝ち取ったら? あとは詐欺商材を売りつけるかネズミ講に引き込むのだろう。
じゃあツボとか絵とかお水とか、なんたら菌とか一生お金が儲かる本とかじゃなかったら? もうだいじょうぶ? そんなの売りつけないよ~って言われたら、おっけー?
まさか。
スーパーに出かけたとき。ぷちたちのことがニュースに出たあと、ちょっとした出先でのこと。どちらの機会でも、それとなぁく声を掛けてきた。たくさんのお子さんがいて大変ねえ? って。ちゃんとお勉強なさってるぅ? って。
世の中にはどうやら、親として教育を受けるべし、なんて考えている集団がいるそうだ。
親の立場で欲しい知識はある。学びもある。
けど待って? もっともらしい需要と供給だから、無警戒で飛びつかないで、調べてみよう。
小楠ちゃん先輩が隔離世の四校の実態把握のために日本を巡ったとき、訪問中の総理と会う機会があったそう。彼のいる政党の支持団体や、政党関係者のみ入れるパーティーで行なわれる歪んだ時代錯誤な主張と価値観の後進ぶり、えげつない。そのあたりは、よく聞く話。
そのうちの主要派閥の中で頭角を現している人の中に、ちょうどその集団と深い繋がりを持つ人がいるという。
伝統的家族学。時代錯誤でとんちんかんで、自分たち政党に都合のいいように家族像を作りあげ、それを広めようというのだ。科学じゃない。論文を査読して、実に即した内容を、だなんて流れはない。サプリやお水の商売をする人たちと同じく、でっちあげばかり。
そして彼らによれば日本古来より伝統的に継続され、また継続されるべき家族制度とは?
亭主関白。女は主張せず、こどもを産み、育て、亭主に従う。家族のすべての問題を解決し、問題が起きたときには女の責任とする。そのため亭主の言うことは? ぜったい!
こどももそうだ。男児は亭主になり、女児は女になって、従う。知識はいらない。学びもいらない。必要なのは、彼らの提唱する振る舞いをすること。学びがいるというけれど、それがだれかにとって都合よく作られた、意味も実もなにもないでっちあげじゃあ? まるで意味がない。
そう。意味なんてない。
強いていえば、独裁者たちが自分に都合のいい人物像を求めるときにするような類いのもの。
だとしたら、もはやカルトだ。
けれど、小楠ちゃん先輩が出会い、思い出したくない記憶として扱っている総理との出会いと繋がる話でもあるから? 要注意っ!
なにせ、彼の派閥なんだ。深い繋がりを持っている人は。
ヒトラー、スターリン。フセインに? 北朝鮮に。目立つところを思い浮かべると、そのあたりに行き着くけれど。たとえばヒトラーが頭角を現す前に系統した優生学は、当時のアメリカでも、日本でも、注目を集めた。
今日では否定されている。似非科学、疑似科学、うそっぱち、でっちあげ、誤り。
マタイによる福音書第七章。人をさばくな、ではじまるもの。十五節から流れていく内容に目を向ける。その内容を評価するのでも、肯定するのでも否定するのでもなく、引用をする。
いわく。
『そのように、すべてよい木はよい実をむすび、わるい木はわるい実をむすぶ』
『よい木がわるい実をならせることはないし、わるい木がよい実をならせることはできない』
十七節と十八節だ。
これをそのまま単純かつ強引に、人の生まれと資質に結びつけ、あまりに易しく考えず学ぶこともせずに、人のいまと生まれだけで判断しようとしたら、どうなるの?
たとえばさー。
トモが大好きな刀を持つ武将がいちど、雷に打たれたそうだ。それをモチーフに借りよう。
雷が落ちた夜に生まれたこどもは、素晴らしい人である。そのこどもは傑物となり、雷に打たれても無事に育つ強靱な肉体と、揺らがぬ心の持ち主となろう。こどもが男であれば、抱く相手が彼に見合う素晴らしさを持つ限り、必ず孕み、強き資質を継承する。女であれば、これもまた精を注ぐ男が素晴らしくない限り子を宿すことはなく、必然、産み落とす子はみな素晴らしい人物となるし、多産であろう。
こんなことにはならないじゃん。
まず。さ。
けれど、いまの例えのようなことを信じている人がいる。
ヒトラーでいえば、それは人種だ。血族を重視するのであれば? それは血であり、家だ。
暴君として君臨したいとき、一代で終わっては意味がない。何代も続く限り、自分の価値もまた下がることはないのだ。神秘性も、権威も、歴史としての価値も。受け継がれる限り、華々しい伝説として残りつづける。それこそまさに、君臨だ。
権力がいる。金もいる。大勢が従う状況がいる。だから力もいるし、自分を恐れ、自分を信じ、従う者がいる。時折、大勢の人間を怖がらせるため、適度に処罰できる人間も必要だ。
そのためには、知識と真理の探究も、知らないことに気づける力も姿勢も、間違っていると思ったときには行動することも、負荷が生じたら楽しく楽にできるように修正する能力も、ぜんぶぜんぶ必要ない。みんながそんな力を持っていたら? 暴君としての地位が危うい。
競争させ、自分はそれを管理する。この構造を獲得し、強固に維持しなければならない。
そのためには? 弱らせ、思考停止させ、易しい手段ばかり選ばせなければ。
飢えさせるのも、暴力を振るうのも、一手。
疑問を抱くことはいけないのだと教え、そこからはみ出す挑戦者を笑わせなければならない。徹底的に、価値を損ねなければ。
その状態に至るには、多くの段階が求められる。
優越感をくすぐり、敵を攻撃させる。その行動を忌避し、声をあげる者たちもまた、敵にする。あるいは彼らの声をあげる抵抗を、愚かな攻撃だと示し、煽動する。
過ちを作り、見つけ、気づかせ、攻撃させる。断じて改めさせない。罪は、さらなる暴力によって清算されなければならないという信仰を抱いた敬虔な信者にするのだ。
それは、いきなり日常的でない立場の人間が行なうのでは? 浸透しにくい。
まず、家庭からだ。教育の現場を狙うのだ。
魅力的なエサを用意しよう。悪いとなじれる存在。やればいいと思考停止できて易しい道筋を。エサとして用意した理想の現実的な達成や、科学的なアプローチと真理の探究など、どうでもいい。必要なのは暴君、あるいは暴力的な集団と、それに従う人々という構図を作りあげることなのだから。
そのための達成法のひとつとして、優生学というただの妄想は広く伝播し、特に自らを優れていると信じたい人々に歓迎されたそうだ。その流れに、日本は決して無関係ではない。断じて、無関係などではない。
ただの妄想に基づいて、説明もなければ同意を得ることもなく、大勢の人々を相手に不妊手術を行なった。堕胎手術もだ。すべてが強制的に行なわれた。正しいことだとして。その中には、ニナ先生や私みたいに御霊を得て獣憑きになった人も含まれるという。
怖くて正直まだ、ちゃんと調べてない。
けれど優生学の影響を想起する類いの考えはいまも浸透している。
すげえ人とすげえ人がこどもを授かったら? すげえ人が生まれるにちがいない! とか。あんな素敵な人がどうして、あんなのと結婚して幸せなんだ。おかしい! とか。どうして親がすごいのに、あの子はあんななんだ? とか。
当時よりはツッコミ入れる人も多い気はする。親がすごい家庭の子が残念になったとしても、そう驚くことじゃないとするフィクションも多いし。
それでも親がすごいのなら、親にみるすごさをなにかしらの形でこどもに求める向きもある。
言っちゃなんだけど、関係ない。
親と子は、それぞれ別の人間だ。
なので、そもそも比較しないし、しても意味がない。
仮に影響を想定するのなら、ただただこどもがすくすく育てる環境にあって、親は私生活に問題がなく、家庭が円満か~みたいな環境に対する内容だ。それも正直、だいぶ眉唾。現実に、そんな影響を見て取った大勢が、ろくになにもできないんじゃないかなあ。
こどもが荒れたとき、そこにどれだけの問いがあって、どれだけの答えに繋がっているかなんて、なにも学ばずにいては気づきようもないんじゃない?
本人にとってどう進めればいいのか考えるとき、部外者はどうするのかはわからないし、わからないのになにか強く刺激するなんて怖くて仕方ないし? 頼るなら専門家だろうし。それはどのような前提がなければ信頼性が担保できるのか、ちゃんと調べたいし? 専門家なら、どんな相手だろうとばっちり! なんて形で済まなくて、セカンドオピニオンを取るようになったし。
じゃあこれが安易で易しい手段なのかっていったら、どう?
そんなことはないでしょ。
技術や知識に信頼がおけて、きちんと対話を重ねられて、治療できたとして。非常に円滑に進行して改善していけたとしても、そこにかかる労力と、そのとき必要なあらゆる知識や技術の土台ってさ。膨大な蓄積のうえに成り立つものだ。
似非・疑似科学はその蓄積を攻撃し、破壊しようとする。
私たちの日常に味方かモブの顔をして、浸透してくるんだ。
あるいはすでに広がっているかも?
防ぐためにも、きちんと学びつづけたい。
そのためには学びをしんどくてつらいことにしちゃいけないんだ。
それで済ませちゃいけない。
だって、つらいといやでしょ?
いやなことは、つづけられないからね!
仕組みを整備するの。
人のせいに留めず、だれかのせいに留めず、学び続けられるほうへ。その先へ。
合う合わないもあるだろうし?
すべての分野に手を伸ばすにはもう知識は膨大になりすぎている。
なのに、それでも足りない。
まだまだちっとも足りないんだ。
アポロ十一号は月に行ったけど、人類はまだ火星に降り立っていない。
太陽系をでてもいなければ、ワープ航法だってまだ!
SF方面に限らないよ?
いろんな学問で言えるよね。
もっというとね?
聞いたことは、それで済ませないで、自分やみんなで調べるっていうのも大事。
ここで禍いの科学っていう、アマテラスさまから借りた本の内容を参考に、私なりに述べてみる。おおむね、本を読みながら思い浮かべたこと。本を読んだほうが早いし、面白いよ? おすすめ!
テーマは変わらず、優生学。疑似科学だよ?
メンデルのエンドウ豆の品種改良にみるメンデルの法則を、フランシス・ゴルトンは人に利用できるのではと飛躍させていった。遺伝学者として、最初こそ彼は優れた人同士のこどもを組み合わせていけば、なんて考えたそう。
この時点で相当やべえ。
けど、なんと今度は問題のある人間のこどもを生ませずにいればいなくなるのではなんて発想にまでぶっ飛んだのだから、やばいどころの話じゃない。
彼と同じような人が、他にもいる。チャールズ・ダベンポート、マディソン・グラントらだ。ルーズベルトや現代も有名な財団さえ支持した。特にグラントは「偉大な人種の消滅」を書いて、ベストセラーに。アメリカでヒットしたら、次はどこで翻訳されるのかな? 間違いなく翻訳されるだろうなってくらい、ヒットしたそうだ。
いまでは、そもそもまず出版できないだろう記述の嵐なんじゃないかなー。話にならないよね、それじゃあさ。
けれど、ゴルトンのやばさは、現代でも呟きアプリでさえ見かけることがある。
たとえば児童虐待の事件が起きて報道されたとき、問題のある人間にこどもを生ませるな、とか。未成年が悲惨な事件を起こして捕まったとき、親も問題あるにちがいない、とかね?
問題の焦点を人に留めて、先に進むのをやめず、仕組みや環境をよくしようとせず、自己責任を蔓延させた先には、どれほどろくでもない足の引っ張り合いが蔓延するのだろう。
ただ暴力で依存しているに過ぎないのに。
それで済ませるだなんて、なんて自分にやさしいんだろう。
グラントの本は当時の社会を席巻するほど、広まった。けれど、だれもが彼の疑似科学に易しく乗っかったわけじゃない。彼に公然と反論する人たちもまた、いたんだ。ちゃんと。ただし、大衆の熱狂ほど手強いものはない。反対意見は、しばらく届かなかった。
実際には、彼の時代にアメリカへと流れてきた移民の人々が、アメリカの環境の中で成長し、学位を取り、ビジネスで成功して、趣味の分野でもめきめきと頭角を現すほどになった。
結局のところ、彼のでっちあげた真の人種みたいなものはない。
日本にも純日本人なんて、わけわからないこと言ってる人がいるけれど、同じ類いの妄言だ。
起源をたどればみな行き着く先は同じだし、有意に分ける意味がない。
人はみな、同じ人。
独裁者や暴君は神格化を求め、そうでない者の存在を必然的に作りだそうとするけれど、魔女狩りを通じて恐怖を原動力に、残酷な暴力へと依存するような未熟者たちのわがままに過ぎない。それは、なしだ。
ただし悲劇は繋がり連鎖する。
グラントの本をヒトラーが読んだのだ。彼はグラントに「私の聖書だ」とするような熱烈なファンレターさえ送ったという。
結果として、なにが起きたか。第二次大戦にヒトラー率いる軍が証明した。
虐殺。残虐さ。暴力によって自身の存在・生存を依存するのなら? そのとき、暴力に限りはなくなる。
どこまでも過剰に発展していく。
続いていく。連鎖していく。
けれどそれは、どこから、どのようにして、なにが繋がっていったのか。いや、そもそも連続性を見るべきなのだろうか。そうでないとしたら、なにをどう読み取る?
ついつい私は進みたがる。先へ先へと。
けれどそれもまた、囚われてはならない考えのひとつだ。
ときに立ち止まる。ときにやめる。ときに改める。ときに失敗と気づく。
安易に判断しない。満足に情報を集めまくって、もうなにも出てこなくなるまで、行動を止めたっていいくらいだ。急ぐのは危うい。
自分の求めに叶うものを見聞きしたら、すぐさま飛びついて、それで済ませるのは? 危ない。
UNESCO、国際連合教育科学文化機関は次のような生命を発表したそうだ。
『すべての人は同一の種、ホモ・サピエンスに属する』
『人種とは生物学的な事実ではなく、社会的作り話である。民族集団の益を考慮し、この用語は使用を止めるべきである』
『人類の集団ごとに先天的な精神特性や知的能力が異なる、もしくは人間の身体的特徴と精神的特徴の間に関連があることを示す証拠は存在しない』
そのため、グラントの説は完全に否定される。
そんな彼の名前がいまも残る国立公園がある。レッドウッド国立公園だ。世界で最も背が高い樹木とされるファウンダーズ・ツリーの根本に設置されたプレートに記されているそう。
どうかしてると思った人が公園の責任者であるドナルド・マーフィーさんに抗議の手紙を送ったんだって。それに対して彼は「人々の和は、過去を消すことによってではなく、今日の正しい理念と態度から生み出されるのです」と締めくくった手紙を返したそうだ。
繰り返しになるけどさ?
ぜんぶ! 本の! 受け売り!
禍いの科学っていう本。オススメだよ? これ。
ここまでの内容をふり返ってみても、本からたしなめられている気分。あなたが読んで、ついつい安易に使いたくなるだろうけど、しっかり調べて、しっかり学んで、ようく考えてごらん? って。
さて。だいぶ前提が見えてきた。
世の中、なかなか激しい。
思考停止気味で、負荷は止まることを知らずに押し寄せ続けていて、打てる手もなくじり貧に陥っているのに抑圧は増すばかりだと?
易しい手段を選ぶ。というより、他に選びようがなくなる。
そういう状況ほど、自分の存在・生存を守り、維持するべく、なにかを求める。
だからこそ易しさを求めるし、易しさをエサに利用したがるだれかにさえ飛びついちゃう。
なら、なにが必要なのかな?
安易に共感したがるだれかに飛びつかないこと。存在・生存を守り維持するうえで、自分にできる要件と、社会保障や周囲に求めるべき要件を整理しておくこと。そのときの目標は、じり貧なのにがんばらなきゃいけない状態から、しっかり休んで力を蓄えられる状態にシフトすること。負荷と距離を取れるのか、取れないのか、取りたいのか、取りたくないのか、現状を確認しておくこと。
いずれにしても具体的にしておくほどいい。
あと、自分を許して、大事にしないと、存在・生存を維持するうえで、別のなにかに過剰に依存しがち。それは暴力かもしれないし、だれかの詐欺にだまされつづけることかもしれない。そうでなくても自己肯定感をがりがりやられて、心が参っちゃうからね?
いいよ。だいじょうぶだよって、自分をハグできるようになるために休むくらいでいい。
風邪ひいたり、熱がでたりしたら、休むんだよ?
徹夜はなし。
言いたいことを言えるの、当たり前なくらい、安全な基地にしていく。
いきなりサクラさんがおうち時間を素敵に飾って、輝かせていたレベルを求めてもむずかしい。カナタは傷の痛みと重ねてみては、途方に暮れていた。シュウさんも、ソウイチさんもそうだろうし? そんな家族を見ていたコバトちゃんもまた、どうすればいいのかわからなかったろうし。
私は私で、安全じゃなああああい! って、どたばたしてた。中学は、それができるくらいにはなった。小学校時代は悲惨すぎて、それどころじゃなかった。じゃあ問題ないかっていうと?
トウヤがしっかりした理由って、結局のところ、そうしたほうが、しないよりも安心できるからだろう。小さな大人にしてた。トウヤに私は求めてた。
そこで凹むとね?
ますます私の心の中で不安が暴れ回る。自己否定したがる獣が、私の自信や自己肯定の獣や植物を食い荒らしていく。意識してない頃も、意識している最近も、よく捕食に走ろうとする。
だからまず、自分をなだめる。
ぷちたちの中の不安が、私の自己否定獣を刺激することも多い。
なのでますます私は私を癒やすのだ。
人生には花が必要だ。そして花には役目がある。生態系がもし、心で例えて築けるとしたら?
まあ、そんなの疑似科学ですらない、たんなる表現活動なんですけども。
もし例えるならさ。
どんなもんじゃろ?
自己肯定の獣が、ちっちゃくてはかない生きものだとしたら、まず育てよう。
安全な居場所もいるよね。快適に過ごせるほどいい。
カナタと身を寄せあいながら、ふと思いつく。
もしもカナタの尻尾の中も、私の尻尾の中も、いままで考えたように快適な空間だとして。カナタになくて、私にあるのは? 穴。カナタにあって、私にないのは? 安全。
ぷちたちは寒いといった。落ち着かないとも。こわがっていたよ?
じゃあ、ぷちたちのおうちが、私の尻尾に必要だ。
もっとちゃんと、私の心に、ぷちたちの居場所が必要なんだ。
かもしれない、くらいの閃きだけどね。
私にはまだ、ない。ぷちたちが安心していられる、いたくなる、飛びつかずにはいられないような、私が作れるぷちたちの安全基地が。
お母さんにも、お父さんにもある。私にもトウヤにも、お姉ちゃんさえも。見たらついつい安心するし、そばにいたくなる。そういう環境が。けど、いつもじゃない。
カナタにもある。
私も、たぶん、カナタ相手になら、作れてる。
はいどうぞ、な瞬間。おいで、とか、きて、みたいな、あの許された感覚。
もちろんやっぱり、いつもじゃない。
愛着。アタッチメント。もしこれだとしても?
わからね~!
ボウルビイの愛着理論、読めてないし? 解説したり、現状を書いているっぽい本を買ったけど、これがなかなか読書が捗らなくて! たとえばアタッチメントの精神医学なんかも、まだまだ序盤なんですよね! そんな状態で無理になにかそれっぽいことするのは、逆にこわいし、危ないね! メンデルの法則から飛躍して拡大解釈して、暴力に活用された優生学くらい、危険ななにかをでっちあげるかもしれない。そんなの、とてもじゃないけど恐ろしくてできないよ。
お勉強しなきゃあ、体系だった現時点での知識には触れられない。論文を検索して、より閲覧され、より査読されているものを探るのなんて、大学で学んでからでもまだ足りなさそう!
ひええ。
いまの状況にはもう、どう足掻いても間に合わないぜ? なにせ締め切り今夜だぞ?
なのに、私ってばよ! 手いっぱいなんだってばよ!
頼りないくらいちいさくて愛らしくてたまらないぷちたちを見てると「急がなきゃ」って気持ちが「だいすき、かわいい、やば!」って気持ちを押しのけて私を急かしてくる。ついつい安易さに飛びつきたくなる。
なので、どうどうとなだめながら、こつこつ進める決意をする。
短歌と百人一首は、ぷちたちを起こしてからノノカと話すとして。
それよりも、もっと大事なぷちたちの安全基地について、考えてみよう。
流動的にもほどがある?
私もそう思う!
いかんせん、問題が多すぎて、もうなにがなんだかわからないくらいなんだ。
私の心がなにに頼って生存し、存在しているのかを考えたい気持ちはあるよ? 霊子体の穴へのアプローチにも繋がりそうだし、変身のちょい足しや、金色の今後の強化にも繋がりそうだもの。
だけどね?
それよりもまず、この子たちなんだ。いまは。
「そろそろ、祭りだ」
カナタがささやく。
窓や扉の向こうから、みんなの声が聞こえてくる。
どんどん賑やかになっていくんだ。知らせの兆しとして、わかりやすい。
だれかが呼びに来てくれるかもしれない。
ああ。すごくかわいい寝顔で、天使のようなこの子たちを、もうすこし見守っていたい。
なかなかどころじゃ済まされない激しい時間になりそうだもの。
『こどもは元気すぎるくらいがいい』
十兵衞め。自分がお世話しないからって!
体育でへばって、なのに次の運動が待ち受けているときみたいな。あるいはライブで精魂尽き果てているのにアンコールに出ていかなきゃいけないときみたいな?
大きく深呼吸をして、覚悟を決める。
というより、粘ってだらけるのを諦める?
わかんねー。
どっちでもいいや。
「じゃ、いこっか」
お腹もすいたし!
こうなりゃ私も負けじと楽しんじゃおうかな!
出目金マシンに乗ってもらえれば、安心だし?
寝起きのみんなに、交渉してみよう。
だいぶ気に入っていたし、うまくいくにちがいないよ?
つづく!




