第百六十七話
甘い生活が我が家に――……弟を中心に訪れた。
私、緋迎シュウの刀は禍津日神。人の願いを聞き届ける力がある。
青澄春灯くんに、そして我が弟カナタに救われて、自分の刀の御心に触れたからだろうか? 彼女の声を私は聞くことができるようになった。
それゆえに聞こえるのだ。
『ハル……カナタといちゃいちゃしてる。二人でもっと過ごしたいのになって思ってる』
苦笑いを浮かべずにはいられない。
あまり克明に実況せずともいいのだよ、若い恋人の詮索などあまりするものではないからね。
『わかった』
さて……眉間をほぐして、スマホを操作する。
自室で英語の文章が続くそれに返信をして卓上へ。代わりにおいてある文書を眺める。
目で見る文章には日本で起きた爆破事件を軸にした調査レポートが克明に記載されている。
父さんに習ってコバトが入れてくれた珈琲を飲みながら、思考を巡らせる。
文字よりもいま気になるのは添付された写真に並ぶ顔だ。
動画に入っていた顔ぶれは全員、爆破の後に連行された倉庫で私が見た顔ばかり。
主犯格、通称はピエロ。金髪に青い瞳の推定十六才。だがアメリカに彼にまつわる一切の記録はない。
狙撃手、自称シー。黒人の少年だ。推定十四才。高い狙撃技術からは才能を感じさせるが、狙撃競技に参加した記録は一切なし。
そして覆面男。国籍、人種、年齢……すべてが不明。だがあらゆる火器を用いて私を狙ってきたあたり、また長身でガタイの良い体付きからしてただ者ではないと思わせる何かがある。添付資料に彼のコードが書き記されていた。
マスク。
添えられているのは国際指名手配のテロリストの簡単な資料だ。何もわからない、ということだけわかる、という内容だ。
他にも少年少女が複数人いたが、日本で主軸にいたのはこの三人であると見てほぼ間違いないだろう。
ページを捲ると成田の監視カメラに中国へ向かうフライト便に向かう彼らの顔が映っていた。みなカメラを見て笑っていた。
青澄くんを襲った後、国内の主要な空港に手配を回したが……尻尾をやっと掴んだと思えば今度は国外に向かう漁船に乗り込む姿が目撃されたというから、かんに障る。
とはいえ――……あまり心配することもない。
なぜなら、御珠の核はすべてこちらの手の内にある。学生や侍と刀鍛冶に配布してある模造品にはプロテクトをかけてあるからな。
「さて――……ん?」
ノックの音がしてふり返ると、扉を開けて顔を覗かせたのはコバトだった。
枕を抱き締めてパジャマ姿で不安げに俯いている。
「どうした?」
「……怖い夢を見るの」
扉を開けて中に招き入れる。
すると迷わずに抱きついてきた。背中に手を回して、それでも足りないようだから抱き上げる。
軽い。私が暴走しその身体から魂を引き寄せ刀に変えて持ち歩いていた時より以前から、変わらず軽い。同い年の子供たちの成長に負けず、コバトも事件が終わって退院してからは父さんが鍛えられ、どんどん成長しているが……それでもまだ子供だ。
母さんのようには安心させることはできないが、しかし親代わりは必要だな。さて。
「ホットミルクでも入れようか」
「……はちみついれてくれる?」
「お姫さまが歯を磨いてくださるのなら」
「じゃあ……歯を磨くから、うんと甘いのが飲みたい」
「わかった」
はちみつの誘惑には抗えなかったようだ。
キッチンへと向かう。山ほど牛乳があるが、青澄くんの家でご挨拶がわりに飲んでいる父さんに連絡をしたら喫茶店で引き取ってもらえるそうだ。
とはいえ夜、あたためて使うくらいはいいだろう。
「少し待っていて。私が用意する間にテレビでも見ているといい」
「うん……」
ソファに下ろしてキッチンへ向かおうとしたら服を引っ張られた。
見るとコバトが不安げな顔をして呟くのだ。
「あのね……夢でピエロさんが笑ってたの」
「……ピエロ?」
「すごく……怖かったの。だいじょうぶかな」
ふわふわの髪に触れ、その内側にある頬に手を当てて微笑む。
「大丈夫。お兄様は強いし、それに頼れる知り合いも多い」
自信を持って告げる。
「世にはびこるのが悪党なら、それを退治するのは正義の味方のお仕事だ。コバトも好きだろう? 日曜の朝に応援しているね?」
「……うん」
「そんな人たちが山ほどいるんだ。案外、悪いピエロは今頃懲らしめられている頃かもしれないよ?」
「ほんと?」
「ああ。だから安心して、ホットミルクを楽しみにしていて」
うん、と頷く彼女の頭を撫でる。
道場の方から扉を閉める音が聞こえてきた。
二人の賑やかな声を聞いて微笑む。
『喉、かわいてるって』
わかっているよ、禍津日神。確かめるまでもないさ。
お風呂上がりの飲み物もついでに用意するとしようか。
◆
洞穴の中でピエロと名乗る少年は全員の顔を見渡した。
国際武装集団、政治的な信条を持たず金で請け負い情報の奪取から暗殺までを請け負う――……はずだった。
日本から奪い取った御珠のレプリカが弾けるまでは、確信があった。できるはずだと。
しかしビジネスの可能性が凝縮された隔離世に至るための手段は日本から持ち出せなかった。だからこそ彼らは血眼になって自分たちを追い掛けてこなかったのか? と思うほどに。
日本に来たメンバーはアメリカ育ちだらけだが、覆面の男だけは違う。
だからピエロは仲間たちを休ませるべく解散の指示を出して、彼と二人きりになってはじめて笑顔を貼り付けて尋ねる。
「ねえ、マスク。どうする? 君の指示に従って日本に行った。君が目を付けた狐女を怒らせて君が言うとおりの現象もきちんと録画した。これから先のプランは?」
「俺は抜ける。これでお終いだ」
「――……え」
ピエロの顔が強ばった。
「元々足がかりにするだけのつもりだった。ガキは乗せやすくていい……後は好きにしろ」
「何を……言ってるんだ。世界を変えるはずだろ? 好き放題して、隔離世の存在を世界に公表して、世界中の偉い奴や紛争の黒幕の背中に拳銃を突きつけるんだ! 僕らがキングになるんだろ!?」
「ならこれからはお前がキングだ」
「……ちょ、ちょっと待ってくれよ! あんたが俺たちを集めたんじゃないか!」
「安っぽい主張、世界を敵に回しておきながら懐の甘い悪役……裏切られる瞬間のお前の顔、すべて安っぽい映画のようだ」
「は……?」
「俺が敬愛するのは闇の騎士に出てくる死神でな。それに比べりゃお前はカスだ」
生き延びられればまた会おう、と言って彼が立ち去ろうとする。
「待てよ! ここまでさせといてトンズラはなしだろ!」
その背にピエロは拳銃を突きつけた。覆面男と出会い、取り扱いから撃ち方、狙い方まで……ありとあらゆる手ほどきを受けた。だからこそ、
「ぐっ!」
膝を蹴られ、掴んだ拳銃を瞬く間に解体されて、逆に覆面男の拳銃で頭を狙われた結末なんて約束されていたに違いない。
「最後まで油断をするな。日本の倉庫での戦い、あれは最低だった。クソにまみれたクソだらけのクソによる戦いだった。やるなら美学と哲学を持て」
「きみが、やれっていったんじゃないか」
「それで気やすく他人を不幸に突き落とせるお前に未来はない」
泳がした方が面白そうだ、じゃあな。
言い残して、ピエロの笑顔を破壊して覆面男が去ってすぐだった。
「うお!?」
通路の向こうから爆発音がした。悲鳴が、銃撃の音が近づいてくる。
死が着実に近づいてくる中、少年の横を黒人の狙撃手が走り抜けようとして足を一度だけ止めた。
「生きる? 死ぬ?」
差し伸べられた手を取るべきかどうか悩んで、ピエロを自称した哀れな道化でしかない金髪の少年は決意と共に顔を上げた。
どれほど滑稽だとばかにされようと。どれほど手段が間違っていようと構わない。
今度こそ王になるために。愚かな一歩だとしても、彼は踏み出した。
洞穴の先の真っ暗闇へ、真っ直ぐに。
◆
砂漠の丘を二人は歩く。
白と黒。纏う布が熱砂にまみれる。
「……なあ、おい」
金髪の少年が声をあげるが、黒人の少年は立ち止まらない。
周囲を見渡すために視線は耐えず動く。彼には何かが見えているのだろう。
洞穴から抜け出して、そばにある街の人々にまぎれて襲撃してきた奴らの手から無事に逃れた。
そしてすぐさま砂漠へと向かい……今、こうして二人きりで歩いている。
「おい! 何処へ行く気だよ、飯は!」
「虫がいたらとるよ。まずは、あそこに向かう。人が住めなくなった街がある」
黒人の少年が指差す先を見たが、砂漠にしか見えなかった。
「そこで日陰に腰を下ろして、夜まで待機だ。おしっこは出そう?」
「……出るけど、どうする」
「もし時間がかかるようなら、それを水にする」
「はあ!? 時間がかかるってなんだよ、なあ!」
顔を顰める金髪の少年に構わず、黒人の少年は突き進む。
ついていくしかない。砂漠で生き延びる術など、金髪の少年にはないのだから。
街に辿り着いた時には力尽きそうだった。
汗すら乾く。乾くのに掻く。喉が張り付いて息さえまともにできない。
持ち出したのだろう水筒を差し出されて、素直に飲んだ。飲み干しさえした。けれど黒人の少年は文句も言わずに生きるために行動し続ける。
プロの兵士がいたら、こんな感じだろうかと考えた。
「名前は」
「……は?」
「コードネームでしか呼び合わなかった。けどあってないような組織での名前なんて堅苦しいだろ。君の名は」
「……君こそ誰なんだ」
答えなんてないだろうと思った。面倒だから、危険だからコードネームを決めて隠すと決めた覆面の男の言葉を誰もが純粋に信じていたから。裏切られた今でもそれは変わらない。
けれど、黒人の少年は初めて微笑んだ。
「コーディー。ただのコーディーだ」
「ファミリーネームは?」
「さあ。親に売られてあちこちの傭兵団を渡り歩いた挙げ句、妙なところに拾われて……気がついたら僕はただのコーディーだった」
背中に背負ったライフルを壁に立てかけて、ジャケットの内側からビニールなど細々とした小物を出して並べていく。
「……君は? 君こそただのピエロじゃないだろ?」
我に返り、俯く。のど元まであがってきた言葉を舌にのせて、けれど言うべきか迷った。
「イーサンだ」
「じゃあさしずめ、ファミリーネームはハントかな?」
馬鹿にするな、とイーサンはコーディーを睨む。
「僕はミッションを成功させられるたちじゃない。なんだよ、さっきの……アジトの襲撃」
「マスクの敵対組織だったら何されるかわからなかったけど、たぶんアメリカ軍かな。予め用意しておいた死体を偽装して逃げたから時間は稼げると思う」
「はっ、死体の偽装にアメリカ軍かよ。そいつはご機嫌だな」
「そうかな。ちっとも面白くないけど」
肩を竦めるコーディーをイーサンは睨んだ。けれど何も言えずにいる。何を言えばいいのか、そもそもわからないからだ。そんな彼を救うようにコーディーは言葉を重ねる。
「あれだけの罪を犯して暴れすぎたんだ。殺されても文句は言えないし、これから一生背中を狙われ続けるよ、断言する」
「……そいつはご機嫌だ」
「こうして生きていられるだけマシさ。けど、彼らも優秀だからすぐに狙われるだろうね。生き延びて戦わないと、一秒先の息さえまともにできないに違いない」
「お前、何者だ? マスクも……」
「コードネーム、マスク。誰も仮面の下は知らない。あらゆる武装組織と繋がりがあるという噂もあるけど、どうでもいいや」
大事なのは、と言ったコーディーは空を見上げる。
輸送機が一機飛んでいた。
それに向かってコーディーが手を振って……イーサンに視線を向ける。
「僕はさしづめ特殊工作員ってところかな。イーサン、君には見所があると思う」
「は……?」
「断言する。君は今後、もう二度と表社会には立てなくなる。みんなと同じ光の下を歩けなくなるだろう。けれど、それでもいいならついてきて。僕が助けてあげる」
「え――」
「いやなら水とサソリの肉くらいは置いていくよ。あとはお好きに」
「し、死ぬだろ! こんなところに置き去りにされたら!」
「そうだね。その通りだ」
わかりきっている、という顔で頷くコーディーをイーサンは強い視線で睨んだ。
「お前……わかってて僕をここまで連れてきたのか」
「君こそアメリカと日本にあれだけのことしておいて、まだ平和な世界で生きているつもりかい?」
マスクに突きつけられた銃口よりも鈍く重い黒がイーサンを睨んでいた。
「君の日常はもはや、とうの昔に死を迎えている。僕と同じようにね」
太陽を背にした彼と建物の日の影で、暗闇を見つめた。
死を、見つめた。
「このまま一人きりになれば砂漠と孤独が君を殺し、死体の処理をしてくれるだろう。けれど、なあイーサン。間違っていたとして、不幸にしたとして、それでもあれだけの事を巻き起こした君には見所があると思うんだ」
「素直に言えよ。お前は救いようのない、死んだ方がマシな悪党だって」
「腐るなよ。案外、世界の半分は悪党かもしれないぜ? ほら、どうする?」
差し伸べられた手の主は、ならば死神か。それとも暗闇に生きる天使だろうか。
わからない。わからないけれど、イーサンは手を取ることにした。
もはやどこへも逃げられない。こんな砂漠の真ん中で行き場なんてあるわけもない。
ならば進め。手を汚した自分に許される道が暗闇ならば。
進め。生き延びるために。
道化では終われない。暗闇に包まれた日常へ、迷わず進め。それが自分の信じる王に至る道ならば。
彼らの元に輸送機が降り立つ。軍服を着たしかるべき男たちが出てくるわけじゃない。
スーツの黒人男性にラフな服装のマッチョな白人女性。奥に見えるのは車いすの白人の老婆。
なるほど、と道化であることを捨てた少年は一人で顔を顰めた。
連中はどうやら、ただ者じゃなさそうだ。
光の下へと出てすぐ寒気がした気がして、コーディーは暗闇へとふり返る。
『うううううう!』
「――……ッ」
身震いがした。全身に鳥肌が立っていた。風にあおられて冷や汗だらけになっていることを自覚した。
あの夜、金の髪をした少女の赤い瞳が自分を睨んでいる気がする。
誰にも言えずにいる。
あの日の晩、彼女が見せた怒りをずっと忘れられずにいる……そんな弱気を。
彼は頭を振って、死へと足を踏み込んだ。
◆
コバトを寝かしつけ、部屋へと戻った時にスマホが鳴った。
耳に当てる。着信相手の伝えてきた内容を聞いて、長く息を吐いた。
『シュウ……どうしたの?』
腰に帯びた禍津日神を寝台のそばに立てかける。
長く息を吐いた。
「外出のお誘いだ」
『旅に出るの? しゅっちょー?』
「さて……そこまでいかずに済めばいいが」
こんな夜から、と頭痛がする思いだが、寝巻きからスーツに着替える。
禍津日神を手に、スマホをポケットへ。カバンを手に廊下に出ると、カナタの部屋から出たばかりの青澄くんとばったり出くわした。
「あ……あの、お出かけですか?」
「仕事に呼ばれてしまってね」
「こ、これからですか!? もう夜遅いですよ?」
青澄くんの驚いた声の大きさに気づいて、カナタまで出てきた。
「どうしたんだ――……兄さん?」
「少し出かける。父さんも私も明日まで帰らないだろうから、何かあったら連絡を」
「それはいいけど。仕事?」
「何かと忙しい身だ」
微笑み頷く私にほっとしたのか、カナタは頷いて部屋へと戻った。
一階に降りる私に足音がついてくる。
ふり返ると青澄くんが不安げについてきているではないか。
「どうかしたのかな?」
「あの……大丈夫、ですか?」
「ああ……」
なるほど。心配を掛けてしまったか。カナタにしてみればいつものことでも、彼女にとっては別だろうから。
「大丈夫。ただ少し、面倒くさい後片付けをしにいかなければならないみたいだ」
「シュウさん……」
玄関で革靴を履いて、それでも視線を感じたからふり返る。
すっと伸びてきた手がネクタイを整えてくれた。
初めてだった。誰かにネクタイを整えられるなんて。
そもそも自分で初めてネクタイをする時ですら父の真似をして自分でしたくらいだ。
思わず吃驚して彼女を見つめてしまった。
だからだろうか、はっとした彼女があわてて手を離す。
「す、すみません、うちでよくお父さんにしてたんです。元気ないときにこれすると、だいたい元気になるので、なんかしなきゃって……思って」
見る見るうちに尻尾が萎んでいくのを見て、思わず笑ってしまった。
「いや、すまない。確かに元気が出た。だが、あまり独身男性にするべきではないな」
「え……?」
「君に恋してしまうから」
私がそう言った途端に彼女の尻尾が一斉に膨らんだ。
「ま、また、もう! カナタみたいに言うのずるいです、私こそ落ちそうです」
「それはすまなかった。じゃあ――」
「あ、あの!」
出て行こうとしたら彼女が声を上げるからふり返る。
「なにか?」
「……したくないことなら、無理にすることないと思うんです」
掛けられた言葉の内容に思わずまばたきをした。
「気が進まない顔してるから……あまり、無理なさらないでください」
思わず顔に触れてしまった。
「そんな顔をしていたかな?」
「んと。すみません」
近づいてきた彼女がそっと額に触れてきた。
眉間。そっと摘ままれたそこには確かに皺が寄っていたのだろう。
「一階に降りてからずっと、すごい皺です」
「そうか……わかった。君には敵わないな」
まったく。私はまだまだ未熟者だ。
「いってくるよ、気の進まないことでも仕事は仕事だ」
言えば言うほど彼女の顔が曇るから、微笑みを向ける。
「ただ、君の言うとおり無理はしないことにしよう。それじゃあ戸締まりをよろしく」
「い、いってらっしゃい」
「いってきます」
家の外に出る。八月とはいえ深夜零時も近ければ、風も少しは涼しくなる。
いつも来てくれるリムジンを深夜に手配するのも申し訳ない。
なにより、
「緋迎、遅いぞ」
呼び出した本人が彼のリムジンで来ているのだから、必要ない。
車に乗って呼び出した張本人を見る。
官房副長官。向かう先は――……首相官邸か。
「ご用件は」
「アメリカが極秘裏に派兵している先で連中のアジトを襲撃したそうだ」
世界は彼らを放っておかなかったか。
「逃走したピエロを追って衛星で捉えた映像には、金さえ積めばなんでも運ぶ飛行機乗りの輸送船。追い掛けてみたが、イギリスに向かう船に乗ったところで見失った。そうアメリカが言ってきた。我々の手を離れた、という事後報告だな」
舐められたものだ、と唸る彼に迂闊な返事はできない。だから言葉を選ぶ。
「門外漢の末端要員の私に国際政治の話をしにわざわざ呼びつけたと?」
「官邸に英国大使が来る。お前は相手に気づかれずに心を読むことができるのだろう? 探りを入れるから答えを暴け。これから準備だ」
苦笑いを浮かべるのを何とか堪える。
禍津日神の力を喧伝した覚えはない。だとしても、父の後輩であり私の先輩でもあるこの人に隠し事はできないということか。
「どこまでお力になれるかわかりませんが」
「了承したから来たのだと思っていたが?」
回転が速いな。家にいるときよりも思考の速度が速いから、努めて切り替える。
「これで終わりになりますか」
「マスクは逃げた。相変わらず手の届かないところへ逃げ延びるのがうまい。しかしピエロには英国の鎖がつく。不幸な出来事は起きたがお前をはじめ日本は何も失わず、アメリカとイギリスに貸しを作る。ひとまずの決着といえる」
窓の外に視線を向ける。
我知らずネクタイに触れた。彼女の優しさに、熱に……私は随分と救われていたのだな。
今こうして求めるくらいには。
父に言われたからではないが、恋人を作るのも悪くないかもしれない。
今の私には――……誰かにその優しさと熱を与えることができるかわからない私にはまだ、早い話だが。
「――……牛乳の匂いがするな」
「眠れない夜にはいいものですよ」
「検討しよう」
冗談も通じない。
けれどそれを責めることはできない。
重責を担うものにしか見えない世界の一面はある。確かにある。
それでも……逃げてはいけない。未来へ進むために。
まずはひとまずの決着を付けよう。
青澄くんだけではない。コバトが安心できる夜を迎えられるようにするために。
……禍津日神。私に力を貸してくれるだろうか?
『あなたの刀だから。それが願いなら叶えるよ』
そうではない。
君は私が今からしようとしていることを願えるか? 君の心はなんと言っている?
『……終わりにしたい。そこにいる人の心も、政治の話も、よくわかんない……』
……実は、私もだ。
『シュウも?』
ああ。本音を言えば……ずっとね。
父は侍であり続けた。
生前の母もまた、侍であり続けた。
折れない心を支えるために、取り入れるべき道か否か……私はよくよく考えなければな。
みんなの願いがわかることと、それを叶えることは別だ。
誰かの願いを叶える刀が私の心なら、私はまず自分がどうしたいのかを把握するようにしなければ。自分を大事にしなければならない。でなければ、私が誰かの願いをどう叶えるのか、ということさえ考えようもないのだから。
無理をしては駄目だ。ああ、彼女の言うとおり……無理をしては駄目なのだ。
我慢をし続けたらまた五月の二の舞になる。それはもう御免だ。
となればあまり利用されるのも面白くない。かといって使えない姿を見せるわけにもいかない。たとえお世話になった人であろうと、懐を見せず強さを見せねば。
「相手がもし心をごまかす力を持っていたら?」
「それ以外の手で探るまでだ。聞くまでもないだろう……愚かな振りはよせ、緋迎。お前には似合わん」
「つまり私が成果を出さなくても構わない、と?」
「誰にも使える力なら使おう。しかしお前にしかわからないのならよそう。総理になりたいのでなければ、胸に秘めておけ。俺でなければもっと酷い形で利用されるだろうから。それは本意ではあるまい?」
案じてくれている。不器用なりの言葉に頭を下げる。
「申し訳ありません」
「どう振る舞うべきかわかったな? これ以上は言わせるなよ」
「はい」
まったく……私が気が進まないことなんて、この人はとっくにお見通しか。
ならば気楽に行こう。
備え、構え、けれど即時にどんな状況にも対応できるように。
『……結局、どうするの?』
腹の探り合いという遊びをしに行く。
『それ、楽しいの?』
遊び方次第だ。だが……私とお前ならできるだろう。
『じゃあがんばってみる』
ああ、頼む。
「心が決まった顔だな、緋迎」
「おかげさまで」
窓の外の景色が変わっていく。
日本で起きた爆破誘拐事件のエンディングは既に決まった。
関係者のみながそれぞれに答えを出している。
青澄くんは未来へと進む決断を下した。彼女の家族は彼女を、我々を信じて託した。マスクは逃げ、ピエロには足かせがついた。狙撃手はどこに属する者か、それもやがては答えが出るだろう。案外、英国に連なる関係者だったりしてな。
強いて言えばアメリカの情勢が気になるが、若き侍たちならだいじょうぶだろう。
それよりも……。
「どうした、楽しそうに笑って」
「いえ。明日の晩ご飯が楽しみで。弟の恋人が来ていて、色々と作ってくれるんです」
「……手料理など随分食べてないな」
「奥さまが寂しがるのでは?」
「あれは実家に帰らせている。のびのびやっているよ。その方が私も気楽だ」
「それは……」
「言うな。政治の舞台に立つ気がないのなら、口出しはよせ」
怒られてしまった。
「それよりも。いい人はいないのか」
「……あいにく、思い当たる人物がおりません」
「お前ほどの男が、高校や大学では何をやっていた」
「恥ずかしながら刀一筋で」
「……見合いでもしたらどうだ?」
考えておきます、と答える。
恋人か。見合いね。
『シュウ、恋してみたいと思ってる』
青澄くんの優しさに触れると、さすがにごまかせないか。
そうだな……そんな機会があればいいのだが。
『願い信じればきっと叶う。探してみようよ。腹の探り合いより楽しい遊び、世界にたくさんあるよ?』
確かにお前の言うとおりだ。
見ていなかった世界に日々気づく。
コバトの牛乳風呂には笑った。青澄くんのお母さまの言葉に気づかされた。その娘である彼女の言葉に揺さぶられた。
いろんな事件が起きていくが、なるほど……私にはまだまだ遊びが足りないな。
「ついたぞ」
扉が開き下りる先輩の後ろについていきながら決意する。
まとめて休みを取って羽を伸ばそう。それがいい。
そのためにもまずは仕事をこなすとしようか。
つづく。




