第百六十五話
おうちに帰った私たちは歯ブラシを後回しにして、浴槽とにらめっこをしました。
中身が浴槽に投入された牛乳パックは三つ。そしてまだ未使用の牛乳が四十七本。
さて、どうしよう。
「給湯口に達してないところが救いだな……さて、捨てるか?」
「だめだよ、コバトちゃんの善意はきちんと拾うべき」
なので調べる。スマホさんはいつでも便利だね!
牛乳風呂はお湯を張った浴槽にだいたい500mlから1lの牛乳を投入すればいいらしい。
となると現状では順序が逆。ちょっと大変だけど、中身の牛乳を救済するか。はたまた捨ててお湯を張ってから再度牛乳を入れるか……この二択だ。
「んー……」
捨てたくないなあ、もったいないし。でも、すくってためるの大変だなあ。
それにお掃除がかなり面倒みたいだ。循環系の湯沸かし器だとだめにするの怖いから、色々と気をつけなきゃいけない。んー。んー。悩ましい!
「日常に遊び心を……よく母さんが言っていた。ついてこい」
歩き出すカナタにとことこついていく。
家の外に出て、道場へ。通路を挟んで奥にある木の扉を開くと――……
◆
なんということでしょう!
石と砂利の敷き詰められた床、ヒノキの壁と窓枠……そして!
家族が全員で入れそうな大きな大きな釜があるではありませんか!
「実は道場は古い民家が元々の姿でな。これは祖父の代から残っている特注の風呂釜なんだ」
匠の子孫の笑顔にみているこちらもほほえましい気持ちになりますね。
「こっちに牛乳を移して沸かしてみないか?」
風呂釜を湧かす手順は昔ながらのたき火方式。煙が循環してあたためるのだそう。
これには思わず依頼主も笑顔に。
「いいね。大変だけど、どうせイベントなんだし張り切ってみよう!」
現代の浴槽では大変な牛乳も、風呂釜なら扱える?
いえいえ。洗う手間はあります。
しかしどちらでも洗う必要があるのなら――……いっそ普段は使わない特別な浴槽で、という匠の粋な計らいです。
これからの緋迎家のお風呂が一段と楽しげになりますね。
劇的なビフォーアフターでした。
◆
まあ……移し替えるだけですまないから大変なんだけどさ。
シュウさんとコバトちゃんに先に入ってもらうことにして、カナタと二人で火の番をしたの。シュウさんにきちんとレクチャーを受けたのですが、どきどきです。
マッチをつけて新聞紙を燃やして、備蓄されていたのを組んだ小枝にのせるの。小枝の下には薪を入れたよ。
薪なんてよくあったなあ、と火の管理をしながら感心していたらね。
「父さんがいつも管理していた。いつかこっちの風呂に入ろうと思ってたんだろう」
カナタの説明に納得です。
なるほどなあ。ソウイチさんのナイスミドルさは喫茶店の洋の要素のみならず、和の要素にも攻撃力高し!
「そっか……なんかいいもんね、釜のお風呂」
「銭湯か、と突っ込みたいくらい大きいけどな……そういえばコバトが産まれる前、小さい頃に家族で入った記憶があるよ」
困ったように笑うカナタに頷く。
小さな木窓を挟んで隣が浴室だ。きゃっきゃとはしゃぐコバトちゃんの声が聞こえる。
「すごいすごい! こっちのお風呂つかえるんだ!」
「よし……思った通り、湯の加減はいいね。二人とも、あまり過激に燃やさなくていいからね」
「はーい」
シュウさんの言葉に返事をして、火を見守る。ぱちぱち音を立てるのが耳に心地いいの。
窓の向こうから牛乳風呂のいい香りもするから、カナタの思いつきは素敵だ。手間がかかるのは大変だけど、コバトちゃんが喜んでくれるならいっか。
『おぬしを喜ばせるはずの風呂じゃろうが。苦労を買ってするとは信じられんのう』
でもタマちゃんだって入るの楽しみでしょ?
『む……それは否定せんが』
ふふー!
ざばーと音がする。コバトちゃんが入ったのかな?
シャワーの音は、じゃあシュウさんか。
改めて考えるとすごい。昔の人を尊敬するなあ。だって壁一枚向こうで人がお風呂に入ってるし、そのために自分で火の番をするんだもん。
共存って感じする。毎日やるのは大変だけどね。でも前向きに考えれば結構楽しいかも。料理と一緒かな。がんばれば誰かが喜んでくれるし、それは地味に嬉しいもの。
火を見守りながらぼんやりしていたら、シャワーの音が途絶えた。湯が流れる音がして、耳に聞こえてきたのはコバトちゃんの鼻歌。それと、
「青澄くん、どうやら……カナタの顔を見る限り、今日の真相を聞いたみたいだね」
シュウさんの問い掛けだった。思わずカナタと顔を見合わせる。
どうしてシュウさんは隠したんだろう。カナタが言わなかったからかな。だとしたら……そうとう気を遣われていた気がします。大人の優しさに甘えるばかりじゃだめだ。
「あの……私の軽率な行動で、すみません」
それはカナタの話を聞いて、いつかは言わなきゃと思っていたこと。
思いのほか早く来たタイミングにどきどきする。
「いや……君を守ろうと決めて家に招いたのに、敵につけいる隙を与えてしまった。本当に申し訳ない」
カナタの顔が曇る。みんな悔いているんだと思った。反省して落ち込むターンがきちゃいそうだ。でも、答えならさっき出したばかりだ。
シュウさんにも届けたい。
「敵がすっごく悪いので、立ち向かえるように……お母さんは信じたんだと思います」
「む、」
シュウさんの息が乱れた。
「……ああ。だが」
だがなんて、その先なんて聞きたくない。言わせたくない。後ろを向くよりも、
「私も信じています。敵がそれを上回るのなら、私たちはもっと上回るくらいがんばればいいんだと思うんです」
前を向いて踏み出したい。
私だけじゃない。カナタだけでもない。シュウさんも一緒に。
失敗がなんだ。その一歩の先にいつかくる成功へ届けば、それでいいじゃない。
「へこたれることないですし、気にすることないです。元気だしていきましょう! お風呂の加減、どうですか?」
「――……最高だ」
「よかった!」
微笑む私をカナタはずっと見つめてくれていた。
嬉しそうに……幸せそうに私をみていた。なんだかはずかしくって、でも嬉しくて。
私はカナタに身体を寄せたの。
ほら。やっぱり……幸せはちゃんとある。ここにちゃんと、あるよ。
あんな悪意になんて負けない。へこたれない。傷つけられたら治してより強くなってやる。
私は私らしく、前へ。自分を信じていくの。
わからない時には聞けばいい。
「熱くないですか?」
「ちょうどいいよ」「きもちいい!」
元気いっぱいだもん。だからだいじょうぶ。
向かうべきは――……幸せへ。
不幸になるために生きるつもりはないの。不幸をまきちらす暇なんてないんだよ。
幸せにすること以外にかまける暇なんて、私にはないの。
だってさ?
「次はコバトが代わるね」
「もちろん、私もだ」
返ってくるよ。あったかいものがきちんと。
ツバキちゃんが教えてくれた。ギンが、トモが、みんなが私に教えてくれたことだ。
とはいえ。
「どうせなら二人で入るといい」
「「 えっ 」」
シュウさん!
それはちょっと、過剰にどきどきしそうですよ……!
つづく。




